三人目の精霊

いいの すけこ

あたたかなテーブルを囲んで

 トクトクと、どこか愉快に弾む音。小鍋の中を、濃いルビー色の液体が満たす。果実の甘いにおいがほのかに香った。

 接客用兼作業台のテーブルの上に、着々とクリスマスパーティーの準備が整えられていく。

 銀の月眼鏡店では、店主が訪れるお客さんを選ぶ。だから特別な商売を営みながらも、店内はほぼプライベートな空間といえた。

 パーティーといっても、いつものお茶飲みを少し豪華にした程度。けれど一年に一度の祝祭に瞳を輝かせる少女は、店主の僕よりも率先して支度にいそしんでいた。

「グリューワインって、どれくらい温めればいいんですか」

 卓上カセットコンロに置いた小鍋から顔を上げて、スウちゃんが問うた。

「んー。普段飲まないから、わからないなあ。ボトルに書いていない?」

 スウちゃんは雪景色の街並みが描かれた、赤いラベルの裏を眺める。首をひねった後に、テーブルの端のスマートフォンに手を伸ばした。鍋をかき混ぜるお玉をいったん置いてから、スマートフォンの画面上ですいすいと指を動かす。

「アルコールや香りが飛ばないように、煮立てない方がいいみたいですね。アルコールはもとから入っていないけど」

 スウちゃんは高校生なので、お酒を飲ませるわけにはいかない。

 去年二人で訪れた近所のお店で提供しているグリューワインは、ノンアルコールもあった。カップ一杯分をその場で飲んだので、自分がアルコール入りでスウちゃんはアルコール抜きでと買い分けて、一緒にグリューワインを楽しんだけれど。


「ゆっくり温めたほうが良さそうです」

 今年は出掛けなくても良いかということで、家庭用のドリンクを探してみたものの、少量のグリューワインはお店で見つけられなかった。だからと言って、ボトル一本を二種類とも用意したらきっと飲みきれない。というか、未成年と完全に二人きりの状態で飲酒するほど、分別のない大人でもないし。どうせアルコール抜きなら、グリューワインに拘らずに飲みやすいジュースでもと思ったのだが。

「一年ぶりですねえ」

 今年もスウちゃんは、グリューワインを飲みたがった。去年、とてもおいしかったからということで。ノンアルとはいえ、そんなに女子高生の口に合うようなものだろうかと思えども、彼女は照れ臭そうに笑うだけだった。

「とりあえず弱火、と」

 スウちゃんは鍋底を舐める炎を確認しながら、点火スイッチを調節した。泡立つワインの表面が、少し穏やかになった気がする。

「じゃあしばらく温めておいて……。お皿も綺麗なペーパーを敷いて、お菓子を並べて」

 鍋から離れて、スウちゃんは大きなエコバッグを開いた。

「あ、いけない」

「どうしたの」

「図書館に寄って、本を返却するつもりだったんですけど。そのまま持ってきちゃった」

 思わずバッグの中を覗き込む。文庫本と、クリスマスレシピの特集が組まれた料理雑誌と、もう一冊薄い本が入っていた。

「絵本?」

「あ、やだ。これまで持ってきちゃった。絵本は図書館の物じゃなくて、私物です」

 スウちゃんは、小さな子どもには一抱えもありそうな絵本を取り出した。


「『クリスマス・キャロル』だ」

 上品な字体で表紙に刻まれていたタイトルは、この季節にぴったりのものだった。

「ディケンズだね」

「でぃけ?」

 『クリスマス・キャロル』は読んだことがある。退屈に明かして、ひたすら本を読み明かしていた頃もあるし。彼と同時代を生きていた頃も、あるので。

「お母さんが大掃除中に、クローゼットの奥から見つけたみたいで」

「読んでいい?」

「どうぞ」

 椅子にかけて、絵本の表紙をめくる。写実的な線画は一見とっつきにくそうだったが、優しい色使いで彩色された絵は温かかった。

 業突く張りで冷徹な老人スクルージが、クリスマスなど一銭の得にもならないと主張しながら周囲に冷たくあたる。

 そんなスクルージのもとに現れた三人の精霊は、彼に過去、現在、未来の光景を見せた。

 過去の精霊は、彼がかつて持っていたはずの善き人々との交流や、失ってしまった愛情を。

 現在の精霊は、くだらないと罵ったクリスマスを慎ましくも、楽しく幸福に過ごす人々の姿を。冷酷に切り捨てようとした弱者が、永くは生きられない運命を見せた。

 そして未来の精霊は――。


「あれ?」

 ページを手繰ろうとして、僕は違和感に手を止める。

「このページ、なんで貼り合わせてあるの?」

 絵本の一部分が、紙と紙を合わせてホチキスで留められていた。中のページが見れなくなってしまっている。

「ああ、それは」

 スウちゃんは恥ずかしそうに手を握り合わせた。

「そのページ、絵が怖いんですよ。小さい頃、絵が見えないように綴じちゃったんです。古本をほとんど処分した中でそれが残っていたのも、私が本を嫌がるからお母さんがクローゼットの奥に押し込んで、忘れたからみたいなんですね」

「開けていい?」

「はい。さすがにもう、怖くないですから」

 許可をもらって、ホチキスの針に爪をかけた。紙を傷めないように、そっと丁寧に針を外していく。

「取れた」

 見開きに描かれていたのは、未来の精霊。

 真っ黒な布を被った、陰鬱な精霊の姿。布の隙間から覗くはずの、ぽっかりと開いた顔部分は黒く塗りつぶされて影そのものだ。

 精霊がスクルージを連れて行ったのは墓場で、指し示す墓石に刻まれたのは、孤独に死んでいったスクルージの名で――。

 

「これは、怖いね」

 そういう話だったか、これは。読んだのはずいぶんと昔のことだから、もうほとんど覚えていなかった。

「三人の精霊は意地悪だね。見たくないものを見せて、遠ざけようとしたものを目の前に映して、最後には絶望的な孤独を突き付ける」

 自分はこのクリスマス嫌いの老人ほど、悪辣な人間だとは思わないけれど。自分だって、この硬く心を閉ざした人間のように、孤独な末路を辿ったっておかしくない。

「意地悪かも、しれませんけど」

 寄り添うような近さで、スウちゃんは絵本を覗き込む。

「でもスクルージは改心しますよ」

 三人目の精霊とは、おそらくずいぶんと久しぶりの再会なのだろう。スウちゃんは閉ざしていた恐怖ページと向き合って、針で穴だらけになった紙の端に指をかけて、そっとめくる。

「救いの物語ですから、これは」

 開いたラストシーン、とびきりあたたかな色で書かれた絵。

 そこでは孤独な運命を辿りかねなかった老人が心を入れ替え、家族や善き人々に囲まれて、満ち足りた様子でクリスマスパーティーを楽しんでいた。

 

 絵本から時計に視線を移して、スウちゃんはワインの鍋を振り返る。

「もう、あったまったかな」

 僕も絵本を置いて、鍋の中を覗き込んだ。

 バックヤードの給湯設備には備え付けのコンロがないため、必要に応じて使えるようにカセットコンロを用意してある。といっても電気ケトルも電子レンジも備えがあるので、コンロはずっと箱にしまって棚の上に眠ったままであった。ここに来て思いがけず、出番が来たわけである。

「もしかしてレンジでも、温められたんじゃない?」

 あれはとても便利な道具だし、時短にもなる。カセットコンロをテーブルに持ち出したら、場所も取るのだし。

「こうやったほうが楽しくないですか?」

 手ずから温める感じが良いのだろうか。そういうところが、可愛らしくもあるけれど。

「温かいものを一緒に囲むと、幸せじゃないですか」

 そう言って、スウちゃんは本当に幸福そうに微笑む。

 テーブルに広げた絵本の中では、人々が楽しそうにテーブルを囲んでいた。明るく燃え盛る暖炉の前で温まりながら、笑顔で乾杯をする人。おいしそうな湯気をたてる料理と、幸せそうにそれを頬張る人。

 ああなるほど、確かに。

「それは幸せだ」

 鍋でゆっくりと暖められたグリューワインをスウちゃんから手渡されたら、手間だとか時間だとか、そういうことの一切合切がどうでもよくなって。

 その幸せを享受するのも良いだろうと、そんなことを考えた。


 

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