ガーゴイルの微笑み
松浦泉
第1話 悪魔の呼び鈴
松山里美は、スナック「さき」の横にある駐車場に自転車をとめた。
町を貫く産業道路は、大型の輸送用トラックが地響きを立てて通ると埃が舞い上がり、その埃が脇にある「さき」の駐車場まで風に乗って飛んでくる。季節は初夏に入り、日中はだんだん暖かくなってきているが、山の中にある町なので、夕暮れにはまだ空気はひんやりと冷たく感じられた。
山奥に盆地状に開けたこの町の商店街は、旧街道沿いに広がっている。かつては絹織物の取引で賑わったそうだが、今ではさびれた山里となりつつある。それでも旧街道は、蔵屋敷だの本陣だのと、自治体から保存指定を受けた古い木造家屋がそこここに残り、江戸時代の街道筋を思い起こさせる情緒に満ちた道だ。
だがトラックなどが通るには細すぎ、曲がりくねっていて不便なため、数年前に町の北側に新たにバイパスが造られた。「さき」はそのバイパス沿いに建っており、店のママでオーナーの小平咲子の名にちなんだ店名だ。
木造の山小屋風の作りで、洒落た北欧風のデザインなので、里美は気に入っていた。自分もいつか家を建てる身分になれたら、こんな素敵な丸太小屋に住みたいと思う。
里美は店の勝手口に近づき、上り口の階段を上ってドアを開けようとしたが、鍵がかかっていて開かなかった。
ママの咲子が外出しているのだろうか? いつもはこの時間は里美がやってくるので、開けていてくれるのだが。
呼び鈴は銅製のしっかりした作りで、強いばねと鐘の表に深緑色の大きなガーゴイル人形の顔が装飾として取り付けられていた。全体に気に入った造りの建物だが、唯一里美が好きになれないのが、このガーゴイルの呼び鈴だった。
大きな鷲鼻と、落ち窪んだ眼窩の奥のつり目、耳元まで大きく避けた口と薄い唇は、見る者をあざ笑っているように見える。その横には大きな耳がそそり立ち、くすんだ深緑色の顔とあいまって、まさしく悪魔の顔だった。ヨーロッパのゴシック教会によく見られるようなこうした装飾品は、この店のオーナー、咲子の好みらしい。
この店で働き始めたころは、どうして従業員が出入りする勝手口にこんな怖い顔の人形をつけるのだろうかと思った。入るなと言われているようで、あまり見ないようにしていたが、この頃になって漸く見慣れてきたところだ。
昼間見れば何でもないのだが、周囲が暗くなってきて街灯に反映すると、光が人形の顔の半分に当たって何とも気持ち悪く、怖い。いきなり翼を生やして呼び鈴から飛び立って襲いかかり、大きな口でかぶりつかれそうな気がする。
里美が呼び鈴をはじくと、ばねが鐘に当たってキーンと響いてこだまし、それに続いて鐘の中で棒が当たってカランカランと鳴った。
里美が勝手口の前で待っていたところ、中から話し声が聞こえた。しゃがれた感じの女性の声は咲子だろう。話している相手は低いだみ声で、男性のようだ。
しばらく待つと、漸くドアが開き、目の前に咲子が立って、にこりともせず能面のような表情で里美を見下ろした。
小柄で顔色が悪いが、いつも小奇麗にしていて、髪の手入れや化粧にかなり時間をかけているのが伺える。聞いたところによると、かつては化粧品会社のセールスレディをしていたそうで、そういわれれば、普段の服装もなかなかお洒落に着こなしていた。
「おはようございます」
「おはよう」
咲子は里美の挨拶に対して、雇い主の鷹揚さと居丈高さを感じさせる口調の挨拶を返した。日が暮れかかってはいたが、夜からの仕事の常で、この時間でも挨拶は「おはよう」だ。
昼間は地元の看護学校に通っている里美は、学校帰りに店にやって来て、おはようと挨拶する習慣に、初めのうちは抵抗を覚えたものだったが、勤めて三ヶ月余りの今はそれも感じなくなっていた。
それにしても、この人は、いつも権柄ずくな感じがすると里美は思った。客には愛想がいいが、従業員にはにこりともしない。そんな大層な御出自には見えないが、権柄ずくは彼女の生来の性格なのだろうと里美は思っていた。
ところが、今日の咲子はいつもと違い、どこか怯えたような表情をしていた。
今まで、中で何をしていたのだろう?
鍵をかけていたところを見ると、見られては困ることなのかもしれない。
男の声がしたから、情事に耽ってでもいたのだろうか。宵の口からお盛んなことだ。
客商売だから当然かもしれないが、いつも若作りしており、「あたしはまだまだ女捨ててないよ」と普段から公言している。一見は四十歳くらいに見えるが、店の同僚から聞いたところでは、五十歳とも六十歳とも知れないそうだ。機嫌を損ねるかもしれないと思い、年齢を尋ねたことはない。
里美は中へ入って行っていいものか疑問に思い、咲子の顔色を窺った。咲子には、尋ねようとしても質問を受け付けないような雰囲気があり、里美は口を開きかけて思わず言葉を飲み込んだ。
そのとき奥からぬっと男が顔をのぞかせたので、里美はびっくりして思わず後ずさった。
それは今までときどき店に客としてきているのを見かけたことのある男だった。
パンチパーマで、黒白の縦じまのシャツに黒のズボンとサスペンダーといったいでたちは、土建屋か、暴力団筋の者ではないかと思われる雰囲気を漂わしていた。さらにその男は、決めた出で立ちの割には襟元や袖口が乱れ、どこか土臭く、埃っぽい臭いがした。
出てきながら襟元を直し、ネクタイを結んでいる。
里美が挨拶の言葉も出せずに立ちすくんでいると、咲子が先程までの怯えた表情を繕い、作った顔で愛想笑いをした。
「あら、あなた、お嬢ちゃんが驚いちゃったじゃないの」
それを聞いた男は頷いた。
「すまないね、お嬢ちゃん。これから仕事に入るのか。看護学校に行ってるんだって? 働き者で、感心だ」
里美は、こんな胡散臭げな男になど、自分の話をしてほしくないなと思って咲子を見ると、咲子は気配を察したようだ。
「あなた、もう帰りなさいな」
「あなた」という呼び方にも、里美は不快を感じた。芸者じゃあるまいし、夫以外の人間に気安くかける呼び方ではなかろう。
そういえば、ママの旦那さんはどうなったのだろう。
咲子の夫の小平洋輔は、この土地で精米業を代々続けてきた家の主だ。土地持ちで、町会議員も務めており、咲子とは二年前に結婚したそうだ。この店も夫に建ててもらい、議員の力で宣伝に努め、地域一帯から客を集めていた。
ところが洋輔は最近体調を崩し、検査と治療のために東京の病院に入院したという。新婚とは言わないまでも、まだ結婚してそれほど時間が経っていないうちに病に倒れるとは、この店のママは疫病神ではなかろうかと里美はひそかに思っていた。
男はネクタイを結ぶとサングラスをかけた。いよいよ筋者風に見える。
「いわれなくたって帰るさ。さあ、ずらかるか」
この強面な印象の男が「ずらかる」などというと、いかにも今まで悪事を働いていたかのようだ。男はそそくさと里美の横をすり抜けるようにして出て行った。
エンジン音がかかって車が出て行くと、咲子は言った。
「びっくりしたでしょう? ごめんね。この頃、お店を手伝ってくれている方よ」
咲子は珍しく愛想よく、里美に微笑みかけた。
里美の気持ちをほぐそうとして言ったようだが、その男が何者だろうかということと、その男に対する咲子の馴れ馴れしい口調を思い出すと、かえって違和感を覚えるのだった。
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