呼び出し
増田朋美
呼び出し
その日は、本当に良い天気で、なんだかいいことが起こりそうだなと思われるようないい天気だった。そういうわけでみんな、こぞってテーマアークとか、そういうところに遊びに出かけていた。そういうものと縁が無いなんて、よほど偏屈者だろうと思われる。
その日、いつもどおり、朝布団から起きたブッチャーこと、須藤聰であったが、布団から起きて、歯を磨こうとしたその瞬間、非常に左肩が痛いことに気がついた。
「いた、イタタタ。イタタタタ。」
急いで、痛み止めの市販薬を飲んでみたけど治まらない。なんとか、一人で朝食を食べて、お皿を片付けようと思ったが、あまりにも肩が痛くて、お皿をガチャーンと落としてしまった。更に悪いことに、落としたお皿のかけらを拾おうとしてかがんでも、肩が痛くて拾うことができなかった。ブッチャーが肩が痛いと思いながら、なんとか座って拾おうとしているところ、
「どうしたの聰。」
と、眠そうな顔をして、ブッチャーの実の姉である、須藤有希がやってきた。須藤有希は、ブッチャーが一生懸命お皿のかけらを拾おうとしているのを見て、
「どうしたの?お皿を割ったの?」
と、尋ねるのである。
「ねえ、聰。何をしているの?なにか、あったの?」
しつこいくらい、有希は、ブッチャーに尋ねるのだった。ブッチャーは、有希が、一々一々、声をかけてくるのがとてもうるさいと思ったが、そういうことを言っては行けない事になっている。はじめのうちは、我慢して、硝子のかけらを拾おうとしていたが、
「どうしたの?顔色がいつもと違うわよ。なにかあったの?」
そういうことには、有希はいつも敏感であったから、もう隠し通すことは、できないなと思ったのであるが、
「何も無いよ!」
と、思わず言ってしまった。有希は、そう言われると、あそうとか言って、その場を離れてしまう様な女性ではなかった。それよりももっと、心配してしまうのが彼女だった。
「そんな事ないでしょう。なにかあるのは、はっきりわかってるわよ。もうそういう顔をしてるわ。私には、黙ってないでちゃんと言って。でないと、余計に、悲しいことになるわ。」
有希はそういうのだった。だからブッチャーは、正直に言ったほうがいいなと思って、
「実はさ、肩が痛いんだよ。今朝から、肩が痛くてさ。まあ、薬を飲めば、なんとかなると思うけどさ。」
と、言った。有希は心配そうになって、
「まあ、そうなの?もしかして、あんまり肩が痛いんだったら、五十肩かもしれないわよ。ちゃんと病院で見てもらったほうがいいわ。」
という。ブッチャーはこれには頭にきて、
「バカも休み休み言え。姉ちゃん。俺はまだ35歳だよ。そんな年で、五十肩なんてなると思う?」
とでかい声で言った。有希も、ブッチャーのことを心配して、
「いいえ、30代だって肩を使いすぎていたら、五十肩になるわよ!私の知り合いで、38歳で五十肩になった人が居るから、そうなるかもしれないわよ!」
と、負けずに言った。姉ちゃんの知り合いは、どうせインターネットで知り合った架空の知り合いばかりじゃないかとブッチャーが言い返そうとしたが、
「それに、肩は無理をすると癖になるわよ。早めに整形外科に行ったほうがいいわ。それに、着物の商売が続けられなくなったら、困るでしょ。早く、病院に行って、見てもらってきたほうがいいわ。」
有希は、そういったのだった。
「もう姉ちゃんは、余計な事言って、俺の事心配するんだったら、自分の事心配しろよ。俺の事は俺がちゃんとやるから。」
とブッチャーがいうが、
「でも、お皿を拾うことが、できなかったでしょ。」
と、言われてしまったので話をすることができなくなってしまった。有希は、どうしてそういう細かいことを見てしまうのだろうか。ブッチャーは不思議で仕方なかった。
「わかったよ。姉ちゃん、今日整形外科に行ってくるから。姉ちゃんも、あまり落ち込まないで、落ち着いて過ごしてくれよ。」
と、ブッチャーはそう言って、出かける支度を始めた。服を脱ぐのも本当に一苦労するほどの痛みだったが、なんとかしてジャージの上着を着た。幸い、整形外科は、自宅からすぐ出かけられる距離であったから、歩いて出かけることができた。何かあったら、すぐに帰れる距離であったからよかった。整形外科の結果次第では、有希がパニックになってしまう可能性もあるから、整形外科が近くにあって、本当に良かった。
整形外科は幸い空いていて、数十分で終わることができて、薬ももらい、次回の予約を取る必要もないと言われて、ああ良かったと思いながらブッチャーは、自宅へ戻った。戻ってくると、姉の有希が、血相を変えて部屋から出てきて、
「おかえり聰。どうだった?」
と、心配そうに言った。
「いや、大したことじゃない。大丈夫だ。ただ、打撲しただけだ。」
とブッチャーが言うと、
「そんな事ないでしょ。」
と有希は言った。
「そんな事ない。ただの打撲だったら、三角巾で腕を吊ることはないでしょ。その形相見れば誰だって、悪い結果だってこともわかるわ。」
「そんなに一々一々、話さなくたっていいだろう。」
と、ブッチャーはいうが、有希は泣いていた。姉ちゃんとブッチャーはいいかけて、
「拘縮肩だそうだ。」
とだけ言った。
「そう。それは別名で言うと、五十肩よ。大変だったわね、聰。それでは、ご飯の支度などは、私がするから。ちゃんと、やるから心配しないで。それから、病院には頼らないほうがいいわ。病院なんて、役に立たないわよ。五十肩とか、リウマチとか、線維筋痛症とか、そういう病気は、病院なんて、役に立ちはしないわ。だから、そういうところを探すのよ。」
有希は、そういうのだった。なんで、自分の病気もそうしないのだろう。有希は、人の体調不良とかそういうことには非常に敏感で、人に対しては、こうしろああしろというのであるが、自分の事はいくら話しても無駄だとか、そういうことにしてしまう。なんでそうなのかわからないけど、有希のような精神障害のある人は、そうなりやすいのである。
「姉ちゃん。それなら、俺のことじゃなくて、自分の事でそうすればいいじゃないか。姉ちゃんは、いつもそうなんだよ。自分の事は後回しで、他人のことばっかり心配する。自分の事をもっと気にかけて、俺の事は気にしないでくれよ。」
ブッチャーが有希にそう言うと、
「あたしは、ただ家族だから心配しているのよ。家族の誰かが怪我をしたり病気になったりするのを、心配することがそんなにいけないことなの?」
と、有希は言うのだった。
「いけないことじゃないけどさ。姉ちゃんは、心配し過ぎなんだよ。俺のことより、自分の事をもっと心配すればいいじゃないか。なんで、いつもそうなんだよ。人のことばっかり散々心配して、自分のことをもっと心配してくれればいいじゃないか。」
ブッチャーは、呆れた顔でそういうことを言った。
「何を言ってるの。自分の事心配なんてできないわよ。今は聰のことが心配なの。なんでそれを話してくれないの?自分のことが後回しなのは当たり前じゃないの。姉弟でしょ?それなのに、心配させてくれないの?」
だんだん有希は情緒不安定になっていった。自分のことよりも、他人のことを心配するのは、もちろん分かるんだけど、それが度を越してしまうというのは、本当に困る気がする。
「姉ちゃん。ちょっと薬のんでこいや。ちょっと、不安定になっているから。俺の方は大丈夫だよ。」
とブッチャーは言った。有希は、そうねとだけ言って、自分の部屋に戻ってしまった。その後で、ものすごい大暴れをするかもしれないとブッチャーは思ったが、その様な事はなかった。ブッチャー自身も疲れてしまったので、ちょっと休もうかなと思い、テレビの前のソファーに寝転がって、テレビを見ようと思った。テレビのチャンネルをひねっても何も面白い番組をやっていなかった。いざ休もうとすると、面白い番組などやっていないものだった。
そのうち、わからなくなって、ブッチャーがソファーから起きると、玄関のインターフォンがなった。
「こんにちは、ブッチャーさんいらっしゃいますか?」
聞き覚えのある声である。ブッチャーは、はい、何でしょうと言って立ち上がると、
「玄関のドアから、今の入り口まで九歩。」
という声がするので、誰が来たのかわかってしまう。
「涼さんじゃないですか!誰かと思ったら、なんでこの家がわかったんです?」
ブッチャーがそう言うと、
「ええ。こちらの方にご案内していただきました。耳が不自由だそうですが、僕が、須藤聰さんという方に会いに行きたいと言ったところ、手を引っ張ってこちらに連れてきてくださったのです。」
と、涼さんは焦点の合わない目で、隣にいた男性を示した。
「貴久さんじゃないですか!なんで、ここまで来たんですか!」
ブッチャーがそう言うと、隣りにいた男性は、頭を下げた。耳は完全に聞こえないけれど、自分のことを話して居るのがわかったのだろう。
「どうして、涼さんと、彼と話が通じたんですかね?」
ブッチャーが、驚いた顔でそう言うと、
「ええ。貴久さんが、僕に手のひらに文字を書いてくれたことにより、コミュニケーションができたんです。」
と、涼さんが言った。
「そうなんですか。で、今日は何のようで?」
ブッチャーが聞くと、
「はい。あなたの拘縮肩の治療に伺いました。」
と、涼さんは言った。
「治療ですって?」
とブッチャーは思わず言った。それと同時に、彼は、涼さんが鍼灸師であることに気がついた。
「治療なんてどこでやるんですか?」
「ええ、こちらで構いません。広い場所に寝転がってくれれば、そこで、施術できます。」
ブッチャーは、仕方なく、ソファーの上にもう一度寝転がった。そのためには、もう一度服を脱がなければならなかった。苦労して服を脱いで、またソファーに寝転がると、涼さんは持っていた重箱の中から針を取り出し、アルコールでブッチャーの体を拭いて、その背中に針をブスブスと刺した。鍼治療は、痛いと思われがちだが、意外に針は、気持ちよくて、眠ってしまいそうになるのだった。思わずブッチャーがくしゃみをすると、涼さんは最後の針を、ブッチャーの背中から抜いた。
「はい終わりましたよ。鍼治療は、終了です。」
涼さんがそう言うと、ブッチャーは上着を着た。今度は、針治療のおかげで、服をすんなりと着ることができた。同時に、米山貴久くんの指がよかったねという動きをした。
「あの、涼さん、治療費は、どうしたらいいですかね?俺、こんなにしてくれて、申し訳ないですから。」
「いえ、それは大丈夫です。それは、ちゃんと依頼された方が、お代を払ってくださいます。」
涼さんは、そう言って重箱を閉じた。
「じゃあ、ありがとうございます。それでは、貴久さん、僕を駅まで送ってください。」
涼さんは、貴久くんの手のひらに、駅へ送って、と文字を書いた。貴久くんは、にこやかに笑って、大きくうなずいた。
「ありがとうございます。涼さん。ほんと、俺、楽になりました。鍼は痛いから嫌だと思っていましたけど、意外に気持ちいいもんなんですね。それは初めて知りました。」
そう言いながら、ブッチャーは、涼さんと貴久くんを玄関先へ送った。ちゃんと9歩と勘定していたけれど、それでも玄関までたどり着けるか心配だったので。涼さんと貴久くんは、無事に玄関先へ戻っていった。また貴久くんと一緒に、涼さんは駅へ向かって歩いていくのだろう。なんだか、ブッチャーは、涼さんに施術してもらって、楽になるどころか、ちょっと緊張しすぎてしまった様な気がしたのだった。
やれれ、それでは、今日は変な客が来たもんだなと思って、ブッチャーは、急いで部屋に戻った。なんだか寒いので、ストーブを付けた。まだお昼ごはんにはちょっと時間がかかると思ったので、彼は、もうしばらく、寝ようかなと思ったが、部屋に戻ったその直後、またインターフォンがなった。
「こ、こ、こ、こちらです。」
という詰まった様な言い方は、誰のことだかすぐわかった。
「五郎さんですか。一体どうしてここにきたんですか?」
思わず、ブッチャーがそういうと、
「は、は、はい。せ、せ、先生と、い、い、一緒です。」
と、言いながら五郎さんは一人の老人と一緒にやってきた。
「柳沢先生じゃないですか。」
ブッチャーは、大いに驚いた。確かに、老人は、茶色の着物を着て、茶色の被布を着て、頭に縁無し防止を被っている。
「一体どうしたんですか。何があったんでしょうか?」
「いえ、須藤聰さんが、五十肩になって、大変な思いをされていると聞きましたのでお伺いしました。五十肩によく効く、漢方薬を持ってきました。」
と、柳沢裕美先生が言った。そういえば柳沢先生、漢方医でもあったなとブッチャーはやっと、思い出したのである。確か、水穂さんの病気の治療で製鉄所に来訪しているということであるが、本当のところ、漢方というものが、どのくらい役にたつのか、ブッチャーは、疑問に思ったことがある。
「じゃあ、これですね。これは、ちょっと特殊な飲み方をするものでして、直接飲むのではなくて、煎じて飲むんです。つまり具体的に言いますと、茶こしにこの粉を入れていただいて、そして、お湯をかけその特に発生したお湯を飲むんです。たまに、今の若い人は、煎じて飲むというところが、理解できない方もいますからな。もし辛いことがありましたら、すぐに言ってくださいね。よろしくおねがいします。」
といって柳沢先生は、ブッチャーに、紙袋にはいった粉薬を渡した。それはとても、個性的な匂いがして、ちょっと、受け入れがたい感じの薬であったが、なんだか良薬は口に苦しという言葉がふさわしい感じの薬だった。
「そ、そ、それな、ら、い、ま、お、ゆ、入れて、きましょう、か。僕、入れて、き、ます。な、に、かありました、かね。で、で、でんき、ぽっととか、け、とる、とかそ、ういう、もの、は、ありま、せん、か。」
それが、ケトルか何か取ってきてくれという意味の言葉だったのかと理解するのに、ブッチャーは、数分かかった。五郎さんは、本当に発音が悪くて、何を言っているのか、聞き取りにくい時がある。
「ああ、電気ケトルは持ってないので、電気ポットならありますよ。」
ブッチャーは、そう言って、電気ポットを顎で示した。
「あ、あ、ああ。だい、じょ、ぶ、です。僕、やれます。ゆす、貸して、くださいますか?」
五郎さんはそう言って、電気ポットの方へいった。ちなみにユスというのは、急須のことなんだなと理解するのに、ブッチャーはまた手間がかかるが、五郎さんは、電気ポットの隣においてあった急須に、その黄色い粉を入れて、お湯を注いだ。なんとも言えない、お香のような、あるいは他の薬草のような匂いが充満した。
「さ、さ、さ、あ、ど、うぞ。」
と言って渡された薬は、飲んでみるととても苦くて、本当にまずいものであったけれど、ブッチャーはなんとか飲み込んだ。
「良かった良かった。冷えると痛みが強くなりますから、できるだけ体を冷やさないようにしてくださいね。あと、痛みが楽になってきたら、軽くストレッチなどをして、動かしたほうが早く回復する近道ですよ。」
柳沢先生に言われて、ブッチャーは、
「はいわかりました。ありがとうございます。」
と、頭を下げた。
「よ、よ、よかった。ブッチャー、さ、ん、が、よ、くなって、ほ、としました。お、ね、さ、んから、で、んわ、も、らった、とき、は、す、ご、くつ、らそう、だ、とき、いたので。」
そういう五郎さんの言葉の中に、おねさんという言葉があった。もしかしてとブッチャーは思った。また姉が余計なことをして、貴久くんや五郎さんたちに言いふらしたのか、と言おうとしたその時、
「いや、今日は五郎さんに呼び出されたんですがね。なんでも、五郎さんの話によりますと、お姉さんは、弟がとても辛そうにしていると言って泣いていたそうです。それは、自分のせいだから、治療費は私が払うと言っていたそうですよ。」
と、柳沢先生が言う。ブッチャーはまた呆れてしまった。姉が、働いてもいないのに、なんで治療費を払うなんてそんなことをいったのか、理解できなかった。
「お、ねさん、か、ら、め、る、も、ら、たとき、ああ、こ、れは、おい、しゃさん、よば、ない、と、だ、めだと、おもった、んです。」
そう五郎さんが説明する。ということは、柳沢先生を呼び出したのは五郎さんなのだろうか。それにしても、先程の涼さんの来訪も、今回の柳沢先生の来訪も、企画したのは姉の有希であることは間違いなかった。なんで姉ちゃんはこうして余計なことをするのかな、とブッチャーは思ったけれど、
「いいことじゃないですか。お姉さんがそうやって、弟を思ってくれるなんて、良いお姉さんをもったものですな。なかなか人を動かせるというのは、できそうな事でできることじゃないですよ。ましてや、今は、自分さえよかったらそれで良いというのが当たり前の世の中ですからねえ。その壁を抜けるのは、お姉さんのような女性でないと難しいかもしれません。」
と、柳沢先生に言われて、言わないで置こうと思った。姉は確かに、普通の人とは違った。でも、そうして、普通の人にはできないことをやってしまうのである。そして、彼女の呼び出しに答えた、五郎さんや、貴久くんなどの人物も、また障害者だった。もしかしたら、自分の心配をしないで他人の心配ができる人は、そういう人でないとできなくなるのではないかと、ブッチャーは思った。
「本当にありがとうございました。じゃあ、玄関先まで送ります。」
ブッチャーは、体が温まってくるのをかんじながら、二人を玄関先まで送っていった。そして、できるだけ早く、この出来事を演出してくれた姉の有希に感謝しようと心に決めたのであった。
呼び出し 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます