(二)凪中のベネジクチウス


 ――きっと、昔からこの辺りに棲んでいる何かが、俺たちを呼んだんだ。まんまとそいつのもとへ誘い込まれて、ああ、そういえば俺がここへ来るのは二度目じゃないかって、そのときようやく気づいた。


 俺にはもちろんそいつの姿は見えなかった。余四郎にもあまり見えてなかったんじゃないか。どうだろうな。そいつにいきなり名前を呼ばれて驚いたから、そんな話をする暇もなかった。

 余四郎もおれも、隠してる方の名前を呼ばれたもんだから、肝が冷えてな。そいつはお母やお父の名前も知っていて、きっと俺たちがどこで生まれてどうしてここにいるかも、全部知っているんだろうなぁ。


 その声の主が結局何だったのかは、さっぱりわからねえ。ほんの少し、そいつからは土と潮の匂いがしたと思う。


 俺はそいつに呼ばれたとき「こっちは嫌だ」って言ったんだ。きっと前もそう言った。いや、前のことは不思議と忘れたままなんだ。でも、きっと俺はそう言ったと思う。


 反対に、余四郎は「そっちで死にたいから行かせてくれ」と言った。何かを問われたんじゃないんだが、自然と俺たちはそう答えた。

 余四郎の言った「そっち」っていうのがどこなのか知らないが、多分あいつはその通りになったんだと思う。


 あいつは、たまにさ、ぼんやりしていただろう。いつも気持ちがこの町になかった。時たま、まるで憑りつかれたみたいにぼうっとしていて、俺はてっきり生まれ故郷へ帰りたいだとか、兄貴に置いていかれて寂しいのだとか思っていたが、あのときようやく合点がいった。

 あいつが行きたかったのは故郷じゃなく、骨を埋める場所だったんだって。


 何にしろ、俺たちはあの場所で、無理やり死に場所を選ばされたようなんだ。

 けど、どうして俺が二回も死ななかったのかはわからねえ。


 ただな、お母から聞いたんだが、俺は小さい赤ん坊だったらしいんだ。だから死にかけで生まれたんだと。俺は本当は、お母のはらの中で死ぬはずだったのかもしれねえ。

 それがどうしてか、命の代わりに『目』だけを持っていかれて助かったんじゃないかって、お母が随分昔にそう言っていたんだ。


 初めてあの場所へ足を踏み入れたときも、たまたま命の代わりに何かを持って行かれて、それで家に帰れたのかもしれねえな。それが何かは、まあ、わかりゃしないが。


 あるいは、何か俺は、御役目を与えられて放たれたのかね。


 と言っても、あれが俺に何を望んでるのかなんて、見当もつかねえよ。そもそもあんな得体の知れないもののことを、いくら考えても無駄だろう。

 俺たちの答えを聞いた後、土と潮の匂いのするそいつはどこかへ消えたようだった。気付いたら余四郎もいなくなってた。


 特に理由はないが、俺はあいつが鏡だったんじゃないかと思う。あの祠にあるのと同じ、鏡。

 もし明王様というのが本当にいるとしたら、俺たちの前に現れたあれがそうなんだろうな。「良くない」って言ったのはそういうわけだ。


 いや。本当のところは俺も知らないさ。

 何もかも、訳がわからない。余四郎もどこかに消えちまったし、仕方なく一人でここまで帰って来た。杖が無くて難儀するかとも思ったが、小径こみちの途中から急に周囲が明るくなったんだ。もしかするとあの瞬間に、彼岸から此岸へと渡ったのかね。


 いや。俺はあそこへ二回行って戻ってきているはずなんだがなぁ。


 あっちへこっちへ行き来したような記憶は、その一度きりしかないんだ。だからまあ、いま俺がいるのが、どっちなのかは知らないが。

 ともかく、おかげで一人きりでも歩いて来れたんだ。言ったろう、不思議と前よりよく見えるって。



 寅吉の話は、それで終いだった。

 十二年間行方をくらましていたにも関わらず、まるで昨晩から今朝までのことを語るような呑気な口調である。終始、寅吉の声には緊張も恐怖も滲み出はしなかった。


「目が見えるようになったわけではないのか」

 いささか緊張した面持ちで、平治郎は尋ねた。しかし寅吉は首を振る。

「むしろ前より悪くなったくらいだ。もうさっぱり見えねえよ。だけど不思議と不便じゃないのさ。ほら。こうして舟のへりに手を置いたり、こっちには縄があるだろう、これを掴んだり。見えはしないんだが、やたら勘が冴えているようなんだよな」

 寅吉は座したまま笑い、あちこちをぺたりぺたりと触って見せた。だが、平次郎は寅吉からぷいと目を逸らす。しばし、何かを堪えるかのように押し黙ってしまった。


「なんだよ若旦那、自分から聞いておいて。さっきから妙だぜ」

「そうだろうな。私は言うか言うまいか迷っているんだよ。目の見えないお前が、気づいていないかもしれないことだ」


 それを聞き、寅吉は初めて顔色を変えた。というよりも、まるで人らしい表情も喜怒哀楽の一切もが、すっと一瞬で消え去ったようであった。彼の両目からは、怒りも疑念も憎悪も、何ひとつ伺うことができない。けれど、見えないはずの金の瞳で、刺し貫くように平治郎をねめつける。


「なんだ? 言ってくれ。あんたの言うことなら俺は信じるぜ」

「本当に迷っているんだ。私はそれを口にするのが怖い」

「ばかな。あんたは慎重な男だが、小心者じゃねえはずだ。何が怖いって? 俺の頭に角でも生えて見えるのか」


 そういうことではない、違う、と繰り返し否定する平治郎の声は、微かに震えていた。

 それでも寅吉は執拗に繰り返す。言え、言えと。

 先ほどまでの能面のような顔をしていたのが嘘のようだ。怒気と興奮とで額も頬もすっかり紅潮している。癇癪を起した子どものように喚いたかと思えば、涙を浮かべてきっと平治郎を睨む。ついには、生白い痩せた腕でもって、平次郎の着物の胸をぐしゃりと掴んだ。


「昔からそうだった。俺は、俺のことが一番わからない」


 幼い頃から何度も何度も、寅吉は目の色が変だと言われ続けて育った。けれども目の悪い寅吉は、いくら試してもそれを自分で見ることができない。見る力をすっかり失った今、その瞳の色を自ら確かめることは、遂に叶わなくなった。


 成長し、身体が大きいと言われた時も、内心困惑したのだ。

 まっすぐ歩くことさえ困難な寅吉は、力仕事に不慣れである。くわすきも、もりも網さえも上手く扱えない。だから、畑でも海でも仕事を手伝っているという余四郎の方が、よほど立派で大人らしい姿なのだろうと、勝手に思い込んでいた。


 寅吉は人知れず、この世ではないどこかで過ごす時間が多くなった。いつもいつも家で一人、籠を編みながら、小豆を潰しながら、見えない分を補うように。

 薄ぼんやりとした暗い家の中を眺める代わりに、ひそかに美しい夢を見て長い長い時を過ごしてきた。


 もともと寅吉は、何が美しくて何が醜いのかも知らない。だから、寅吉の思い描く「ここではないどこか」を美しいと讃えるのは、寅吉ただ一人かもしれなかった。

 とはいえ、寅吉の思い描いた夢を他人が覗いて見られるはずもない。目に見えるものは、いつも寅吉を置いてけぼりにする。いつしか美醜も、あらゆるものをつまらないものだと思うようにさえなった。


 一方、寅吉がまつ毛を伏せ、暗闇を見る代わりに夢に入り浸っていることを知っていた者もいる。おそらく平治郎は、その筆頭であった。

 昔、彼が寅吉の家を尋ねると、暗い家の中で独り草鞋わらじを編んでいた寅吉は、不思議なほどのどやかに微笑んでいた。その姿をひと目見て、平治郎がふと思い浮かべた言葉がある。

 それはだった。

 安らかに、楽しげに。まだ子どもらしい面影の色濃い寅吉が、まるで孤独と手を繋ぎ、ただ孤独だけを友とし、無邪気に遊んでいる情景を思い浮かべたのである。


 細く白い手指を胸元に突き付けられたせいだろうか。平治郎は突然、その頃の寅吉の姿を思い起こした。

 ――誰しもずっと幼いままではいられないか。

 もはや寅吉は、孤独を遊び相手にしていられるほど、子どもではなくなってしまった。

 途端、平治郎は目前の少年を無性に哀れと思った。先ほどまで平治郎を脅かしていた恐怖も不安も、束の間忘れて、その細い肩を撫でてやる。昔何度かそうしてやったように、何度も何度も。


「お前にとって良いことか悪いことか、私にはどうしてもわからないんだ。けれど寅吉、よく聞きなさい。お前はいまや、この世の人と同じではないのだと思う。

 さっき私たちは、この舟の外を、凪いだ海の水面みなもを眺めただろう。けれど、おまえの姿はそこに映っていなかった。同じように身を乗り出したのに、水面には私の影しかなかったんだ。

 波に揺れて掻き消えたなどというものではない。確かにお前だけ水に映らなかった、影も形もなかったんだ。まるでそこにいないかのように。私はこの目で、確かに見た」


 後ろで話を聞いていたこたけは、思わず口を開いたまま固まってしまった。和嘉葉屋の話に驚かされた、だけではない。

 寅吉が、再び表情を失ったのだ。それも、先ほどとは様子が異なる。

 例えるならば、魂が抜けて、もはや寅吉の抜け殻しか残っていないように感じた。平治郎の着物を掴んでいた手をゆっくり離すところを見ていなければ、こたけは寅吉が死んだのではないかと疑っただろう。


 今の寅吉の相貌は、まるで山にぽつりと佇む案山子かかしにそっくりだ。


 そう思うと、いよいよ背筋がぞっとする。目玉がなくなったわけではない。なのに空っぽに見える虚ろな顔。生きているにも関わらず、人形や能面よりもはるかに無口な金色の瞳。それはどこか魚の目にも似ていた。


 突如、案山子の顔のままの寅吉が、身体を震わせて笑い始めた。大声で、けたたましく。突然のことにこたけは驚き、びくりと身体を震わせた。

 笑い声は、聞き慣れた寅吉の声である。まだ大人になりきっていない、女とも男ともつかぬ掠れ気味の声で、高らかに笑う。笑い続ける。


 海は、依然として凪いだままであった。

 いや、これほどまで凪いでいることは滅多にない。平治郎とこたけは思わず顔を見合わせる。どちらも困惑の表情を浮かべていた。

 どうにも妙だ。もはや寅吉の身にまつわることばかりではない。何か、自分たちのすぐ傍にまで異常が迫っている。

 なぜ今まで気づかなかったのだろう。海がおかしいのだ。

 いくら沖合まで来たとはいえ、これほど波がぴたりと止まるはずがない。水面は凍てついたかのようだ。さらに細雨はおろか、いつの間にか風までが止んでいる。波も風も動かないから、舟が軋む音もしない。一体いつからだろう、海鳥の鳴く声さえ聞こえなかった。

 海が、舟の上が、こんなに静かなわけがない。何か妙なことが起きているのは明らかだった。


 そんな事態を知ってか知らずか、寅吉は溜息をつきながら、ふう、と笑うのを止めた。思いがけず訪れた静寂に、平治郎とこたけは自然と身体を強張らせ、息を呑んで寅吉を見遣る。

 しかしながら、気の滅入るような無音の時間は、ほんの僅かで終いとなった。


 寅吉がすっくと立ちあがり、舟がぎい、と音を立てて揺れたのである。本来ならば海上において、それは取るに足らないほどの微かな音でしかない。けれど静寂に包まれたその場所では、少なくともこたけと平治郎にとって、力強く打ち鳴らされた鐘やつつみを思わせるほどのものであった。

 寅吉は穏やかな表情でしばし遠くを眺めると、徐々に視線を陸へ、船尾へ、海面へと動かした。


「なあ。俺はこっちへ来たぜ。いいだろう。俺もおまえみたいに、やっとベネジクチウスになるんだ」


 誰に向けて、どういう意味で寅吉がそう言ったのかはわからない。ただ、喜色を帯びた声で誇らしげにそう告げると、寅吉はひらりと海の中へ飛び込んだ。身を投げた、と言うのは相応しくない。海女が真っ直ぐに海底を目指すように、自ら深く深くへと沈んでいったのだ。

 彼の金色の双眸は最期の刹那、ここではない遥か遠くの海の、その最奥までもをうっとりと見つめていた。


 ぽしゃんと水のはねる音がして、寅吉はこの世から姿を消した。


 耳の痛くなるほど静かな舟の上で、こたけも平治郎も、確かにその水音を聞いた。けれどそれは、とても人が落ちたとは思えないほど、酷くささやかな音であった。



 一年後、浜が療養を終え、和嘉葉屋へ戻って来た。

 十二年後、流行病で浜と平治郎は揃って死んだ。

 それからさらに時が流れ、こたけは老いた母とともに、何処かへ去っていった。

 また十年、二十年と月日が流れる。町の者の顔ぶれはすっかりと変わってしまった。

 長らく「海辺の町」と呼ばれていたその場所にも、ようやく新たな名が与えられる運びとなり、町外れの廃寺跡には今、大きな旅籠が建っている。


 どれだけ長い長い時が過ぎても、寅吉がその町に姿を現すことは、もう二度となかった。




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【2.5万】明王様の供物番 平蕾知初雪 @tsulalakilikili

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