読まずぎらい 👩🎨
上月くるを
読まずぎらい 👩🎨
初冬の朝日を浴びた山脈は樹林の一本の形まで見えそうだが、実際は遥かに遠い。
幾重にも畳まれた山並みの最奥の稜線は尖った純白に輝き、下界を拒絶している。
わが影を次の山に映し、その影もまた……茜色のグラデーションが得も言われぬ。
生まれ故郷の山は孤峰だったので、はじめて銀屏風の圧巻を仰いだときは慄いた。
生活の拠点を置いた地は子どもたちの故郷となり、橙子さんの終の棲家になった。
運命といえば大げさだが、風の舟に運ばれる枯葉の如き一生を思わずにいられぬ。
🧣
いつもより早く起き、端折りルーティンのあと車を出すと七時ジャストに着いた。
山脈颪の吹きさらしに三十分も立っていねばならないので、全身、真冬の重装備。
フード付き分厚いダウンにブーツに手袋……この格好で足踏みしながら本を開く。
いま読んでいるのは海音寺潮五郎さん『天と地と』だが、これがすこぶる面白い。
司馬遼太郎さんと同じく、どこに読者サービス(身も心もとろけるような名表現)が埋めこまれているか分からないので、速読や流し読みなどもってのほかの逸品で。
🖊️
じつは、橙子さん、海音寺さんは初読みなのだが、これにはいささかの訳がある。
無謀にも歴史小説というものを書いてみようと思い立ち、手探りで長編をあげた。
だが、自分では良しあしが分からないので半プロ作家に読んでもらうことにした。
というのは建前で、本心は「初作にしてはなかなか」と褒めて欲しい下心。(笑)
なれど、ほどなく返されて来た原稿に、期待した言葉は一片も見当たらなかった。
いまから思えば汗顔の至りだが、一人前に打ちのめされて、リングの底に沈んだ。
――全体的に、海音寺潮五郎作品のように古めかしい印象を受けました。💦
そう言われても、歴史小説といえば司馬さんや池波正太郎さん、藤沢周平さんしか知らないのだから指摘の意味が分からないし「全体的に」では直しようがない。('_')
難しげな漢字を六つも並べた筆名からして、大正か明治、まごまごすれば江戸時代の作者かと見まがうような(笑)大御所の作品を、ますます読まずぎらいになった。
👰♀️🥦💐🥕
そのことがあってから事前にだれかに添削してもらうという虫のいい考えを捨て、時代に淘汰されて唯一残っていた新聞社系の歴史小説文学賞に応募することにした。
一次予選通過が何年かつづいたあと、やっと二次予選を通過した、その年に同賞の廃止が発表されたので公募は断念、ひっそりネット小説に移行することに相なった。
その後も海音寺さんアレルギー(笑)は治らないままだったが、どうした気紛れかつい先日、書店の店頭で繰ってみると、意外に現代風、否、むしろ斬新でさえある。
で、さっそく全三巻を購入して初巻の冒頭の何頁かを読んだだけで「これはこれはたいそうな傑作。長いことご無礼をば仕りました」謹んでお詫び申し上げたしだい。
⛹️♀️
ものの覚えに橙子さんが文章を書き始めた初志を記しておけば、ほかならぬ子孫に自分が生きた証しを遺したいからで、体幹の軸足がブレねば、迷いは生じないはず。
もちろん、小説はフィクションであるからして、どんな事実があったかではなく、折々に書き手がなにをどう考えていたかの記述に意義があることは言うまでもない。
いつまで生きるかはだれにも分からない、ましてやこのコロナ禍、家族に会えないまま西の国に旅立つ人も少なくない現実を思えば、一日の執筆とて疎かにできない。
そういう意味からも、執筆の糧にも毒にもなり得る読書には重層な価値観に基づくきびしい選択が求められ、日常のアンテナの感度がものを言うことも当然であろう。
🚙
ふとした気配に顔を上げると、駐車場に漆黒の3ナンバーの高級車が入って来た。
広々としたスペースなのに、選りにもよって橙子さんの軽の横にぴたりと付ける。
運転席から降りて来たのは、いかにもドアツードア風の体幹の弱そうな若い男性。
橙子さんのうしろに並んでも「おはようございます」ひとつ言う気もないらしい。
――まったく、この辺の新幹線&高速道路成金は、出来のよくない小倅に何百万もする高級車を平気で買い与えるから、軽自動車に乗っているのは高齢者ばかりだよ。
そんなネガティブシンキングはすぐに切り替えて、歴史や文学趣味が合い、思考のベクトルが同じ方向性の心療内科医に、佳い報告をする場面を愉しくイメージする。
読まずぎらい 👩🎨 上月くるを @kurutan
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