第3話 床下から覗く目

 里美は再び食器の洗い物に取り掛かった。

 片づけをきちんとしていかないと、咲子に何と言われるかわからない。でも今日は何だか嫌な日だから、早く済ませてさっさと家に帰ろう。

 大急ぎで皿やカップ、グラスの洗いの続きにかかった。

 洗いながら、先ほど店の裏口を開けたときの様子を思い出していた。

 外は風も吹いてなくて、あんなに暖かいのに、ドアを開けたとき、なぜあんな冷たい風が吹きこんできたのだろう。

 またしても憂鬱な気分になってきた。

 恐くて仕方がなくなり、泣きたい気がした。だがまだ洗い物もろくに終わっていないのに、帰るわけにもいかない。

 するとほどなくして、また彼女はどこからか視線が注がれるのを感じた。

 今度は今来た店の客席の方からのように思えた。

 里美は、包丁を握り締め、ゆっくりと一歩一歩店の中央に進んで行った。

 店の中には誰もおらず、視線もどこから注がれているのか、彼女には分らなかったが、意志を持つ何物かが、店に漂っているような気がした。

 どうも不気味で仕方がない。いい加減でもいいから、早く洗い物を片付けて、一刻も早く家へ帰ろう。

 どんどん皿やグラスを洗いながら、客席を見た彼女は、あることに気づいてぎょっとした。ついさっき片づけてスピーカーの上に置いた筈のカラオケのマイクが結んだコードを解かれて、二つともテーブルの上に置かれていたのである。

 洗い物をする手が止まった。里美は恐怖に満ちた目で周囲を見回した。

 するとそのとき、突然スピーカーがヴォーン、ヴォーンと音を立てた。

 里美はぎょっとして飛びのいた。

 背中をカウンターの後ろの壁にもたれさせたまま、突然鳴ったスピーカーを見つめ、それから周囲を見回した。

 そんな馬鹿な。さっき、確かに、確かに、カラオケ機器は電源を抜いた筈だ。電気を食うから一番にコンセントを抜けと咲子からいつも言われているのだ。

 恐る恐るスピーカーの裏側を覗いてみると、確かに電源は抜かれている。それならどうして、今このスピーカーは鳴ったんだろう。

 そのとき、スピーカーを見つめる里美は信じがたい音を聞いた。

 う、う、う、という男の苦しげな唸り声が聞こえてきたのだ。

 里美は背筋に冷水を浴びたような気がし、思わず、「きゃっ」と声を上げた。

 さらに彼女はあることを発見した。ステージの後ろにある床下収納庫の蓋が僅かにずれていたのである。今までそこに収納庫があることも知らなかった。咲子は教えてくれなかったし、開けられそうなものでもなかったのだ。

 彼女は半狂乱になりかかっていた。

 突然ふっと店の中の照明が暗くなったのは、彼女がカタカタと震えてカウンターの後ろに腰をかがめて隠れるようにしたときだった。

 暗闇の中で、ステージのあたりから片目が見開かれて、彼女を見つめているのを発見した。里美は両手を耳に当てて、あらん限りの声で、「きゃーっ」と叫ばずにはいられなかった。その目はたった今、ずれていることに気付いた床下収納庫の蓋のところから、じっと彼女に視線を注いでいたのだった。

 もはや彼女は洗い物などしていられなかった。カウンターから飛び出そうとして、洗い物かごをひっくり返し、グラスや皿が割れて破片が飛び散った。驚いた彼女もカウンターの裏でひっくり返り、手のひらに激痛を感じた。破片を手に刺してしまったようだ。

 だがそんなことには構いもせずに、床をはいずるようにして勝手口へ向かい、震える手で鍵を開け、外へ飛び出した。

 自転車の鍵を開けて飛び乗ろうとしたが、手からはぽたぽたと血が滴り落ちていたが、今は痛みどころではなかった。手が震える上に、指が血で滑り、鍵を開けることもままならない。

 勝手口を振り返ると、そこは真っ暗になっていて、人を引きずりこむブラックホールが口を開けているように見えた。そこだけ強い風が吹いていて、ドアが風にあおられてゆらゆらと揺れている。今にもそこから異形の物が現れて彼女に襲いかかるように思われた。

 そして里美は見た、ドアの奥の暗闇から、二つの目が見開かれて、彼女を見つめていることを。それはゆっくりと彼女の方に向かって歩んでくるように見えた。

ドアの右上の呼び鈴のガーゴイルが街頭の光を浴び、口はいつもよりさらに避けて、あざわらうかのように、彼女に笑いかけている。

 彼女は自転車も放り出して、訳も分らず駆けだした。

 すると、通りに出たところで突如として大きな車の爆音がし、眩いヘッドライトの光が彼女の全身を照らした。彼女が飛び出したその時、まさに長距離輸送の大型のトレーラーが轟音を立てて走ってきていたのだ。

 それは突然に彼女の眼前に巨大な壁のように現れて、迫ってきた。

彼女はその光の中で凍りついたように静止し、思わず、きゃーっと叫んだ。巨大な壁が、まさに彼女を押し潰そうとしていた。

 ああ、私はトラックに跳ねられようとしている。

 何がいけなかったんだろう?

 あたしの短い人生はこれで終わってしまうのだ・・・

 そう思って里美が観念した瞬間、大型トラックは急ブレーキをかけ、そのためにスピンして、横向きになった。後ろに数台の乗用車を積んだトレーラーだった。

 トレーラーはゆっくりと傾いていき、動物の咆哮のような音を立てながら、トレーラーは彼女が勤めるスナックに、斜めに突っ込んで行った。ががーんという轟音を上げて、左側を下にして、スナックの壁を破壊して店に突入した。

 荷台に積んである乗用車ががらがらと崩れ落ちて、スナックを破壊するかのようにかべに雪崩れ込んだ。

 里美は道の真ん中で倒れたままだった。奇跡的に跳ねられずに済んだのだ。

体を起こし、店を振り返ると、勝手口のドアは開け放たれたままになっていたが、もはやさっきのようにゆらゆらと揺れてはいなかった。

 店に突っ込んだトラックはしゅうしゅうと湯気を上げ、まるで蒸気機関車が店に突っ込んだかのようだ。

 運転手さんは大丈夫だろうか? 助けに行きたいと思ったが、里美の体はいうことを聞かなかった。

 やがて横転したトレーラーの右側、上になった運転席のドアが開き、運転手が脱出してきた。額から血を流している。ぶつぶつ言い、何事か怒鳴りながら降りてきたが、里美を認めると、近寄ってきて、「大丈夫か」と声をかけた。

「ごめんなさい」

 自分こそ巻き込まれたのに、声をかけてくれる運転手の思いやりが無性に嬉しくなり、里美は泣きながら謝った。

 急にひどい疲れを感じ、脱力した彼女は、道の真ん中で意識を失ってしまった。


 里美はその夜、町立病院に搬送されて傷の手当てを受けた。ひどく取り乱して精神的に不安定になっていたため、数日間、入院することになった。

 病院から亘に電話し、その夜の摩訶不思議な経験を話した。

 里美にとって幸いなことに、スナックに突っ込んだトラックは丁度亘が勤めている自動車会社の車だったので、亘が志願して担当となり、事後処理をやってくれることになった。

 連日のように病院に見舞いにやってきた亘から、里美は驚くべき話を聞いた。

 車の衝突事故について、警察とトラックの保険会社と亘が現場検証に臨んだ結果、思いがけないことが発見された。

 大型トラックに突っ込まれたスナックは基礎から上の部分がひどく破壊され、床下まで剥き出しになっていたが、そこから何やら異臭がするので、警察官が潜り込んで調べたところ、毛布で何重にもくるまれた男の死体が発見されたのである。

 それは店のママの咲子の夫、小平洋輔の変わり果てた姿だった。

 間もなく、咲子と愛人の男が共謀して夫を殺したかどで逮捕された。

 取り調べを受けて自供したところによると、咲子は仕事を通じて小平洋輔と知り合ったが、洋輔がこの町の土地持ちであると知り、取り入って結婚した。そして土地と資金を提供させてスナックの開業にこぎつけたが、その後にかねてからの愛人との関係がばれて、スナックの取り潰しを迫られた咲子は、共謀して夫を殺し、店の床下に隠したのだった。

 里美が事件に巻き込まれた日、愛人の男は死体を店の床下の土の下に埋める作業をしていたのだ。

 里美は、ひょっとすると、無残な死を遂げた洋輔の霊が、床下から彼女を呼んだのかもしれないと思った。彼女の失態のおかげで哀しい死を死んだ人の霊が荼毘に付されて、成仏できるのであれば、自分はとても役に立てたのだろうと思った。

                                     了

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ガーゴイルの微笑み 松浦泉 @matsuuraizumi

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