主よ、愚昧なる御身の子らに手を伸べよ

ヘツポツ斎

第1話 カンガス・デ・オニス奪回

 レコンキスタに沸く人々に同調しきれずにいるのは、結局エルナンドがピレネーの山奥で生まれ育ったため、イスラームの軍勢からさしたる被害を蒙らなかった所が大きいのだろう。

 無論このカンガス・デ・オニスの町がかの者らの手から取り戻されたのは、喜ばしい事ではある。広いイベリア半島の、高々小さな町がひとつ。だがこれまで味わわされたキリストの徒らの辛苦を思えば、この勝利が大いなる開放へとつながる、その輝かしき第一歩である、とみなされるのも理解できる。

 とは言え、その喜ばしさも、町の至る所に漂う焼けた松脂の匂いや、未だ消えず残っている血の臭いを嗅ぎ取れば途端にあえなく吹き飛んでしまうのだ。


 経典の言葉をこよなく愛するエルナンドであっても「汝の敵を愛せ」という心を持ち続ける事がいかに難しいか知っている。しかし、それでもなお、他の道は無かったのだろうかと思ってしまう。勿論それはイスラーム達に何も奪われなかったエルナンドだからこそ考えられることなのかもしれないけれど。


 路地に少しでも深く入り込むと、壁面にしばしばどす黒い染みがうかがえる。過日それが何色だったのか、またその染みの下には一体何が横たわっていたのか。考えるまでもない。目前の現実から逃れようと目をつぶる。つぶれば以前目に焼き付けてしまった物が却って鮮明に蘇る。


 一心不乱に十字を切った。忘れ去りたかった。


 この町で見てきた光景は、かれが今まで信じていたものを打ち壊した。以来ミサにも集中しきれなくなった。得難い経典の言葉、その一句一句が事あるごとに凄惨な景色に結びつく。


 ある男がいた。満身創痍のその男は、偶然出くわしたエルナンドの顔を見るなり色を失い、逃げ出した。エルナンドが追おうとしたときにはもう遅かった。辻から現れた兵士たちが、男を見出すなり、何の躊躇もなしで、殺した。

 今でも男の顔は思い出せる。恐怖に色取られた顔、その時エルナンドは初めて彼らが人間なのだと実感した。けだものや、まして悪魔でなどない。それを言ってしまえば自分達と同じ色の血を流す相手を屠り、直後エルナンドの姿を認めるなり笑顔で「ハレルヤ!」と唱えた兵士達のほうがよほど悪魔的だとさえ言える。


 男が斬られた辻に差し掛かる。壁面とは違い、地面にはもはや男がそこに倒れた証拠など何一つ残っていない。


 通行人達がエルナンドとのすれ違いざまに「ハレルヤ!」と呼びかけ、通り過ぎていく。

 アストゥリアス王、ひいては神への感謝である。まるで作りこまれた皮肉だ、と思う。ハレルヤを返し、彼らが別の道に消えるのを見届けてから、エルナンドは地面に手を当て、片一方の手で十字を切った。受難者を尊ばぬ者にそれがどれほどの供養になるか見当はつかなかったが。

 町を巡るアストゥリアス王国軍とイスラームとの戦いがどれほど激しいものだったかは、何よりも町の様子が雄弁に語っている。あらゆる建物という建物が破壊され、焼け焦げ、むしろ被害にあっていない建物を探し出すほうが困難というありさまになっていた。所々には修復用の足場が組み立てられている建物も見受けられるが、本格的に町が戦前の姿を取り戻すにはどれだけかかるのやら。この苦痛の日々が思い出となる時は、果たして訪れるのだろうか。


 町を歩くエルナンドの前に、やがて数名連れの少年達が現れた。

 ほとんど端切れと変わらない服を身につけた少年達だ。髪もまるで整わず、見るからに垢や埃にまみれているのが分かる。あの有様では日々口にする物にも事欠くのではないだろうか。エルナンドの気分はますます重いものになる。

 彼らにとって、軍隊同士の勝ち負けなどほとんど意味はないに違いない。どのみち戦争が彼らの親兄弟を奪ったというのは変わらないのだから。ある意味では彼らほど差別から縁遠い者もいないだろう。どちら側の人間であるにせよ、少年達はどちらからも――平等に、虐げられている。

 エルナンドに出来るのは彼らのために祈る事だけだった。経典の言葉は浮かばない。「勝利をもたらした神」が彼らの未来に幸福をもたらすように、それをただ自身の言葉で願う。


 少年達は何事かを愉快そうに喋りながら、はじめエルナンドのほうに向かっていた。だが進む先にエルナンドがいるのに気付くなり皆々の表情が固まる。訝る間もない。たちまち反転し、逃げ出した。


「待て!」


 少年達を追い始めたエルナンドだったが、足の速さでかなうはずもない。あえなく見失ってしまう。辺りを見回し、途方にくれる。


 だが、やがて違和感に襲われる。数人連れで堂々と歩いていたのだ。ともなればイスラームの人間でない事は確かだ。ならば何故、彼らは逃げ出さねばならなかったのか?

 考えられるのは、彼らが司祭に疎まれるようなことをした、と言った辺りではないか。それも、たった今。


 エルナンドは少年達が姿を現した路地に慌てて足を運んだ。狭いその路地はすぐ行き止まりになっていて、その一角には樽が囲いを作っていた。一目見てすぐ不自然とわかる並べられ方だ。近寄ると異様な臭気に遭遇する。既に嗅ぎなれてしまった血の匂いと、そしてもう一つ、これは別の場所で嗅いだものだ、どうにか戦禍から逃れたはいいが、その日の食い扶持すら見出せなくなった女たちがひとかたまりに寄り合い、男達を誘引していた場所で知った、いわゆる、罪の匂い。


 囲いの奥には、果たせるかな、女が倒れていた。

 上げる祈りの言葉もなかった。エルナンドは、ただ呻いた。

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