第2話 ほのかな光
女は熱心に経典に目を通していた。
戸の隙間から忍び込む日の明りを頼りに、包帯を巻かれまるで自由にならない手を懸命に動かし、一字一句を咀嚼するかのように。様子を見に来て思いがけずそこに出くわしたエルナンドだったが、しばらくは声をかけるのも忘れ、しばしその様子に見入ってしまった。
「ろうそくはありませんか?」
そこへこの流暢なラテン語。
「え?」
「ろうそくです。そろそろ暗くなってきましたし」
「あ――そうですね」
やり取りのままに部屋を出、急勾配の階段を急ぎ足で二、三段ほど下り、そしてあまりにも自然に行動を起こしている自分にようやく気付く。はてと思いもしたが、今となっては興味や好奇心のほうが明らかに強かった。
急いで駆け下り、小間使いのサウロを呼んでランプのありかを尋ねる。
「何に使うんですか?」
取り込み中の洗濯物を抱えたサウロはあからさまに怪しがる風だった。答えに窮しそうになったが、サウロとは付き合い始めてもう長い、下手にごまかそうと試みるだけ無駄なのだとすぐに思い出す。
「明りが欲しいと頼まれたのです。今、彼女は経典を読んでいますよ」
「経典を! なんと畏れ多い!」
サウロは衣類を取り落としそうになり、慌てて体勢を整えた。
苦笑しつつ、しかし一方ではサウロの反応ももっともだと思う。経典は司祭の役目を負っている者のみが諳んじることを許されている物だ。勿論ほとんどの人間は読み書きからして心得ていないのだから許すも何もないのだが、それでも至高なる詞たちに直接触れるのがどれほどサウロにとって有りえないことかは想像に難くない。
「素晴らしい詞にじかに触れるのは畏れ多い事ではありませんよ。何ならサウロ、お前にも近々読み方を教えてあげましょうか?」
「とんでもない! そんなことをしたら目が潰れます!」
身震いを起こし、後退る。
さすがにエルナンドもそれ以上の追求はやめにしておいた。ろうそくに火をつけてもらうと、礼を述べるなりすぐに階段上の人となる。足取りが妙に逸った。後ろからサウロが何事か怒鳴っているのが聞こえる。いつもなら耳を傾けるところだが、今回ばかりはそうも行かない。しまいにはほとんど小走りになり、二階に上がる頃には肩で息する有様だった。
部屋の前で立ち止まり、呼吸を整える。
妙におかしくなってくる。何故こうも懸命になっているのだろう。今やっている事が有り得べからざる、ともすれば教えにそむく行いにすらなりかねないことは理解している。
だが一方でこれが正しき行いである、という気持ちもどこか捨てきれずにいる。
「入りますね」
先にろうそくを部屋に滑り込ませ、続いてエルナンド自身も部屋に滑り込んだ。
改めて女の顔を目の当たりにする。ほぼくまなく包帯に覆われているとは言え、箇所箇所から覗く地肌の部分には隠しようのない内出血の跡などがうかがえる。また三日三晩熱にうなされた為すっかりやつれあがっており、およそ人ならぬ者のごとき面容である。目を逸らしそうになる。だが、それがどれだけ女を傷つけることになるのかと考えれば、視線を外すわけにもいかない。
「不躾なお願いでしたのに」
「構いませんとも。しかし、何故経典を読もうと?」
「知りたかったのです。貴方がたの拠りどころを」
「拠りどころ――」
女の言葉が胸につかえる。いわくし難い感情の浮かぶ言葉だった。
ろうそくをベッド脇のテーブルに置き、女の手許がうまく照らし出せるよう位置を調整する。応じて女も敢えて経典を読む為の角度で持った。照らし出されると女が改めてエルナンドのほうに向いた。気が付けばずいぶんと接近していた。それこそ拳一つ二つ程度の距離しかない。
「し、失礼」
慌てて離れる。エルナンドのその様子に女は相好を崩したが、それが傷に災いしたか苦悶が顔に広がった。
「大丈夫ですか?」
「はい、何とか」
言葉とは裏腹な女の様子に、気が利かなかった、エルナンドは内心臍を噛んだ。家に女を運び込んでから三日、その程度の時間で癒えるほど彼女の傷は浅くない。
「無理だけはなさいませんように。治るものも治りませんから」
悔悟が却って八つ当たりじみた言葉尻に結びついてしまう。
女が俯いた。かすかに震えている。
何を思い出しているのだろうか。過日の忌まわしい思いか、あるいはそれよりも昔、未だ苦痛らしい苦痛も知らず、幸せでおれた頃の事か。
女がどのような来歴を持つのかなどということは全く分からない。だが確実にこのことだけは言える。彼女の平凡、あるいは日常を打ち壊したのが、間違いなく我々なのだ、と。
「申し訳、ありません」
女が顔を上げた。エルナンドの言葉を計りあぐねている、という様子だった。
「私の同胞が、あなたを害した。償う事など出来ますまい。この言葉にすらどれほどの意味がありましょう。しかしながら、今の私に出来るのは、あなたに、この言葉を掛けることのみなのです」
怒りすら覚える。目の前のただ一人も救えずして神の道を説くことが、果たして真に救済の道につながっていると言えるのだろうか。説いてみたところで、それはまるで空約束に等しいものだ。さしたる約束もなせず、また果たせずでは、ただの一言とて女を安んじられそうな言葉は生み出せまい。
「違います」
女が首を振る。
「私の身に降り掛かったのは、イスラームの者達が貴方たちの故地を侵した、その、罰なのです」
「罰?」
繰り返してみながらも、女の言葉には理解が及ばなかった。一人の女が、何万ものイスラームたちの罪をその身に背負おうというのだ。ありえるありえない以前の話で、ともすれば不遜極まりない発言でもある。
改めて女の様子を伺う。まるで冗談を言っているようには見えない。視線が返ってきた。途端エルナンドは雷に打たれるかのような思いを得た。
信じるも何もない。その嘘を放つ意味がそもそもない。
嘆じる。イスラームの中に、人々が鬼よ悪魔よと呼んで憚らぬ者たちの中に、このような者がいるのだ! ならばイベリアを住処とする者と彼らとで、一体どこが変わるというのだ!
エルナンドは膝を落とした。女の手を取り、一心不乱に神に呼びかけた。
西日が窓から覗き込み、二人をその光が包んだ。
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