この世界の半分の戦慄

土岐三郎頼芸(ときさぶろうよりのり)

第1話 

「ジャックの実家ってホントウに田舎だな」


「ははは、うらやましいだろう。果物の樹がいっぱい。パパイヤ、マンゴー、バナナに龍眼。ジャックフルーツもあるぞ。旬ならば新鮮な果物が食べ放題!」


「むっちゃうらやましいぞ。うわあバナナの葉っぱってあんなにデカいんだ」


「サブロウ、あっち見ろよ。アレがパパイヤだ」


「うわっ!なんだアレ!」


 ジャックが指差すさきにはヤツデのような葉っぱがてっぺんから四方八方に広がった細長い樹があった。


 それがパパイヤらしいが、実のなり方が予想外だった。いきなり幹からパパイヤの実がにょきにょきと生えてぶら下がっているのだ。


 その、例えが悪いが木の幹からチ◯コがいくつも生えているようだった。


「サブロウ、パパイヤをタイ語でなんと言うか知っているか?」


「なんて言うんだ?」


コーって言うんだ」


「プフッ。マジかよ?」


「マジマジ。だからあのデカいのはコー」


「ハハハハ、バカだねえ。でも似てるよな」


「そうだろ、そうだろ。あ、妹がいた。おーい!ジェーン!」


「なに?ジャック兄さん」


 ガタイのいいジャックとは全然似ていない、華奢な少女がやってきた。


「サブロウ、こいつはオレの妹のジェーンだ。ジェーン、こいつはオレの友だちのサブロウだ。サブロウは日本から来た」


「サブロウです。はじめまして」


「私はジェーン。よろしく」


「今日からしばらく家でホームステイをすることになった。サブロウの世話をよろしく頼む」


「そう。わかった」


「おい、ジャック」


 ボクは小声でジャックに尋ねた。


「ボクってなんだかあまり歓迎されていないのかい」


「ダイジョウブだ。ジェーンはとても恥ずかしがり屋なんだ。ぶっきらぼうにみえるが、本当は優しくていい子だ。ここのことは彼女になんでも聞いてくれ」


「そうか。よろしく、ジェーン」


「わかった」


「さて、オレは今日は遅番が入っているから、街のアパートに戻るぞ。楽にしてくれ」


「ありがとう」


「じゃあな。ジェーン頼んだぞ」


「OK」


 ジャックはボクを送ってくれたときと同じようにバイクで街へ帰っていった。


「サブロウ、あなたの部屋はこっち」


 ボクは荷物を部屋に下ろす。


「バスルームはこっち。ここはお客さま用。トイレもシャワーも好きなときに使っていい」


 バスルームは青いタイル張りの床。


 電気温水器付きのシャワーに洋式トイレ。田舎なのに素手で尻を洗うタイ式ではなく、尻を洗い流すための小さなシャワーが後ろの壁の手を伸ばせば届く位置にあった。


 トイレットペーパーとそれを捨てるゴミ箱もある。途上国では用済みの紙は流すのではなく別にして捨てるのはよくあることだ。


「わかった。ありがとう」


 ジェーンは少し考えたそぶりで続けた。


「でも、バスルームにはあまり長くいない方がいい。特に夜は」


「どうして?」


「怖いから」


 トイレの怪談か。ボクはクスッと笑った。


「子どもみたいなことを言う」


「大人でも夜のトイレは怖い。よくないことが起こることがある」


「ふうん」


「嘘じゃない。ジャックも夜のトイレは怖いと言う」


「そうなんだ」


 ボクはガタイのいいジャックが夜のトイレを怖がるさまを想像して微笑ましく思った。


「昼間は比較的安全。夜も電気をつければ少しはマシになる。でも、長くいてはいけない」


「ひとつ聞いていいか?」


「どうぞ」


「よくないことが起きることがあると言ったね」


「言った」


「具体的はどんなよくないことが起きるんだい?」


「言えない」


「はあ?」


「わたしの口からは言えない」


「どうして?」


 ジェーンの顔は青ざめて冷や汗をかいている。


「言いたくない」


 ボクはだんだんイライラしてきた。


「だから、どうして?」


「わたしの口から言うべきことではないから」


 ジェーンはなんだか緊張して身体がこわばっている。ははーん。ボクはそれが何か見当がついた。


「もしかして、ジェーンはG、いや、はっきり言おう。ゴキブリが怖いのかい?」


「ゴキブリ?全然違う!そうじゃない!もっと恐ろしくて危険なもの!生命に関わる!」


 ジェーンは声を荒げた。


「よく聞いて。バスルームを使うときはよく見て。しっかり観察するの!」


 切羽詰まった表情で畳み掛けた。


「そうでないと、あなたは襲われるかもしれない。襲われる瞬間とき、あなたにはそれは見えない」


「ちょっと待って。それって見えないの⁉︎」


 なんだか話が変な方向になった。


「その攻撃はあなたには見えないし、避けることもできない。見える前にあなたはとても苦しむ。見えたときはもう遅い」


 真剣な剣幕にボクは引いた。


 オカルトかよ!


 見えないものに気をつけろだなんて、無理ゲーだろ!


「ごめんなさい。これ以上はわたしには説明できない。でも、お願い。信じて!バスルームを使うときは明るくしてよく見てからにして。そして絶対にそこには長くいないで」


 ジェーンはボクに背を向けて震えていた。


「わかった。わかったよ」


「よかった。あなたはお客さま。大事な人」


 振り向いた彼女はほっと息を吐いて、柔らかく微笑んだ。


 そんな顔もできるんだ。


 初めて見た彼女の笑顔と「大事な人」とのコトバに正直言ってボクはときめいた。




 彼女はジャックが言ったコトバの通りにとても親切だった。


 庭に出るときにシューズを履こうとしたボクを止めた。ボクのシューズの爪先を左右それぞれの手に持ってまるで柏手をうつように大きくふってパーンとぶつけた。


 特に何もない。OKらしい。


「今のはどういう意味?」


「くつの中にナニかが入っていることがある。カエルだと気持ち悪い」


「ああ、それは気色悪そうだ」


「サソリやムカデだと危ない。刺されるととても痛い」


「げえっ!」


「サブロウは迂闊うかつ。もっと気をつけるべき」


 ジェーンは真顔で言ったがよく見ると目が少しだけ笑っているようだ。


 ボクはだんだんと彼女の表情が読めるようになってきた気がした。


 ジャックとジェーンの家の庭は広く、何羽もニワトリが放し飼いにされていた。


 屋外で飼われているニワトリって半ば野生化しているのだろう。なかなかの飛翔能力で羽ばたいて龍眼の木の高い枝にとまる。


 すげえ。


 背中にタテガミがある見たことのない品種の犬も放し飼いでうろついている。


 面白いな、ここは。


 夕方になりバスルームのシャワーで汗を流した。もちろん、ジェーンの忠告にしたがってよく見てからバスルームを使った。


 別に何も変わったことはなかった。


 その後ジェーンと夕食をとった。ジェーンは料理は苦手だそうで、市場から買ってきた惣菜で申し訳ないと言っていたが、なかなか美味しいものだった。


 背脂がついた厚切りの豚肉がゴロリと入ったショウガの味が強烈なカレー。


 ニガウリの中にミンチの肉を詰めて煮込んだもの。


 どちらもボクの口にあってむちゃくちゃ美味い。ご飯がすすむ。


 地元のビールは日本製のものよりもアルコール度数が高く、オンザロックで飲むのがデフォルトだそうだ。思ったよりも美味だったが酔いも早く回りそうだ。


 やや酸味と辛味がキツい春雨のサラダ。これがくせものだった。入っていた激辛の青唐辛子をうっかりかじって、口の中がまるで火傷するかと思った。涙目になり、ビールをガブガブと流し込んでいるとジェーンに笑われてしまった。


 少し飲みすぎたかもしれないが、ジェーンとも少しずつ打ち解けた気がした。


ケケケケケ、ケケケケケ、トッケー、トッケー、トッケー、トッケー、トッケー、ケー


 甲高い不思議な生き物の鳴き声がした。


「あの声は何?」


「アレはオオヤモリ。英語でゲッコー。私たちはトッケーと呼ぶ」


「へえ」


「臆病だからこちらから手を出さなければ大丈夫。でもかまれると痛い。血が出る」


「わかった。トッケーを見つけても手を出さないようにするよ」


「それがいい」


 熱帯の夜は賑やかにふけていった。










 深夜になって強い尿意を感じた。大慌てでバスルームのトイレを使う。


 結構ギリギリだったので電気をつけずに駆け込み、いつものように便座の上に腰を下ろした。間に合った!


 ボクは神経質な母親から「立ってオシッコをすると跳ねて飛び散るからいけない」と厳しく言われて育ったから、小さい方も座ってやっている。


 溜まった大量の尿が一気に解放された快感をじっくりと味わう。酔いがまわっているから、ボクは急いで立ち上がりたくはなかった。


「ぐおおおおおおう!」


 ボク自身の声だった。


 ボクはいきなり見えない何かの攻撃を受けてその激痛に絶叫していた。










【作者から読者への挑戦状】


 サブロウ氏の身になにが起こったのでしょうか?


 それを推理するための材料はすでに読者の皆さまの前に提示されているはずです。


 読み進める前に少し考えてみましょう。


 一度ブラウザバックしてみるのもよいかもしれません。











 簡単過ぎたかも知れませんね。


 答えがわかった方も、もう少しだけお付き合いください。


 では皆さまよろしいでしょうか?


 続きをご覧ください。










「うおおおおう!」


 ボク自身の声だった。


 ボクはいきなり見えない何かの攻撃を受けてその激痛に絶叫していた。


 自分の内臓に一度に何本ものハリを突き刺されたような痛みだ。


 通常、ヒトの臓器は守られている。皮膚はもちろん、皮下の柔組織だったり、脂肪層だったり、筋肉だったり、骨だったりと何層にもわたってしっかりと保護されている。


 たったひとつの例外を除いて。


 外界とその臓器を隔てるものがごく薄い皮膚しかないその臓器を、睾丸こうがんと言う。


 ヒトの生殖に必要な精子を作るこの臓器は、精子が熱に弱いために適温を保つ必要があるので体外に無防備に突出している。


 骨は無論のこと柔組織も脂肪も筋肉もない。よって睾丸への攻撃は直接的な内臓への攻撃と同じ意味を持つ。


 幼稚園児の冗談のような攻撃でも大のオトナを一撃で戦闘不能に追い込むことができるのだ。


「ぐおおおおおおっ!」


 ボクは獣のように叫んだ。


 さっきよりも痛い!


 そして熱い!


 見えないナニかがボクの睾丸を突き刺している。


 いや、コイツは噛みついているのか!


 左だ!コイツはボクの左の睾丸に噛みついて無数の牙を突き立ているのだ!


 ヒトの睾丸は左右同じ長さでぶら下がっているのではない。病気でもない限り、普通は左側の方が長くぶら下がる非対称になっている。


 唯一の例外はサウザーさまのように内臓が左右反転している内臓逆位症のヒトだけだ。むろんボクはそうではない。


 下だ!コイツは下からボクの睾丸から噛みついているのだ。


 洋式便器の中に潜んでいたのか!ジェーンが言い淀んでいたのはコイツのことかぁっ!


 クソっ!わかっていれば!


 いや、今はこの畜生をどうにかしないと!


 そのとき、睾丸に刺さったナニかの力がゆるんだ。噛む攻撃を止めるのか?


「ぶおおおおおおおおっ!」


 今度は右かっ!コイツ噛み直しやがった。


 何十本ものハリが右の睾丸に突き刺さり焼けるように痛んだ。


 左はどうなった?


 刺す痛みはないが思わずえずきたくなるような下腹部の圧迫感がある。


 噛み直したんじゃない!


 コイツは俺の左の睾丸を飲み込んだ上で右の睾丸に牙を突き立てているんだっ!


 ボクのを二つとも喰らうつもりかッ!


 ボクは激痛に耐えながら勇気を振り絞って立ち上がった。


 ナニか長いモノが便器から引きずり出されて、バスルームのタイルの上でのたうった。


「ようやくお前の正体が分かった。ヘビめッ!」


 ボクは両手を使ってヒザの辺りで股間からぶら下がっているソイツを捉えた。そして少しずつ手を上にスライドさせて首を捕まえようとする。


 しかし、ボクはあることを忘れていた。


 皆さんはご存知だろうか?ヘビは自分の頭よりも大きなタマゴを丸呑みすることを。


 知っているって?じゃあ、そのタマゴはその後どうなるのかもご存知だろうか?


 ヘビは飲み込んだタマゴの殻を筋肉の力で締め付ける。そしてどうするのかって?


 破壊だ。


 殻を割るんだよ!


 ボクの睾丸にかかる力がゆるんだ。


 チャンスだ!


 ところがボクが引き剥がすより一瞬早くソイツは右の睾丸をも飲み込んだ。


 そして、奴は飲み込んだものを破壊するべく力を込めた。


「ぬおおおおおおおおおおおおおおっ!」


 ボクは四度目の絶叫をあげた。


 激痛なんて言葉ではおさまらない、痛さの極みは獄痛とでも言えばよいのか。


 胃の中の夕食だったものを嘔吐してぶちまけたボクの目の前に、屋内では見えるはずのない獅子座流星群が見えた。


 ボクは床に這いつくばって部屋に戻り火のついた蚊取り線香を探した。それを見つけるとヘビの首根っこを捕まえ、火の部分をヘビの鼻の先に押し付けた。


じゅっ。


 ナニかが焦げる臭いと音。


 ヘビは怯んで口を開ける。そのヘビの口の中にボクは灰皿に残っていた蚊取り線香の灰を突っ込んだ。


 ヘビは悶え苦しみ、灰を吐き出そうとした。


 そして、ボクの睾丸も吐き出された。


 ヘビはのたうちまわりながらボクから離れてバスルームに逃げて行こうとする。


「悪いがトドメをささせてもらう」


バーン!


 ボクはヘビがバスルームに入った瞬間、力一杯にバスルームの扉を叩きつけるように閉めた。


 扉を開けるとそこにはダラリと舌を出したヘビの頭が転がっていた。


 ヘビの胴体はしばらくの間だけまだ波打っていたが、直に動かなくなった。


 明かりをつけて見るとヘビの身体の色はとても熱帯産とは思えない、原色からは程遠い地味な色だった。


 ボクはヘビの死体をコンビニのビニール袋に入れて口を厳重に縛った。


 ボクの歩いた後にはポタポタと血が落ちてあとを作っていた。


 ボクは下着とジーンズをキッチリと履き直した。股間の辺りに血が滲んでどす黒い染みを作った。このジーンズはお気に入りだったけどもう捨てるしかない。


 ボクはジャックに電話をかけた。


「おい、どうしたサブロウ? ジェーンに惚れたのか?」


「すまん、ジャック。今はそれどころじゃない。緊急事態だ。どうも血が止まらないみたいだ」


「なんだって? サブロウ、なにがあった⁉︎」


「ごめん。もう限界みたいだ。間に合うのなら病院に行きたい。救急車を頼む。パスポートと財布と保険証は上着のポケットの中だ。もう一つ必要なブツはコンビニの袋に入れてボクの横に転がっている。あとは頼んだよ」


「おい、しっかりしろ! サブロウ! サブローウ!!」


 








 気がついたとき、ボクは病院のベッドの上だった。


 幸いにもボクに噛みついたあのヘビは毒ヘビではなかった。ボクが用意したヘビの死体をみた専門家が若干残念そうに


「コイツは無毒だよ」


 とのたまったそうだ。


 出血の量も存外大したことはなく、ボクが気を失ったのは一過性ストレス性のショックによるものと医者には言われた。


 それでも睾丸についた無数のキズのダメージは大きく、それこそ股間が信楽焼のタヌキのように腫れ上がってしまった。


 結局、抗生物質の静脈からの投与を受けながらの入院治療は丸々一週間を要した。

 

 後で分かったことだが、ヘビは浄化槽の空気孔から忍び込んできたものらしい。ヘビは狭い穴に潜り込む性質があり、しかもバックできないので、穴が通じるその先の洋式便器までたどり着くしかない。


 そこで目の前に熱を発している適度な大きさの物体を見てエサだと認識した。それがボクの睾丸だったと言うわけだ。


 ジャックによるとタイという国ではこういった事件が少なくとも年に一、二回は報道されるらしい。報道されない分を含めるともっと多いはずだとのことだ。


 もう一つ、ジェーンはヘビという単語を口にすることすらできないくらいのophidiophobiaオフィディオフォビア、極度のヘビ恐怖症だったそうだ。


 また恥ずかしがり屋の若い女性である彼女が初対面の男性に対してなどという単語を口にできるはずもなかった。


 彼女なりに精一杯バスルームの危険について知らせようと思って努力はしたのだが、あそこまでが限界だったのだ。


 ジェーンは百%悪くない。彼女の忠告にもかかわらず、無防備にバスルームを使用した自分が迂闊だったのだ。


 あんなことがあったせいで、ジェーンとの関係は恋愛が始まる前の淡い想いのままで終わってしまった。


 ジェーンも例の事件の全貌を知っているはずだが、彼女の口からそれについて語られることは一度もなかった。


 ジャックやジェーンとは今も付き合いが続いている。あくまでも友人としてだ。


 ジャックの方はたまに例の事件に触れてボクをからかってくる。


 そして、ボクはというとアレ以来、用を足すときには必ず明るくして便器の中を確認してからにしている。暗闇では絶対便座に座らない。トイレで長居することもなくなった。


 それだけでなく、用を足している最中であっても何度も立ち上がって振り返り、便器の中身を確認する嫌な癖がついてしまった。


 この癖はもう一生治らないと思う。



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この世界の半分の戦慄 土岐三郎頼芸(ときさぶろうよりのり) @TokiYorinori

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