最終話.豊臣彩美のほんとのきもち

 その名を耳にした彩美は、なにやら口をもごもごさせている。


「なにも言わないで。思い出せそうなんだ」


 彩美は僕の目を見たあと、優しく微笑みかけた。


「わかった。行こう! 楽しみすぎるっ!」


 僕は伝票を持ち、レジヘ向かう。


「え、私が払うよ」


 彩美はポケットから分厚い封筒を取り出し、後ろをついてきた。


「いいよ。今日は僕が払う」


 僕は封筒を隠すようにして手で覆う。


「昔はいつも彩美が払ってた。それが続いてちゃ、示しがつかない」

「昔って……、瑞樹」


 彩美は、僕が徐々に幼馴染の頃の想い出を思い出していることに明確に気付いた。

 店を出て、海遊館最寄りの大阪湾駅へ向かう。


「その調子で思い出してね! 私からはなにも言わないからねっ!」

「今、新しく一つ思い出したよ」


 僕は、彩美の全身を指フレームで囲む。


「そのオーバーオール、昔も同じようなの着てたよね。だから僕にもデロリアンのTシャツのままでいてほしかったんでしょ」


 彩美は三歩前にスキップしながら進み、クルリと振り返って目を細めた。


「正解っ! 瑞樹がそのTシャツ着てきたとき、ビックリしたよ! どうやらたまたまのようだけど」

「偶然も必然の内って言うじゃん」


 彩美の指摘に、僕は苦笑いしながらはぐらかした。




 海遊館は、大阪湾地区にある日本屈指の水族館だ。屋内水槽の規模に関しては、世界でもトップ五に入るとも言われている。

 その巨大水槽があるがゆえに、大型生物の飼育も可能となり、魚類最大の種であるジンベエザメが優雅に泳ぐ姿は、海遊館の最大の魅力の一つだ。


「うわぁ、水族館なんていつぶりだろ?」


 海遊館の中に入ると、彩美がちらっと僕を見た。


「僕は一〇年ぶりとかかな」

「私もそうだよ」


 彩美は終始ニヤついている。

 八階までエスカレーターで上がり、徐々に下りていきながら多種多様な生物を堪能する。


「うわぁ可愛い! コツメカワウソだっ!」


 彩美は無我夢中でご飯を食べているカワウソに、同じように口をパクパクさせながら熱中している。

 ちゃんと『コツメ』をつけて呼んでいることに、カワウソへの愛を感じられる。


「あ! こっち見た! 今私と目があったよっ!」

「本当に? よかったじゃん」

「ああ、大阪城で飼えないかなぁ」


 それはやめておこう。従者が大変だ。

 一〇年前、カワウソも一緒に見たんだっけ。




「瑞樹、なんで『コツメ』カワウソなのか知ってる?」

「ううん。知らない」


 綺麗な長い髪をなびかせて、彩美は「仕方ないなぁ」と無い眼鏡を上げる素振りをする。


「あの子たちの足を見てみて」

「うん」

「小さな爪がついているでしょ? だからコツメカワウソなんだよ」


 彩美はあごを上げて、フンッと鼻で息をした。


「でも、小さい爪がついている動物って、たくさんいるんじゃない? 僕らだって、象さんと比べたら小さいよ。コツメ人間にはならないの?」

「……次行こっ!」


 そうだ。当時、彩美は教えるだけ教えて、自分が答えられない部分を突っ込まれたら、華麗にスルーを決め込むクセがあったんだ。

 僕は想い出から現在に戻る。まだまだカワウソに夢中な彩美を見て、表情が緩んだ。




 海遊館の目玉、太平洋ゾーンにやってきた。ここには世界最大種のあれがいる。


「いやー大きい! 大きすぎるっ!」


 僕は周りの目も忘れて大声を上げてしまう。


「瑞樹、昔から大きいものが好きだもんね」

「そうだね。ロマンを感じると同時に、人間なんてちっぽけな存在だなと実感する。巨大さは、僕を好奇心の海に突き落としてくれるんだ」

「わかるよ。ジンベエザメから、私たちはどう見えているんだろうね」


 二人でただただ巨大水槽を眺める。せわしない日常からの逸脱。心が自然と洗われていく。

 気付くと無言のまま、二〇分経っていた。


「一〇年前も、ここで三〇分くらい座ってたっけ」


 僕は、水槽から目を離す。水の色が反射された、薄青く照らされる彩美の横顔は、この世のものとは思えないほど妖艶ようえんで美しい。


「四〇分じゃない?」


 彩美も僕の方を見た。今まで前方を見ていたから気が付かなかったが、その距離は鼻と鼻が触れ合うほどだった。

 二人同時に赤面し、距離を開ける。この心臓の音は、バレていないだろうか。


「ち、近すぎっ!」


 彩美は僕の肩をバンバンと叩いた。


「人も多いし、そのほうがいいんじゃない?」


 僕は、彩美の手をそっと握った。


「えっ」


 彩美は、僕の予想だにしない行動に、目を白黒させている。

 僕は僕で、すぐに水槽に目を移す。

 やってしまった! このカップルだらけの雰囲気にあてられてしまった! すぐ離したら変だ。でもずっと繋いでおくのか? どうすればいい!?


「ジンベエザメって、あんなに体が大きいのに、ご飯はプランクトンなんだよ」


 僕は恥ずかしさを紛らわすため、思いつく話をとりあえず放出する。


「それ、私が教えたんでしょ」


 彩美は、繋いだ手をギュッと握り返した。




「見えないっ! 大人ってなんで大きいのっ!」


 六歳の彩美は、念願のジンベエザメを目の前に、プンスカと怒っている。


「ちょっと行ってくる!」


 彩美は大人の間をかきわけて、巨大水槽の最前列まで進んでいった。

 僕は人混みがあまり好きではないので、最後列で待っていた。一瞬チラッと見えるジンベエザメの頭を、それだけで十分に楽しんでいた。

 五分ほど経っただろうか。彩美が帰ってこない。

 僕は背伸びして水槽の前列を見ようとするが、見えるはずもなく不安が募る。


「彩美って、確か偉い人だったような……。僕、殺されちゃうのかな」


 はぐれた不安とこれからの恐怖によって、僕はシクシクと泣き出した。


「瑞樹ぃ。うわえぇぇぇん」


 思いもよらないところから、彩美が号泣しながら出てきた。


「瑞樹ぃ。なんでどこかに行っちゃうの。うわえぇぇぇん」

「彩美がはぐれたんだよ。うえええええん」


 僕と彩美は、自然に力強く手を繋ぎあった。


「もうどこにも行かないでね? グスン」

「だから彩美がはぐれたんだよ。グスン」


 それから、二人でジンベエザメがしっかりと見える穴場のベンチを見つけて、長い間眺めていた。

 そのときにジンベエザメのあれやこれやを教えてもらった気がする。

 例にもれず、僕からの質問にはスルーを決め込まれたのも、しっかりと思い出した。




 存分に海遊館を楽しんでいたら、もう日が落ちかけていた。

 太平洋ゾーンから、僕たちはずっと手を繋いでいる。


「もう帰る?」


 僕は彩美に尋ねた。将軍を夜遅くまで拘束するわけにはいかない。明日からはまた慌ただしい政務が待っている。

 彩美はしばらく下を向いて黙ったあと、視線はそのまま、指差しだけで上を示した。


「……あれ乗りたい」


 彩美の人差し指の先には、天保山てんぽうざん大観覧車があった。

 僕は、動悸どうきが止まらない。呼吸が速くなる。

 異性と二人で観覧車、これはいよいよじゃないか!? いや、手を繋いでいる時点で、僕には告白する責任があるのか!? どうする!? できるか!? 本当に僕に告白する勇気はあるか!?

 僕はここで、根本的なことに気付いた。

 僕は本当に、彩美のことが好きなのか? 元々の目的は、彩美と服を買いに行く約束を果たすことと、忘れている彩美との想い出を思い出すためだ。

 当時、僕は彩美のことが好きだった。そしてその気持ちは、一〇年前、この海遊館で揺るぎないものに変わった。

 でも今は? 将軍と老中の関係。僕の彩美への気持ちは、純粋な恋愛感情なのか? 将軍への畏敬や敬愛が混ざり合ってはいないか?

 彩美は僕のことをどう思っている? 手を繋いでいて、観覧車にも誘われている。僕のことを好きなのか? どう確認する? 告白して返事を貰うしかないのか? もし振られたらこの関係はどうなる?


「……どうしたの?」


 彩美が僕を覗き込んだ。酔っぱらっているのかと思うほどに、彼女の頬は赤い。


「乗ろう」


 僕はぐちゃぐちゃの感情のまま、観覧車に乗ることを決断した。

 乗りながら整理しよう。ここで絶対に告白する必要はないのだから。




 天保山大観覧車が一回転する時間は、約一五分。

 もし! もしだ! 僕が彩美に告白するのであれば、頂上付近の七分頃にするべきだ。それがロマンチックというのは、経験不足な僕でもわかる。

 そんなことをグルグルと頭の中で考えまわしていたら、乗り始めて一〇分が経過していた。

 うわあああ!? もう無理じゃん! 観覧車下りてきちゃってるじゃん! すこぶるあり得ない! 告白するには高度が低すぎる! やっちまったっ!!


「瑞樹」


 脳みそがパンクしている僕に、彩美は観覧車に乗ってから初めて話しかけてきた。

 いや、もしかしたらこれまでに話しかけてきてくれているのかもしれないが、僕には聞こえていない。


「私、好きだよ」


 僕がずっと言い出せない二文字を、彩美はいとも簡単に口に出した。

 その衝撃に、僕は呆然ぼうぜんとする。


「こ、この町が! 大阪が好き! 変わらない大阪も、これから変わっていく大阪も。私は守っていく。私が守っていくの。四〇〇年を背負う豊臣の名にかけて」


 僕は一気に冷静さを取り戻す。

 そうだ。彩美は将軍なんだ。僕とは背負っているものが違う。一緒に背負っているつもりでも、その重さを等分することは絶対にできない。

 僕はなにを考えていたんだ。彩美に色恋沙汰なんてしている暇はないだろう。浮かれていた僕はバカだ。

 でも、伝えたいことがある。きっと当時は伝えられていないはずの気持ち。一〇年前、確かに僕は彩美のことが好きだったということを。

 僕の人生で初めての告白は、彩美がいいんだ。


「彩美」


 観覧車はもう乗り場付近だ。外を見ても鉄柱が景色を邪魔している。こんなに雰囲気のない告白はなかなかないだろう。


「な、なに!? さっきのはちが――」

「伝えたいことがあるんだ」


 僕は真っすぐに彩美を見つめた。

 彩美は紅潮しながら、自分の胸をギュウと押さえた。


「ちょ、ちょっとまって! 準備が、心の準備が」


 彩美は、ゴンドラ中に響き渡る音と速さで呼吸をしている。


「彩美、僕、昔」

「だめ! もうだめっ! むりっ!」


 バタンッ。


 僕の目の前で、彩美は崩れ落ちるように倒れた。


「彩美!? ええ!?」


 僕は、彩美を抱えて観覧車を飛び降り、慌て急いで枚方城医務室へと向かった。




 同日、夜。


「気絶でしたね。ひとまずほっとしました」


 彩美が倒れたことを聞きつけた初鹿野が、医務室に駆けつけてくれた。


「彩美公、堂々としているように見えて、意外と緊張に弱いんです。将軍就任演説のときも、極度の緊張で気絶されたみたいですよ」


 そういえば、樟葉監獄のハナノ房でも気絶していた。あのときはなんで気絶したんだっけ。


「瑞樹さん、彩美公に極度の緊張を与えるようなこと、しました?」

「え? ああ、いやぁ、してないと思う」


 僕は初鹿野から目を逸らす。


「あやしい」


 初鹿野は逸らした先に移動し、僕の目を覗き込み急接近してくる。


「してない! なんもしてないって!」


 僕は手と首を勢いよく横に振る。


「それは間男の否定の仕方ですね」


 なんて言われようだっ!


「まあいいですっ! この大事な時期に将軍さまが倒れるなんて、せっかく復活した幕府の権威が揺らぎかねないですから、このことは幹部間だけに留めましょう。私はもう帰りますね。瑞樹さんは?」

「僕はもう少し残るよ。もう安静になっているとはいえ、心配だから」

「ふーん」


 初鹿野は腕を後ろで組み、含みのある顔をした。


「まさか、彩美公のことが好きだなんて、言いませんよね?」

「うえっ!?」


 唐突な直球に、出したことのない声が出る。


「瑞樹さんもすみにおけないですね。私、負けませんからねっ!」


 初鹿野はアッカンベーと舌を出し、医務室をあとにした。


「なんなんだよ」


 ふぅと一息つく。医務室には僕と彩美の二人きりだ。

 僕はスヤスヤと寝ている彩美の寝顔を、微笑ましく見つめる。


「僕、彩美のことが好きみたいだ」


 そう呟き、僕は立ち上がった。

 僕が老中である理由が、一つ増えた。

 将軍が統治するこの日本の太平を守り抜くこと。そして、追加されたのは、僕の好きな人が悲しまないように、支えること。


「明日からもやることたくさんだな。でもまずは」


 僕はグウと大きく背伸びをして、少しずれた、彩美のかぶる掛布団を整えなおした。

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ぐうカワばくふっ! ~豊臣彩美のほんとのきもち~ 井野 ウエ @nekodog

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