第2話 つむじ風

「さき」の従業員は、店主の咲子の他はアルバイトばかりで、今夜は里美だけだった。

 カウンター席のほかにボックス席が四つ、真ん中にカラオケのディスプレイ、奥にスピーカーが置いてある。ママの咲子は長らく化粧品会社のセールスレディをしていたが、その頃から小料理屋を開くのが夢だったそうで、昨年の春に夫の財力によって漸く夢を実現したという。

 里美が「さき」に勤め始めたのはこの春からで、まだ二月余りだった。

 去年から付き合っている彼氏の杉本亘の紹介だった。亘は自動車会社のディーラーをしており、「さき」は仕事の後に時々寄るそうだ。一度二人で訪れたことがあり、典型的な田舎の昔町であるこの町に似つかわしくない洒落た雰囲気の店が、里美は気に入った。

 今年が看護学校の最後の年で、来年からは看護師として地元の病院に就職する予定だが、一、二年目は仕事が大変でとてもアルバイトの余裕はない。今のうちにどこかでバイトをしたいと話していたので、亘がママの咲子にその場で紹介してくれ、話がまとまった。

 学校が終わって夕方になってから店に入り、ウェイトレスの仕事とカラオケ機器の管理をし、客が引けてからは、洗い物をして店仕舞いをし、自宅に自転車で帰るのが、里美のいつもの仕事のパターンだ。「さき」は夫の肝煎りで宣伝に力を入れたためもあり、この町では流行っている店で、深夜まで客で賑わうことも多かった。

 咲子は従業員相手の時とは打って変わって、客相手となると会話が弾み、ユーモア豊かに客を笑わせた。もって生まれた才覚なのだろうが、長い間小料理屋を開くのが夢だったというのも頷ける気がした。

 だが、同僚や出入り業者の噂で知ったところでは、彼女には、とかく悪い噂が付きまといがちだった。三年ほど前に、別の土地から化粧品のセールスにやってきたが、それまで全くこの町には縁がなかったそうだ。

 いつの間にどうやって取り入ったかは不明だが、町の名士の小平洋輔と結婚し、半年後にスナックを開業した。里美が田舎はどこかと聞いたときは、九州北部よと答えたが、どういう来歴かは一切教えてくれなかった。

 咲子は人の好き嫌いがひどく激しく、一度好き嫌いを決めると大変に頑固で、誰に何と言われようと自分の意見を変えないそうだ。強い立場にある者には愛想よく取り入り、相手が目下と思うと傲岸に扱った。

 里美の家は旧街道沿いにある薬局で、小平洋輔のことは幼い時からよく知っていた。

 洋輔は町会議員だから、選挙の時など、薬局に挨拶に回ってくることがあり、いつも抱き上げて可愛がってくれ、面倒見のいい優しいおじさんだと好ましく思っていた。

 最近姿を見ないと思っていたら、急病で倒れ、検査と治療のために東京の病院に入院したそうだ。入院先が、里美が来年から勤めようと思っている町で唯一の町立病院ではなく、咲子の伝で東京の病院に入院しているというのも気になった。里美は、気の毒だが、洋輔がなぜか無事に帰って来られないような気がするのだった。

 妙な男と鉢合わせしたこともあって、里美は仕事前からなんとなく憂鬱な気分だったが、里美の気分を反映するかのように、その日はあまり客が入らなかった。

 しかもなぜか、客足が引けるのが異様に早く、夜の九時を回る頃には皆帰ってしまった。

 咲子は首を傾げた。

「どうしたのかしらねえ。こんな暖かい五月の夜で気候もいいのに、お客さんたち、どうして皆こんなに早く帰っちまったんだろう」

 里美は言葉を返しようがなかった。咲子は何か考え事をしている様子だったが、ふっと溜息をつくと、里美に告げた。

「私も今日はもう帰るわ。里美ちゃん、あんた、後片付けお願いするわね」

 咲子はたちまちコートを着ると、「じゃあ、頼むわね」と言って裏口から出て行った。

 ドアをバタンと閉めた瞬間に、ガーゴイルの呼び鈴がカランカランと鳴る音が聞こえた。

 咲子を見送ると、店には里美だけが残された。里美はいつもどおり、後片付けを始めた。

 まずカラオケ器械の電源をコンセントから抜いて、二つのマイクのコードを纏めてスピーカーの上に置いた。

 それから独りで洗い物を始めた、そのときだった。

 彼女はどこからか、じっと彼女を見つめる視線を感じたのである。

 どこからだろう。彼女は思わず周りを見回した。

 すると、どうも勝手口がある店の奥の方の暗がりから、その視線は注がれているようだ。

「誰?」

 里美は店の奥の暗がりに向かって声をかけた。答えはない。

 彼女はもう一度、強い調子で声を出した。

「誰かそこにいるの?」

 答えはなかった。彼女は調理台の引き出しから料理用の包丁を取り出し、恐る恐る勝手口の暗がりに向かって進んで行った。

 だがそこには誰もいなかった。

 思いすごしかと思って、彼女はほっと安堵の息をついた。

 するとそのとき、彼女のすぐ後ろの勝手口の表についている銅製の呼び鈴が、キーン、カランカランと鳴る音がした。

 あのガーゴイルだ。あの不気味な悪魔の顔が長い舌を出して震えるように鳴っている様子が目に見えるようで、里美はぎょっとした。

 里美はもう一度、「誰よ!」と叫んだ。

 しかし答えはなく、それ以上、呼び鈴が鳴る音もしない。

 まだ宵の内とはいえ、一人で夜の店にいるので、無性に怖くなってきた。

 彼女は自分の胸を押さえて、落ち着け、落ち着けと諭した。

 ただの風だ、今日は風が強い日で、それで呼び鈴が鳴ったのだ。

 だが、あのガーゴイルはばねの強い銅製の腕についた鈴で、人が弾かなければ鳴らないはずた。外はよほど強いつむじ風が吹いているのだろうか?

 彼女は聞き耳を立てたが、そこに誰かいる気配はなさそうだった。それでも彼女は居ても立ってもいられない気分になってきた。

 外に誰かが潜んでいたら、どうしよう。

 里美は再び自分の心を落ち着けるよう、目を閉じて大きく深呼吸した。

 案外、忘れ物を取りに来たお客さんかもしれない。それに客の引きが早かった今夜は、まだ宵のうちで、きっと外は人通りがあるだろう。

 ただ、田舎だけに土地は腐るほど余っていて、隣の家や店とは距離がある。何かあったときに叫んでも、周りの家の人が気づいてくれるとは限らない。しかし、もう表の戸締りはしてしまったし、勝手口のところに彼女の自転車も置いてあるから、そこからでなければ家にも帰れない。

 彼女の想念は千々に乱れていたが、勇を鼓して包丁を強く握りしめ、勢い込んでバンと勝手口のドアを開けた。すると、強い風がひゅうと店の中に吹き込んできた。それは温かい五月の夜にしては異常にひんやりする冷たい風だった。

 里美は無我夢中で外に飛び出し、包丁を持ったまま、振り返って周囲を見回した。ところがそこには誰もいなかった。静かな夜で空気は落ち着いており、強い風が吹いている様子もなかった。

 緊張に満ちて、しばらく周囲を見回していたが、どうやら誰もいないようだ。そこで今度こそ思いすごしだと思って、勝手口から店の中に戻り、もう一度しっかりと鍵をかけた。

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