三章 とこしえの物語り
(一)浮舟の密会
昨年の晩秋のことである。和嘉葉屋の平治郎と浜とのあいだに、難産のすえ三人目の子が生まれた。
以来、三十路を迎えた浜は、随分と床に臥せることが増えてしまった。年明け頃までは肥立ちが悪いせいと思われたが、近頃はこんこんと咳をするし、どうも肺を弱らせているらしい。本人が湯治場で実母と過ごすのが楽だと言うので、暖かくなってからはそのようにさせている。
五歳と四歳の上の子らは、最初こそ和嘉葉屋と湯治場とを行ったり来たりしていたが、平治郎はここしばらく二人の顔を見ていない。浜からの
末の子は、両親が近所の別宅で面倒を見ている。浜も助かると喜んでいるし構わないのだが、おかげで平治郎は二、三日に一回、我が子の顔を見るか否か、という有り体だった。
ともあれ、平治郎は「独りでいれば静かなのか」ということを思い出していた。子どもの叫び声やばたばたと駆け回る音がないと、自分のあくびさえ妙に大きく聞こえる。
いつもより静かなその夏は、やたらと雨が多かった。
その日は夜明け前からずっと濃い霧が出ていて、港へつけようとした船は随分と苦労したようである。
そんな朝、和嘉葉屋へ駆け込んできた老婆があった。
「寅吉が」
ひどく狼狽えながら、ようやっと喉から絞り出した言葉がそれだ。平治郎もまた仰天した。何が起きたのか、その名を聞いただけでおおよその見当がつく。
供物番の寅吉。彼が余四郎とともに姿を消してから、もう十年以上の月日が経っている。なのに寅吉は帰ってきたのだ。一度ならず、二度までも。
* * *
曇天のような
こたけは自分の背丈より大きな
女を船に乗せない地域もあると聞くが、この町では「使える人手を使わないのは勿体ない」と、その点は気にしないようである。
浜が留守の間も、こたけは相変わらず和嘉葉屋で小間使いをしていた。いつものように朝支度をして店へ赴くと、早速、当代店主からお声がかかった。
妙に顔色の悪い平治郎に言われるまま、沖合までせっせと舟を進める。
舟には平治郎の他にもう一人、こたけには見慣れない男が乗っていた。上背はあるが、ほっそりとした四肢にまだ幼さが残って見える。
こたけよりも年下であろうこの少年を、どうしてか平治郎は畏れているようだった。
緊張した面持ちの平治郎とは対照的に、少年は肩の力を抜いて潮風を愉しんでいるようだった。波に身体を揺さぶられながらも、どこか気持ち良さそうに目を伏せている。
こたけは平治郎から、ひと気のないところまで行けとしか言われていない。この辺りで良いかと尋ねると、平治郎ははっとした様子で頷いた。
思いのほか沖まで来たな、と、取り繕うように少し笑う。景色などろくに見ていなかったようだ。
「寅吉、覚えているか? この娘はこたけという。余四郎の妹だ」
「へえ、妹はまだこの辺りにいたんだな。まあ、一度ここへ来ちまったら、今さら行くあてもないか」
ほとんど見えていないという薄色の瞳を向けられ、こたけは背筋が伸びた。
こんな黄金色をした目を、どこかで見たことがある気がする。狐だったか蛇だったか、それは忘れた。なんとなく、言葉の通じない獣に見つめられているような心地がする。こたけは櫂に気を取られたふりをして、寅吉から目を逸らした。
寅吉。浜の弟。かつて厄介者として供物番に選ばれ、一度は戻ってきた少年。そして翌年、こんどこそ姿を消した。こたけの兄・余四郎とともに。
平治郎は、目の前にいるこの少年を寅吉だと言う。きっとその通りなのだろう。平治郎の受け答えはぎこちないが、これまでの彼らの会話に齟齬はない。
昔何があったのか。これまでどこにいたのかと、平治郎の問いに答えれば答えるほど、彼があの寅吉に相違ないことを知らしめた。
「お母が俺を
こたけは思わずどきりとする。浜の家族や事情については多少知っているものの、耳慣れぬ異国の言葉を聞くのは初めてだった。
いや。聞かぬふりをしたことは、ないでもないか。
あそこに住まうのは訳ありの流れ者ばかりだ。だからあの地には、いつまでも仮の名しかないまま、住む者は一様に「港町」か「海辺の町」と呼ぶ。
他所では暮らせない弱者がほうぼうから集まり、外では罪とされる血を互いに薄め合うように暮らすのだ。そうしていつか、何も知らない子や孫たちがこの場所を巣立ってゆくのを、息をひそめて待っている。
子どもの頃のこたけは何もわかっていなかった。しかしながら今では、あの場所の異様さを理解しているつもりだ。
「隣人」を理解し、住民は信頼し合わなくてはならない。
誰かを裏切れば、いつか別の誰かに裏切られかねないのだから。
平治郎がこたけに舟を出させたのにも合点がいった。海の上では決して盗み聞きなどできないし、こたけもまた家柄に負い目がある。浜とも親しく、弱みを持つ者同士ならば、ここでの会話を口外しないとの勘案だろう。
寅吉と平治郎はしばらくの間、家族や知り合いの話をした。ときには穏やかな笑い声を上げるほど、それはごくありふれた光景だった。こたけも重三は元気かと尋ねられ、今は網漁をしていること、子どもが二人おり、ときどき会いに来てくれることなどを話した。
寅吉が余四郎の友人であることは知っていたが、重三のことまでよく知っているのは意外だった。幼い頃のおぼろげな記憶では、こたけの家には母と余四郎と自分しかいない。重三がちょくちょく帰って来るようになったのは余四郎がいなくなってからだ。
案外そうでもなかったのだろうか。首を捻ると同時に、あらためてふわふわと薄煙のような疑問が立ちのぼってきた。
本来なら、寅吉は二十五歳のはずである。痩せていることを抜きにしても、彼の姿を見て誰がそうとわかるだろう。
それに、寅吉は妙に声が掠れていた。太くも低くもない、女と男のあいだのような声だ。
こたけは無言のまま、手ぬぐいで顔を拭いた。小雨は降ったり止んだりを繰り返している。
寅吉は子どもだ。どう見ても子どもにしか見えない。
なぜ消えたときと同じ姿のままなのか。どうして寅吉は再びここへ戻ってきたのか。
平治郎はまだ何も肝心なところを聞いていない。こたけの知る限り、当代の和嘉葉屋平治郎は慎重な男だ。脇を固めながら、わざと最後まで大事な質問を取っておくようなところがある。
ところが、寅吉のほうが先に核心へ触れた。
「若旦那。明王様の祠の中身を知っているか」
まるで世間話の延長のようだ。寅吉は呑気な口調を崩さなかったが、平治郎の慎重さをわかって、わざと本題を切り出したのかもしれない。
「今はもう若様じゃないんだがね」と言いつつ、平治郎は肯首する。
「知っているよ。あの祠は空っぽだ。この町の人々が祀るものすべてが、あの中にいなければならないからだ。祈る者の心次第で、祠の中身も変わるということだろう」
祠の中には唯一、木製の札だけが置かれている。その札には「総べての者を映す鏡である」という意味の古語が彫られているという。
しかし寅吉は「違う」と首を振った。
「昔は、最初はそうだったのかもしれねえ。けど、あの祠の中にあるのは正真正銘、鏡だぜ。あの祠の前で祈るとき、目の前にいるのは神でも仏でもねえ。自分なんだよ」
平治郎は少し困ったように、顔を手で拭いながら尋ねた。
「心を映す鏡がある。その人の心の持ちようで神の姿が変わる、という意味ではないのか」
「心の持ちようっていうのは、その通りかもしれない。でも俺たちが思っていたより、もっとずっと単純な『鏡』だったんだ。祠の向こうにいるのは必ずいつも自分なんだよ」
寅吉はそこで少し唇の動きを止めた。が、緩慢に首を振りながら、すぐに言葉を続ける。
「なんであの祠がそうなっちまったのかは知らねえが、ありゃあ良くないと思うぜ。人があれと迂闊に縁を結んで、どうなるものかね。供物番なんかも置くのをやめて、あの辺にはもう誰も近寄らせない方がいい。触らぬ神に祟りなしってな」
先ほどまで舟に打ち付ける波音がうるさかったのに、一瞬それが凪いだ。寅吉が、ひょいと舟から身を乗り出して水面を覗く。つられるように、平治郎も舟の外を覗き込んだ。
「何か見えるのか」
「見えねえ。前よりも目が悪くなった気がする。でも、不思議と歩きやすい」
そうか、と呟きながら、平治郎は佇まいを直し、忙しなく頬や額を袖で拭う。先ほどから雨はやんだままだ。
「実のところ、もう供物番と称して祠の前に男を置くのはやめたんだ。昔よりも男手が惜しくてな。だが寅吉、ここだけの話だ。おまえが余四郎とともに消えたのは、十二年前の大晦日だった。あの日、おまえと余四郎はどこへ行ったのか、何があったのかを聞かせて欲しい」
ようやく本題を切り出した平治郎は、随分と顔色が悪い。それに引き換え、寅吉は表情も声音も飄々としている。
「いいけど、余四郎のことはよく知らねえよ。山で死にたくて死にたくて仕方なかったから、念願叶って今は幸せなのかな。あいつのことはともかく、俺のことなら多少話せる」
寅吉の口から兄の名が出た瞬間、こたけは我に返った。握りしめていた櫂から片手を離し、手のひらを見る。知らず知らず力を込めすぎて、まめが破けたのだ。あちこちから血が滲んで真っ赤になっている。
血を洗うため、こたけはそっと海中に手を差し入れた。もう一方の手も同じく血が出ている。握っていた櫂の持ち手が汚れてしまったので、撫でるようにして洗ってやる。
なるべく音を立てないように、静かに。
こたけは緊張していた。けれど、寅吉の話すことを、もう一言たりとも聞き逃したくはなかった。
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