チャプリーとグードラ~人間社会ってむずかしいからドラゴンと冒険してみた~

@nchap

第1話

人生ってのは激動だ。

 ウソじゃない。

 かっこうつけて言ってるんでもなく、これは心からの言葉なんだ。

 もし、疑うなら、試しに何かをはじめてみるといい。

 そうすれば日々はあっと言う間に過ぎ去っていくだろう。

 ここで問題になるのが、

 それじゃあいったい何をはじめるのか。ってことだ。

 それは、

 誰も彼も、できることは限られている。

 誰だって、自分のやれることをやるしかないんだ。

 いやなに。

 これは何も説教臭い話しじゃない。

 ただ単に、そうだってだけさ。

 チャプリーは、とにかくそうやって生きてきた。

 大道芸人として、旅から旅の生活。

 あるときは、町の劇場で働いたことがある。

 立ち寄った町の酒場で、酔客たちを楽しませた経験も。

 別にそれがやりたかったわけじゃない。

 彼にはそれが人より上手く出来た。だからやっている。

 それだけだ。

 芸そのものにはチャプリーは愛着がなかったものの、旅は好きだった。知らない景色、知らない人との出会いは彼に高揚感を与えてくれた。

 それにチャプリーには野望があった。

 英雄譚に出てくるような、ヒーローになってやろうという夢が。

 もともとはそのために故郷を離れて、危険な冒険へと足を踏み入れていったのだ。

 それはもう、思い出の日々だ。

 そんな風にして、似合わないことをやって、チャプリーは大きく回り道をしてしまった。

 チャプリーは冒険者には向いていなかった。

 それに気がついた頃には、チャプリーはいろんなものを失っていた。

 若さに任せて、放り捨ててしまっていた。

 近くに頼れる家族も友人もおらず、住処も持たず、自分の身分を証明する物もない。

 これはどんな時代であっても、難儀なことなのだった。

 しかたなく、チャプリーは自分の生まれ持って授かっていた才能に縋ることにした。

 つまり、そんなわけで、

 チャプリーが旅の芸者をしているのには、そんな経緯があるのだ。

 チャプリーはその場の空気を読むことが出来たし、他人の思ってもいないことをやったり、期待通りのものを見せることが出来た。

 なにより、自分の芸を磨くためにどんな努力や工夫が必要になるのかを知っていた。

 結局は、それが持つ者と、持たざる者との、違いなのだろう。

 ここで彼に嫉妬を覚える人がいたなら、それはおカド違いだ。

 彼もまた、やりたいことが出来なかった男の一人なのだから。

 もちろん、誰もがそうであるように、――そのはずだ――彼も虎視眈々とチャンスを狙っている。

 旅人として、芸人として生きながら、後の世に語り継がれ、尊敬を集める、ヒーローになるチャンスを。

 チャプリーは最近、一頭のロバと、ロバに引かせる荷車を買った。

 荷車は大した代物じゃない。板きれに車輪をつけて、旅に必要な物を乗せている。

 御者の腰掛ける座席もなければ、雨をしのぐための屋根もない。

 馬車だと紹介したらきっと笑われるだろうが、稼ぎをはたいて手に入れたロバと荷台は、彼の旅をそれまでよりずっと楽にしてくれていた。

 こんな質問をしてみよう。

 ねえ、君の人生を切り開くのはいったい誰だろうか?

「それは自分自身に違いないんだよ」とそう答えてみる……どうだろうか……。

 耳当たりがよくて、「立派な人ね」と関心されるかも。

 もしかしたら、人に誉めて貰えるかもしれないな。

 子供に聞かせたなら、そうか、やるぞォ……と気概を持つかも知れない。

 だからきっとそれは、正しい言葉で、良い言葉に違いない。

 けど、それは、問いに対する答えとしては、間違った解答なのだ。

 気持ちの良い言葉でしかなくて、真実からは程遠い。

 誰しも人生は、自分以外の数知れない得体の知れないものたちによって影響されて、惑わされて、どうしようもなく、変化させられていくものなのだから……。

 本当かって? ……さあ、どうかな?

 それではさっそく、

 そんな瞬間を、見てみようじゃないか。

 チャプリーは気持ちのいいところを荷車に乗って進んでいた。

 彼は、貴族のおぼっちゃんが着ているような腕の広がったシャツを着て、茶色のチョッキを身につけていた。

 ズボンは膝下までの七分丈で、その下からは分厚いタイツが覗いている。

 靴はブーツではなく、薄っぺらなただの革靴だ。

 腰にはあまり使わないステッキをぶら下げている。

 モジャモジャの茶色い髪の毛はいくつもの房になって固まっていて、それが、気分によってしおれたり、時々元気よく跳ね上がったりする。

 モサモサの髪は全部後ろにやっていて、前髪はない。

 そんな気取ったいでたちなのに、瞳は子犬のようにつぶらで団子っ鼻なもんで、どうにも彼のセンスは人の笑いを誘うところがあった。

 そんなチャプリーをどう思っているのか、荷車を引くロバは何も言わずに耳の先のうぶ毛を風に揺らせている。

 空には二つの雲がぽっかり浮かんでいて、動いているような、動いていないような……。

 見る人をのんびりした気持ちにさせる景色だった。

 右手には大きな河があった。巨大な河だ。

 向こう岸にある森がちいさく見えるくらい、河の幅は広かった。

 平らなところを流るるでもなく、シトシトと揺れている河下で、それがずっとずっと先まで続いている。

 水の冷たさが辺りに漂い出して、チャプリーの鼻をスゥとさせている。水が透き通っていて、水面の下に小石や砂利が見えている。

 河がウンと透明で、水辺を覗き込んでみてもどうやら魚や虫の姿はない。見えないところに上手く隠れている。

 それはなぜかって、ここいらに人間がよく来ることを彼らが知っているからなのだ。

 人間の行き交うところなのだ。なぜなら、ここには──。

 ほら、見えてきた。

 雄大な河川には巨大な桟橋が架かっていた。

 チャプリーはその威風堂々たる橋の噂を聞いていたから、嬉しくなって、想像より遥かに出来映えに良い壮麗な様子に、何か胸がスッとして、ハラハラおもって、おもわず、身を乗り出したのだった。

 桟橋はいくつもの大きな柱に支えられていて、馬車が三台楽に通れるくらいの幅がある。

 瞳を輝かせて見ていると、人を無事に向こう側に送り届けようとする力強さがぐんぐん伝わって来る。

 街へと続く灯り、文明への道筋がそこにははっきりと見えて、目的地に近づいているとわかって、旅は必ず上手くいくと、旅人たちに信じさせてくれる。

 そんな立派な橋が大きな河に架かっていた。

 目線をそっと足下に戻せば、

 地面にはやわらかい緑草が茂っていて、水面が揺れれば草花も揺れるし、こっちが踊れば、あっちも踊る……、といった様で、ここいらの自然同士の良い関係が覗える。

 さて、チャプリーが街道を外れて土や草のところに荷車を進ませているのは、こんな理由からである。チャプリーは思っていた。

 僕のいるところは丁度この辺りだろうか……、と。

 それは人としての居場所であった。チャプリーは右手側に見える、よくよく整備されて石の嵌め込まれた街道を人間の居場所と思い、キラキラと輝きを放ちながら、何か得体の分からないものたちをそっとなかに忍ばせていそうな河の水面を見て、こちらを人に非ずものの場所と思うことにした。

 つまり、その間のここが、チャプリーのいる場所なのだった。

 街では暮らせない身でありながら、未知の世界を己の居場所としているわけでもない、フラフラとしたボウフラのようなコウモリのようなこの有様……。

 若者であるチャプリーは、未知に挑み、奔放に生きる冒険者になれず、かといって、上手く人の中でまぎれて暮らすことも下手くそで……キラキラとした水面に憧れながら……しっかりと人を運ぶ街道を見て、あそこへ行かねば……、僕はああいう風にならなければいけない……、そう思い、そして、ああ、僕の今いるところは丁度この辺りじゃないだろうか、と憂い、耽るのである。

 そんなチャプリーの内心とは裏腹に、風は気持ちよくそよぐのだ。

 それならばと、チャプリーも手や足をウウンと伸ばして、嫌な気持ちはもう捨ててしまって、楽しく行こうじゃないの、と明るくなることにした。

 チャプリーは元来陽気者であったので、なんだか暗かった自分が恥ずかしくなって、小さな荷車の上をコロコロと転がって照れまわった。一汗掻くまで暴れ回って、休憩に一息ついて、胡座を掻いて、どこへ向けるでもなく一人で笑って、チャプリーはフフフと歌を歌った。

 今日はこのまま気持ちの良い日が続くはずだ。

 そうに決まっている。

 そうだろうか? 大丈夫、何事もなく──。

 いや、なにか、違うようだ。

 思い違いか、落ちずに残った気持ちの重さが辺りの空気までを重くしたが、なんとも嫌な……、じめじめした重苦しさが辺りに漂い出した。

 おかしい。

 たしかに、空には雲が二つあったはずだが、それにしてはやけに暗いぞ、と異変に気がついてチャプリーはハッと空を見上げた。

 空高い遥か天空に──

 尻が見えた。 

 いや、失礼。人が見えた。

 つまり、

 空から女の子が落ちてくる。

 チャプリーがその一瞬で、混乱の渦中にありながら、どうしようもなく尻が落ちてくるのを、いや、その尻を女の子と認めたのは、ひとえに奇跡的な……、男のなんたるかの力によってだった。

 彼女は空から落ちてくる。どうやら、自分が落ちているのをすっかり承知している様子で、尻を下、つまり頭を上にした格好でいたずらな気流に流され戻され、遊ばれながらも、こうやって叫んだのである。

「わたし……!」

 偶然にも、少女が落ちたのは荷車に積まれた、柔らかな荷物の上だった。チャプリーの荷車に積まれた荷物のなかに、埋もれるように引っ張られるように落ちていったのだ。

 チャプリーは尻を見たなら次はやはり顔を知りたい、ではなくて、とにかく女を心配して、彼女を助け出そうと荷物を除けようと手を伸ばす。

 しかし、その前に、心配無用とばかりに女の子はコブシをつきあげ、荷台の上へと踊り出てきた。

 そして、高らかに名乗った。

「わたし、アリアよ!」

 チャプリーは拍子に驚き、頭を荷台にぶっつけて、目を回してしまった。

「ちょっと、あなた、大丈夫?」

 アリアが気遣わしげに寄ってくるのだけど、いや、これはキミのおかげなんだが。それよりキミはいったい……? と、そういうことは聞けなかった。

 アリアはなにか、距離感の間違った程に側に寄って来て、柔らかく、やさしさと、じわりとした暖かさの嗅ぎ分けられる程近い距離にやってきたらしいので、チャプリーはアリアの顔を知るより前に彼女の花色の香りを浴びせられることになって、それを吸い込んでさらにさらに、脳みそをぼんやりとさせるのだった。

「もう、あなた、しっかりしてよ。……お願い、逃げて……」

 薄とろ惚けたチャプリーのまわりに、何か夢心地な言葉が浮かび、踊って、とぼけた彼を起こそうとしていた。

 なんとなくそんなアリアの必死な様子、がんばりくらいはチャプリーにも伝わってきて、鈍痛と目眩にやられながら、億劫そうに聞いた。

「逃げるって、いったい誰から?」

 アリアがもどかしげにこう叫んだ。

「竜よ!」

 これでとにかくチャプリーはハッとなった。「ドラゴンだって?」立ち上がって、掌をきゅっと握りしめて、訴えてくるアリアの足を見た。裸足の足だ。白くて細い足。異様に汚れた泥をしみ込ませた衣服を見た。

 簡単なつくりの肩を出さないタイプのワンピースは胸元のボタンが失われていた。

 しかし、どうしてもチャプリーはアリアの顔を見られなかった。

 アリアの後方に飛来するドラゴンが見えたのだ。

「ドラゴンだなんて、バカなッ」

 チャプリーはステッキを取り出して、荷台をカンと叩いた。

 ロバは駆けだしたが、あっと言う間ももたなかった。竜が飛来し、じろり、とチャプリーを睨み付けた。

 ドラゴンは毒々しいポイズン・ブルーに黄色の斑模様で、空を覆う程の巨体だった。ちょこんとちいさな前足に、巨体を支えるための後ろ足、胴が長く、腹は固そうだったが、何か入っているのかと思うほどずんぐり丸い。頭には角が生えている。後ろに向かって、二本……ところで、角を後ろに伸ばしてどうなるものだろうか。

 そんな動物たちは、他にもちらほら見かけられるが。

 こんなときなのにチャプリーは、彼はなかなかのオシャレさんだ、と感心していた。役に立たない角度に生えた角は何かしらのアピールに違いないと考えた。

 竜はどこか降りる場所を探して、再び上昇していく。その拍子になにかをボロボロと落としていった。茶色いネバネバとした土の塊だ。

「なんだこれ! くそったれの糞か!」

 チャプリーはねばねばした塊を頭からひっ被って、こんもりとした汚いものの中に覆われてしまった。

「ただの泥よ。泥浴びをしていたの……」

 まったく同じように泥の小山に包まれたアリアは、息が出来るように顔だけは土塊から突き出して、チャプリーの方もそうするようにと教えてくれた。

 バアっとチャプリーはふざけてアホ面つくって顔を突き出したけど、今はそれどころではなかった。アリアの顔は泥だらけでやはりわからない。もう、今のアリアは泥団子のようになって、男なのか女なのかすらわからなかった。

「ロバ公、とにかく走ってくれ」


 泥団子に命令されても、嫌な顔一つせずにロバは忠実で働き者だった。

「河向こうへ向かって」

 泥のアリアが川向こうを差した。

「河向こうには森があるだけだよ。街道を外れるのかい?」

「あちら側はハドスの縄張りじゃないから、追ってこないわ」

「ハドスって?」

「あの竜のことよ!」

 竜は空を迂回してチェスの戦略を練るかのように、じっくりと降りる場所を探していた。

 しかし、それならば、兎にも角にも急がねばならない。先ほどチャプリーを睨みつけたドラゴンの顔……。アリアはハドスと呼んだはずだ……。ハドスは顔の大きさがチャプリーの倍。つまり、口はちょうど人間を丸々呑み込める大きさがあった。その全長は高くそびえる塔よりも巨大であった。

 あの竜がチャプリーとアリアを捕らえるなんて、造作もないことに違いない。チャプリーが地べたを這いずる蟻を捕らえることよりも容易だろう。

 車輪が歪むほどにスピードを出して、川沿いをロバは走った。

 ドラゴン・ハドスはチャプリーたちの後方に後ろ足で降り立って、荷車の駆ける大地に、彼らのすぐ側に、どしんと拳を振り下ろしてきた。

 衝撃で地面が抉れて、街道にならんだ石造りの道までも砕けて宙へと舞っていった。

 河の水がばしゃりばしゃりと波打って、水しぶきが空から降り注いでくる。河の水が氾濫して、ロバと車輪は滑るように加速していった。クルクルクル、と。

 少々マヌケに、ドラゴンは自分で起こした水の氾濫に足を滑らせて膝をついていた。ハドスは言った通りの巨体である。すぐ見上げれば、ドラゴン・ハドスの恐ろしげな顔が拝める格好になって、チャプリーは震え上がった。それを見て、ハデスがヒヒッ……と笑った。その目は楽しげ……つまり、ドラゴン・ハドスにはたしかな感情が見て取れて、悪いことにその眼は煌々とヒカリ、残酷な喜色の色に歪んでいたのだ。

 四つん這いの姿勢のドラゴンは荷車ごとチャプリーたちを捕らえようとした。その両手が……右から左から、蚊とんぼを潰す形で迫ってくる。

 これをロバが上手くかわして見せた。

 蹄を竜の腕に引っ掛けると、パカリッパカリッと太い腕に跳び跳ね跳び跳ね、荷車ごと駆け上がっていく。

 そして、タタタッ、と華麗にその腕先から跳び上がって、地面に着地すると振り返ることなく、颯爽と走り去っていった。

 これにハドスは怒った。

 眼を細めて、全身を怒りの色で包んでいく。両手で大地を叩くと、ハドスは再び宙に飛び上がった。

 そして乱暴なことに、空中から大砲のような、恐るべきブレスを吐き始めたのだ。

 レーザーのように射出された光線が大地を溶かし、地面を抉った。人が長い年月をかけてつくりあげた、整然としていた見事な石路は粉々になって、瓦礫の捨て場のような……無残な有り様になってしまった。

 チャプリーたちは、感情的になって上手くドラゴン・ブレスを当てられないハデスの失敗を上手く利用していた。それらの瓦礫を壁にして、目隠しにして、ちょろちょろと、迂回して、逃げ回っていた。

 そして、荷車は右曲廻転、片側の車輪を浮かせるくらいの勢いで、曲がり、そのまま向こう岸へと渡るべく、橋へと突き進んでいく。

 荷車は桟橋に乗り上げる。

「ハイヨー、ロバ公!」

 土団子のチャプリーが喜びの声を上げた。

 長い長い橋を、ポッコポッコと荷車は進む。風がキリキリとチャプリーとアリアの泥を乾かしていった。

 後方の景色は無残に破壊し尽くされて、美しき自然も旅人たちを運んでくれた暖かな道々も、もはや見る影はなく、今のチャプリーにはそれを悲しむヒマもないのだった。

 そう、今は、後ろを振り向かず、前を見る時なのだ。

 追われ、追われて、強制的に、チャプリーはどこかへ向かって、突き動かされていく。

 前方には、右を見ても、左を見ても、河があって、幅広い鉄橋がある。

「もっと速く! もっと速く!」泥まるけでチャプリーが声高く叫んだ。

「速く! 速く!」アリアも歌った。

 間に合うか。

 間に合わねば……!

 そして、人間の橋を、

 大いなる桟橋を、

 ドラゴンは見事に粉々にした。

 ドラゴン・ハドスは、チャプリーたちのすぐ後ろに舞い降りて、荘厳であった鉄橋を両足で叩き壊して、その下の河川へと降り立った。

 叩き折られた鉄橋は、河川へと落ちていき、天高く水しぶきを上げ、流れるでもなくその場に沈んでいった。

 荷車から荷物が落ちていき、チャプリーとアリアは宙に浮かんだ。

 そして、二人して下を見て、「キャーッ」と大きな悲鳴を上げるのだった。

 しかし……、彼らは水面へと叩きつけられることはなかった。

 ハドスが二人をその両手の中に捕らえたからだ。

 絶望のあまり、口をあんぐり開けて、眼を見開くチャプリーに、ロバの尻尾が見えた。

 ロバは主人を置き去りにして、無事に向こう岸へと渡っていた。 落ちる途中の残骸を上手く利用したのだ。心配げに瞳を潤ませて、その場で一回、二回と回っていた。

 そして、こちらは、

 絶体絶命である。

 ドラゴン・ハドスはのっそりと、口を開いた。

「アリア~」

 ハドスが二つの泥団子を顔に近づけて、見比べると、

「アリア~?」

 困った顔で首を傾げた。こう泥まるけになってはどちらがどちらなのか、ハドスには区別がつかなくなってしまったのだ。

「ハドス、わたしがわからないの? ……よく見てよ」

「アリア~!」

 いたいけな少女は観念したような声をしていた。

 ハドスはアリアを顔のすぐ側まで寄らせて、泥の塊を突き飛ばそうと、息を吹きかけた。

「フ~ッ」

 泥がはらわれて、キレイな顔が中からあらわれた。

 しかし、それはアリアではなかった。

「なんちゃって」それはアリアの声色を真似たチャプリーだった。ハドスが驚いて、気を緩ませた隙をついてチャプリーは手の中から跳びだし、ハドスの顔面へ乗り移った。

「ドラゴンめ、食らえ!」

 チャプリーは目の前にある、大きな鼻の穴にステッキを差し込んで、気持ちの良さそうなところをこしょこしょしてやった。

「へっ、へっ……」

「アリアちゃん!」

 チャプリーはもう片方の腕を開いて、アリアを助け出すと、その身体をぎゅっと抱きしめた。

「へっくしょん!」

 ドラゴンのくしゃみで二人は空へと吹き飛ばされて行った。

 橋から落ちている間にアリアは気を失ってしまったらしい。

 空中で泥まるけの顔をバシバシとはたいても、アリアは気がつかない。

 チャプリーとアリアは川向こうの街道を越えて、森の深くまで飛ばされていく。

 しかし、このまま下に落ちれば、

 無事ではスマナイ……。

 チャプリーは胸の中に抱えている泥団子の頭をきゅっと庇った。

 チャプリーは森に落ちていく。木に背中をぶっつけ、太い枝に跳ね返されながら、冷たい大地へと落ちていく。

 まさに間一髪、そこへ、

 ロバが駆けつけてきた。

 チャプリーとアリアは森の中、見事、荷車の上に落ちて……、ことなきを得たのだった。

「ロバ公……おまえは、なんてロバだ!」

 よっぽど急いで主人の下へと駆けつけたのだろう。ロバはフンフーと肩で息をしている。

「どうした、ハハハ、疲れてるじゃないか。もういいぞ。止まっていいんだ」

 しかし、ロバはスピードを緩めない。加速がついて止まらなくなってしまったらしい。

「おい、ロバ公、止まれって。湖がある! 落ちたら沈んじまうよ! ……止まれ……、ロバちゃん……止まってよ……」

 はたして……、

 忠実なロバはちゃんと主人の言うことを聞いた。

 湖の手前でロバは急停止して、その衝撃でチャプリーとアリアは前方へと投げ出された。

 ロバ公なら心配ない。森の濡れ草を食んで元気そうだ。

 チャプリーとアリアは大げさに舞い上がって、湖へとび込んでいった。

「っぱァ、キミ、大丈夫か」

「ええ……ごほっ、大丈夫……」

 薄衣のような声と共に、アリアは目を覚ました。

 冷たい水が、アリアにまとわりついていた泥をハラリハラリと落としていく。水が洗い流していく……。悪い魔法が解けたように……、泥の中から……、美しいアリアが登場した。

 アリアは少しだけ胸を押さえて水辺に上がると、スカートの裾を淵から順にきゅっと絞っていった。

 短い金髪を軽く振って、チャプリーの見ている前で猫のようにいたずらな瞳を細めたのだ。

「助けてくれてありがとう。君、なんというなまえなの……?」

「あ、あ、あ……あの……」

 チャプリーはそうとしか言えなかった。アリアの成り形を知ったチャプリーは、大雨のなかを走り回るイモリのような、マーメイドと目が合ったウツボのような、何か心が救われたような……、気持ちになって、あんまり幸せになって、もう、それだけしか言えなかった。

「君、風邪ひいちゃうよ。上がってきなよ」

 言われて、チャプリーはざばざばと水を掻き分け泳いで、水辺に近づいていった。そっと差し出された手を取ると、それは柔らかくて、暖かくて……、心臓はドクンドクン、ドクンドクン、と高鳴って、チャプリーはもう恋に落ちてしまった。

「あの……どうも。あの、僕はチャプリーだ。キミは……?」

 彼女は、うっすらと微笑んだ。

「わたしアリアよ」

「ああ、アリアちゃん……、あの、でも、そうじゃなくて……。とにかくこれを着てくれ……」

 チャプリーは自分のチョッキを脱いでアリアに差しだした。

「どうして?」

「だって、その、……目に毒だ」

 ぎゅっぎゅっとチャプリーは大事にしていたチョッキをぞうきんの様に絞って、もう一度アリアに突き出した。

「これ、くれるのね……? ありがとう」

「それで、キミはいったい何者なんだ? どうして、空から落ちてきたんだ? それに、竜に追われているなんて……」

「ああ、それはね、わたしとハドスは泥浴びをしていたんだけど、わたしって、その帰りにハドスの背中から滑って、落っこちちゃったの」

 チャプリーは目をぱちくりさせた。アリアは目をぱちぱちさせた。

「えっと、どういうこと?」

「えーとね……」

 アリアは金髪の髪を指でつまんで、風に揺れる森の枝葉を見上げていた。

 聞けば、彼女のいきさつは、その体験は、衝撃的なものだった。 まさに、激動だった。

 数年間、アリアはハドスに攫われていたのだ。ハドスは泥浴びを手伝ってくれる人間をほしがっていた。そして、美しいアリアを見つけ、自分の世話をさせることにした。

 そんな辛くも珍妙な暮らしが何年か続いて、今日がやってきた。

 いつも通り、アリアはハドスと泥浴びをしたが、しっかりと背中の泥を落とさなかった。

 うっかりしたミスの所為で、アリアは竜の背から空中へと投げ出されて、これでもうお終いなんだ……、と観念したという。

 しかし、奇跡が起きて、

 アリアは助かった。

 アリアの目の前には、ありえない奇跡を起こした男がいた。

 ラッキーマン、ドラゴンに追われながらも、逃げ切って、生き延びた男。ファニーマン、泥団子の格好で荷車を走らせる男。おかしな男。

 アリアにはチャプリーがそんな風に見えた。

 アリアは自分を助け出してくれるのは、この人しかいないと感じたと言う。

「それは、君のことよ。チャプリーくん」

 そんなことを言われて、嬉しくてたまらなくって、チャプリーは胸の前で指を組ませて舞い上がった。ずぶ濡れのシャツ一枚で肘を張って、つま先立ちになって跳び回った。

「君、踊るのが好きなのね」

 そんなチャプリーを見てアリアがクスクス笑った。

 そこで、あっと、気付いて……、気恥ずかしくなって、

 それを誤魔化したくなって、

 チャプリーはちょっとした、どうでも良い疑問を口にした。

「いや、これは……。でも、アリアちゃん、それにしたって、君の話が本当だとするならば、僕が不思議なのは、あの大きなドラゴンが泥浴びをするところなんてあるのかい。なにしろ、あのドラゴンときたら、とんでもない大きさで……」

「わたしも好きよ。ほら、見て……」

 アリアは踊り始めた。チョッキを脱ぎ捨て、指を伸ばし、バレリーナのように高く跳んだ。

「ねえ、チャプリーくん、どうかしら? くるりくるり……」

 チャプリーは立ち上がってアリアに拍手を送った。

「ああ、ステキだ。ほら、背筋を伸ばすともっと良くなるよ……そうだ……!」

 アリアはチョッキを拾うと、パッと着直して、襟に入った後ろ髪を細い指で掻い出した。

「……たしかに、ハデスは破天荒なドラゴンだわ。わたし、あいつのそういうところは嫌いじゃなかった。……でも、ときどきハドスは無茶をやり過ぎることがあったわ……」

 胸が痛くなるようなかわいらしい声で、そんな風に……アリアはどこかハドスのことを、友達のように聞こえる話し方をした。 

 でも、アリアの話しを聞くにつけて、

「ハドスは川や海から水を吸い上げて、お腹の中で土と混ぜるのよ。それから、地面を削って泥のプールをつくっていたわ」

 そんな恐ろしげな、いかにも巷に知られるドラゴンらしい逸話を聞かされてチャプリーに出来ることは、よくもそんな途方もない力を持ったドラゴンから自分は逃れられたものだと、心底胸を撫で下ろすことだけだった。

 そして、胸を落としたように、がっくりと力が抜けて、膝をついてしまった。

 いつかのあの日に目差していた勇敢な男とは、誇り高い冒険者のイメージとは、まるで違って、程遠くて、そんな自分自身の心の成り形がチャプリーの気をしょげさせるのだった。

 なのにアリアときたら、

「ねえ、もしかして、君って名のある冒険者なんじゃないかしらん。違う?」

 そんなふうに猫の瞳を好奇心でいっぱいにしているのだ。

「だって、ハドスから、ドラゴンから逃げ延びちゃうんだもん、すごいわ。ね? チャプリーくん、そうなんでしょう?」

「アハアハ……、僕が冒険者だって? ……アハハ……ちがうよ、まさか。僕が冒険者だなんて、有り得ない。僕は逃げることだけは昔から得意なんだ……ただ、それだけ……」

「それじゃあ、君はいったいなんなの?」ちょっとぶすっとして、アリアが唇を尖らせた。

「僕はチャプリー、ただのしがない旅芸人さ」

「旅芸人って?」

 それ、なぁに? ってアリアが小首を傾げた。ちょっとチャプリーは不思議におもった。

 旅芸人なんて子供のころから誰だって、見たことぐらいあるだろうに。いや、それとも、アリアは誰も公演に行かないくらい田舎の生まれなのだろうか?

「街から街へ、旅暮らしをして皆々様に芸を披露しては、いやしくも日々の糧を頂戴しているはぐれ者が僕なんだ」

 自嘲的に笑うチャプリーにやっぱりアリアは嬉しげに手を合わせた。

「まあ。それじゃあ、チャプリーくんはさっきみたいに踊ったり、歌ったりして、暮らしているのね」

「うん、そうだね。こんなかんじ……」

 チャプリーは両手を広げて、こんな風だよ、とやってみせた。

「ステキ! それに旅暮らしなんて……、うらやましいな。……君はどこへでも行けて、自由なんだね……」

 アリアは唇を濡らして、窓辺から外を見る深窓の令嬢のようにチャプリーを見た。

 それは何も知らずに、外の自由に憧れる少女の瞳だった。

 だからそれは、甚だしい、とんだ勘違いだ。

「それは違うよ、アリアちゃん。僕はこれ以上なく不自由なんだ。旅暮らしをする人間ってのはね、街のどこにも生きる伝手のないヤツさ。未知へと挑む冒険者たちとは違う。街は明るくて、暖かいけど、僕たちを受け入れてはくれない。最初のうちは笑いかけてきてくれても、心からの頼み事はぜったいに出来ないんだ」

 チャプリーがそんなふうに現実のしょっぱさ、生活のきびしさをつとつと語ると、

「ふぅん……、そっか……、君は悩んでいるのね。でも、それじゃあ、どっちにも力が入らないんじゃないかな……?」

 アリアはまったく関係のない、そんな見透かしたようなことを言ってきた。

「えっ」

 アリアちゃん、キミ、僕の話し聞いてたの? って、そう聞きたかった。もちろん、アリアは話しを聞いていなかった。

「だってわたし同じだもん。だから、……わかるよ。未知の冒険に憧れてるって、君の顔に描いてあるわ。今はちがっても、前に冒険をやっていたことがあるんじゃない?」

「ああ、うん……昔、少しだけね」

「そうよね。そうじゃないと、竜に追われてるのにあんなに冷静じゃいられないわ。きっと、君の片足はまだ夢を追いかけているんだね」

「そういうけどさ、アリアちゃん、僕の芸ってなかなか評判がいいんだぜ」

「それなら街で芸を売って暮らす生き方だってあるんじゃない。違う?」

 それはアリアの言うとおりで、方法はあった。芝居小屋、街のサーカス、芸を見せる酒場……いろいろな生き方がチャプリーの心に浮かんでいった。

「ダメなんだ。僕はどうも街暮らしが性に合わないらしい。上手くいかないんだよ」

「ねえ、チャプリーくん、何をするのだって、辛いことはあるわ。どこへいっても、何をしたって、ぶつかる壁はあるじゃない。君はドラゴンからわたしを救ってくれたんだよ。君にできないことってある?」

 アリアはものをあまり知らなかったけど、なかなか賢い女の子で、ものをずけずけ言う女の子だった。疲れがどっと出てきて、チャプリーはアリアと話すのがだんだん億劫になってきた。

 普段のチャプリーは面倒ごとを愛する気質の持ち主だったけれど、今日ばかりは竜に追いかけまわされて、疲れ切ってしまったので、もうのんびりして休みたかった。

「アリアちゃん、キミは僕を買いかぶっている。僕はもしかしたらアリアちゃんを助けたかもしれないけど、あれはただの偶然で、ラッキーってだけで。僕の実力じゃないよ」

 そんな情けないことを言って、チャプリーはもうこの話しを切り上げたかったのだけれど──。


 アリアは人の意向を無視することのある、ものわかりの悪い女の子だった。

 それに、アリアは本当はとても気が短かったのだ。

「もう、いいわ。この、くそったれのウジ虫野郎!」

 そう言って、いきなりアリアがキレた。

 瞳をつり上げて、指先をぐりぐりとチャプリーの目の間に押しつけてきた。

「あ、アリアちゃん……?」

 チャプリーは、押されてひっくり返ってでんぐり返りを二回も三回もやった。

「なによそれ? おもしろいとおもってんの? どうせなら百ペン回ってみなさいよ。君みたいな中途半端なコウモリ野郎ってわたしはじめて見たわ。女みたいにウジウジして、君ってホントウジ虫だわ。いいえ! ウジ虫以下よ!」

 女の子が、女みたいに、って形容詞を使うのは……? という言葉がちょっとの間、頭をよぎったけど、チャプリーはいきなり会ってまだ間もない女の子に豪快に罵られて、唖然としてしまった。

「別にわたし、君のことなんかどうでもいいけど……、そうやって、いいわけばっかり並べて、ぶつくさ言われるとウザったいのよね……。不愉快なの……。あ~あ、気分最悪よ……。でも、ありがとって言わなくちゃいけないかしら……。だって、わたしの目を覚ましてくれたんだもん。君のこと、くだらない男だって気付かせてくれたんだもん。これでわたし、君に心置きなくサヨナラできるわ……」

 そんなことを言われてチャプリーは、

 容赦なくこてんぱんにされて、散々に罵られてチャプリーは、

 気がつけばアリアの手を取っていた。

「アリアちゃん、キミが好きだ……! この気持ちどうしてくれる!?」

「えーッ? そんなのってありィ!?」

「ああ、もちろんさ。キミの顔が見られたとき、とてもステキな可愛い子だって思ったけど……、好きになったけど、でも、もう僕にはキミ以外考えられない……。キミが僕を罵ってくれて、僕の全身に稲妻が駆け巡ったんだよ。僕の生涯の相手役は君しかいない……」

「あのね、あのね、チャプリーくん、わたし、ヒドイこと言っちゃってごめんね……? でも、ちがうのよ。ソレはね……」

「いいんだよ、アリアちゃん。僕をもっと罵ってくれ!」

「きゃ、きゃーっ?」

 チャプリーはクチビルをきゅ~と伸ばしてアリアにせまっていった。

 アリアがばんざいした格好で湖のまわりを逃げはじめる。

 アリアの手は上、チャプリーは前で、二人とも竜に追われた後だってのにずいぶん元気だ。そんな陽気でおかしな人間たちのはしゃぎ声をのどかに聞きながして……、ロバは食事を終えて、湖の水でのどを潤していた……。

 追いかけっこの途中で、チャプリーはコテンとすっころんで、そのまま二回、三回とでんぐり返りした。どうもこの男は、転んだらとにかく、でんぐり返りをしないと気が済まないらしい。気付かないアリアはきゃあきゃあ、そのまま湖をまわってきて、チャプリーにけっつまずいてしまった。

 ああっと、みじかい金色の髪をきらめかせて、チャプリーにのしかかってしまう。アリアの服に染み込んだ泥は細い繊維までしっとりと這入り込んでいて、汚いままだったけど、チャプリーだってかわいい女の子の胸に顔を埋めて嬉しくないはずがなかった。

「フヒョッ、フヒヒヒッ……うひょひょ、うひょひょっ!」

 顔を真っ赤にしてアリアが肘でチャプリーの顔をつついたとき、

 森が──光った。

「な、なに?」

「アリアちゃん、どうしたんだい?」

 アリアが立ち上がって訝しげに西の空を見た。

 チャプリーも膝の砂を払って身を起こした。

「今、あっちの森が光ったのよ」

「まさか、ドラゴンが?」

「そんははずないわ……、ハドスはここまでは来ないはずよ……」

「そんなら……、きっと気のせいだよ。アリアちゃん……太陽の反射か何かじゃないかな?」

「ううん……ちがう……そんなのじゃなかった」

「アリアちゃん!」

 チャプリーはアリアの関心を自分に向けさせようと前に回り込んだ。

「ちょっと、もう、なんなの……? チャプリーくん」

「アリアちゃん……そんなことより、答えを聞かせて。僕のこの純粋な気持ちを受け取ってくれるのかい?」

 くねくねと身をよじらせながら、じわりじわり、近づくチャプリーに、

 アリアは申し訳なさそうに、

「チャプリーくんの気持ちは嬉しいけど、ごめんなさい。チャプリーくんってわたしの好みじゃないの……」

 きっぱりと答えた。

「がーん!」

「それより……、どうしよっか。これから」

 チャプリーをこてんぱんにフッておいて、そんな風に気軽に声をかけてくるのだから、どこか、アリアの感性はふつうの女の子とちがっていた。

 なかなか厄介な女の子だった。

「うん……。今日はもう日が落ちそうだから、ここで休もう」

 チャプリーがそう言うと、アリアもそれに賛成して、

「それじゃ、ゴハンにしましょっ」

 二人であれこれと仕度をはじめた。

 テントを張ったり、

 薪を焚いたり、お湯を沸かしたり、野営をするための準備をした。

 アリアはいろんな道具を知らなかったけど、チャプリーよりも自然を利用することには詳しかった。

 悲しいことは、

 今しがたフラれたというのに、チャプリーはこうして好きな女の子といっしょにいられるだけで、無上の喜びを感じてしまうことだ……。

 夕ご飯はチャプリーが持っていた堅パンと、すぐそこの木になっていた林檎だ。

 堅パンはお湯で一度ふやけさせて、そのあと火で炙って食べた。

 アリアがつくった大葉のカップに、チャプリーが水筒からワインを注いで、二人で乾杯した。

 そうして、夜が深くなっていった。

 


 虫の音は聞こえない。

 バカみたいに静かな夜だ。

 テントはちいさな荷車に乗せていたものだったので、二人では少し狭くて、チャプリーはアリアに使わせていた。

 疲れていたのになんだか目が冴えていて、チャプリーは荷車の上で寝そべって、夜空を見上げていた。

 月は隠れていたが、湖畔が雲の隙間からもれる光をサボらずにちゃんと反射してくれていたので、森は明るかった。

 アリアにフラれたのは悲しかったけど、チャプリーの胸にあるのは喜びの残り香で、静かにチャプリーはそれをかみ締めていた。 

 人とあまり長い付き合いをすることのない旅人にとって、人を深く愛するということは、パンよりも貴重な財産だった。チャプリーはアリアを好きになれたことが嬉しかった。

 チャプリーは服を着替えていた。

 焚き火の近くの石に濡れたアリアとチャプリーの服がかけられていた。

 アリアにはチャプリーのパジャマを貸してやった。

 チャプリーは旅人だけど、寝るときはパジャマを着て眠る男だった。ナイトキャップもあったので、アリアにぜひにと薦めたが、「いらない……」とすげなく断られてしまった。

 興に乗ってチャプリーは歌い出した。

 こんな風に一人になって歌うことがチャプリーは大好きだ。適当な節に適当な歌詞をつけて、自由気ままに歌うのだ。

 誰の目も気にしなくていい。大空を羽ばたく鳥にでもなった気になれる。

 チャプリーはハイな気分だった。

 チャプリーはとうとう荷台に立ち上がって、胸一杯に森の息吹を吸い込んだ。

 すると……、

 だんだんと雲が厚くなり、空を覆っていった。

 ぽつぽつと……いや、すぐさま、雨は強くなって流星のように森へ降り注いだ。

「アハハッ、いいぞ! 雨だ……! 雨だ……ッ!」

 チャプリーはあんまり暖まってしまった心を冷やそうと、全身に雨を受けた。

 アハハ……、アハハ……、笑い声は雨の中に溶けていった。

 そこへ……、

「チャプリーくん……」

 テントからアリアの声が聞こえてきた。

「濡れちゃうから……、テントに入っておいでよ……」

「いけない、アリアちゃんの服が……忘れてた」

 チャプリーはロバに毛布をかけてやって、もう火の消えてしまった薪のそばから自分とアリアの服を回収し、テントに入っていった。

 ところで、当然ロバにかけた毛布は、みるみるうちに雨を吸い込んでぐしょぐしょになっていった。ロバは濡れ鼠になるのはイヤだったので、ため息を吐いて荷車の下に入っていった。

「ほら、チャプリーくん、ちゃんと拭いて」

「いいよ! アリアちゃん。自分でやれるから……」

 アリアから受け取った手ぬぐいで、チャプリーはごしごしと頭を拭いた。

 それにしても、いった通り、アリアはパジャマ姿である。それも、それはチャプリーが普段寝間着に使っているものなのだ。

 男ならこれが気にならないはずはなくて、チャプリーは頭を拭き拭き、横目でちらっ、ちらっ、とアリアの寝姿を盗み見ていた。

「もう……、チャプリーくん、そんなにじろじろ見ないで」

「ウフホッ、ごめんね、アリアちゃん」

「……チャプリーくん、毛布は?」

「いらないよ。もう今日は寝よう」

「あっち向いて」

 チャプリーがアリアに背を向けると、アリアは毛布の半分をチャプリーにかけてくれた。

「変なことしたらダメだよ?」

 そう言って、アリアが毛布の中に入ってきた。

 ランプの火が消えて、テントの中が暗闇に包まれる……。

「……ねえ、チャプリーくん、ごめんね?」

「……なに?」

「わたし、酷いこと言っちゃったでしょ。ときどき、わたし、やっちゃうんだ……。気持ちを抑えきれなくって……。たぶん、それはね、わたしがずっとドラゴンに育てられていたからなんだ……」

「それって……、ハドスのこと?」

「ううん、ハドスはその竜と別れた後に出会ったの……。小さかったわたしを育ててくれたドラゴンは、誇り高いドラゴンだったわ……」

「うん……竜の誇りって言葉、聞いたことあるよ。ドラゴンは誇り高いって……」

「うん。でも……それはたぶん、普通の人の持つ名誉を求める気持ちや、プライドとはまったくちがう感情なの。竜たちの誇りはそれぞれ違って……、人間からしたらまるで理解できないこともあるわ。ううん、竜同士だって。竜の誇りはね、人に認められることじゃないの。何にも押し流されることなく、踏みとどまって戦うのが竜の誇り。だから、どんなことがあっても、自分の感情を貫き通せって、わたし、そう言われて育てられた……だから……」

「いいんだ……そんなこと……」

「だから……わたし、上手く、人に合わせられなくって……それで、いつも、人を傷つけるようなこと」

 少し揺れはじめたアリアの声を背中に感じながら、

 チャプリーは優しげに言い返した。

「いいんだよ。アリアちゃん……僕はキミに罵られて最高にハッピーだった……。でんぐり返りをする僕を見て、笑わずに……叱ってくれた女の子はキミがはじめてだった……。僕はキミがちょっと変わっていることなんか気にしないよ。だから……、アリアちゃんも、僕がキミに罵られて嬉しくなった気持ちを理解してくれるよね?」

 少しの間、静寂……。

 …………。

「……おやすみ、チャプリーくん」

 それから後は、アリアの小さな寝息と、薄い衣擦れの音と……、雨の音だけが、

 テントのなかに静かに聞こえてくるのだった。

 しかし、チャプリーが紳士でいられたのはここまでだった。

 もう心臓はバクバクで破裂寸前。

 激情が体の奥底から湧き上がってきて、今のチャプリーには、かつてない程のパワーがみなぎっていた。

「もうあかん! あっあっ、アアッ、アリアちゃーん!」

「きゃーっ、なにするの! チャプリーくんっ!」

 そのときまた、

 森が──光輝く!

「チャプリーくん、またあの光よ!」

 アリアはチャプリーを押し跳ばして毛布から出た。

「光ったって……、稲光とかじゃないのゥ?」

「ぜったいそんなのじゃないってば。一体なんなのかしら……?」

「放って置こうよ。わかりっこないじゃない。それに危ないものだったら……」

 しかし、またアリアはチャプリーの言葉を聞いていなかった。立ち上がり、

「行ってみましょう。わからないなら、なおさら正体を確かめなくちゃでしょ」

 雨の降りしきる外へと、テントから飛び出していった。

「いや、アリアちゃん、その理屈はおかしいよ……!」

 しかし、チャプリーは困ってしまった。

 のっぴきならない事情によって、チャプリーはすぐに立ち上がれる状態ではなかったのだ。

 チャプリーは、お姉さん座りで、

「アリアちゃん? ……アリアちゃーん!」

 アリアのなまえを呼んでいた。



 チャプリーが外へ出ると、アリアの姿はなかった。 

 なんて無鉄砲な少女だろう……!

 こんな夜の森の中を、正体不明の光に向かって突っ走っていくなんて。

 どちらへ行ったものか、とチャプリーは雨の降りしきるなか、荷台の横をノックした。

「ロバ公よ、ロバ公……。アリアちゃんは、どこへ行った?」

 ロバは荷台の下から這い出てきて、鼻を鳴らしたが、眠っていたようで、とても迷惑そうだった。

「わかるわけないか……。どうしよ」

 そう言ったとき森の西側がピカッと光った。夜が昼になった。

 チャプリーは驚きのあまり、うわあ、とロバの足にしがみついた。

 まさか本当に光ると思っていなかったチャプリーは、体を丸めてぶるぶる震えて、目をぎゅっと閉じた。

 もう、何にもないよ、とロバが後ろ足で地面を蹴ってチャプリーに教えてくれた。

 辺りを伺いつつ、おっかなびっくりチャプリーは起き上がって、まず、インパラのように首を伸ばして西の森を見やった。光った跡からはどうやら薄く煙が上がっている。

「一体何だァ。おっそろしいなあ」

 そう言いつつ、チャプリーはシャツの袖についた汚れを気にして、雨の水でゴシゴシやった。

 こう見えて、というのもおかしいけれど、チャプリーは実はとてもオシャレに気をつかう男だ。

 もしかして、旅芸人でなければ、衣類商としてやっていこうかしら、と悩んだこともあったけど、彼のセンスはどうにも人とは違うところがあったので、もしチャプリーがその道を選んでいたら、あまり上手くはいかなかっただろう。

 上手くいかなかったからといって、幸せになれなかったかはわからないけど、そればっかりは誰にもわからない。

 チャプリーは転んでついた袖の汚れを気にしながら、考え込んで歩き出した。

 肘を立てて、反対側の手の甲を擦り合わせて歩いているから、真剣そのものの顔で、足をよちよちさせていて、愉快で滑稽に見える。

 チャプリーはその気がなくても人を笑わせてしまうタイプの男だ。そうでありながら、口にはしないけど、本当はプライドの高い彼は自分を見て勝手に人が笑うことがとても嫌なのだった。もちろん、人が笑うのは勝手だ。だから、なおさらに、チャプリーは辛かった。

 それはともかく、

 今のチャプリーは、心をもやもやと憂脳に囚われていた。

「アリアちゃんを追わないと……。だけど……」

 この事態、今の状況からは、冒険の匂い、未知の空気が充ち満ちていた。  

それは、チャプリーが捨てようとしていたものだった。

 情けないヤツと言わないであげてくれ。

 ここで踏み出せば、きっとチャプリーの人生はどこかが変わってしまうのだ。

 そんな、予感があった……。

 人の人生の選択は、簡単なものではないのだ。

 見れば先には深く暗い森があって、雨に揺らされた木々がチャプリーを押しつぶすように、ザァザァと揺れている。

 足下にはだいたいひらけた地面があって、今は暖かいころで、大地を野花が覆っている。

 チャプリーはこの湖の辺りの様子さえ大まかにしか把握していなかった。

 アリアに夢中になって、景色のことなんて目に入っていなかった。

 そして、今は雨が降りしきり、

 辺りの様子はまるで見えない。

 光の発せられた位置から上がる煙だけは薄く見えているのだが、その他のものは雨と夜の闇がフィルターをかけていて、注意深く見なくては気が付かない。

 なんのつもりか、

 木々の棲み家たる森から離れて、湖のステージに一本だけ、木が生えていた。

 チャプリーは知らなかったが、アリアはこの木から夕飯に林檎の実をもいできたのだ。

 それを知っていたロバはチャプリーを心配している。いやさ、心配は過ぎ去って、もうすでにロバは彼に同情している。経験ゆえにことの顛末を知るのがこのロバである。

 特にチャプリーはマヌケな男ではないが、そんな風に思えるときがあるのだ。引き寄せられるようにマヌケをやるのだ。

 繊細で、神経質なのに、決まっておかしな目にばかり遭うのは、もはやそうした星の下に生まれたとしか言い用がない。チャプリーが歩けば棒に当たる。これ、この世の真理なり。

 あちらにフラフラ、こちらにフラフラさ迷って、立ち止まって、来た道を戻って、よちよち歩きから、なぜか軽いステップまで披露して。

 そして、やはりロバの予想通りに、

「あいたっ」

 チャプリーは林檎の木の幹に額をぶっつけてひっくり返った。

 林檎の実が、チャプリーの頭に落ちてきた。

 それを見ていたロバ公がやれやれ、と鼻を鳴らして、彼の側まで荷台ごとやってきた。

 土を蹴ったりもしないで、冷たい雨の中、主人が立ち上がるのを待ってやった。

 人間と違って、ロバは人を急かしたりしないもんだ。

 細い足を、立ち上がる手すり代わりにつかまれて、さすがに迷惑したものの、文句さえ言わなかった。ロバは忍耐強いのだ。

「やあ、この林檎いけるぜ。おまえも食うかい」

 そう言って、チャプリーはロバのたてがみを適当に撫でつけた。

 悩み事はもういいのか、とロバはちょっと鼻をチャプリーに寄せた。

 チャプリーにはロバが何を言っているのかわからないが、このときは上手く会話が出来た。

「うん。それで、キミに頼みがあるんだ。つまり、光ったろう? 森がさ。森を行くのは辛いかもしれないが──」

 ロバには、主人の言いたいことが、これでだいたいわかっていた。

 ふりしきる雨が額から鼻先へと伝っていったが、辛抱強く、チャプリーに寄り添っていた。

 森へ行きたいの?

「森へ行きたい。僕はアリアちゃんを追いかけないわけにはいかない。アリアちゃんは僕の大切な人なんだ」

 でも、きっとあなたのことだから、ろくなことにならないわ。

「きっと僕のことだから、ろくなことにならないかも知れないけど、これはもしかしたら、チャンスなんじゃないかって気がするんだよ。冒険だって、恐ろしい怪物だって来るなら来いだ。だってそうだろう。そのために、僕は故里を捨てたんだから、望むところってもんさ!」

 あら、いつになく勇敢だこと。ところで、私ときどきだけど、あなたのことがとても愚かに思えることがあるのよ。それは知ってる?

「おい、そんなに誉めるんじゃない。あまり慣れていなくて、どうにも照れくさいんだ。じゃあ、キミを巻き込むことになるけど、僕を森へ連れて行ってくれるね?」

 あなた悪い主人じゃないわ。でも聞けない頼みもあるかしら。もしこの先、まともで穏やかな人生を送りたいと考えているならやめた方がお利口よ。……他に言いたいことってある?

「ありがとう、キミは美人だ。キミは三国一のロバにちがいないだろうよ」

 お上手ね。いいわ。女は度胸。連れて行ってあげる。

 ロバが尻尾を振って、チャプリーの腰を打った。

 チャプリーは、林檎の残り半分をロバに食べさせてやった。

 脱いであったアリアと自分の服を荷物の中に押し込んで、毛布を片づけた。ロバを荷台に繋いで、荷台によじ登ったチャプリーはロバに貸してやったずぶ濡れ毛布で自分の体を包んで、ぶるぶる震えて不安で口をへの字に結んだ。

 暗い森への恐怖をはね除けようと「ロバよ、僕ばかりでなくおまえも喋ったらどうなんだ。僕はとんだ道化じゃないか」ジョーダンを言って一人でアハアハ笑った。

 ヘヘーン、と嘶いてロバが荷車を引いていく。

 ゴトゴト車輪を回しながら、ゆっくりと荷車は進んでいく。

 暗い森を行くに連れて、右左に何があるのかも分からなくなる。

 チャプリーは頭から被った毛布の下でランプに火をつけたが、荷車の車輪さえも見えない。森の中には濃い闇がのさばっていて、荷車から降りたら自分の腰から下が消えてなくなってしまいそうだ。

 長い手綱をつかんで、チャプリーはもう、すっかり不安で心を打ちのめされて、小さくその身を丸めていた。

 だんだんと荷車は暗い森の奥へ奥へと引き込まれていく。

 言った通り、チャプリーは冒険者には向いていなかった。彼は勇敢ではない。

 どちらかというと臆病なたちで、恐がり屋で、逃げることが得意だった。

 この、逃げること、に関してはチャプリーの誉めるべき点の一つだ。

 臆病風に吹かれて逃げ出すことや、困難に遭って逃げ出すことを彼はやらない。

 だけど、旅をしていれば、数々の恐ろしい出来事に遭ってきたし、

ぐずぐずしていたらやられてしまうこともあった。

 そこからどう立ち回り、立ち向かうのかは人それぞれだろう。

 チャプリーの場合はそんなときの逃げっぷり、その判断の的確さとタイミングがどんピシャリなのだ。それは冒険者になれなかった旅人、チャプリーが身につけた冒険の術なのだった。

 そうやって誉めそやすばかりもできないのがチャプリーで、逃げ出しこそしないものの、憶病風に巻かれて、毛布に巻かれて、荷車の上で丸まっているのも彼なのだった。

 雨が降っているせいか、森の動物は出てこない。

 そのことに一先ずの安心を覚えて、

 チャプリーは毛布で雨をかわしながら、一度荷車から降りて、ステッキで茂みを押しつぶして、車輪が茂みを乗り越えられるようにして、ロバを先へ進ませた。

 毛布を手の甲に乗せて、その手の指にランプを引っ掛けて、もう片方の手でステッキを押さえていたので、これがなかなか辛い体勢だ。

 雨の冷たさと、不自然な姿勢のせいで両手の先を小さく震わせてチャプリーは、いつかの冒険の日々に引き戻されつつあった。

 ほんの束の間ながら、ヒリヒリとした感覚を取り戻し、血液が沸騰しそうな熱血に湯気さえ上げて、あまりにも自然に──チャプリーは笑った。動物のように。

 荷車が茂みを乗り越えて、あけた場所に出た。

 背の低い草たちが雨を先端から滴らせている。

 きっと晴れた昼間だったら、歩くのに気持ちの良い森だったことだろう。

 木々の間にはちいさな荷車が余裕を持って進めるだけのスペースがある。

 なんてことはない。冒険者時代には、野生の動物たちでさえ避けて通るような厳しい僻地にでも、喜び勇んで向かったものだ。

 僕にはここでは役不足だ。雨でも星でも降ってこい、と毛布を両手でかざしながら走り出して、格好つけてチャプリーは荷台に跳び乗った。

 そのときだ。「グオーッ」

 チャプリーはどんな抵抗も一切出来ず、悲鳴を上げ、派手に荷台から転がり落ちた。運悪くそこには柔らかな草ではなく、雨でぬかるんだ土の地面で、べちゃり、と背中が張り付いた。

 背中をべたべたにしながら「わあお」とチャプリーは驚いていたけど、獣の声がどこから聞こえてきたのかはちゃんと聞いていた。

 やはり、あの不思議な光のあがった方向からだった。

「あっちだ」

 倒れたまま首をちょっとだけ上げている、おかしな体勢でチャプリーは薄い狼煙を指差した。 

 ロバが土を静かに蹴って警戒を伝えたが、チャプリーは残念ながらそれには気がつかなかった。

「さあ、行こう!」元気に立ち上がって、今度こそさっそうと荷台に上がるチャプリーをどんな風にロバは思っただろうか。もうヤケだといわんくらいにその足取りは軽快だった。雨が木々に当たって弾けるポッツポッツという音と、ロバの蹄のポッコポッコポッコという音……、ポッツポッツとポッコポッコで、楽しげにさえ聞こえるリズムを奏でて、荷車は進んで行く。

 こうなれば、木々が光を覆い隠す向こう側を目差して、生粋の道化者チャプリーもまた、調子つかずにはいられない。

「あ~めが降ったって、泣くことはないよ。

 そうさ。ちがうかい♪

 ね~、な~きやんで。

 キミが泣いてると仕事の邪魔さ~♪」

 そんなバカな歌を歌う男を乗せて、荷車は進む。

 毛布をかなぐり捨て、荷台の上に立ち上がる。

 右手にランプ、左手をぶんぶか振って、全身は雨に濡れて、チャプリーの顔面には木の枝がガツンガツンとぶつかっていたが、そんなことをこの男は気にしなかった。

 テンション上がればちょっとの痛みもなんのその。

 ノリに任せて一直線がチャプリー流だ。

 もし──、そうでなければ、こんなふうでなければ……、どんなときにでもチャプリーが慎重でいられたら……、彼は冒険者になれたろうか。

 それとも、どんなときにでも躊躇せず勇敢でいられたなら……。 でも、彼がこんな臆病者のバカ野郎でなかったら、この出会いはなかったのだろう。

 どんな賢く勇敢な冒険者にだって体験できない、この極上の出会いは──。


「グオーはなんだ! グオーはどうしたらいいんだっ! グオーはどうしてここにいるっ!?」

 どうやら声はもう近い。

 雄叫びを上げる獣は人の言葉を喋っていた。

 人の言葉を喋るのであれば、それはガオーと鳴く人なのだろうか。 森の中で、狼煙を上げて誰かが助けを求めているのだろうか。

 そう考えられないのなら、ここから引き返した方がいいだろう。

 だって、人間以外で人の言葉を解するのは、世界一恐ろしいあの生き物だけだからだ。

 アリアはハドスはここまではやってこないと言っていたが、それは本当のことなのだろうか……。

 ある説によれば……、

 彼らが人の言葉を話すのではなく、この世界の生き物はみんな古い時代、彼らから支配を受けていて、その名残でどんな生き物であれ、彼らの言葉は理解できてしまうのだとか……。

 そして、そのとき、まるでその説を証明するかのように、ロバがピタリ、と足を止めた。

「おい、どうした? ロバ公、あともうちょっとだぞ」

 ヘヘーン、と声を上げて首まで振ってロバはチャプリーを拒絶した。

 これ以上近づきたくないよ、とそう言っているようだ。

「この役立たず! いいだろう、僕一人で行ってやるぞ」

 こんな悪口一つでいちいちロバは腹を立てない。

 人と付き合う上で、誤解は付きものとよく理解しているからだ。 いちいち人間の言動や行動に怒っていたらロバはやってられない。ともかく、それはそれ。ロバはもう一歩も動かず、荷台を置いてチャプリーは一人で唸り声の聞こえてくる方へと向かっていくことになった。

 ここから先は灯りがあってはむしろ危険と、ランプの火を消して、おっかなびっくり、頼る光もない暗闇を、掻き分け掻き分け進み続けて、茂みが尽きるところ、掌が何も触れない場所まで行くと、そこからはいよいよ『光の主』が見えた。

 闇夜の中でも、雨の降りしきる森の中でも、その生き物の姿はよく見えた。光を発っしてはいないが、イヤにくっきりとその輪郭は浮かび上がっていた。

 どうやらまさしく、チャプリーが見るところによると、『光の主』はやはり、あの生き物に違いなかった。

 姿が見えるほどの距離までチャプリーが近づいても、そいつはチャプリーを警戒することはしなかった。ただ、グオーは、グオーは、と呟いていた。

 それはいかにもあの生き物らしい、反応なのだ。

 絶対にして個人主義。

 孤高なる鈍感者、野生の中にありながら他者を顧みない傲慢モノのそれらしい、いかにもな反応なのだった。

 あれと言っても、まだそれはどうやら子供のようで、大きさはちょうどチャプリーの荷車を引くロバくらいだったけど、それはまさしくあれである、と確認したチャプリーは声をひそめて逃げ出す決断を下した。

 アリアはいったいどこへ行ったのか、ここにはいないようだし、そうなればもう、こんな恐ろしい場所に用はない。

 それ逃げろ。逃げだし上手の見せどころ。身をひるがえし、音もなく立ち去らなければ。

「グオゥ!」間が悪いことにその刹那、気まぐれか、何か閃きでもしたのか、一際大きく獣が吠えた。すると、音もなく──、

 チャプリーの隣にあった木が蒼白い炎に包まれて消滅していった。

 チャプリーの手元から火を消していたランプが落ちて、ガシャンと破片が飛び散った。

 驚きのあまりチャプリーは腹滑りを始めるペンギンのように身を乗り出し、二回も三回も目を見張ってしまった。

 その滑稽な仕草が獣の注意を引いてしまったらしい。

「誰だ、誰だ! おまえは誰だ! おまえはなんだ! こっちに来い!」

 チャプリーを見つけて獣が大いに叫んだ。

 兵士に号令をかける将軍のようにツバをとばして前足を振りたくったが、座り込んだままで動こうとしない。ケモノの姿勢はお尻をどっかりと地面につけて、足を投げ出して、顎を天上に向けている、かんしゃく持ちの赤ん坊が得意とする体勢であった。

 それに対してチャプリーは、

 見ればおかしなことに、彼もまた似たような格好をしているのだった。

「おまえ、どした?」

 獣は顔を下げたのち、きょとんと首を傾げて聞いた。

「ひええ……、腰が抜けちゃったよ……」あんぐりと口を開いたままそう告白するチャプリーに、ケモノは「こいつは愉快」とケラケラ笑った。

 


 雨でぬかるんだ土の上をケモノにズルズルと引き摺られて、もうチャプリーの服はボロボロだった。

 だけど、そんなことに気を配っていられるだろうか。

 目の前にはつい先ほど太い木を消し飛ばした怪物がいるというのに。

 チャプリーはお尻を天に向けて、ブルブル震えていたが、あまり長い時間ではなかった。

 はたと跳び起きると、チョッキのボタンを外して、それを天にかざした。

 雨の降りしきる中、怪物の前に立って男がチョッキを暗い夜空に向かってかざしているのだ。

 驚異の怪物はそれをただ……不思議そうに見ていた。

「よく見えないっ。チョッキを上にやれば……何も見えないし、下にやれば、僕が影になって、もっと何も見えない。ああっ、破れていたらどうしよう……」

 なんとまあ、こんなときにチャプリーは服の様子を気にしていたのだ。

 この状況にあって、なんて図太さだろうか。

「僕の一張羅がっ」

 チョッキをつかんで何度も、上か下か、上か下かとやっているチャプリーを、雨にマツゲを揺らして、ぱちりと瞬きをして、真っ赤な瞳で、獣は聞いた。

「おまえはいったいなんなんだ?」

 チャプリーが、

「キミは僕のことを知りたいのかい」

 聞き返すと、獣はしばし考え……、

 首を横に振った。

「チガウ。グォゥはグォウのことが知りたい。でもたぶん、もうその答えはわかった」

 チャプリーは眉を動かして、獣の言葉のつづきを促した。

「グォウは森を消すモノだ。グォウが光を出すと森が消える。森を消すためにグォウはここにいるんだ」

 雨に濡れてうな垂れる獣は心なしか、──悲し気に映った。

 そのためだろうか。こんなことをするのは。いや、きっとそれは、こいつがバカ野郎だからに違いないのだ。

 チャプリーはさっきのようにチョッキを天にかざして、こう叫んだ。

「やい、キミ、僕はなんだ。言ってみろ!」

 大雨のなかで大げさにチョッキを振って、チャプリーはそんなことをケモノに向かって言うのだ。

「おまえは、えっと、……イッチョウ・ラを、グォウに見せびらかす、モノか? それとも、……イッチョウ・ラをふりまわす、モノか?」

 覚えたての言葉を不器用に、悩ましげに使う獣に、

「ちがう、さあ、僕はなんだ!」

 ばさりとチョッキを放り捨てて、膝と顎を地面にくっつけて、シャツの胸まで土でどろどろに汚して、チャプリーはお尻をおもいっきり突き上げて言うのだ。

「僕はなんだ!」

 それにケモノは「あははははっ、おまえなんだ。おまえは変だぞっ!」

 前足を突き出して、チャプリーを指さして、ケモノはお腹を抱えて笑い転げた。

 すかさずチャプリーはステッキを取り出すと、地面に突き刺し、それに乗っかった。

 細い棒に二つの手と、二つの足を乗せて、バランスを取るのだ。

「うぬぬ」ステッキはなんとも危うげに揺れた後、ピタリと止まった。

 さあ、ここからが見せどころ。

 チャプリーはそのままジャンプした。ぴょこんぴょこんとジャンプした。

 だいの大人が細い棒の上で、ぼろぼろのシャツで、大雨の中で、背中を丸めて、手足を震わせて、大汗を掻きながら、跳ね回っていた。

 そのうちステッキは前のめりに傾いたが、それでも彼は倒れない。

 ステッキが傾けば傾くほど、チャプリーのジャンプは早くなる。

 短距離走のランナーみたいにすごいスピードで、森の中、ステッキを走らせながら、チャプリーは「へへへ……」と笑い出した。

「へへへ……へへっ・・…へへへっ……へへへへっ……」

 ケモノはのそりと立ち上がり、カエル色の体に空気をいっぱいに吸い込んだ。


 ぐるぐるとステッキで走り回るチャプリーを目で追いかけて、彼もまた雨の中で踊る。

 くるり、くるり、と。

 怪物のダンスと共に、雨雲がぐるぐると引っかき回されていく。

 ごうごうと風が吹き、

 雨が、地面から空へ向かって、逆さまに昇っていく。

 引っかき回された雨雲はどんどん固まって、収縮した。すると、雨雲は音もなく四散して……夜空に消えていった。雨雲がいなくなったその後には、色とりどりの星々が、満天のお月さんが森を照らし出していた。

「グォウは……グォウは……いったいなんなんだあ!」

 前足と大きな翼を目一杯に広げて、言葉を解放すると、頭から尻尾までつづく長いたてがみが不思議な光を発した。風のような優しい色の光を。

「キミは……っ」

 チャプリーはあたまっから地面に倒れて、もんどり打って、そのまま二回三回とでんぐり返りをした後で、仰向けになって、叫んだ。

「キミは……っ」

 ロバほどもある獣の体がふわりと宙に浮かぶ。

 風を纏ったつばさを羽ばたかせ、両手を開いて、自分をぎゅうと抱きしめて、ケモノは空を舞った。

「グォウ飛んでる。……グォウは飛べるんだっ……!」

 月に届くほどに飛び上がって、

 光の粒子をこぼしながら踊るケモノ

 彼にちゃんと聞こえるように、

 チャプリーは大きな声を出さないといけなかった。

 キミは……キミは……、

「ドラゴンだっ!」



 ドラゴンの子、グードラは自信ありげに髭を動かしていた。

「グォウはドラゴン、そんなの知ってた」

 森の上ではキラキラと星が瞬いている。

 お腹を突き出して、どんと胸を叩く竜のグードラに、疑いの眼差しを向けて、チャプリーは人差し指を曲げてちょいちょいやった。

「ホントかな? それなら……、僕は人間なんだけど、それは知ってた?」

「えっ、ニンゲン? もちろんだ、シッテタシッテタ!」

 立ち上がったグードラはチャプリーより少し大きいくらい背が高かったけど、やっぱり子供で嘘がつけなかった。

「なんちゃって。ウソだよ。僕はチャプリーだ」

「チャプリー、おまえはチャプリー? ニンゲン? どっち? ウソ? ホント?」

「僕は人間のチャプリー、キミはドラゴンのグードラ」

 意味のわかったグードラは長いマツゲを揺らして、牙をぬぅと見せびらかしながらニッコリした。

「グォウはグードラ」

 そして前足で口元を覆って、ぷぷぷ、と思い出し笑いをした、

「チャプリーは変だ。グォウにはおまえが何だかわからない。だって変なんだもん」

「ねえ、グードラ、キミは自分が何者かわかったのかい」

 うん、と頷いて、そして、マツゲを伏せた。

「グードラは……、ドラゴンで、空を飛ぶモノ、森を消すモノ……」

「なんちゃって」

「グォウ?」

「本当はウソなんだ。僕はこんなに服を汚して、大切な一張羅の上着まで投げ捨てちまったけど、ウソなんだ。僕はそんなことをするヤツじゃない」

 月の光に照らされているチョッキを、労るように地面から拾い上げて、チャプリーは再びそれを着直した。

 よく意味がわからなくて、グードラは両手の人差し指で自分のこめかみをグリグリと突っついて、「グオーン」と鳴いた。

「キミが森を消せるからって、キミが森を消すために生まれたわけじゃないってこと」

「それなら、グォウが空を飛べるのもウソ?」

「どうだろうね?」

 いじわるい顔で肩眉を上げて、クチビルをぬるりと突き出して、両手の親指と人差し指で丸をつくって、バンザイするチャプリーにどうしていいかわからなくなって、グードラはしゃがみ込んで、てしてしと後ろ足で顔を洗った。

「それじゃあ、グォウはグォウが何かわからないじゃないか」

 片眼だけをあけて、パチリ、とグードラはチャプリーを見た。

 チャプリーは月夜の下で、早口で言った。

「誰もが自分を何者かわからない。人は何者という檻を自らつくってそのなかで暮らす。そして、他人にも檻の中に入ることを強要する。檻の外にいる人間を人は理解できないからだ。不安になる。檻の外が恐いのだ。君は強いドラゴンだ。ドラゴンに檻はいらない」

 グードラは目を瞬かせた。なんだかチャプリーが違う人のように見えたからだ。

「グォウは──」

 しかし、そこへ、

 現れたのは、

「こらーッ、ドラゴンめっ、チャプリーくんから離れなさい!」

 いや、そうだった。よく考えたら、僕は彼女のために、こんなところまで来たんだった。……チャプリーは思いだしていた。

 木の棒を振りかざして、走り込んできたのは、アリアだった。男物のパジャマの手足の余ったところを折り曲げて、短くしていた。

「アリアちゃん、無事だったんだね!」

 チャプリーは、嬉しげに両手を広げてアリアの前に躍り出ていった。

 しかし、アリアはなんのつもりか、ドラゴンのグードラに向かって決死の攻撃を仕掛けている真っ最中で──、アリアは急には止まれない女の子だった。

 おもいきりよくチャプリーの顔面へ木の棒を振り下ろして……、もう遅かったけど、アリアは慌てて棒を投げ捨てた。

「きゃーっ、チャプリーくん、ごめんなさい!」

「グオーン、チャプリー、だいじょうぶかー!」

 チャプリーはひっくり返って、アリアとグードラの声を聞いていた。

 チャプリーは意識を失いながら、自分がこれから行くべき道について、もやもやと思い悩むのだった。

 


 チャプリーが目を覚ますと、そこはテントの中だった。

 かかっていた毛布をどかして身を起こす。傍らに畳んで置かれていたチョッキは、どうやら思った通りぼろぼろになっていて、チャプリーは数秒それを見つめてから、小さくして小脇に抱えた。

 テントを開くと眩しい。

 チャプリーは少しの間目を閉じて、瞼をじんわりと暖めた。

 チャプリーが気絶しているうちに森に朝がやってきていた。

「あっ、おはよう。チャプリーくん」

 太陽の日差しを金色の髪に目一杯浴びているアリアと、

「グーオウ、チャプリーおそいぞーっ」

 昨日チャプリーたちの服を乾かしていた石の上で欠伸をしているグードラ。

 チャプリーは鼻をすすって、おはよう、と二人に返した。

 アリアはまた泥の染み込んだワンピースを着ていた。

 肩があって、ボタンの取れているワンピースだ。

「とりあえず林檎をとっておきました」

「アリアちゃん、ありがと。荷台の荷物のなかに僕の替えのズボンとシャツがあるから、それに着替えて。ベルトはないから、えっと」

 と、チャプリーは湖の水でパシャパシャと顔を洗った。

「チャプリーくん、着ていいの?」

「その格好じゃ、街に入ったときに不都合だからね。僕はアリアちゃんが着替えている内に朝ご飯を考える」

 アリアはお礼を言って、チャプリーの衣類を持ってテントのなかに入っていった。


「なあ、チャプリー」

「なんだい、グードラ」

「グォウはおまえについていくことにした」

「そうか」

 こうして、

 グードラが旅の仲間に加わった。

「それなら、朝飯を食おうぜ。薪を起こすから、キミは湖の魚をとってくれ」

「よしわかったぞ。ブ~ッ」

 と、いきなりグードラは湖に向かってドラゴン・ブレスを発射した。

 ブシャーッ、と湖の水が森の木よりも高く上がって、しぶきに打ち上げられた魚たちが踊りながら落ちてきた。

「ちょっと! なにごとなのっ」

 テントから出てきたアリアはぶかぶかのシャツの袖を折って、ボタンで留めながら慌ててテントから出てきた。ワンピースを破いてつくったのか、腰布をベルト代わりに巻いていた。

「アリアちゃん、朝ご飯がとれたよ。食べられない魚がないか見てくれ」

 チャプリーは肩を竦めて、やれやれとポーズをとった。



 朝ご飯に焼き魚、堅パン(今朝はそのまま食べた。固いけど、食べられる)、林檎を食べながら、三人で薪を囲んでいた。

「チャプリーくん、グードラはもの知らずなんだから、ちゃんと教えてあげなくちゃダメでしょ」

「えっ、僕の所為?」

 アリアとグードラはチャプリーが眠っている間に、お互いの自己紹介を済ませたらしい。

「昨夜は、驚いちゃったわ。グードラを見つけて、わたし、隠れていたら、チャプリーくんってば、グードラに見つかって食べられそうになってるんですもの」

 驚いたわ……、とアリアは頬に手を当てて、ちいさくしたパンを噛んだ。もぐもぐ。

「アリアちゃん、その後は見てないの?」

「その後? もぐもぐ」

 見ていないらしかった。そして、アリアはよく食べる女の子だった。

 グードラの方は案外、小食だ。

 本当はドラゴンには食事を取る必要がないのよ、とアリアが教えてくれた。

 男物のシャツとズボンを折り曲げて、靴がないので裸足のアリアは、泥だらけのワンピースとどっちがマシか、という出で立ちだったが、それでも泥だらけの服を着せていては、チャプリーが人からどんな目で見られるかわからなかった。

 外道よりは変質者としてみられたい、とチャプリーは思う。

 いや、別に変質者と思われたいわけではないけど……。

 食事を終えて、さて、これからなのだが。

「実は僕たちは道に迷っているのだった」

「グーオウ?」

「あっ、そういえば」

 ハドスのくしゃみであれよあれよと飛ばされたので、ここがどこなのかわからないのだ。

 コンパスはあるけど、方角がわかっても現在地が不明なので、どっちに迎えはどれくらいの距離で何があるのか、わからなかった。

「太陽の光と……木を揺らす風には、密接な関係があるのかも。だって、よく観察すると、太陽の良く当たる場所には風もまたよく吹くことがわかる。つまり、風は地球が暖かくなりすぎないように吹いている? 涼しさを一定に保つために……。または、なにかを動かす作用があるとしたら、どうだ? でも、それは……一体なんなんだ?」

「グードラ?」

 グードラが顎をくいっと上げて、爪の生えた親指で胸を指した。

「聞いてたぞ。チャプリー、アリア、そんなの簡単」

 グードラは自分が空を飛んで辺りを見渡せば、ここがどこかなんてすぐにわかる、と名案を出した。

「それだ! グードラ、森を出たところに大きな河があるから、見つけてほしい。できれば、荷車が楽に通れそうな道も」

「めんどくさいぞ。おまえが見ればいい」

 グードラのたてがみが薄く光って、風が巻き起こった。

 ふわり、とグードラの体が林檎の木の高さまで浮かんだと思うと、一瞬、ストンと落ちて、そのときにチャプリーの腕を掴んで、一気に上昇した。

「わっ、うわあああ~」

 と、飛び上がった瞬間にチャプリーは叫んだものだったが、これはタイミングを間違った。

 空へ飛びあがるときの恐怖は、上昇した後にくる。

 まあ、当たり前のことだが、

 いや、しかし、高いとはどこまでか。チャプリーは木を越え、宙を越え、雲のなかにまで突っ込んでしまった。

 ハドスのくしゃみに飛ばされたとき、チャプリーはアリアを抱えて、どうにかこの女の子だけでも助けたい、と勇敢に思った。

 だけど、それはもう、自分は助からないだろう、と覚悟が決まっていたからであって、しかし、今のチャプリーはそんな風には思えない。

 辺りの様子を見るどころではない。

 ドラゴンのグードラに押さえられている手はブルブルと震えて、足も……、足が自分の意志とは関係なく勝手にガクガクと震え出したことがあるだろうか。そういうことが、人間の体には本当に起こる。

「オロ、オロ、オロッ」

 グードラはどうやら空を飛ぶことが好きなドラゴンらしい。雲の中を泳ぎ、反転、逆転して、宙返りして、優雅に翼を羽ばたかせた。

「おい、チャプリー、目を開けないと何も見えないぞ?」

 チャプリーは叫んだ。

「下ろしてくれ~っ」

 高度を下げて、グードラは腹の辺りでチャプリーのわきを抱えた。奇妙珍妙にも空を飛んだ経験が豊富らしいアリアに心配げに見つめられて、ようやくチャプリーは落ち着き払った。

 落ち着いているふり……、なんとか動揺を抑えて、なんでもない様な顔を取り繕う……その努力をし始めるほどには落ち着きを取り戻した。

 グードラは二足歩行の姿勢で、丁度良い具合に森を見渡せる高さで翼をはためかせる。

「チャプリー、河ってのは、アレか?」

「うん、そうだ。マゼスト大河だよ」

「マゼスト大河?」

「マゼスト大河は、ディンディ山脈から流れる十二の源泉がそれぞれ合わさって三つになり、その大きな三つの束がまた一つになって出来た、と言われているんだ。僕たちはあの川沿いに沿って、西へ向かっていくことになる。そうすれば、街があるらしい」

 と、そこまで説明して、チャプリーはここから川沿いに出るためのルートを指でなぞった。

 あまり木々は密集していないので、森の迷路、という風ではなかったが、昨日の雨で崩れた地盤やオオカミが出そうな暗い茂みなど、避けていきたい場所は多々あった。

「よし、覚えたぞ」

 グードラが言った。

「それはこころづよい。さて、グードラ」

「おう」

「あとは気を付けて……、ゆっくり下りてくれ」


 地上に降りたチャプリーは、膝に手をついて、大地と睨めっこした。チャプリーはいつまでもこうしていたかったが、チャプリーが先に目をそらした。

「別になんてことないじゃない。思った通り、別に大したことなかったよ」

 ステッキをついて、別に、を二度も言いながら、指をふっているチャプリーに、

 グードラとアリアは、テントを片づけていたので何も答えてくれなかった。

 出発の準備をして、チャプリーたちは湖を発った。

「ねえ、グードラ、この森はあなたのエリアなの?」

「エリア? なんだそれ」

「君、竜のエリアを知らないの?」

 チャプリーとアリアは荷車の前に座り、グードラは後部に積まれた荷物の上で寝転んでいる。アリアはお尻をひねって荷物に手をかけて、グードラを見ていた。

 ちいさな荷車なので、チャプリーとアリアが二人とも前を向くと肩がぶつかってしまう。

 チャプリーは手綱を手放して、ごとごと体を揺らしながら、望遠鏡を目にくっつけていた。

「竜はみんな、領地を持っていて、それは竜にとって大切な土地だから、他の竜の領地には入らないの。だから、ハドスはここにやって来ないのだし、だから、あなたがここにいるのならここはあなたのエリアってことじゃない」

「知らないぞ。グォウはエリアなんて持ってない。行きたいところへ行く」

「そんなのダメよ。どの竜も行けるフリーエリア。誰の場所でもない土地もあるから、そこへなら行ってもいいわ。でも、他の竜の土地はダメ」

 グードラが赤い眼をぱちくりさせて、アリアを見た。

 と、いきなりグードラは首を伸ばして、アリアの口から鼻にかけてぺろりと舐め上げた。

「ちょっと、なにするのよっ」

「どうしてアリアは人間なのに、そんなに竜のルールにうるさいんだ?」

「だって、それは……」

「アリアは人間だから好きなところへ行くだろ。じゃあ、グォウだっていいじゃないか」

「グードラ……、人間は好きなところへなんて、ちっとも行けないわ。だって、大陸は人間には広すぎるから。どこへ何があるのかもほとんど知らないし、人には生活があって、竜以上にたくさんのルールや土地に縛られているの……。だから、それはどこへでも行けてしまう、大きな力を持つ竜のための決まりごとなのよ」

「ふうん、じゃあアリア、もし人間が世界中のどこへでも自由に行けるくらい力をつけたら、そしたら、ここは他の人間のものだからって、遠慮するようになるのか?」

「ええ、きっとそうなるわ」

「ふうん、でもグォウはそんな風になるとは思わないぞ」

 どこかおもしろげに、グードラは見てきたように微笑んで、前足を畳んで、ゆっくり顎を下ろした。

「ちょっと、グードラ、これって大事なことよ! だって、誇り高い竜たちが、ずっと大切にしてきたことなのに、ないがしろにしていいはずないわ!」

 アリアは荷台の上で膝立ちになって、グードラのヒゲを引っ張った。アリアは人の話しは聞かなくても、無視されると怒る女の子だった。

「わ、わかった、わかったぞ。でも、グォウはそんなのじゃ納得しないから、アリアはグォウといっしょに来て、グォウを心から納得されてくれたらいい」

「ええ、そうさせてもらうわ!」

 アリアは頬をふくらませて前を向いた。

「前方よし。グードラ、後ろはどうだ?」

「ん~、大丈夫じゃないかあ?」

「よし」

 おざなりな様子のグードラだったが、

 後ろを振り向いてもたしかに危険な動物はいなかったので、問題なく荷台は森を抜けていった。

 問題は別のところにあった。

 つまり、これは不真面目に振る舞う人は、おそらく本当に不真面目なことが多いけど、かといって真面目に見える人がそうかと言えば、そうとは限らないと、そういう教訓なのだった。

 森を抜け、荷車はマゼスト大河の川沿いに出るところである。

 この期に及んでも、

 チャプリーがまだ望遠鏡を覗き込んで、「前方よーし!」と、キリリとしているのを見れば、チャプリーの警戒があまり信頼に足るものではないことがわかっただろう。

「ハドスに飛ばされたのはよかったな。どうやら予定より早く街につけそうじゃないか」

 なんて、チャプリーは軽口をとばしつつ、アハアハ笑った。

 そこへ雨がふってきた。

 大口開けたところへ水が入ってきて、チャプリーはむせた。

「ぶへっ、ぶへっ、アリアちゃん、もうダメ……膝枕してん」

「チャプリーくん、起きて……」

 太腿にすりつくチャプリーを怒りもせずにアリアは揺すって、

「チャプリー、あれなんだ?」

 グードラがチャプリーのシャツの襟を咥えて無理矢理引っ張り上げた。

 グードラとアリアにせっつかれて、チャプリーは荷車の前方斜め右側を見た。

 つまり、マゼスト大河を。

 降ってきたのは雨ではない。河の水だった。

 なんてところにチャプリーは出てしまったんだろうか。

 いや、そうではない。

 ヤツはチャプリーたちが森から出てくるところを待ち構えていたのだ。

 悠久なるマゼスト大河からその巨体を起こし、水しぶきを宙に上げ、七色の虹を背景に背負いながら、恐るべき怪物、ドラゴンのハドスが現れたのだった。

 声を上げる一呼吸よりも早く、ハドスの腕が伸びてアリアを摘み上げた。

「アリアちゃん!」

「ちょっと、ハドス、離して。こんなのずるいわよ!」

「エベベベ、アリア、捕まえた。ほら、見たか。ハドスはエリアに入ってない。出したのは、手だけ。セーフだ」

「そんな勝手なマイルール、わたし認めないわ」アリアが手足をばたつかせて暴れた。

 落ちたら無事ではすまない高さだが、そんなことアリアはお構いなしだ。

 グードラがチャプリーの腕をつかんで荷車から飛び上がる。

「チャプリー、あいつがハドスだな」

「グードラ、アリアちゃんを助け出すぞ」

「おう、やるぞ!」

 ハドスはチャプリーとグードラを歯牙にもかけず、アリアを顔の上まで摘み上げて、ゲヘゲヘと笑っている。蒼白い体に毒々しい斑点をつけて、大きく突き出した口があんまり大きく裂けているから、その様子はアリアを丸呑みして、食べてしまうつもりに見えた。

 捕まっているアリアはもう無茶苦茶だ。短い金髪を振り乱し、折り曲げた袖は戻って、手の先が隠れてしまっていたし、男物のシャツはズボンから出てしまって、その拍子に巻いてあった腰布(元はワンピースの)が外れて落ちた。

 そうなれば、当然サイズの大きなズボンもあっさりと脱げてしまい、この事態に焦って、アリアはさらに喚き、もがく。

「アリアちゃん、じっとして! 暴れちゃダメだ! 落っこちちまう!」

 グードラはチャプリーの手を掴んで、空へと上がる。

「……ダメでも、なんでも……ないわ! なにもせずに、また捕まるなら、わたしは戦う! ……最後まで……!」

 そこへ飛来したグードラが、長い尻尾をパシンと、ドラゴン・ハドスの手に打ち付けた。

 ハドスは呻き、その指からアリアを取り落とした。

「グードラ!」

 グードラはすかさず滑空して、落下するアリアの元へ向かっていく。

 チャプリーは片手をグードラから離し、腰に下がったステッキを取り出して、宙を掴もうと天へと伸びるアリアの腕を、その上で風に巻かれて空へ流れている余ったシャツの袖を、見事に絡め取った。

 しかし、これがどうなったか。

 袖だけ捉えても、中身のアリアはどうにもならず、驚き顔と、落下の渦中であっても閉じない美しい瞳と、その金髪とがシャツの中へと呑まれていった。

 さて、さて……!

 アリアのなめらかで弾けるような裸の背中が、清々しい空のなかで揺れている。

 アリアはなんとか手を伸ばして、脱げたシャツをつかんでぶら下がっていた。

 これは、なんと危うく……芸術的で、なにより、珍妙な光景だろうか……。

 なんといっても絵にすれば、それだけではないのだ。

 空を飛ぶドラゴンの子供グードラと手を繋ぎ、ぶら下がる男チャプリーが、死に物狂いの形相でステッキを伸ばし、風に浮かぶシャツの袖を、杖の先端に巻き付かせている。

 その袖の先、シャツの裾を、これまたすごい形相の美少女がほとんど全裸でつかんでいる。

 そして背景には、晴れ空があり、ちらちらと円い水の粒が浮かび、塔のように巨大なドラゴンがいるのだ。──その背景がゴウッと動いた。

 ドラゴン・ハドスが反対の手を伸ばして、アリアを再び捕らえた。今度はぎゅっと落とさないようコブシの中に隠した形で、アリアの肩から上は出ていて、シャツはアリアといっしょに引っ張られて、その腕の中で胸を隠すようにしてアリアは持っていた。

 ハドスが目をギラつかせ巨大な顔を揺らめかせながら、憎々しげにグードラを睨んでいた。

 よくよく見てみれば、グードラの打った方の手が痛々しく腫れあがっているじゃないか。

 ハドスはアリアをつかんだままで河から飛びだして、地上、チャプリーたちのいた反対側の岸辺に下がると、下がる間に息を腹一杯に吸い込み、地面に足がつくより先に全身を輝かせたかと思うと……スパークが空さえも焦がすドラゴン・ブレスを撃ち放った。

 ビリビリと大気を揺らすブレスを、きりもみ回ってグードラは身をかわした。そして、そのままマゼスト大河を越えて、向こう岸へと飛翔していく。

 ハドスは自分のエリアに入られたことには怒らなかったが、ブレスをかわされたことには、驚いたようだった。

 一歩下がればハドスは塔の頭を撫でるほどの大きさだ。左足は丘に三つの大きな爪痕を残し、右足は軽い白砂をもくもくと巻き上がらせた。

 チャプリーとグードラが向かったのは左の白砂だ。

 低空飛行で、一気にハドスの足下まで潜り込んでいった。

 辺りを覆う土や砂利に隠れる形であり、足下に潜り込めばとっさにブレスを吐けまい、という算段だ。

 しかしハドスもモタモタしていない。場所がわからぬなら、全部吹き飛ばしてやろうと、片翼百メートル以上ある翼を羽ばたかせて、空に上がった。

 しかし、ハドスが宙に浮かんだそのとき、

 土煙のなかから光が放たれた!

「ガオーン!」

 ブーッ、とグードラがブレスを吐いた。

 真下から突き上げてくる強烈な衝撃に巨大なドラゴン・ハドスはひっくり返り、背中から地面に衝突した。

 ドシーン、とさらに大量の砂が辺りを覆ったが、その巨体の割りに衝撃は少なかった。

 巻き上がる砂煙のなかで赤い目をきらめかせて、グードラは真っ直ぐ前を見据えていた。

 チャプリーは必死にグードラにしがみつきながらも、振り回されて、地面に下りると、グロッキーになっていた。

 膝を曲げて、顔を両手で覆ってぶつぶつと呟いているのは「おー、やべー、ぜんぜん……余裕すぎて……ちょーやべー……」とか、そんなことだった。

「行けるか。チャプリー」

「おっ、オオゥ」

「よし、行くぞ」

 グルグルと砂煙ごと身体に風を纏わせて、倒れたハドスとは反対側に飛翔したのち、大きく迂回してとって返してきて、スピードを落とさない見事な飛翔で、グードラは仰向けになってへたり込むチャプリーを掴みあげた。そしてそのまま飛翔飛来。

 砂煙がモウモウと立ち込める中、グードラとチャプリーは倒れるドラゴンの足から膝、腰、腹と、どんどん昇っていく。

 チャプリーは少し浮いた足下に、確かに息づく巨大なドラゴンの腹を見て、なんて光景だ、と目を見張り、こんな時だというのになにか不思議な、脳内から何もかもが消え失せたような、またその逆に世界の全ての秘密を解き明かしてしまったかのような、笑うしかない感覚が込み上げてきた。

 そこに、砂煙の中から巨大な腕が伸びてきた。

 チャプリーは、足を引き上げ、グードラの身体にしがみついて顔を下に向けた。危機一髪でハドスの腕をかわして「うぉぉっ、うぉぉっ」とチャプリーは口も目も今までの人生で最大最上にかっ開いた。

 ハドスは倒れたままで両手をあちこちに、無茶苦茶に振り回しているのだ。

「アハハ、おまえやっぱり面白いぞ」

「笑うなよっ。グードラ、ここにいたらやられちまう。あっちから行こう」

「グォウ!」

 ハドスの腹の上を滑空していたグードラは、チャプリーが逆さまの格好のままで指差した、ハドスの左側へと向かった。

 軽い土が多かったためか、こちらは土煙がより濃く辺りを覆っていて、生き物の匂いまで薄れさせている。気配を隠すのには都合が良さそうだ。

 頭上を通過していく巨大な腕に注意しながら、チャプリーたちは地面スレスレまで下りて、低く飛んで進む。

 だが、しかし、濃い煙の中では当然こちらも気配に気がつきにくいということで──、

 抵抗飛行で飛んでいたチャプリーとグードラは、濃い土煙の中から現れた影にぶつかった。

 思わずグードラの身体を挟んでいた足を離してしまって、チャプリーは砂埃の中へと転がり落ちた。ぶつかった影の正体は──。

 チャプリーはもう、無茶な体の酷使と巨大なハドスへの恐怖心で、身心ともにへとへとだったが、時折この世界には男を何度でも立ち上がらせ、勇者に変えてしまう女性がいるものだ。

 アリアはそういう女の子だった。

 ハドスが倒れた隙をついて逃げ出してきたアリアはシャツ一枚の格好で、体のあちこちが砂まみれだったけど、何があっても色褪せない最高の笑顔でチャプリーの体力を全快させてしまった。

「チャプリーくん、あんまり無茶しちゃダメじゃない」

 したたかに打ち付けた身体の痛みもなんのその、チャプリーはすぐさま立ち上がった。

「そんなのアリアちゃんに言われたくないや。さあ、逃げよう。ロバが向こうで待ってるはずだ」

 チャプリーがアリアの手を取ろうとしたそのとき、

「そこかぁっ!」

 ハドスがアリアの居場所を察知して、その腕を伸ばしてきた。

 再びその荒々しい腕に捕らえられたアリアは、──声もなく連れ去られていく。

 虚空に向かって手を伸ばすチャプリーであったが、それはただ砂の粒を握るだけだった。

「あとはおまえだ、チビドラゴンと人間がァッ。もう許さない、出てこいっ」

 ハドスが獰猛な怒りのボイスを張り上げた。

 その恐ろしげなことと言ったら……。チャプリーは恐怖のあまり背中を震わせ、足をぶるぶる震わせて、歯をがたがたとわななかせた。ぐずぐずと恐怖が頭から足の指先まで、呑み込んでいく。

「もう一回行くぞ、チャプリー」

 倒れ込む寸前で、グードラがまた彼を抱え上げた。

「まったく……、余裕すぎだっての!」

 勇敢にチャプリーは叫んだが、

 勇敢なだけではいけないのだ。

 冒険者は、常に慎重さを身につけていなければならない。

 辺りを覆う砂煙を、今度はハドスが利用した。

 砂煙のなかに隠していた巨大な翼を羽ばたかせて、竜巻のような勢いの突風を巻き起こした。

 チャプリーとグードラは思いきり空へと打ち上げられていく。

 何度もハドスが翼をはためかせると辺りに立ち込めていた砂煙は吹き飛ばされて、また青空が見えるようになった。

 高く上がった後、落下して、巨大なドラゴン・ハドスの腹の上にチャプリーたちは落ちた。

「そこだな、エベベベッ、もう逃がさねェ」

 顔を上げて不気味に笑うハドスは両目を濁らせて、しっかり物が見えていないようだった。グードラのブレスに眼をやられて、ちゃんと眼を開けることができなくなっていた。

 眼の見えない相手ならば……、もしかすると……腹の上から逃れられれば、まだ助かるチャンスはあるかも。とにかく、相手の掌の上、腹の上にいてはいけない、そう判断したチャプリーは右も左も確認せずに転がり落ちるように走り出した。

「逃がさないと言ったぞォ。ドラゴン・ブレスゥゥ!」

 ハドスが眩いレーザーブレスを吐き出す。自分の腹の上に向かって高熱のレーザーブレスを吐き出すなんて、なんてバカな真似、信じられない。

「う、うわぁぁ」

 頭を両手で覆って、身体を丸めてチャプリーは丸くなった。間一髪──。

「ガォォォンッ!」

 チャプリーがレーザーで消し飛ばされる直前で、グードラが割り込み、咆吼を上げた。

 しばしの間ハドスとグードラのブレスは拮抗した押し合いを繰り広げたが、ハドスのブレスの方が少しだけ勢いがあった。

 じりじりと押されていきながらも、グードラはブレスを吐き続ける。

 今度はチャプリーがグードラの窮地を救う番だ。

 チャプリーはステッキにまたがると、猛々しくも奇妙奇天烈、ドラゴンの腹の上を駆け登っていった。

 胸を昇り、高く跳躍し、ブレスをかわしながら、ドラゴンの巨大な顔へと到達する。

 跳び上がり、空中で華麗に一回転したチャプリーはステッキを構えて、おもいっきりハドスの鼻の穴へと投げ込んだ。

 人間で言えば、ハエが鼻の中に入って暴れ回る感覚に近いだろうか。やや上気味に向いたハドスの鼻の中に、ステッキは簡単に入っていった。

「なんだ! これバババ!」焦ったハドスが巨体を起き上がらせた。チャプリーとグードラはハドスが立ち上がっただけの衝撃で、空に投げ出されていった。

 ドラゴンはあまり他者に関心を持たない生き物である。

 それはこのドラゴン・ハドスも同様で眼が良く見えず、鼻の中に正体不明の異物が入ったとなれば、さほど興味のない人間(取るに足らない。見るところのない)など、もうどうでもよくなってしまうのだった。

 しかし、何度も痛手を負わされたドラゴンの子供を放って置くわけにはいかなかった。

「アリアを離せ!」

 地上から再び急上昇してきたグードラを、声を頼りにしてハドスは捕らえた。

 尻尾を掴まれ逆さまにされながらも、グードラの誇り高いドラゴンの瞳は、真っ直ぐにハドスを睨み付けていた。

 ハドスには、この生意気な子ドラゴンを黙らせる方法がわかっていた。

 片手にアリア、片手にグードラを掴み、空へ上昇すると、グードラを思いきり振りかぶり、マゼスト大河へと投げつけた。

 風をキリキリ、水をサキサキ、グードラはドラゴン・ハドスの全身が隠れるほどに深く大きな大河へと沈んでいき、いつまで待ってもそのまま浮かんでこなかった。

 それを嘲笑いながらも、ハドスは雲の高さまで飛び上がると、ノドを擦って呻いた。

「サカナの骨みたいなモノがノドに引っかかってる。こう眼もやられてたんじゃたまらない。……今日はおとなしく帰ろう。……なあ、アリア、わかっただろ。……絶対にオレからは逃げられない……」

 そして、後はかまわず飛び去っていってしまった。

 あとに残されたチャプリーは、

「グードラ。まさか、泳げないのか」

 チャプリーは靴を脱いで、シャツを脱いで、ズボンを脱いで、パンツ一丁になって、マゼスト大河へ跳び込んだ。

 水の底に沈んだグードラはほとんど重さがないくらいに軽かった。

 グードラを河から引き上げ、服を回収すると、ロバが荷車を引いて橋を渡ってやってきていた。

「ああ、ロバ公……、おまえか。……あれ……? アリアちゃんは? ……ああ、そうか……アリアちゃんは……。なんてこった……」

「グオ~ン」へとへと声を出して、川辺の冷たい石の上にグードラはへたれ込んだ。

 ロバがその顔を舐めて、勇敢な戦いぶりを賞賛した。

「なあ、チャプリー」

「なんだい、グードラ」

「アリアを助けられなかった。グォウが泳げなかったからいけないんだ。だから、ぜったいグォウはアリアを助けるぞ」

「おいおい、アリアちゃんを捜すってことは……、キミ、まだ、僕についてくるつもりかよ。それなら、……これだけは言っておくぜ」

「おう、チャプリー、なんだ?」

「いっしょに旅をするキミと僕は相棒なんだから、勝手にどっちかが責任を背負い込むのはなしだ」

「グオーン、相棒……?」

「世界一馬の合う親友のことだよ」

「グオーン、わかったぞ。グォウとチャプリーは、シンユウで、アイボウだ!」

 チャプリーとグードラは、ハドスに再びさらわれたアリアの行方を探すため、

 なにはともあれ生活のため、

 荷車に乗り込み、車輪を回して街へと向かうのだった。 





 グードラが大きな欠伸をした。

 荷車の上の積み荷の上に座り込んで、気持ちのいい風に吹かれたらしい。

 チャプリーよりも身体の大きいグードラだが、河から助け出したときも感じたが、不思議なことに見た目ほど重くはないようで、ロバにとって負担にはなっていないようだ。

「ねえ、グードラ、キミって案外、グータラだねぇ」

「グー、ちがうぞ。チャプリー、グォウはこう見えて、いそがしいんだ」

 のんべんだらりとのたまうグードラに、前を向いたままチャプリーは素早く指を振った。

「へぇ、グードラさんのいったい何がいそがしいって?」

「ほら、おまえも見てみろ。あの太陽、どうしてあの太陽はあんなところに浮かんでいるんだ。それにおまえは知っているのか。おまえのその髪がどうしてそんなにしっちゃかめっちゃかなのか。グォウにはわからないことがいっぱいなんだ。だから、グォウはいろんなことを考えて。そして、すると……」

「いや、髪型は趣味だよ……。まあ、いいさ。……そして、すると……?」

「眠たくなってくる……」

 荷物の上で横になるグードラをチャプリーは揺らして、

「そんなにたくさんのことを悩む必要はないさ。キミは賢者か何かのつもりかよ。人生ってのは、もっと、身近で簡単そうなことから手をつけていくもんだろう」

 チャプリーはグードラに、黄色い野花の茎を渡してやった。

「もぐもぐごっくん」

「なんだい、グードラ、食っちまいやがって。そうじゃない……。こうさ……」

 花の部分をとって、茎の片側を指で押さえて、そこから息を吹き込んだ。

 草笛だ。

 プーッ、という低い音が心地よく響いた。

「それ、まだある?」

 グードラが聞いて、

 チャプリーはつくった草笛をそのまま渡してやった。

 グードラは荷物の上でブーッ、ブーッ、と息を吹き込んでも音の出ない草笛に悪戦苦闘して、じたばたした。

「ああー、チャプリー、やりかたおしえろー」

「やだー」

「ハドスの居場所おしえろー」

「知らねー」

 チャプリーは眉間にシワを寄せて、指を鼻に突っ込んで鼻毛を二本ひっこ抜いた。

 片方の眼から涙が出てきたので、後ろを向いてグードラに自慢した。

「ビスケット食べる?」

「ビスケットってなんだ?」

「ビスケット知らないの?」

 グードラは本当に知らないらしく、「おう」と答えた。

「ビスケットは甘いお菓子だよ」

「甘いお菓子か。チョコレートとは何が違う?」

 チョコレートは知ってるのかと思いながら、どう違いを説明したものだろうか、とチャプリーは考えた。

「そうだな。ビスケットは頭の上に乗せても大丈夫だけど、チョコレートはダメだ。それがビスケットとチョコレートの違いだよ」

「そんなの全然納得できないぞ」

「チョコレートを頭に乗せたらベタベタになっちまうだろ。でも、ビスケットなら大したことにはならない。乗せ放題だよ」

「そうか、グォウはビスケットを理解した。ありがとう、チャプリー」

「うん。他には?」

 グードラはビスケットをかじりかじり、もぐもぐと考えて、

「エプロンってなんだ?」

「エプロンってのはママが身につける防具だよ。たぶんこの世で一番強くて丈夫な鎧でね、もしかしたら──」

 チャプリーは思いつきでそう言った。きっと、少し前のチャプリーには、思いも寄らなかった思いつきだ。

「もしかしたら、街で暮らすために僕に足りなかったのは……、エプロンなのかも」

 荷物にもたれかかって、首の後ろで手を組んで枕にしているだらしない格好で、チャプリーはグードラにばれないようにこっそりと空にアリアを描いた。  

 グードラは眼を瞑って考え込んで、困った顔をしていた。

「よくわからないぞ」

 そっか、じゃあどうやって説明しようか、とチャプリーは気のない返事をした。

 しばしの間、荷台の上の二人が無言になった。

 ロバと車輪が街道を踏み鳴らす音だけが、しょぼん玉みたいに空に上がった。

 雲があって風があって、太陽が照らす。どんな退屈さも慌ただしさもない、気持ちの良い時間が通り過ぎていった。

 どちらもボケッとしていたけど、口を開いたのはグードラの方からだった。ねえ、となんでもない声で聞いた。

「ねえ、チャプリー、ママってなんだ?」

「ママってのは」

 チャプリーがびっくりしてそこまで言って──それから、自分はその答えを知らないことに気が付いた。

「ママってのは、親の片割れで、女親の方だ。生き物はだいたいママから生まれてくる」

 ちょっと怒ったみたいにグードラが「えっ」と聞き返した。仲間がやったあからさまなルール違反を咎めるような口調だった。

「それじゃわからない。ママってなんだ。チャプリー。どういうものなんだ」

 チャプリーはただ前だけを見て、ごく普通だった。

「それは難しい。答えはないんだよ。物事の中には答えがいくつもあるような厄介なヤツがあって、『ママ』の問題もそうなんだ。だから、僕には答えられない。……グードラには、グードラにとってのママがいるはずだから」

 ノドが乾いたチャプリーは水筒を取り出して、舌を濡らした。

 荷車がゆるい丘を登りきると、二人の眼下に大きな街が見えてきた。

 旅人が街に入ると、まずなにより先にやろうとすることが宿探しだ。

 固くて小さなテントでの夜は、寒くてもの悲しい。言いしれぬ不安といつでも隣り合わせだ。

 どんな荒くれ者も、滅多に笑顔を見せない頑強者も、街に入れば、暖かい灯りとやわらかいベッドを求めて顔色変えて走り出す。

 そういうものなのだが、チャプリーは違った。

 大きな街だ。マゼスト大河を頼って南北に築かれた街、──なまえはマゼノヨコ街というらしい。いいなまえだ。並ぶレンガはきれいにそろっていて、壁に同化しているような古い汚れはどこにも見当たらなかった。

 三階建ての背の高い建物がいくつもあって、道々が一番通り、二番通り、というようにはっきりと区切られている。ちいさな商店が建ち並ぶ区域にも、ご丁寧なことにその区画を人の背より高い塀が囲んでいる。塀によって隔てられている。マゼノヨコ街は、そんな街だった。

 ある種都会的な、人と人との挨拶が気恥ずかしい、こんな街では特にチャプリーのやり方が上手くいく。

 だからと言って、やはりだいたいの旅人にとってまずは宿探し、といきたくなるものなのだが、そうはしないのがチャプリーの人間性であり、彼の非人間的な部分だ。

 違いこそあれ、誰もがどこかにそうした部分を持ち合わせている。

 それではそれをなんと呼ぶべきか?

 仕事人気質とでも呼ぶべきか。それとも、いいわけがましく言うなら合理主義者とでも呼ぶべきか。

 この街をつくった人たちはあまり景観には気を配らなかったようだが、その反面、とても整備の行き渡った街で、石で固められた道路はしっかりとしていて、歩きやすかった。



 ロバと荷車を預けたチャプリーは、宿を探すよりもまず広場に向かった。子供たちの集まる公園の一つだ。

 旅芸人のチャプリーは街についたら何よりも先にまず芸をやる。

 今まで自分がやってきた役割を、まだ経験のないグードラに預けたことが心配ではあったけど、最初は誰だって素人だ。やってみなけりゃはじまらないし、打ち合わせをやった限りでは上手くいきそうだった。

 最初、あくまでチャプリーは付き人として始める。

 風のなかに染みて流れていくような邪魔にならないミュージックをフォークギターで奏でる。歌はなくて、軽快だけどボリュームは抑え気味にしてある。

 打ち合わせ通りに、グードラが広場で遊んでいた子供たちの前でまぬけなダンスを踊りはじめた。足をよたよた動かして、とにかく人の目を集める動きをする。だけど、子供たちをロバほどもある大きな身体で驚かさないように、足を右へ左へ蹴り出して、上半身はなるだけちいさく揺らすだけにしておいた。

 そうして子供たちの注目が集まり始めたら、グードラの十八番(に、なる予定の)空中浮遊ダンスを始めるのだ。

 ほんの少しだけ、足が地面から浮かんだ程度だったけど、子供たちは喜びはしゃいで、自分もああすれば飛べるんじゃないかしら、と試し始める子もいた。

 どうやらこの街には活発な子供たちが多いようなので、チャプリーはもう少し派手に芸をやることにした。

 グードラが子供たちの目線より高く飛んで、宙返りや両手をいっぱいに広げた優雅な飛行を披露する。一番元気の良い男の子が大声で歓声を上げたところで、チャプリーはピタリと演奏をやめた。

 グードラは地面に降りてきてしっかりとしつけられた犬みたいに静かになった。

 ちいさなパレードのように賑やかだった公園に、しばらく無音が響き渡る。

「さあ、次の広場へ向かおう」

 低くよく通った声でチャプリーが言うと、いかにも従順ぶってグードラが大きく頷く。

「×××広場にみんないるよ!」元気がある人見知りをしない男の子が指でずっと遠くのどこかを指差した。

 それに、チャプリーはありがとう、と声には出さずにちょっぴりおかしな格好のお辞儀を返す。もう背を向けて、踊るグードラと似たようなおかしな動きをして、ギターを奏でて、チャプリーは広場から出ていく。

 グードラは一度手を叩くと、ついておいでよとでも言うように子供たちに手を振った。

 子供たちはついてきた。

 さて、チャプリーであるが、さっきの男の子が教えてくれた×××広場に行くつもりは毛頭ない。街についたばかりのチャプリーには、その広場がどこにあるのかわからないし。

 チャプリーは堂々とおかしなダンスを踊りながら、陽気にギターを奏でる。その後ろを忠犬ぶってヒゲダンスからヒントを得た独特の歩き方をしながらグードラがついてくる。

 だけど、今の主役はチャプリーでもグードラでもなく、彼らの後ろからついてくる街の子供たちなのだ。

 子供たちは期待に胸をふくらませている。

 子供たちが本当に見たいのは、グードラが公園でやってみせた空中ダンスだ。

 しかし、道中チャプリーとグードラが見せるのは楽しげな、子供たちを退屈させない程度のチンドン屋の真似事だけであった。

 子供たちは広場についたらもっと楽しいものが見えるはず、と考えている。

 それならより一層ステージを盛り上げたいもんだ、と思うから、人に聞かれれば、すごいショーが見られるよ、と喧伝してくれたし、チャプリーが人の多そうな大通りを行く内に、子供が子供を呼んで、また、子供に呼ばれた大人までもが、このチンドン屋の列に加わりはじめた。

 街を南に下るとチャプリーたちはマゼノヨコ街の中を流るるマゼスト大河にぶつかった。

 橋は渡らずにそのまま川沿いに西へ折れてチャプリーは行進をつづけた。

 ちいさな船を漕ぐ船頭と、後ろでお客のような顔をして船にとまっているカワセミにあいさつをした。すると、彼らも手をふりかえしてくれて、行列に合わせてゆっくり船を漕ぎ出した……。

 キラキラと水面で輝く太陽に合わせて、チャプリーはポロンポロロンと跳ね回るようにギターを弾いて、もう良い気分が我慢できずについには歌を歌った。

 チャプリーたちが人気の多い区画を目差してまた適当な道を折れていくと、船からの観客のうち、カワセミだけが……船頭を置いてパレードのような賑やかな行進を追いかけて行った。橋の下では「薄情なやつめ……」船頭が独り、寂しそうにぼやいていた……。

 チャプリーとグードラが踊り向かうのは食堂街。

 食堂街は商店街らしきエリアに入っていって、良い匂いのするほうに足を運べば、誰だってはじめて訪れた街でもすぐに辿り着けるスポットだ。

 この頃には面白いもの好きの娘さんたちや、娘さんたち目当ての若者たちまでが集まってきて盛況さがピークを迎える頃合いであった。

 食堂街の交差点には、屋外で食事が出来る店や、ガラス張りの店内から外を眺めながら食事ができる食堂、噴水やベンチがある。

 人の目を引く憩いの場でチャプリーとグードラは大いに技芸を見せびらかした。

 拍手喝采、歓声が飛び交う中に、どこにでも目ざとく目端の利く人間がいるものだ。

 ギターを鳴らすチャプリーにこっそりと話しかける少年がいた。

「あなた……、旅の芸人さん、お泊まりのお宿はお決まりですか?うちならお安くできますよ」

 使いっ走りの小僧である。彼こそチャプリーの待ち望んだ相手なのだった。

 ギターの邪魔にならないよう高く澄んだ声でチャプリーはこう返した。

「宿は目星がついているんだ。でも、僕に興味があるなら、ご主人に言ってくれ。良い話しが出来るかもしれない」

 そうすると、小僧がとって返して行って、そのうちにエプロンを下げた中年の親父が広場にやってくる。

 丸い顔にちいさな目を引っ付けた、賢そうな亭主が、手を動かさずに口だけを使ってチャプリーに声を掛けた。

「旅芸人さん、うちに泊まってくれるらしいね!」

 この亭主の挨拶にチャプリーも礼儀正しく返した。

「やあ、ご主人、お宿にステージはありますかな?」

「もちろんあるよ。夜には酒場を開いているし、うちにはピアノも置いてある。それに、今は流れのバンドマンたちが滞在しているよ」

 どうやら亭主は、話しが早い男らしい。それならと、チャプリーもさっさと用件を言った。

「よかったら、街にいる間、僕を雇ってもらえませんか」

「そういうことか。それなら、詳しい話しをしようじゃないか。ところで、宿はもう決まっているそうだな」

「困ったな。でも、ずっと遠いんです。もしかしたら、店の前で芸をやってくれと頼まれたかも」

 いけしゃあしゃあとチャプリーは言ってのけた。

「屋根付きメシ付きが条件ってわけか。それなら、それも込みで話しをしよう。ああ、それから、──うちはお宿サンマロンだよ!」

 チャプリーがギターを止めて、グードラが地面に降りて両手を広げると、客人たちが拍手とブラボーで二人を称賛した。

「皆さんどうか、お宿サンマロンをよろしく!」

 チャプリーとグードラがおじぎで締めると、最後にもう一度大きな拍手が巻き起こった。

 


 サンマロンの親父と簡単な仕事の話を終えた後、ロバと荷車を西側に移してもらい、チャプリーとグードラは街へ買い物に出かけることにした。

 目当ては昨晩失った一張羅の代わりと、ついでに新しいシャツとズボン、つまり服を買うために商店街へ出かけた。

「グードラ、どうだい? 大きな街だぜ。びっくりしただろう」

「おう、ニンゲンばっかりでおもしろいな。でもグォウは疲れたぞ。グォウは風が好きで、この街では風をあまり感じられないからかな」

「ああ、背の高い建物が多いし、あちこちを高い塀が囲っているからね」

 チャプリーは立ち止まり、シャツをズボンに入れ直して、櫛を取り出して髪を整えた。髪型が実験に失敗した博士みたいになっていたけど、チャプリーはそれでばっちりキマったとキメ顔だった。

 そこで人の良さそうな青年と目が合った。

「やあ、旅人さん、調子はどう?」

 そんなウェルカムスタイルの若い青年に声をかけられて、

「良い街に来られて嬉しいよ。旅暮らしの身には辛いね。出て行きたくなくなっちまう」

「なに、街の暮らしだって嫌なことがあるもんだ。でも、歓迎するよ。来てくれてありがとう」

 そんな風にあいさつを交わし合って、笑顔でさよならをした。

「なあ、チャプリーは旅が嫌なのか?」

 グードラの質問にチャプリーは答えようとしたけれど、真面目に答えるのが面倒くさくなって、あまり関係のないことを言った。

「グードラ、人はね、悲しい顔をしていたら悲しいわけではないし、嬉しい顔をしていたら嬉しいわけでもないんだよ。ところで、今、僕はどんな顔をしている? 鏡がないと不安になるなあ……」

 グードラは諦めずに同じことを繰り返した。

「おまえは旅が嫌なのか?」

「旅が嫌かって? 決まっているじゃないか。誰にいつ聞かれたって僕はこう答えよう。旅暮らしなんてクソ食らえ!」

 芝居がかったチャプリーの台詞に呆れるでもなく、グードラの方は平坦な口調でごく普通に返した。

「ふーん、まあ、グォウにだって、おまえの言わんとしていることがわからないでもないんだ。生き物は弱いからみんなウソツキだもんな。でも、本当のことを言わないと、自分のことをわかってもらえないんじゃないか?」

「なにを言ったって無駄さ。ウソだって、本当だって同じことだよ。それにね、子供っぽいことを言えばね、別にわかってほしくないのさ」

 チャプリーはひねくれながら、少しだけ本音を話した。恥ずかしそうに少し顔が紅くなっていた。これはまだ、会って付き合いの浅い相棒に対する彼なりの、精一杯の親愛の表現であったが、ものわかりのいいグードラにしてもそこまでは理解しきれないのだった。

「それにウソかって言われれば、そうじゃない。旅が好きか、嫌いか。街が好きか、嫌いか。物事ってのはそんな簡単じゃないし、人間は自分の本当のことはほとんどわからないんだよ。私はこれよとすぐに決めつけたり、好き、嫌いとすぐに言う人間は楽をしているだけなのさ」

 そんないかにも偏屈ぶった男の言いそうなことを、チャプリーは言った。

 彼もまた若々しく若者であった。

「おまえは楽がしたくないのか? 楽をすることは良いことだぞ。グォウは疲れることは嫌だ」


 グードラがそう言うと、いかにも我が意を得たり、とチャプリーは頷いた。

「うん、それも正しい。けっきょくはこんな風にもったいぶった気取りバカが僕は好きなんだよ。アハハッ、簡単に好きと言ってさっきともう矛盾してらァ。……だけどなんだい。グードラ、キミ、さっきから疲れた疲れたと言って、情けないね。それでも、ドラゴンの子かい」

「そんなには言ってないぞ。それに、チャプリーが言うのとはちょっと違うけど、グォウの言うことも正しくないんだ。疲れたじゃなくって、なんだろう。グォウは言葉がわからないんだ」

「それにしたって、疲れたなんて口癖は感心しないぜ。よし、考えてやるから、言ってごらん」

「おう、あのダンスだけどな、こう腕を引っ込めて、足ばっかりを動かすだろ。こうやって、こうやってな」

 グードラがコサックダンスみたいに足を交互に前に突き出す、ダンスをやって見せた。

「うん、それがどうしたの?」

「だから、手があまり使えなくって、足ばっかり使ったから、疲れちゃったんだ」

 このグードラの説明に、この子ドラゴンが何を言わんとしているのか知るために、チャプリーもまたこのダンスを実演してみる。そして……。

「ああ、なるほど。わかったよ。グードラ、それはもどかしいって言うんだ」

「もどかしい?」

「または窮屈、不自由と呼んでも良い」

「もどかしい……。きゅうくつ……、不自由……」

 グードラがぼんやりと言葉を繰り返した。

「たしかに僕のダンスは不自由だ。例えば、ほら、これ、ボクシング……」

 チャプリーが背中を丸めてワンツー、ワンツーと拳をかまえて交互に突き出した。

 へっぴりごしでお尻が突き出ていたもんだから、通りすがりの人が見て、おもわずクスリと笑って通り過ぎて行った。

「ボクシングは手を使うスポーツだけど、本当は足もすごくたくさん使う。ストレートを打つときは背筋を使うから全身を使うことだってある」

 足を使っているところを見せようとチャプリーがボクサーのフットワークの真似事をしたけど、お尻を突き出して反復横跳びをする変な人にしか見えなかった。もし、「ねえ、ママ」「見ちゃいけません」と仲良し親子を鳴かせる仕事があったら、彼はなかなかの逸材だ。

「それから……」

 道の真ん中、チャプリーが指をパチンと鳴らすと、用意されたみたいにサッカーボールが転がってきた。

「フットボール。これは足を使うスポーツだけど、こうやって……」

 ボールを軽く上げたチャプリーはリフティングをはじめる。ボクシングと比べれば、こっちはなかなか様になっている。

「バランスをとるために全身を使うし……」

 どうやらボールは街の子供たちのものらしく、とりかえそうとチャプリーに向かって、二人の男の子が駆け寄り足を差し伸ばしてきた。ここで、華麗なフットワークで男の子たちをかわす妙技を見せてくれるのかと思いきや、残念、チャプリーはそういうイケメンな男ではなかった。

 少年二人の頭を手で押さえつけて少年たちの足がぎりぎり届かないところに爪先を伸ばして、人にはとても見せられない口が裂けるほどのニヤニヤ顔でリフティングを続ける。

 これはこれですごいのだが、これでははたから見て子供たちをいじめる嫌な兄ちゃんにしか見えない。というか、そのものだ。

「こうやって手も使う。ファールだけど」

 舞台袖に不必要になった小道具を隠す役者のように踵でボールを蹴り跳ばした。いや、そんな不作法な役者はいないかもしれないが。

 わからないが、用のなくなった男の子たちが涙目でボールを追いかけていったので、また二人は歩き始めた。

「なるほど。言われれば、僕は不自由なことを好む気質があるのかもしれない。これまで他人にあわせて、できるだけ目立たないように、人のつくったルールの中で生きてきたから。……知らず知らずのうちに、そうなっちまったんだろう」

「グォウにはとてもそうは見えないぞォ……」

 ドラゴンなのに相棒よりもよっぽど常識人な意見を述べるグードラだったが、しかしチャプリーは気にしなかった、

「例えば、本をずっと読んで疲れたときには、おもいっきり身体を動かすのもいいもんだよ」

 やってごらんよ、と進めるチャプリーにグードラは頬を紅潮させて喜色満面笑みを浮かべた。これはなかなかに愛らしくてそれを見ていた道行く人たちの気持ちをちょっとだけぽかぽかさせた。

「よーし、ガォーン!!」

ビシャーンッとグードラの口から閃光が放たれた。街の通りが光に包まれて、爆風で人々が紙くずのように転がっていった。ブレスは一応上に向かって放たれたので大惨事は避けられたようだけど……、なかなかハデにマズかった。

「なにしてんの、このドラゴンさんは。人がボケ役を引き受けてるのに、盛大にかましてくれちゃってまあ……! キミは、口先は立派でもやることは子供みたいだなっ」

「それをおまえに言われたくない。それで、どうするんだ?」

「とにかく逃げよう」

「そうしよう」

 二人はスタコラ近くの店に入っていった。そこは服屋だった。



「なんて偶然、渡りに船か……、なかなか良い店じゃないか」

 何をお探しでしょうか、お客様。と声を掛けてきた店員さんを紳士らしく追い払ってから、チャプリーは店を誉めた。

「店員の前で店を誉めてはいけない。店員は尽くせど尽くせど虐げられなければならない」

「がおーん、人間社会ってのは難しいぞ」

「キミ、そんなことでどうする。わからないならウンと考えて理解できるよう努めたまえ」

 すると、チャプリーに対してグードラがこんなことを言い返した。

「そういえば考えたら、グォウにはわかってきたぞ。街の背の高い建物やあちこちを囲う塀は防衛上必要なんだ。高いところから責められたらひとたまりもないもんな。つまり、ありゃ、ドラゴン対策に必要なんだ」

「キミ、ものわかりがいいなあ!」

 チャプリーは驚いた。

「うん。客観的視点に基づく考察だぞ。ついでに、おまえの挨拶の意味もわかった。街の人間に挨拶するときにおまえが旅は嫌だなんて言ったのは、つまり街の人間は街から出て行けないからなんだろ? 人間は弱いから寄り集まらないと生きていけないし、ドラゴンがやってきたときに街を守るための人手が足りないとダメだもんな。ウソを言わないで生きていける生き物なんてドラゴンとアリアくらいのものかもな」

「ああ、なるほど……。たしかにアリアちゃんは建前やおべっかなんて言わなさそうだ。……ところでこれどう? 似合うかな」

「いいんじゃないか」

 いいんじゃないか、をグードラは合計で六回言った。チャプリーは、白いシャツを二枚、桃色のチョッキ、黄色いチョッキ、黒いチョッキと、細い茶色のズボンを一本買った。

 チョッキの好きなチャプリーだった。

 それからチャプリーは帽子をほしがった。

 突然に、道化師たるもの帽子がなくては話しにならぬ、と誰にともなく力説していた。

「オヤジ、帽子はあるか」

「へい、もちろん」

 帽子屋のオヤジは古今東西あらゆる形の帽子を運んできた。何にでも合うようにと黒いハット帽をしきりに勧める真面目なご店主だ。

「オヤジよ、蛇を模した黄金のシルクハットはないか」

「そりゃ、本気ですかい。お客さん」

 店主はチャプリーの注文に驚き、目を見はった。

「なに、無いなら良いのだ。邪魔をしたな」

「がおーん」

「お待ちを。お客さん、あんたにはお見それしやした。当店の御客様としてではなく、あんたをファッション界のアナーキーと見込んで紹介させて頂きやしょう。この街一番のイカレ帽子屋を」

 店主はチャプリーに一枚の地図を書いた。

 橋を渡って向こう側へ行くと大きな専門店があるらしく、そこにならばもしかして……、ということらしい。

「もしかして……、不快な思いをされるかもしれませんが……、悪いことに橋向こうになりますので……いや、やはり、行かれない方が良いのかもしれません」

 いかにも店主が深刻ぶって言うものだから、むしろチャプリーとグードラは大げさで愉快に思えて店主の肩を叩いた。

「大丈夫だ、店主殿。いや、礼を言う」

「さらばだ、オヤジ」

 たとい不快な思いをしようとも、一時のことならば、旅の土産話にでもなろうものよ、と笑いさえして意気揚々と店を出た。

 仕方ない。チャプリーもまさか、街にいる間中ずっと不快な思いをし続けることになろうとは思いも寄らなかったのだ。


 太陽が大分落ちかけてきている。

 まだ、日中だが夕刻の手前頃で、耳を澄ませば今日は夜の足音が聞ける日であった。

 これは少し急がなくては、と急ぎ足になってチャプリーとグードラが街の南側へ、橋を渡ろうとした、そのときだった。

「そこを動くなっ」パキュン、チュイーンッと安っぽい音が聞こえて、何かが地面に当たって弾けた。見れば警邏がいた。ベレー帽をかぶった警邏がいきなりピストルを発砲してきたのだ。

「な、なんだ。僕は警察を呼ばれるような覚えはない」

 服屋に逃げ込んだくだりはもう記憶になかった。

「動くな。貧乏人め、逮捕してやる」

 服屋のオヤジの忠告があっととはいえ、まさか、いきなり橋を渡ろうとしただけで威嚇射撃を行い、手錠を取り出し、逮捕を迫られるとは想像もしていなかった。

「チャプリー、どうするんだ」

 グードラが勇ましく射線を遮るように前に立ちはだかったので、チャプリーは聞いてみた。

「グードラ、キミ、鉄砲は平気かい」

「おう、あんなの屁でもないぞ」

「そうか。それなら、ごにょごにょごにょでワン、ツー、フィニッシュするからごにょにょ……」

「ふむふむ、よーし、わかったぞ」

「何をしている! さっさと来いっ。タイーホだ!」

「言われなくても行ってやるぞ。グォウ!」

 風を纏い浮かんだグードラが一気に警邏に向かって突っ込んでいく。警邏は驚き「オワタァ」ピストルを慌てて発砲したが、どこにも当たらずに空の彼方へと飛んでいった。

 警邏の前で急停止してグードラは尻尾を使った。長く太い尻尾で悪の警邏を――彼は悪の警邏である。普通のおまわりさんをいじめちゃダメだよ――空高く投げ飛ばした。

「チャプリー! 決めろ!」

「打ち上げばっちり!」助走をつけたチャプリーがグードラの腕に乗って、そのまま高く舞い上がった。

 そして、空中で警邏に追いつき足をつかむと、大技を披露した。なんとなんと……。

 空中で、逆上がりの要領で警邏の背中に向かって足を振り上げた。空中で足を振り上げたチャプリーは、その足を警邏の両肩に引っかける。

 つまり、チャプリーと警邏は背中合わせになって、チャプリーは警邏の足を手で掴んで、顔が地面を向いている状態である。チャプリーの爪先は警邏の肩に掛かっている。この姿勢が成ったとき、二人はちょうど飛翔の最頂点へと達した。

「チャプリー1260!」

 落下する位置エネルギーと足で持っての警邏の肩を引っ張る勢いを利用してチャプリーは警邏をつかんで回転した。地面に降りるまでに、一、二、三……、クルクルクル……、ミスティコもびっくりの三回転半を決める荒技であった!

「ちくしょう、覚えてやがれ~っ」

 これには悪の警邏もひとたまりもなく、半べそをかいて逃げ出していく。

 だがしかし、小市民に対してどれだけ迷惑をかけようとも気に掛けず、自分が被害を被れば、なにがあろうと絶対に許しはしない、それが悪の警邏であった。

 なおかつ悪いことに、たとい悪の警邏が相手であっても、この街ではチャプリーのしたことは犯罪だったのだ……。

 ピーッ、とホイッスルが鳴り、あれよあれよと警邏が警邏があちこちから応援にかけつけてきた……。

「タイーホだ!」

 バキュンバキュン、と物騒な発砲音が響いて弾ける。


「どうするんだ、チャプリー、もう不当逮捕じゃなくなっちゃったぞ」

「くそう、こいつら全員にチャプリー1260をかけるわけにはいかない! よーし、グードラ、空へ逃げるぞ」

「グーオウ!」

 グードラがチャプリーの腕をつかんで高く舞い上がった。

「さあ、このままイカレ帽子屋を探すぞ」

 しかし、この選択は良くなかった。待ってましたとリンリンと、街のドラゴン感知レーダーが働き出して、街中にけたたましいサイレンが鳴り響いた。

 高い建物の窓からニョキリニョキリと細い銃口が突き出し、街の自警団が塀の上に上って、ところどころに配備された機関銃をグードラに向けた。

「なるほど。ああやって、街を守っているのだなあ」

「落ち着いている場合かよっ、さすがにマズイ!」

「ひらり、ひらり、ひらりマント」

「よせ、グードラ、僕はひらりマントじゃない! 死んでしまうっ」

「グーオウ、じゃあ、どうするんだ。チャプリー。空は見てのとんちき迎撃姿勢、下に降りれば警邏たちが待ち構えているんだぞ」

「よーし。それなら、あそこだ。GO、グードラ!」

「グォウ!」

 銃弾、散弾、大砲の嵐が吹き交う中、グードラは華麗な飛行で突っ込んでいく。橋の下、河川に浮かぶ小舟の上へ。

「あんたたち……!」小舟が揺れて、水しぶきが上がる。

「船頭さん、やってくれ。イカレ帽子屋だ」

「チャプリー、身を伏せろ。あいつら、撃ってきてるぞ」

「ひぇえ、勘弁してけろ。オラはイカレ帽子屋なんか知らねえ」

 頭を覆って櫂を置いてしまった船頭を見て、

「ええい、仕方ない。グードラ、……こうなったら、グードラエンジンだ」

 チャプリーが適当なことを言いだした。しかし、子ドラゴンはこれをすぐに承知した。

 船縁の後ろにつくと「ブーッ!」勢いよく水面に向かってドラゴンブレスを吹き出した。

 ものすごい勢いで小舟が発進して、警邏たちを置き去りにしていく。

 警邏たちが見えなくなり、少し落ち着いたところで、

「勘弁してよ、お客さん」

 船頭の男はぼやきながらも船を南に向かう水路へと向けてくれた。

「ははあ、あんたら余所者なんだね。いけないよ。この街の南側はね、高級住宅街や高級クラブが立ち並ぶ富裕層のエリアなんだ。北側の常識は通じないからね……」

「なるほど。それにしても、いきなり発砲とはあんまりだ」

「やっこさんがた、下働きの労働者や俺たち市民を同じ人間だなんて思っていねぇのさ。例えば、人が一人消えたって南側じゃ新聞にものらねえ。金を持ってる人間はおっかねぇもんさ」

「なんだってそんな有様になったんだい?」

「さあねえ。でも、やっぱりドラゴンの所為なのかもな。ここらに現れるドラゴンはなんでか知らんが河を挟んで北側しか襲わねぇんだ……。昔っからさ……。ちゅうても、ドラゴンらしくシャレにならんイタズラして帰って行くばっかなんだけんども。つい最近も、竜にやられてさ、北のエリアはきれいさっぱり焼かれちまった。そんな事件があったもんで余計に一般人や貧乏人は北側、街に金をばらまいてくれる高所得者は遠くへってそんな住み分けができていったんだわ」

「竜が飛べば街が踊るとは、いったい誰の言葉だったかしら」

「まさにそれさあ。──そんで、お客さん、いったい何の用があって南側へなんぞ行こうってんでしょう。……お分かりでしょうが……、勘弁してもらいてぇんですよ」

 河の上ではいまだに銃声と警邏たちの駆け回る声がして、街が掻き乱れていた。船頭のオヤジが恐がるのも当然である。

 ここを頼めるのはもはや、土下座しかない。

「蛇を模した黄金のシルクハットのために、どうしても行かねばならないのです」

「グーオウ……!」

 船頭は、揺れる船上であることを忘れさせるような、しっかりとした神々しい足取りで立ち上がる。太陽が船頭の形のよい禿頭を光らせてチャプリーはおもわず目を細めた。

「あんた、仕方ねえ人だなあ。バカバカしいが……どうやら、決意は固いようだ。そんならいいでがす。連れて行って差し上げやしょう」

 船頭が櫂を動かすと、小舟があめんぼのようにすいすい進んでいく。

「船主さん、やはりあんたイカレ帽子屋を知っていたのだな」

「ただ、一つ。オヤジの忠告を聞いていくといい。店内に入ったら俯き気味にして、できるだけ人と眼を合わさんこった」

「帽子を探すのに、俯いていたら見つかけられないではないですか?」

「とにかく、無事に帰ってくることだけをお考えなせえ。……さあ、着いた。この上でさあ」

 水路の脇に梯子が掛かっていた。チャプリーは梯子を使い、グードラは自分で飛んで地上に上がった。

「いたぞーッ。確保ーッ。撃てーッ」

 地上に上がった途端、警邏たちのピストルが火を噴いた。とにかく二人は、目の前の建物に一も二もなく駆け込んで行った。

 グードラとチャプリーはイカレ帽子屋に入っていった。




 イカレ帽子屋ではなにもかもが帽子であった。

 床一面に帽子が敷き詰められ、壁や天井から帽子が生えているのだ。姿見の大鏡かと思いきやそれは帽子であり、研修中の派遣社員かと思いきやそれは帽子である。

 この常軌を逸したイカレ帽子屋になら、蛇を模した黄金のシルクハットだってあるに違いない、とチャプリーは期待した。船頭の忠告にしたがって、下を見て歩くことは簡単だった。

 なにしろ、店中の床に帽子が敷き詰められているので、下を見て歩かないと転んでしまうのだ。

 帽子につまずきつまずきしながらチャプリーとグードラは進んで行った。

「おい、見ろ、チャプリー」

 グードラはどこかで拾ってきた黒い帽子を頭に乗せていた。しかし、見ろと言ったのはそれではなかった。

「レジかと思ったら帽子だった」

 言われて見ればレジかと思って見ていたものは確かに帽子であった。レジと言うより、レジ台やレジ番の店員まで含めて一つの帽子であった。

 グードラは笑ったが、チャプリーの方ではそれどころではなくなってしまった。

 レジのふりをしていた帽子をどかしたら、大きく視界が開けてしまった。

 レジ帽をどかした先には、また帽子があった。

 それはどうしたことか……、探していた、蛇を模した黄金のシルクハットであった。

 なんと、こうもたやすく見つかってしまうとは……。チャプリーの心は有頂天になる・・・・。 チャプリーの人生観では物は探せば見つからない、という確信めいた不幸なジンクスがあったのだ。

 やはり、それはジンクスと言うだけあって、確信ではなく、迷信だったらしい。

 なんと良い日だ。きっと当分はろくなことが起こるまいや、と自分をここぞといじめてやりながら、あんまり嬉しいもんでチャプリーは帽子に向かって跳び付こうとした。

 しかし、帽子の海へダイブしながら黄金蛇ハットを追いすがろうとも、なんどダイブを繰り返しても、帽子はチャプリーの腕の中に収まらない。

「チャプリー、見てみろ。あの帽子、宙を浮かんでいるぞ」

 グードラの言うとおりだった。

 黄金蛇ハットは、勝手に空を泳いで逃げ回っていた。

 ボールを転がすと猫や犬は追いかけるが、本来動物はそういうものだ。人間だって、本当はボールが転がってきたら追いかけ回したくてしかたないのだ。人の目を気にしてやらないだけなんだ。

 そういう意味で、ドラゴンに恥はなかった。

 チャプリーにも恥はなかった。いや、待て。キミは恥を持て。そうは言っても聞かない男でチャプリーとグードラは犬のようにはしゃいで帽子を追いかけた。

 なんといっても、この店の人間は誰も彼もが帽子なのである。

 そうであれば、これくらいの恥はチャプリーにとっては、むしろ気持ちが良いくらいであった。

 帽子はマネキンの上に落ちて止まった。

 はて、ここまで来たら、それはマネキンのふりをした帽子であるやもしれないけれど。しかし、マネキンは帽子ではなかった。

 犬の真似をするチャプリーを見て笑ったのだ。

 チャプリーはもう大急ぎで立ち上がり、直立不動に立ち変わった。

 マネキンはマネキンでもなく、人であった。イカレ帽子屋のお客であった。プロレスラーのように大きな人間で、二メートルもある。横幅がまたでかいので、印象では三メートルもあるように感じられた。そして、顎がグイと突き出しその眼はぎょろぎょろと腐った魚の目であった。

「おまえ……この帽子が気にいったのか……ククク……」

 巨漢の悪紳士が、ジュエリー・リングの並ぶ太い指で帽子を撫で回した。筋肉を見せびらかすためのワンサイズちいさなスーツ、太いズボン、首から下がったマフラーに黄金の腕時計。

 厳めしいセンスで悪紳士は全身を包んでいた。

「ククク……ククク……、おまえ、どこのモンだ? 見かけない顔だな……。……そうか……旅の大道芸人……おまえのことか……それに……ククク……ドラゴンの子供か……」

 チャプリーは火を吐くほどに恥ずかしがって、心を乱すことに必死で、恥ずかしさに夢中で……、怪しい悪紳士の話しを聞いていなかった。

 全身をスイートピーの色に染めてカチンコチンに硬直していた。

「いや、あの、その、あの」

「恥ずかしがることはない……。イカレ帽子屋は人間を開放的にするのだ。しかし、それにしても、そこまで己をさらけ出すとは……ククク……ククク……」

 チャプリーの耳に届くのは嘲笑だけであった。この笑いは他のどんな肯定的な意味にも取りようがない。

 それはそうだ。笑われるだろう。愛すべき我らが道化師といえど、これは弁明出来ない。帽子を追いかけ回して四つん這いで跳ね回る男を、かわいい人ね、と優しく微笑む女の子がいるだろうか。もしあなたが……、もしあなたが、四つん這いで跳ね回る男に愛らしさを感じてしまう少女なら……、一言だけ忠告させてほしい……。そんな男には危ないから近づいちゃいけないよ。

 しかし、怖ろしや、この巨漢の紳士が嘲笑う中には、チャプリーの奇行を認める色もたしかにあったのだ。

 それは、ものの価値を見抜く、称賛の喜色であった。

 どこにでも目端の利く人間がいるものだ。

 しかし、その才能を有する人間が善人ばかりとは限らない。

 とにかく、醜態を見られたチャプリーにとっては、どんな事情も感情も関係がなかった。

 一刻も早くここから逃げ出したかった。

 チャプリーは逃げるのが得意だ。

 ドラゴン相手には逃げられなくても、人間相手なら手慣れたものである。

 チャプリーは悪紳士とこれ以上の言葉を交えず、

 すたこらさっさと引き返して行った。




 チャプリーは街の北側に無事戻ったが、

「君子危うきに近寄らずってね」

「ありゃ、おまえはいたたまれなくなって逃げ出しただけだぞ。格好悪かった。グォウたちドラゴン的に言えばな」

「グードラ、そりゃ逃げ下手のヤツの物知らずだぜ。まず、逃げる。それから自分を褒めまくってやる。これが僕、チャプリー流の処世術だ。僕はキミたちドラゴンの潔さは見習っているんだぜ。ハドスも僕も、細かい違いはあれども、大差ないのさ」

 結局、帽子屋を出た後も警邏に追われて、チャプリーとグードラが西側の宿、サンマロンに戻ってきたのは夜遅くになってからだった。チャプリーたちに仕事をくれる手筈になっている、あのサンマロンだ。

 サンマロンの亭主が、

「遅かったな」

 と、カウンターの向こう側から話しかけてきた。

「昼間に坊主が来てたぞ。あんたたちの舞台が見たいと言っていたが。もう、遅くなってきたから家に帰らせたよ」

「それは嬉しい。救われた気持ちになるよ。……難しいけどね」

 亭主は景気づけにチャプリーの肩を叩こうとしたが、最後の一言が気に食わなかったらしい。手を浮かせたままで尋ねた。

「難しいってのはなんだ?」

「こうやって人からまたいで聞いたら悪くないが、その場で笑われちゃあ良い気分はしない」

 チャプリーはもう酒に酔っていた。

「子供が笑っているのが悪いのか」

「別に悪くはない」

 亭主は目の前の偏屈屋を瞳を揺らしながら見つめた。犬のようなよく動く眼だ。

「難しいってのはあんたのことだな。気難しい男……芸人には案外、多いタイプだが」

「芸人には多いタイプか。レッテル貼りは気にいらないけど、僕の場合はまさにそうかもな。だからやってんのさ。こんな芸人なんて仕事をね」

 ここで、ようやく亭主はチャプリーの肩に手を置いた。あまりに優しく触れられたので、チャプリーは電気が通ったみたいに、足を震わせた。それは労うと言うより、しっかりしろよ、と励ます感触だったのだ。

「いったいなんだい?」

 チャプリーはお愛想して、薄笑いを浮かべて亭主の顔を覗き込んだ。亭主はチャプリーに対して、好きだ、とか、気にいらない、とか、なにかしらの積極的な感想を一切口にしなかった。

 ほら、いつも通りだ、とチャプリーは思う。

 店の奥なのにすきま風を浴びたような冷たさがあったのは、このヒトと僕の、他人同士ゆえの無関心さゆえなのだろうか、とチャプリーは咳き込みそうになった。

 見せかけだけの優しさ。絆のない繫がり。一抹の寂しさが咽の奥から迫り上がってきた。けど、わずらわしくない関係にほっとする気持ちもどこかしらにあるのだ。

 他人がわずらわしくて旅をして、他人の無関心さが悲しくて旅をして、自分をわかってもらえなくて、家出をしているように旅をした。そのうちに、そのまま大人になってしまったチャプリーはいろんなことがわかるようになって、なんとか一人で生きていけるようになったけれど、結局今でも、自分の中に根を下ろしている厄介な性分を変えることが出来ない。

 チャプリーは、琥珀色のアルコールをぐっと呷った。

「チャプリー、あんまり飲み過ぎちゃダメだぞ」

 グードラが寝ぼけたような心地で窘めてきた。

 キミは気楽なもんだ、と愚痴りたくなったけど止した。グードラは今日の分の仕事をもう終えて、実際、気楽な身の上だった。

「チャプリー、そろそろやれるか」

 後ろからは音楽が聴こえてきている。

 サンマロンに宿泊している楽人たちに亭主が演奏を頼んだらしい。

 チャプリーはステージにすっかり背を向けて、カウンターや棚に並ぶ酒瓶や、茶ぼけた照明の下でカクテルをつくっているオヤジをぼぅと見ていた。

 そんな具合にしながらも、聴神経だけは鋭く尖らせていて、内耳は店内の宿客たちの喧噪や、女たちのかしまし声をちゃんと拾っていた。薄暗いバーに飛び回る音楽の端々を捉えて、今夜のステージの様子はちゃんと掴んでいる。「いいよ」チュプリーは淀みなく立ち上がった。

 ステージに上がったチャプリーはポッケからハーモニカを取り出して、大胆不敵に中央に立って、今夜の主役たる奏者たちを手で制して、音楽を止めると、自己紹介とばかりに一曲やった。

 必死さの伝わるうるさくて陽気なヤツだ。

 もう夜も遅かったが、つまらない男と思われてはこれから先良くない。

 飲み過ぎて前後不覚のお客も多くなってきた遅い時刻であるから、彼らを怒らせないように説得力のある陽気さと人生の侘びしさがない交ぜになったブルースをプープカと吹き散らかした。

 これがうけて、観客たちはもちろん、楽団の奏者たちまでが喜んだ。

 チャプリーが手を上げると、奏者たちがプロらしく即興で合わせやすい簡単なリズムを奏でる。チャプリーもそれに答えてソロを引き受けた。

 気持ちよく曲が鳴り終わると、アンコールの催促が飛んだが、まだ客たちが満腹にならないうちに今夜は引き上げることにした。

 パッと驚かせて、次につなげるのがチャプリーのやり方だった。

 何人かがチャプリーに小声で挨拶をしたが、後はそれ以上誰も煩くしてこなかった。

「いい腕だな」

 カウンターに戻ったチャプリーは鼻の先を親指で擦って、なんてことないよ、とぶら下がる照明の火と眼を合わせた。

 ハーモニカをカウンターに置いて、チャプリーは人差し指を上げて、甘いカクテルを注文した。もう、今夜は働かないよ、という意思表示だった。色鮮やかなカクテルは飲むのに時間がかかるものだ。

 亭主はずいぶん時間をかけてカクテルをつくった。出来上がってみるとあらゆるピンクが何層にも重なっているグラデーション豊かなカクテルだったが、何も特別なものではなかった。

 グードラがノソリ……、と椅子に上ってきてにこにことチャプリーとオヤジの顔を眺めた。

「やい、オヤジ、おまえ、なんか隠してるだろう。さっきから、おもしろいヤツだぞ」

 グードラが突然、そんなことを言うもんだから、チャプリーはポカンとしてしまった。オヤジは瞳を少し揺らして、シェイカーに果実を落とした。

「チャプリー、契約は明日からで良かったな」

「ああ、いいよ。さっきのはサービスしとく」

「それならうちとの契約は無くなった。そのうち新しい雇い主がここに迎えを寄越すはずだ」

 な、なんだって? もう一回言ってくれ。とチャプリーは驚き、おもわず亭主に詰め寄りそうになったが、チャプリーはとにかく一旦落ち着いた。

 オヤジとチャプリーの間にあるカウンターが、なけなしの彼の常識を浮かび上がらせた。

「なんだって? もう一回言ってくれ」

「あんたとの契約を買い取りたいという御仁が夕方やってきた。稼ぎには色をつけるそうだ」

「あんた、そんな勝手なことが許されるのか」

 チャプリーは少し、語気を荒げた。こうした突然降りかかる理不尽は案外チャプリーとしては受け入れているところではあったが、あまりに流れに身を任せるのも良くない。自己破壊的な性質をチャプリーは持っていたが、外から忍び寄る悪意や攻撃からは、ときに身を固くして、自身を守らなくてはならなかった。

「この街じゃ、そういうこともある。チャプリー、あんた、南側に行ったろう。そこで、拙い御仁にでくわしたらしいな」

「ああ、行ったとも。それがどうした」

「そこであんたを気にいった男が使いをうちにやってこさせたよ。その男はこの街の芝居小屋の総括でな……、うちみたいに細々とやっている場末の酒場じゃ……、なんとも出来ん」

 ここでようやく亭主は表情らしい表情を見せた。

 どっしりと疲れ切った男の顔が垣間見えて、おもわずチャプリーは目を逸らした。

 しかし、もう遅かった。

 チャプリーはこのオヤジのやるせなさや悔しさに感じ入って、同情してしまった。

亭主はチャプリーよりよっぽど大人で言い訳一つもしなかったことが、チャプリーを徹底的に打ちのめした。

 勇気を出して、チャプリーが目を上げて、亭主の顔を覗き込むと、もうそこには疲れを感じさせる模様は一切浮かんでいなかった。

 あまりにそれが立派に思えて、ちゃんとまともに生きている人間の在り方をしていて、チャプリーは自分が恥ずかしくなってしまった。

「その人のところで僕は働くんだね」

「そうだな。そうとしかできんだろう。やっこさん、他のどこにもあんたが行けんようにしているはずだ。そういう真似が出来る御人ってわけだ」

 静かにチャプリーは酒を飲んだが、少しばかりペースが早まるのはどうしようもなかった。カクテルの幾層にも重なっていたグラデーションが交じり合ってつまらない単色になってしまった。

 やはり、勝手のきく旅芸人などをやっている身には、こうした不自由は受け入れ難く、どうしても心を畳んで、心に折り合いをつけるのにはきっかけがいる。それでいて、金を得ないことにはこれからの旅だって続けられないのだから、こうした理不尽も濁らせて、飲み干すしかないのだ。

「それじゃあ、迎えが来るのかい。いつ?」

「さあな、勝手な御人なんだ。遅くはならんだろうから、準備はしておくことだ」

 そのとき、ドッカとドアが開かれて、店内に風が吹き込んできた。

 二人組の男がうろんげな顔で酒場に入ってくる。

 うろんげとは……、この場合は、二人の男は酒場の客たちを犯罪者にでも会ったかのようにうろんげに見ているし、客たちの方にしても、二人の醸し出す場違いな空気をうろんげに見つめるのだった。

 こうした様子にチャプリーは耐えられない男だった。

 不理解と不理解がぶつかり合って、なじりあう様子に我慢のならない男なのだった。

「どうやらお迎えらしい。グードラ、行くよ」

「おう」

 何も言わず、立ち去ろうとしたチャプリーは一度振り返り、サンマロンの亭主にだけわかるようにさよならを言った。

 自分はどうやら人より情が湧きやすい気質らしい。やっぱり、街での生活は向いていないのだなあ、とチャプリーは独りごちていた。

 後にはわけがわからずざわめく、余所者の楽人たちの戸惑いだけがちいさく残されていた。



 翌朝、早くに少年がサンマロンを訪ねてきた。

「どうしてだよ! 旅芸人さんに会わせてくれるって言っていたじゃないか」

 子供と言っても五つやそこらの幼子ではないのである。それなのに……、男の子は恥ずかしげもなく喚いていた。

 朝食前に机を上げて、掃き掃除をするオヤジにおかまいなしでしがみついてくるもんで、この子供ながらの幼児退行にオヤジは困惑しきりだった。

「坊主、仕事の邪魔だよ」

「旅芸人さんとドラゴンさんはどこに行ったの。どこに行けば会えるの?」

 よほど楽しみにしていたのか、ショックが大きかったのだろうか、朝からどうしようもなく泣く子である。

「参ったな……」

 オヤジは頭を掻いた。

 オヤジは大いに困ったが、言い訳ヘタなオヤジには言葉がなかった。

 もう旅人は街に出たよ、とか、または正直に、南の大手に引き抜かれていったんだ、とか、それらの言葉が口の先まで出掛かっては霧散した。

 どうすれば子供を傷つけないで済むか、オヤジにはわからなかった。それにしても、チャプリーが昨晩森で、グードラとの出会いの直前に、こんなきかん坊の坊主の歌を歌ったことを亭主は知っていたろうか。もちろん、知るわけがないのであるが、

 とにかく、

 参ったなあ、ともう一度、オヤジが頭を掻くと、

 男の子はよっぽど大きな声で泣き喚いて、

「わーん」

 亭主を困らせるのだった。



 夜遅くまで演目が続いていたので、ベッドつきの部屋に通されるとさっさとチャプリーは眠ってしまった。

 そして翌朝である。

 恥ずかしいことに、目覚めたチャプリーは自分がどこにいるのかちゃんと把握できていなかった。

 明るいが窓のない部屋で、どうやら照明はランプに頼りきりのようだ。

 チャプリーは換気が悪い気がして、ベッドから起きだした。

 それは気のせいであった。エアダクトに埃が吸い込まれていくところを、チャプリーは見なかったのだろう。高い天井、清潔なベッド、暇つぶしの本――薄く埃を被っている。

 壁紙は貼っておらず、木の板が剥き出しになっている。ぱっと見でチャプリーには退屈さを感じさせる様子であったが、この部屋の個性を主張する品として、唯一、堂々たる竜の描かれたカレンダーがあった。

 良いも悪いもそこにはなく、あまりにあまり、普通すぎる一室であった。

 ベッドは部屋に二つある。

 チャプリーは奥のベッドで眠っていたようだが、となれば、もう一つはグードラの寝床か。

 そういえば、グードラの姿が見当たらなかった。

 なかなか広々とした部屋ではあるが、隠れるような場所はなく、隅まで見渡せる。いや、もしかしたらベッドの下に入ってかくれんぼごっこか、とチャプリーは、もう一つのベッドの下を覗き込んだ。 覗き込んだと言うより、簡単な木製作りのベッドを、シーツを引っぺがして持ち上げた形である。

「グードラー?」

 すると、

「キミ、キミ、何をやっているんだ!」

 バタリ、と扉が開かれて、若い男が入ってきた。チャプリーはベッドを慌てて元に戻した。

「シーツも直してくれ」

 言われて慌ててチャプリーはシーツを適当にかけ直した。チャプリーは、「ほら、キレイになったよ」とベッドを掌で撫でつけたけど、口ばかりでくしゃくしゃになったままだった。

「いったい何をやっているんだ」

 問い詰められて、チャプリーはさして悩みもせず答えた。

「寝ぼけちゃって……」

「ああ……、なるほどね」

 男は首肯する。よく見れば、青い瞳に童顔のベビーフェイスをもった、女にもてそうな好青年である。なおかつ男にももてそうな、もとい、衆人を味方につける空気を纏った男である。

 遠慮のない金髪が少々知性を鈍く見せているが、それも彼が身に纏うしなやかな筋肉に気がつけば、シンプルな気持ちの良い男として彼を映すことだろう。

「ベッドの下に秘密の扉でも見つけたか。なに、僕も時々そんな夢を見る」

 男はどっかと、ベッドに座った。手前側のベッドである。

「これは僕のベッドだよ。よろしく、僕はキミと相部屋になるスペンダーだ」


「男同士で同室とはお互い辛いな。僕はチャプリー。それで……、いったいここは? スマナイ、言った通り、まだ寝ぼけているんだ……」

「もっともだが……、こっちだって、見ず知らずの女性とご一緒できる部屋があるなら是非知りたいもんだ。そういうわけにもいかないらしい。ここはなんとも……、厳しくてね。……団長は女を連れ込むのも許さないから注意したまえ。僕が一人で使っていたんだが、他に空き部屋がなくて、キミにはここに入って貰うことになったよ。問題があれば遠慮なく言ってくれ」

「いや、そうではなくてね、つまり、ここがどこかってことなのだけど……」

「ハハハ、そう焦るなよ。わかっているさ。まさか、ここに呼ばれた理由までわからんとは言わないよな?」

 と、スペンダーが立ち上がった。無地のTシャツと伸縮性のある七分丈のズボンはどちらも発光性の強い白色だ。

「よし、行こう。それじゃあ、案内しようじゃないか」

 チャプリーはハンガーに掛けられていたチョッキを羽織った。

 扉を開けて、

 部屋から出ると、すぐに廊下がある。どうやらここは地下のようで、開けっ放しになっているのか、まっすぐ行った後伸びる階段の上から外の光が差し込んでいる。

 廊下は部屋の中とはちがって薄汚れている。チャプリーはちんたらせず、さっさと外に出たくなった。

 廊下は左右にも伸びていて、目でその先を追っていくとチャプリーは二つの扉を見つけた。

 ここで暮らす誰かしらの部屋であるか、それとも何かしらの施設であるか、それはわからない。

 チャプリーは光の眩しさに惹かれる虫であったので、スペンダーの案内を待つまでもなく、真っ直ぐ走って一人で勝手に階段を駆け上がった。

 なにはともあれスペンダーはまず、チャプリーを眩しい太陽の下、水場へと案内した。

 身支度を整える段取りであるが、なんとものんびりしている。

「まだみんな寝ているよ。起きだしてくるのは昼前だ」

 スペンダーがそう言った。

 この街は河川から地下水脈を引いて、それを街の各所に引き上げている。旅人らしくチャプリーが、「この水平気?」と聞くと、

「昔、手痛い目に合って……、だから大丈夫」

 チャプリーはそうかそうか、と頷くのと洗顔を横着していっしょにすませた。髪をばりばりと掻きまわしてチャプリーのお気に入りのいつものヘアスタイルを整えた。

 今日は朝から日差しが強かったのでまくったシャツはそのままにしておく。

 こうしてチャプリーが準備をすましてからも、スペンダーは積極的にこれ以上の案内をしようとしなかった。あさっての方を見て気取った格好である。

 スペンダーの内面は、どうやら金髪の似合わない気が利く男らしい。きっと頭がいい。タフでマッチョ一辺倒ではないのだ。

 何かというと、チャプリーの旅人らしい勝手気ままな気質を見抜いて、うるさく言わないのであった。

 時間はまだあるらしい。

 それならば、とチャプリーはそこかしこに首を伸ばすことにした。

 街見学とはいけないにしろ、なるほど、街に目をやってみればこの南側には確かに豪奢な趣がある。

 とっさにあつらえた見栄っ張りの高級感ではなく、たゆたう河の流れとともにあった月日の積もり積もりが形作った街の歴史の色合いがこの南側の角角には見て取れた。

 となれば、どの建物も真新しかった街の北側に比べたこの南側の様子なれば、こちらは竜のきまぐれな空襲からもよくよく逃れているらしいことが容易に見て取れた。

 それはもちろんあのハドスが河向こうを跨いでやってこないからこそであるが、その事情を街の住民達は知るか知らざるか。どちらにしても、街を挟んで横たわる大きな橋、そこを境にして街の有り様の違いに、雅な街の影にある薄暗い闇を見た気がして、チャプリーは少し震えた。

 それは昨日の出来事や人づてに聞いた話しからくるイメージが増長させたものであったかもしれないけど、まったくの筋違いとも思えなかった。

 このときチャプリーはとある妄想に取りつかれた。

 それはいつもの旅暮らしの度々に彼が見る、英雄気取りの夢想だった。

 いかにも間違えたこの街の有様を、この街にはこびる眩い退屈を、この僕が蹴散らせてみせようじゃないかと、いささか乱暴な夢に憧れた。

「そろそろ行こうか。こっちだ」

 涼しい風が吹いたと同時にスペンダーが歩き出した。

 だがいかんせんチャプリーは一度遊びはじめると長いタチだ。

 吹いてきた強めの風に髪をなびかせた気になって、肩で風切った気になって、街のあちこちを睨みつけて歩いた。

 ここもあそこも悪の住処か、見ていろ。僕が来たからにはもうこれ以上好きにはさせないぞと、手には悪魔に打ち勝つツルギを持った勇者であった。

 壁を相手に、のれんを相手に、誰かわからぬ石像を相手にして、手刀を振り振り立ち回った。

 しかし、

「ここだよ。昨晩も見たはずだけど、その様子じゃあ覚えていないかい?」

 広い道の奥に堂々と建つそれを見て、

 チャプリーは息を呑み緊張で真っ赤になると、ショックを受けた猫のように立ち竦んだ。

 そしてそのまま、貧血持ちの貴婦人のようにスペンダーにしなだれかかっていった。

「しっかりしたまえ。息を吸った後は吐き出さなければダメだ」

 スペンダーは迷惑そうにチャプリーの頬を打った。大きな音がした。

「キミ、適切だけど痛いよ。どうにもキミの張り手は色気に欠けるな」

「男同士が嫌なら、ドラゴンに囚われたお姫様でも救ってみたらいい。それができないなら文句はやめて必死に食い扶持を稼ぐことさ。そしたら稼いだなけなしの金を町娘に貢ぐといい。キミは言うだろう。ねえ、愛しの君、僕の頬を撲ってくれ……! 宝石をプレゼントするから……。ねぇ、それにしたって、キミはいつもそうやって突然ばったり倒れたりするのか。だとすれば、迷惑な話だぜ」

「いや、まさか。ちょっとごっこ遊びが行きすぎただけだよ」

 さすがに反省の色を浮かべるチャプリーに、スペンダーはおもしろそうに目を細めて、遠巻きに新しい友達を探る子供の顔をした。

「一体どんな風に行きすぎたんだい」

「よしてくれよ。いいから、案内してくれ」

「いいじゃないか。笑いやしないよ」

「何……本当に大したことじゃないんだ。行こう……」

 すっかりチャプリーは昨夜のことを思い出していた。その煌びやかな光景を……。夜に浮かんだ目を焼くほどに眩しく焚かれた荒々しい炎を……。

 街に根を下ろし息づいた歪な家を、チャプリーは見た。

 それは悪夢のなかの物語かと思っていたが、そうではなかった。

 目の前の悪魔の家は何者にもその内に潜む狂気を隠そうともせずに、お天道様の下であれど、メラメラとそのいかがわしさを撒き散らしていた。

 それは、チャプリーの働き先となる此処、この家である。

 スペンダーがガンガンとうるさく屋敷の扉を叩いた。

 それに答えて、ドアをうやうやしく開いたのは、分厚い化粧で顔を真っ白にした二人のピエロであった。右のピエロが右の扉を、左のピエロが左の扉を、重苦しげに引いていく。

「やあ、諸君、おはよう」

 その二人に向かってスペンダーはこう挨拶をするわけである。お日様の光と共に差し込んで来たこのさわやかな好青年をピエロは苦々しげに睨み付けていた。

 そして、どうしたことか、この二人はチャプリーの方を、より一層ねっとりと嫌らしく嫌な目で練りつけるようにじろじろと眺めまわすのであった。

 これだけでもう、チャプリーとしては悪い予感がして、動物的本能が、そら、引き返すべきだ、と告げてくるのだ。

 そして屋敷の奥には、なだらかで分厚い絨毯の道が敷かれたその先には、薄暗い地下へと続く深く幅のある階段があるのだ。これはもう、たといドラゴンであれ、厄介ごとはごめんと引き返しても良い仕掛けであった。

 しかし、いかんせん、チャプリーは人間なのだ。

 金がないと生きてはいけない身の上だ。

 獣なら行かぬであろうその道に、背中を丸めてすごすごと足を踏み入れていく以外にはないのである。

 いや、こうと書けば、屋敷の不気味さの幾ばくかでも伝わったろうか。

 そうであれば、ここらで章を引き上げたいところなのだけど、ついでにもう一押ししておこう。やはりどれもチャプリーの主観からばかりの意見なのだし、悪いところで悪いものを見せ続けることは難しくない。いつだって、悪魔は手ぐすね引いて待ちかまえているのだから……。

 チャプリーはああだか、うう、などと呻きながらおっかなびっくり、階段に一歩を踏み出した。階段を下りるにつれて、手すりがなくては歩けないほどに暗くなっていく。

 スペンダーは慣れた様子でここぞと素早く闇の中へと消えていなくなってしまった。チャプリーは頼るべき背中を失って、知らない異国の街で……、這入り込んでしまった異形の屋敷で……。一歩……一歩……、おっかなおっかな……階段を慎重すぎるくらいの遅さで進んでいく。

 笑うなかれ……、その足下は見えず、辺りは自分の手の在処もわからない有様なのだ。

 やがて……、最後の頼りであった手すりまでもが消えて無くなっていた。

 階段が尽きたのである。これはもはや後は暗闇の中へ落ちていくのみか、とチャプリーは頭をかばいつつ前向きに身体をぎゅっと丸めた。

 空間に漂う人の狂騒の残り香がチャプリーの鼻をつんと刺激する。

 チャプリーが床の臭いを嗅いで、手でそれを叩いて、そこに確かに地面があることを確認した。

 そのとき、パッと部屋の一点だけが浮かび上がった。

 眩く不気味なスポットライトの下に大男がいた。

 大男の濁った小さな瞳と目を合わせたチャプリーは、

 あまりに不吉な瞳に晒されて、

 なんとか端をつかみかけていた地面から手を滑らせて、ぽっかりと足下に開いた穴ぼこに呑み込まれていく心地になった。

「ようこそ……、ククク……、チャプリーよ……、ククク……、俺様の地下サーカスへ……!」

 暗闇に覆われた部屋の中で一人、己の欲望だけをどろどろと浮かび上がらせながら、黄金蛇ハットを頭に乗せた悪紳士が鋭く鞭を唸らせていた。




 ところ変わらず、

 地下サーカス、ここは『マゼノヨコ街大サーカス団』である。

 本日開演を午後二時に控えまして、いまかいまかと詰めかけるお客人……、押すなよ押せよの人のナミナミとは、いかないもののそれなりそこそこ……、いつも通りの開演前、準備中の盛り上がりであって、なにやら黒々しくて、暗々しい、大袈裟でものものしい暗雲立ち込め悪魔の住まう我らが悪の地下サーカス団でありますが、

悪魔が棲んでも天使が降りても、所は所、そこはそこ、人が居て、人が集まり、一個の集団として、紛う事なき不気味でフツウな生活模様を描き彩る様子は、どこへなりともところ変わろうと、変わらぬことでありました。

 ただ、そうは言っても、この地下サーカスという絵をふと覗いたときに怖気立つ不気味さ……、身の毛がよだつ……、皮膚が粟立つ……、わけのわからぬ気持ち悪さは……なんであろうか。さながら地獄絵図……、いや、それとは違うのである……。そうした仰々しさ、ある種の鬼気迫る活動写真、神々しさとはぜんぜん違っていて……、もしそうしたオドロオドロしさであったなら、それはかつてチャプリーが求めたモノと同一ですらあったのだけど……。

 そうではなく、部屋の角に積もった埃のような、いかがわしさであり、歪さである。

 すぐそこまで迫る、もう間もない開演時間の故あって、

 今、ここ地下サーカスには不気味のサーカス団員たちが一同に会している。

 これは願ってもない良い機会の到来だ。

 禍々しい、不気味のサーカス団員たちの、

 メンバー紹介と行こうじゃないか。

 悪紳士……、改め、地下サーカス団団長がピシャリと鞭を鳴らすたび、不快の鞭を振るうたび、ひとつ、またひとつと、ランプに灯りが灯っていく。

 浮かび上がったのは……

 ピシャリ……パッと灯って現れたるは、

 ドクロ顔のピエロ、猛獣使いピエロが……ライオンとウサギとカメを従えている。

ピシャリ……パッと灯って現れたるは、

 引きつり顔のピエロ、ジャグリングピエロが……ボールをお手玉お手玉引きつっている。

 ピシャリ……パッと灯って現れたるは、

 まんじゅう面のピエロ、ファイヤショウ・ピエロが……化粧の上からでも分かるほどに酒をかっくらい、赤ら顔の口から火を噴いた。

 ピシャリ……パッと灯って現れたるは、

 大男と小男、怪力ピエロと軽業ピエロ……どちらも豆粒のごときしょぼしょぼしい眼ん球を持っている。

 ピシャリ……パッと灯って現れたるは、

 への字面のピエロ、ナイフ使いピエロ……むっつりと刃物と刃物を研ぎ合わせている。

 そうして、猛獣使いピエロ、ジャグリングピエロ、ファイヤショウ・ピエロ、怪力ピエロと軽業ピエロ、ナイフ使いピエロ、以上六人の鬱々とした薄気味悪いピエロたちがスポットライトも貰えず、自ら手にした薄暗いランプの漏れ灯りに薄らぼんやりと浮かび上がっているのであった。

「ククク……クハハハ!」

 団長がひときわ大きく鞭を振り回し、ピシャリと打ち下ろすと、

ドラムロールに縦横無尽のスポットライト、打って変わって大判振る舞い華々しく、

 ピシャリ……パッと灯って現れたるは、

 ドドンと、

 派手派手しくも手を上げ、女殺しの微少を浮かべる、美青年スペンダーだ。

 彼はいかにも地下サーカス団のスターなのだ。

 そして、スペンダーの後ろからヒョッコリと顔を出したのは、

 グードラだ。

 グードラが、ころりん転がり言い放った。

「我らが地下サーカスへようこそ!」

「キミが言うのかよ!」

 この他、各機材担当さんや大道具さんで運営されるのが、この地下サーカス団である。

 地下だというのに火尾を伸ばしたロケット花火が飛び交い破裂する。

 鼓膜の側でガラスを引っ掻いたようなやかましさが巻き起こって、天井付近で花火が炸裂して地下を不気味のパレードが彩った。

 地下サーカスの演出家はなんとも派手好きであることだ。

 さあ皆様いよいよお待ちかね。愉快な地下サーカスがはじまるよ。

 あたかもサーカスの演目の一つであるような、整然とした没個性さでぞろぞろと、

 有象無象の集団が、顔のない笑い虫どもが、つまり今日のお客人たちが、どやどやと詰めかけてきた。地下サーカスを見下ろすカタチで、ステージの上に囲う形で、円くある座席のほとんどを埋めたる本日の札束、ご来場の皆様方がおいでなすった。

 なるほどなるほど、この地下サーカスがやたらと暗いのは、この形の所為なのだ。

 四方八方から見られていたのではやりづらいのがステージで、観客から見られてはいけない、準備、トラブル、事件などの諸々……を隠すため、見せるべきを見せびらかすための暗闇という舞台装置なのである。

 ポウヤポウヤと、大量の風船が天井に上がり、スポットライトが彩々色色映し浮かばせて、観客席を這うようにおもしろ怖い音楽がドロドロと流れ出した。

 ステージの上方に観衆の意識を集めさせているあいだ、チャプリーはその下で、暗闇のなかで、六人のピエロたちが駆け回り、あれよあれよの大忙しと、ステージの準備を進め、配置につくところを見た。

 このときチャプリーは何もかもわけがわからなかったから、ただ立ち尽くすままだ。

 パッと灯ってライトアップ、用意された高台、高い台、お客たちを見下ろす程に高い台へ団長が上り、ヒュンと鞭を唸らせる。

 鞭は光刃を残して空を切った。その鋭さと、一斉に弾けて割れる風船に驚いて、観衆たちは調教中の犬のように首を竦め、固まったが、もう一撃、一撃、一撃……して、スポットライトがパッと団長を中心に広がると、ステージの床に鞭によって紅いオドロオドロしいウェルカムの文字が刻まれているのが見て取れたのだ。

「諸君、拍手だ!」

 両手を広げて団長が客達に強要すると調子のよい大きな拍手が叩かれたが、歓声はなく、はしゃいだ空気もなく、その寒々しさ……、童心の欠如した……オザナリな、音ばかり大きく心ない拍手であった。

「なんてステージ……」

 チャプリーはなんだか無性にイヤな気持ちになって無意識に呟いていた。

 地下ステージ、鞭が鳴り、団長が地面を叩くとそこをスポットライトが照らす仕掛けである。

 ピシャリ、ピシャリ、ピシャリが六つで勢揃い、あらわれ出づるピエロたち。

「さあ、ご来場の皆様。いつもと同じくオープニングを飾りますは我らがピエロたちでございます。今日もまずは彼らのおもしろ可笑しい愉快なショーをご覧あれあれ。おお、哀れなピエロ達……今日こそ試練に打ち勝ち、卑しい道化の身分から……ハハハ……解放されるのでありましょうかァ……」

 舞台の中央、高台の上で両手を広げ、観客たちの期待を煽る団長であったが、観客席から漂うのはただただ冷めた眉尻の下がる無味乾燥、一刻も早く時間の経過を待つようなサーカスとしてありえないつまらなさ、それは観客席からステージへ下りてくるとチャプリーの周りをくるくると回転して、無闇にハートを掻き乱していくのだった。

 さりとて、

 六人のピエロたち、ライトに不安気に灯され、団長を、観衆を、仰ぎ見つつ、媚びへつらうように、腰を折ってお辞儀をしたのである。

「本日彼らが挑む試練! ……ライトアップ!」

 照らされたのは吊り下げられた骸骨……黄金のドクロだ。団長の黄金蛇シルクハットと共に、一本の金歯と共に、暗いステージの上でキラリと光った。

 

 


(ははあ、実に良くある演目だ)

(マヌケの猿の猿まねってわけだ。もっとも、かしこい猿は居てもマヌケな猿など本当にはいやしない。だって、本当にマヌケならわざわざチャレンジなんかしないだろ? 恥ずかしがって、森の奥に引っ込んでいるはずだ)

 と、このようにチャプリーは了解した。

 原型は『マヌケな猿、賢い猿』。

 そのアレンジで題して『六人のピエロと金髪のスペンダー』といったところか。

 それぞれの役割は推して知るべし。

 つまりこういう演目である。

 六人のピエロたちはあの手この手を駆使して、高く吊り下げられた金のドクロを我が物にしようと手を伸ばすが、取ることは出来ない。さながら棒を扱えない猿の真似である。そして賢い猿であるスペンダーが颯爽と技を披露し、金のドクロを見事手中に収めるとこういうシナリオなのである。

 それにしてもいったいなんなのであろうか……。

 この哀れなピエロたちを見下ろす観客たちの冷たさ……、嫌悪感さえも薄ら浮かぶ無関心さ……。

 ガオウと吼えたのはライオンである。猛獣使いピエロの従えるライオンが金のドクロに吼えたのだ。カメがのそのそ、ライオンがカメに乗り、ライオンの頭にウサギが乗った。

 ライオンがウサギを食べてしまわないかと心配になるところだが、良く躾けられているのでそうはならなかった。

「ブレーメンだ!」

 チャプリーがはしゃいで拍手をした。カラカラと虚しく手を打ち鳴らす音がステージの影に流れていく。観客たちは……、ああ、ステージを見てさえいないかのような無反応である……。 手を叩くのはチャプリーだけであった。なぜなら……、仕方がない……。ウサギがライオンとカメの上で立ち上がろうともまったく金のドクロに手が届いていないのだから……。

 やれやれ金の骸骨の高さ、三匹の獣を並べて見れば、やってみるまでもなく自明の理、イヤイヤ考えるまでもなく見たまんまである。

 何の期待感もなく……、マヌケな猿……ではなく、バカな猛獣使いピエロがぺこり、とお辞儀をした。

 つづいてジャグリングピエロが蛍光掛かったボールを無軌道に……放り投げた。

 ボールは金の骸骨にあたるでもなく揺らすでもなく、ただぼとぼとと地面に落ちた。

 そこには何の芸術性もなく、あるのは……。ああ、少しずつわかってきたぞ……。

 チャプリーは観客たちに共感を覚え始めた。

 何を始めることもしないで勝手に役目を終えたジャグリングピエロの次はファイヤショウ・ピエロの出番であった。

 ファイヤショウ・ピエロが酒をかっくらい棒についた火種に吹き付けるとボゥと橙の火が灯って、ステージの一点を明るく灯した。

 炎の赤は否応なく……人間の原始の記憶をほんの少しあっためるが、長くは続かなかった。炎の燃焼が一、二、三とつづいて、ドサリ……、という音で終わった。

 ファイヤショウ・ピエロが酒に酔っ払って倒れたのである。誰かが……、誰だろうとどうでもいい……本当に……ファイヤショウ・ピエロをステージの影へ引き摺っていった。

 ああ、ああ、どうだろうか……。ご足労頂きました皆様方、紳士淑女の観衆たちよ、怪力ピエロに軽業ピエロ、ナイフ使いピエロにまだご期待だろうか。

 まさか、そんなことはありますまい。あるのは苛立ちばかりでしょうよ。

 チャプリーもそうと分かり、このくだらないピエロたちの雁首揃えた退屈さに、あきれ果てていたところだった。

 案の定……、残ったピエロたちの出番を待つまでもなく、観客席から「スペンダー! スペンダー!」金髪のスペンダーを出せと、くだらないピエロたちを引っ込ませろと、ブーイング交じりの声が上がった。

(ちがうのだ! ちがうのだ! 観客たちよ、そして何より僕の友達、ドラゴンの君、『マヌケな猿、賢い猿』はこんなんじゃないんだよ。子供の頃、ステキでおかしなピエロたちの一挙一足一々動に僕は笑い転げたもんだった! ああ、あの日よ、幸せの日々よ!)


「ワワワ♪ ワワワ♪」

 

 胸に手を当て片足差し出し、チャプリーが踊りでる。


「ワワワ♪ ワワワ♪」


 くるくる踊り、ひょこりひょこりとチャプリーが拾い集めたのは、ジャグリングピエロがただおもしろみなく投げ落としたボールであった。

 いくつかの蛍光ボールを手に手に掲げて、観客たちに立ち向かう。

「やあやあ、ご機嫌麗しゅう、皆様方……。僕を御存じ? 御存じない? そうです。名無しの僕でございます。地下サーカスにフラリ立ち寄ったこのおかしな男が、見事金のドクロを手に入れて見せましょう」

 なんだ一体……、あの男は誰なんだ……。

 そんな男はどうだっていいから、さっさとスペンダーを出せ……。

 おい、見ろよ。あの男、ボールを宙に放り出したぞ。ああ、でもなんだ、あれじゃあ、さっきのピエロと同じじゃないか。てんでばらばら……。行方知らず……。いや、待て。よく見ろ。あのボール、どんどん加速していって、そうか、ジャグリングしているんだ。それだけじゃないよ。ほら……。ボールの蛍光の光がまるでつながっているみたいに……。そして、それが絵みたいに……。「わかった! お城だ!」「ちがうよ! お姫様だよ!」「おお、子供たち、仲良くしなさい。パパに場所を空けて……。こりゃ驚いた。見る角度によってちがう絵になっているんだ……」

 それにどうやら、ほら見てごらん、ボールがさ迷いさ迷いしてるけど、だんだんドクロに近づいているみたいじゃないか!

「ククク……、盛り上がってきたナ……。ミュージック!」

 団長が抜け目なく指示を跳ばし、しゃんしゃんほわわんとマヌケでいかにも転びそうな音楽が流れ出す。

 チャプリーがドクロの下をイッタリキタリ、チャプリーがドクロに近づくたび期待の吐息が、離れるたびに溜め息が……、観客席から漏れ聞こえてくる。

 ギリギリ紙一重で、ボールがドクロに当たらない。ああ、惜しい、もうちょっと! しかし……、そこで……、おい、誰か。ちゃんと片付けておかなかったのか。ファイヤショウ・ピエロがこんな邪魔くさいところで寝ているじゃないか! へぇ、ごめんなさい……、この野郎、まるまる太りやがって、重かったもんで、つい……。

 チャプリーがファイヤショウ・ピエロにけっつまづいて、ころころごろりん、でんぐり返し、照明さんそこをスポットライトで追いかけているけど、そんな場合じゃないぞ。

 そっちには、団長が高々登った登り台があるじゃないか!

 チャプリーが、がらがらどっしゃん台にぶつかり……高台がぐらぐら揺れた……。

 これには「ククク……」と笑う不気味な団長もオドロ驚き、台の淵縁にがっしり手をつき驚いた。あぁ、見せたかった。このときの団長の顔のおかしかったこと!

 おおお……、と観客席がざわついたけど……、団長がもうすっかり揺れがおさまっているのに淵縁にべったりしがみついて離れないもんだから、観客席からクスクスアハハと笑い声が漏れ出てきた。

 照明さんったら、こんなときまでしっかり団長を照らしてライトアップしているんだよ。

「この……! 笑うなクソ共が! おまえは寝てないで立て!」

 小さな目の下を赤く染めて、団長がチャプリーに鞭をふるった。

 ピシャンの音に驚いて、チャプリーは跳び上がった。団長の鞭が追いかけてくる。パチン、パチン、何の音?

 団長の鞭がもう少しで上手くいきそうだった蛍光ボールを割っているんだ。

 チャプリーが手を広げて抗議をすると、団長は肩を竦めて鞭を引っ込めた。

「何とかしろ!」

 何とかしろったって、いったいどうすれば?

 使えそうなものと言えば……。

 両手の人差し指を突き出し歩いて、踊り歩いて、チャプリーはナイフ使いピエロからナイフを奪い取った。

 しかし……、これはどうにも……。チャプリーはスポットライトに照らされながら、ナイフを掲げ見て、自信なさげに首を振ったのだった。

「いいからやるんだ!」

 そう言われ、鞭を振るわれては、やるしかない。

 チャプリーはおもいっきりナイフを空へ向けてぶん投げた。

 そして、見事、金色のそれに、ナイフが……。いや、なんてこった。ナイフが刺さったのは、団長の被った黄金蛇ハットじゃないか。

 観客たちは、目を見開き、拍手を途中でやりかけて止したような姿勢で固まっていたけど、誰より驚いたのはもちろん団長だ。

 じわりじわりと、驚きが冷め、解ける前に、チャプリーは次の、次の、ナイフを投擲した。

 そして、それは少しずつ、下がっていく。

 黄金蛇ハットに突き刺さりながら、下へ……、下へ……。つまり、団長のいかつい顔面へと近づいていく運びである。

 おお、危ない、次こそはきっと顔面だ。おい、やめろ、いったいどこを狙っている。おい、やめろ!

 たまらず……、団長が鞭を振るった。ナイフは? さあ?

 それより、団長がナイフを叩き落とそうと振るった鞭が、黄金のドクロにぶつかったぞ。

 そして、見てみろ。

 黄金のドクロが落ちていく。

 見事、あの男、チャプリーの手中に!

 手を広げ、黄金ドクロを受け止めようとするチャプリーだが、そうは問屋が卸さない。

 だって、お題は『マヌケな猿、賢い猿』であるからして。

 ナイフの行方……、最後のナイフはあらぬ方向に飛び、それは猛獣使いピエロのライオンの自慢のたてがみを切り落としていた。なんてマヌケな、ライオンは頭にお皿を乗せたハゲ頭じゃないか。

 怒ったライオンが跳びかかってきた。こいつはマズイ。黄金ドクロは捨て置いて、チャプリーは逃げ出した。そこで、こっそり、黄金ドクロを掴んだのはライオンの背中に乗ったままでいたウサギであった。

 ライオンはチャプリーを追い、チャプリーは団長のいる高台へとよじ登り、ウサギはライオンの背で踊る。

「ククク……。スペンダー、カマン!」

 ロープがステージの右から左へ、優雅に華麗に、空飛ぶ男、スペンダーがウサギから黄金ドクロを奪い去り、観客たちに手を振った。

「一礼!」

 こうして高台にしがみついてチャプリーが、新品の帽子に何本もナイフを突き刺して団長が、ロープにぶら下がりスペンダーが、観衆に向かって、うやうやしくお辞儀をしたのであった。

 チャプリーの地下サーカス出演第一幕は、見事盛況盛り上がり、人々の口におかしな男の土産話を咥えさせて幕を下ろした。


「グーオウ」

 幕は下りて、夜が更ける。

 観客は去り、ピエロたちが片付けを終えると、グードラが鳴いた。

「おかしいぞ。どうなっているんだ。グォウには、さっぱりわからない」

 チャプリーとスペンダーは今日の大盛況を祝い先に町へと繰り出していった。

 グードラは残り、疲れへこたれ、顔をうつむかせて家路につこうとする六人のピエロたちを見て、こう言ったのだ。

「今日のおまえたちはよくなかった。なのに、なんでおまえらは怒られないんだ?」

「怒るって誰が?」

 ぽつりと返したのは小男、軽業ピエロだった。

 それは会話のボールを投げ返したわけではなく、ただ単に心に浮かんだ疑問をそのままつぶやいただけだった。

「みんなだ。サーカス団のみんな、誰もおまえたちにとやかく言わないんだな」

「とやかくっていったい何をです?」

 ナイフ投げピエロが荷物をまとめながら聞いた。腰を据えてお話をしようという気はなさそうだが、さっさと切り上げようという腹もなさそうな。

 帰りがけにテーブルの上に置かれた、ビスケットに手を伸ばすような気軽さで。

「いろいろ言うんだろ。人間は『とやかく』、間違ってないだろ?友達同士ってそういうもんじゃないか」

「友達? 何を言いたいかよく分からないが、我々は友人同士ではない。社会的なつながりを持った同僚だよ、ドラゴンにはそういう形のつながりはないのかい」

 質問を質問で返したジャグリングピエロをグードラは無視した。

「それじゃダメだ。人間は弱いから、ダメなことをしたら、上手く出来ないヤツがいたら、誰かが叱ってやらないと。優しくしてやらないと。だって、人はそうだから面白いんだ」

「私たちは何のミスもしていない」

「いつも通りだ」

 猛獣使いピエロと怪力ピエロがそれぞれ言った。

「いつも通りならなおさらダメだ。おまえたちはつまらない。ショーは愉快なんだ。つまらないのはダメだ」

「それは俺たちの仕事じゃない。俺たちはスペンダーの引き立て役、だから団長だって」

 早口で、いかにもさっさと帰りたそうなファイヤショウ・ピエロが寝ぼけ眼で朦朧と答え、そして自分の言いかけた言葉に気がついて、はっと口をつぐんだ。

「だから──、期待していないから、団長はおまえたちに、何も言わないのか?」

 残酷にもグードラが、はっきりと言葉のつづきを紡いでしまった。

「上手くやれたらきっと変わる。人間たち、おまえたちは変わり続ける生き物なんだぞ」


「ドラゴンさん、ドラゴンさん、言いたいことはわかりました。私らの体たらくをお笑いでしょうが……、放っといてくれ。私たちはこれでいいんだ。諦めている。日々ただ必死で、疲れ果てている。芸を磨く時間なんてない。いまさら誰も私たちに期待していない。それならもうそれでいい。明日も仕事だから、もう帰らせてくれ」

「いや、違う。一歩を踏み出せばおまえたちは変わる。おもしろくなる。おまえたちの人生はおもしろくなるんだ」

「ああ、バカバカしい、それがどんなに大変か、ドラゴンさん、強い強い、何でも出来るドラゴンさんにわかるもんですか」

「ああ、わかるぞ。わかるんだ。グォウはだって、泣いていたんだから。暗い森の中で、どこへ行ったらいいか分からずに、泣いていたんだ」

 チャプリーがグォウがあの暗い森から連れ出してくれたんだ。

 少々揺れるグードラの瞳にピエロたちは、

「ああ、そりゃあ運が良かった! 羨ましいことだ。だがね、ドラゴンさん、町の中では、人の生活の中には、ロマンチックな出来事は、起こらない。誰もが自分のケツを拭うのに夢中で、他人のことなんてどうだっていいからだ」

「グオーウ! グォウはそんな風には思わないぞ。だって、それなら、物語はいつはじまる? 革新はいつ起きる?」

「そんなこと」知るもんか……。

 最後まで、ピエロたちは言わせてもらえなかった。今夜のグードラは人の話しを聞く気はないようだ。皆まで言わせず、グードラは遮った。アリアみたいに……。

「ピエロたち、良く聞くんだ。チャンスはある。誰だって、人生は、そんなに厳しくなくっていいんだ」

 人生はそんなに厳しくなくっていいんだ。

 グードラはもう一度、繰り返した。

 

 

 今夜町のとある場所、日頃、紳士淑女が洒落た時間を過ごす静かなバーは異様な盛り上がりを見せていた。

 踊る阿呆に見る阿呆のトンテンチキチキの装いで、マスターもこうなりゃヤケよ、といつもとはちがう我が店の有り様を受け入れ容認することに決めていた。

 店では今夜の街の主役、チャプリーとスペンダーが飲み明かしていたのだ。

「やあ、チャプリー、最高だな! 君はなんて愉快なヤツだ」

「なあに、スペンダー、君だってノリがイイヤツだ、今夜がこんなに楽しいのは君のおかげだぜ」

「僕一人ではこんな風にならなかったさ。君に釣られたんだ」

「なにを言うもんか。謙遜はよせ。ほら脱げ! いいから脱げ!」

「ぎゃあよせ! なにをする!」

 ぎゃはは

 ぎゃはは


 パイやケーキが空を飛び、シャンパンがばらまかれる。トイレから戻ってグロッキーだった紳士がパーティーの様子に顔をほころばせ、反省なく酒をまた煽りだした。

 なあに、今夜くらいはいいじゃないか。

 なんてったっておかしな男が街へやってきた第一夜なんだから、盛り上がらない方が嘘だ。

 だけど諸君、マズイ事故にだけは気をつけてくれ。

「僕らの出会いに乾杯!」

 気の合う二人は旧知の間柄のように肩を組んで、杯を交わして、

「今夜に乾杯!」

『カンパイ!』

 とある小さな洒落たバーをパーティー会場に変えていた……。



 次の朝のことである……。

 ところ変わって……覚えているだろうか。あの宿、サンマロンのことを。テーブルに座ってオヤジが深い溜め息をついていた。

「おじさん、いったいどうしたのさ」

「坊主こそどうした、今朝はなんの用だ」

「旅芸人さんがいるかとおもって……」

「ここには戻ってこないって言ったろう」

「そうだけど、もしかしたらって。なにか忘れ物を取りに来るかもしれないだろ」

 忘れ物なんてないよ、主人は言いかけてあることに気がついた。

 チャプリーがサンマロンで酔客たちを楽しませたハーモニカが、カウンターの片隅に置かれっぱなしになっていたのだ。

「あの夜は素晴らしかった。奇跡のような夜だった……」

 オヤジはハーモニカを手に取ると、ふと考え、ボウヤを見た。

「坊主、いつまでも旅人を待っていたって空しいぞ。それより……」

 オヤジはハーモニカを坊主に差しだした。

「吹いてみないか」

 坊主が息を吹き込むと音が鳴った。

「むずかしいよ」

「いいや、筋がいいな。そいつはあの旅人が置いていったもんだ。どうだ、坊主、そいつをはじめてみないか。やり方を教えてやる」

「旅芸人さんが? こいつを吹けるようになったら、ぼくも旅芸人さんみたいになれる?」

「そいつはどうかな。わからんが、誰かがおまえの演奏を聴いて、なにか思うかも知れん。楽しくなったり、感動したりするかもしれん。ただそれだけだが、それをどう思う?」

 オヤジは聞き、坊主が答えた。

「うん、わかんないけど、それって、ワクワクするね」

「ああ、そうだろう」

 そんな一幕……。サンマロンでのちいさな出来事。

 チャプリーとスペンダーのコンビは上手くいって、地下サーカスの興業は盛況だった。

 ピエロたちは相変わらずで、団長はあくどかったが、チャプリーは給金を受け取り、契約は終わりに近づいていた。


 そして、事件は起こった。

 町の中央に、橋を隔てて南側にも北側にも人が集まり、身なりの違う住民たちが川を挟んで顔をつきあわせていた。

 皆、一様に興奮し青ざめている。

 今朝になると、悠遠なる命の河、マゼスト大河が、枯れ果てていたのだ。

「いったいどうなっている!?」

「マゼスト大河が干上がっていく!」

「グーオウ、こりゃあいったい何が起きているんだ?」

「決まっているじゃないか」

「あの恐ろしいドラゴンの仕業だ」

「あの泥まみれの汚らしいドラゴンが、ついにマゼスト大河に眼をつけやがった」

 その言葉に、誰かの言葉に、チャプリーとグードラはハッとなった。

「ハドスだ!」


 こうしちゃいられない。アリアの居場所がついにわかったのだ。

 二人は町に来て、調べども調べどもいっこうに行方の知れなかったアリアとハドスの居所をついに突き止めた。

 ハドスはマゼスト大河の川上に居るに違いない。

 少なくとも、今、この瞬間は……。

「団長さん、行かせてください。どうしてもやらなくちゃいけないことがあるんです」

「イエスかノーか。チャプリー、答えはノーだ。契約はまだ残っている。どうしても行くなら金は全部置いていくんだな」

「そんな! 文無しじゃ生きていけない」

「ククク……、英雄譚のように見栄を切らんか! 金貨を投げ出し、己の正義を蕩々と説くがいい」

「そうは出来ないのが人の生活でしょう……。あんたは雇い主だ。そんなことわかっているでしょうに……」

「ククク……。そうとも……、わかっているからこそ、わしは金の卵を飼い成らし、金を儲け続けている。今までも、これからもな……。はっきり言おう。わしはおまえを手放す気はない。わしにはそれを可能にするだけの力がある。この町から出られると思うな……」

「人の命が掛かっているんだぞ!」

「ククク……ククク……、おかしい、おかしい! わしにはそんなこと……、関係ないではないか……?」

「チャプリー……、やるか?」

「ああ、グードラ、それしかないかもしれないな」

 ビリビリと、空気が張り詰めて……、そこに割って入ったのはスペンダーだ。

「待ってくれ。いけないよ。ヤケを起こすモンじゃない。チャプリー、グードラ、それなら提案があるんだ。僕の話を聞いてくれないか」

 居ても立っても居られないグードラとチャプリーだったが、歯を食いしばり、スペンダーの言葉を待った。

 だって、チャプリーにはこんな期待があったのだ……。

 もしかして……、なにもかもが上手くいき、町に戻ってこられたら……、この街は僕を、受け入れてくれるかもしれない……。

 そのためには、たしかにスペンダーの言うとおり、問題を起こすことはしたくなかった。

「最後に一幕……、一幕だけやってくれないか。突然君たちに出て行かれたんじゃ、こっちもマズイんだ。わかるだろ? 最後に華々しくファイナルを飾ってくれないか」

 重い時間が空間を圧迫し、チャプリーは悩み、答えた。

「いいだろう。一幕だけ、最後につきあおうじゃないか」

「チャプリー……いいのか?」

「グードラ、仕方ない。今ここで、問題を起こしたくないんだ」

「グーオウ、チャプリー、それなら、グォウにもやりたいことがあるんだぞ」

「いったい何の話しだよ……。グードラ、なんだって? 君はそんなことを……。なるほど、そいつはおもしろい……でも、そんなことができるのかい?」

「わからないぞ……、そればっかりは、あいつら次第だ」

 内緒話はこちらばかりではない。

「ククク……、なんのつもりだ……スペンダー……」

「団長、僕に任せて、考えがあるんです。隙を見て……」

「ククッ……、ククク……」



 ステージの幕は上がり、頬を薔薇色に紅潮させた人々が、狂乱愉快な地下サーカスへの階段を下っていく。

 もっぱら話題に上がるのはチャプリーで、スペンダーの登場を期待する黄色い声もすでにそこかしこで上がっている。

 そこで突然、

「お集まりの皆様──、出会いがあれば、いつかは別れが来るものです。風に流され立ち寄ったマゼノヨコ街、楽しい街でした。どうやら、この風来坊にまた旅立ちの時がやってきたようです。いつかまた、出会える日を願って、これが僕の最後のご挨拶! それでは今日も我らが地下サーカスのおかしなショーにお付き合い願いましょう!」

 チャプリーからこんな発表があって、

 あのおかしな男がいなくなるのか!?

 バカなことだ、ミスミス逃がすとは……。

 あの団長ももうろくしたか……。

「ファニーマン、楽しかったわ! ありがとう、キスしてちょうだい!」

 観客席は騒然となった。

「それでは今日も狙うは一攫千金、ゴールドラッシュ、黄金ドクロは誰の手に? さあ、皆様、哀れな卑しいピエロたちが黄金ドクロを奪い合うよ」

 天井では大量の風船が一斉に浮かび上がって割れて、たった一つ、黄金色のドクロが残されていた。

 それは天界から落ちた神の宝のごとく、ゆっくりとステージの中央へと落とされていく。

 そこに顔を見合わせ……、遠慮がちに、役割を譲り合うかのように……誰かに押しつけるようにして、六人のピエロたちがドクロに跳びかかったところからステージははじまった。

 ピエロたちが黄金ドクロを奪い合うという遊びであるが、それぞれが互い互いを邪魔して、ピエロたちの楽しいマヌケを見せつけ合うコメディ・ショーだ。

 これがなかなか難しくて、ドクロを奪われるタイミング、手放すタイミング、それを不自然さなく演技しなくてはならないのだ。

 さて、この前座扱いのピエロたち、チャプリーが滞在している間、芸を磨いていたのかというとそんなことは一切なくて、今日も変わらず、やる気なく、不格好に、観客たちをつまらなくさせているのだった。

 ナイフ使いピエロのナイフを怖がって、軽業ピエロは黄金ドクロを抱きかかえて丸くなってしまうし、ジャグリングピエロのボールに当たるのを嫌がって、猛獣使いピエロはすぐにドクロを投げ出してしまう。

 ファイヤショウ・ピエロは火を噴こうとしていたが、上手くいかずに酔っ払って寝てしまった。

 今日の彼らは特別酷い。

 いや、しかしこのピエロたち、芸は確かに酷いものだが、何も素人というわけではないのだから、まったく見られないものではないはずなのだ。

 タイミング悪く、かんじ悪く、今日のピエロたちはいつにも増して酷い出来だった。

 それも、チャプリーが地下サーカスから去る『ラスト・ステージ』と聞いたあとのことであって。

「チャプリーを出せ!」「スペンダーを出せ!」

「引っ込め!」

 このような罵声が聞こえてきても、仕方のないことだった。

 これにピエロたちは、もう今日の仕事は終わりだとばかりに芸を止め、チャプリーとスペンダーの登場を、自分たちのお役ご免のお達しを、ただ、突っ立って待っていたのだ。

 しかし、そこに現れたのは、

「ヨォ、驚いたか? つよ~いドラゴン、グードラ様の登場だァ」

「あ? なんだ、今日はあんたがでるのか、じゃあ後は任せるからさ」

「がはは、竜の宝、黄金ドクロを奪うバカな人間ども、愚か者ども、その罪を知れ! 罰を受けろ。黄金ドクロをその手に持つものは紅蓮の炎に焼かれるのだぁ」

「はあ? いったいなに言って……」

「ブーッ」

 一閃。

 グードラから蒼白いブレスが射出され、鋭い閃光が縦横無尽にステージを、メラメラと縫い上げた。

 閃光、破裂、轟音の衝撃が地下サーカスを駆け巡る。

「まさか、あれってドラゴンなの? 本物?」

「スゲー、ドラゴンブレスだぜ、かっこいい!」

「皆様方、グードラのドラゴンブレスは人体に一切、有害性はございません。お気になさらず、ショウをお楽しみ下さい!」

 どこからか無責任な声が上がる。

「有害性がないってのはなんだ。教えてくれ、痛くないのかね」

「たしかに苦しむことはなさそう……。直撃したら、それで終わり」

「打ち合わせにこんなのなかった」

「どういう演目か誰か説明してください」

「知りませんよ……。私がなんでわかるんですか。ああ、わかった……。ドクロを持っている人が狙われるんだ。今持っているのは……起きろ! ファイヤショウ・ピエロ!」

 ドクロを抱えて眠りこけていたファイヤショウ・ピエロを、小柄な軽業ピエロが叩き起こした。

「なんだ、出番か」

 驚いたファイヤショウ・ピエロが目覚め一発酒を火種に吹き付けると、ボゥと小さな火が灯り、ファイヤショウ・ピエロは少し得意になった。

「へへ見ろ、どうだ」

 友達ではなく同僚、と表したのはジャグリングピエロだったが、寝起きの酔っ払いファイヤショウ・ピエロはまんじゅう顔を満面にして、同僚たちをまるで友人のように、久しぶりに会った旧友のように見た。

 ついジャグリングピエロは照れくさそうに笑い返したが、なごやかな雰囲気は束の間、グードラのドラゴンブレスがファイヤショウ・ピエロの命の灯りのように精一杯だった小炎を掻き消して、衝撃、動乱、荒れ狂う。

 のたうつ大蛇のように恐ろしく、風に流れる美女の髪のように美しく、ドラゴンブレスは荒れきらめいた。

 見惚れや怖れや、ファイヤショウ・ピエロは手にしていた黄金ドクロを宙へと放り出す。

 黄金ドクロは空を舞う。ゆったりと、やけにゆっくりと、上昇する放物線を描きながら、その最高到達地点へと昇っていった。

 六人のピエロたちは口を開けてそれを見ていた。

 誰も手を出そうとしない。黄金ドクロを手中に収めようとするものはいない。

 そりゃそうだ。だって、黄金ドクロを手にしたものは恐ろしい竜に狙われるのだ。それじゃあ、誰も手を出す道理がないじゃないか。 そんなこと、子供にだってわかる。ところで、子供に説教をするときに必要なのは、正しい道理だろうか? いや、そうじゃない。必要なのは、二度とやるまいと反省させる、頭ではなく心に届く迫力なんだ。

「黄金ドクロを奪った不埒ものども、ドクロを手に取らぬならば、容赦なくドラゴン・ブレスがその身を焼き尽くすぞ!」

 そんな無茶な。説明になっているのか、黄金ドクロを手にしたものは身を焼かれるし、黄金ドクロを誰も手にしなければやっぱり身を焼かれるしで、理屈を通す気は一切ないらしいグードラが、これが一番わかりやすいでしょうと、火炎放射器のような破壊の炎をばらまいた。

 これまでの蒼い閃光のブレスとはちがう、赤々と燃える火炎息がステージで燃え盛り、六人のピエロたちの衣装を焦がす。

「あちぃあちぃ、こりゃマズイ。全員焼け死んじまう。ええいクソ頼んだ、軽業ピエロ……、ヨーイ、ソラ!」

「私ですかァ!?」

 怪力ピエロに高く跳ばされた軽業ピエロが空中で黄金ドクロをキャッチした。

 すると、ステージを焦がし、ピエロたちを焼き上げようと燃え盛っていた、真っ赤な色の炎がスゥ……と、消え失せていった。グードラの吐く赤い炎は無作為にばらまかれ、地面を焼き続けるが、誰かがドクロを手にすれば消え失せる仕掛けなのだ。

 黄金ドクロをがっちり掴み、手応え掴んだ軽業ピエロはニコリ、と微笑んだが……、容赦なく、間髪入れずに鮮烈碧色のドラゴン・ブレスを吐きださんとして、こちらに照準を合わせているドラゴン・グードラと視線が交錯するとゾッと顔を青ざめた。

 軽業ピエロ、すかさず黄金ドクロを地面に向かって投げ出した。

 こりゃ、情けないとは誰のことか。

 さてはて、地上に軽業ピエロを待つものはなく。

 ――黄金ドクロを受け取ろうとするものは誰もおらず、地上に残ったピエロたちは全員残らず、わっと蜘蛛の子散って逃げ出したのだ。ああ、無情。

「あなたたちって、なんてふざけたヤツラ……」

 軽業ピエロは呆気に取られたマヌケ面のそのままで落下していった。「ええっ、そんなバカな……」って首を傾げたもんでそっちの方に傾いて落ちて、地面に肩や肘を打って着地した。

 目の前に見えるのはカランカランと跳ね転がる黄金ドクロ。

 そして天上には、見上げずとも、ひしひしと存在を感じさせてやまないドラゴン・グードラが、またもや皆殺しの紅蓮の炎を吐かんとしていた。

 軽業ピエロは両足を回転させんばかりの勢いで跳びだして……、一度つかみ損ねて指を打ち……、黄金ドクロをそら掴まえた!

 止まるわけにはいかない……ここで止まるわけにはいかない。

 軽業ピエロは身が軽いことしか能のない男であった。

 とにかく足を動かして、誰かしらに黄金ドクロを押しつけるしかなかった。

 軽業ピエロは身の軽さを活用した独特の走法でもって追いかけたのはジャグリングピエロで、これはジャグリングピエロならば、きっと容易に黄金ドクロを押しつけられるだろうと考えたからで、そしてその読みは正解で、足も速くなく、力も強くないジャグリングピエロは大した抵抗もできずに黄金ドクロを掴まされた。

 さあて、グードラは優雅に旋回、空転、次なる狙いをジャグリングピエロに定めたのであったが、これに対してジャグリングピエロは「わたしのためにケンカしないで!」のポーズで答えたのである。 つまり……、胸の前で拳をつくり両手を震わせたポーズ……イヤ、違う。天に向かって、両手を真っ直ぐに伸ばしてぶんぶか振って……イヤ、違う。

 両手を左右にバッと突き出して、掌を広げたかっこうである。

 これはいったいどうした意味か。

 ジャグリングピエロは、蛍光ボールを四方八方に投げ放ったのだ。

 蛍光ボールは怪力ピエロの顔や壁にぶつかり跳ね返った。

 顔面にジャストミートした怪力ピエロは頭をふりふり、眼を開けてグードラのブレスが黄金ドクロの所有者を付け狙うブレス、ブルー・レーザーの色であることを確認した。

 皆殺しレッド・フレイムでないことにほっとしたのも束の間、グードラは神々しい青白さを身に纏いながら向きを変え、真っ直ぐにその赤眼を怪力ピエロに向けたのである。なんたることか。

 怪力ピエロは隣に居合わせたファイヤショウピエロと顔を見合わせた。

 どうやらこの状況を察するに……これは、ジャグリングピエロがなんらかの方法でもって、いつの間にか怪力ピエロに黄金ドクロを押しつけたに違いないのであるが、誓ってジャグリングピエロの手から放たれたのは蛍光ボールのみで、黄金色に輝くドクロなどは確かに宙を舞わなかった。

 いったい、どうやって……。

 それはこうである。ジャグリングピエロは蛍光ボールを四方に投げ放つ瞬間、ちょこざいにも足下に黄金ドクロを落とし、広げる足で蹴飛ばしたのだ。壁にぶつかり派手に飛び跳ねる蛍光ボールはそれを隠すためのフェイクだったというわけだ。恐るべきは自己防衛の悪知恵か。

 ジャグリングピエロの蹴飛ばした黄金ドクロは、見事狙い通り……怪力ピエロの足下にすべり入った……という次第である……。

 今更ながら黄金ドクロは煌々と照りだして、怪力ピエロに己のありかを主張した。俺はおまえの側にいるぞと。

 黄金ドクロを拾い上げた怪力ピエロは、正に放たれる直前のドラゴン・ブレスに慌てて、こりゃあマズイとすかさず、ファイヤショウピエロに黄金ドクロを投げ渡した。

 放られるとつい受け取ってしまうのがピエロの職業病というヤツで、投げ寄越されたもんはついキャッチしてしまう悲しい性で……、ファイヤショウピエロは丸い身体とアルコールの残った頭を引きずりながら、「オレに渡すな! 待ちやがれ!」筋肉隆々、すたこらさっさと逃げようとする怪力ピエロを追いかけた。

 どうやら怪力ピエロ足の速さには自信がないようでどっしんどっしんと走っていて、ファイヤショウ・ピエロは必死に追い縋ると、怪力ピエロの横に並んだ。そして投げ投げ、手にしたドクロを怪力ピエロに押しつけ返した。

 こうなると、百貫男の、ヘビー級二人の追いかけっこである。

 二人は平行に走りながら、投げては受け取り、受け取っては投げてと、ドスンドスンと押しつけ合った。

 しかしそれほど経たぬ内、巨漢の弱いところで、たちまち体力の尽きた二人は疲労困憊立ち止まって、ああ、このままでは二人とも共倒れの丸焼きだ、と肩でぜぇぜぇ目を合わせた。

 怪力ピエロの怪力任せて、ドクロを高く放り上げると、二人はとにかく狙いをつけた。

 それは我関せずを決め込んでいた、猛獣使いピエロである。

 どうしてこいつが傍観を決め込んで居やがるのかというと、強いボディーガードがいるからである。

 褐色毛の、自慢のたてがみを先日切られてハゲになったライオンだ。

 ファイヤショウピエロが近づくと、グルルゥ……、と唸り声を上げながら、猛獣使いピエロを守ろうとライオンが前に進み出てきた。

 しかし、これは二人の狙い通り。

 ライオンがファイヤショウピエロに気を取られている隙に、怪力ピエロが主人以上の気ままな心で踊り回っていたウサギを捕らえ、捻り上げた。

「そいつは勘弁してやってくれぇ!」

 たちまち猛獣使いピエロが血相を変える。ライオンも同様でちいさくなって服従のポーズで言うことを聞きますのでそいつを離してやってくださいまし、としおらしくなった。

 ファイヤショウピエロはようやく落ちてきた黄金ドクロを片手でキャッチすると、怪力ピエロといっしょに、へっへとあくどく唇を歪めた。

 そして、無抵抗の、可憐な娘のごときライオンの禿頭に、黄金ドクロを結びつけたのである。

 これにもうライオンは顎が外れるくらいに動揺して暴れ出した。

 ライオンは二足歩行もなんのその、観客席に跳び込むくらいの勢いで、壁にぶつかり、床を掘り、大混乱のこんちきちき。

 どうにか助けてやらねばと、猛獣使いピエロはウサギを頭に乗せて、大人しくしなさい、大丈夫だから、と追いかけたが、……頭の上に、今にも爆発しそうな爆弾が置かれていたらどんな気分であろうか、人の声など耳に入るはずもなく、ライオンは暴れに暴れてステージ上を駆け回った。

 逆境に弱いライオンは、もうステージの上のあれやこれや、高台や、舞台道具を蹴散らして、けっきょくピエロたちを巻き込んで、盛大盛況追いかけっこと相成った。

 ライオンはカメを蹴飛ばして、手足を引っ込め防御の姿勢でじっとしていたカメに、作用を加えれば滑る、滑る。

 大きなカメがピエロを跳ね飛ばし、壁を削り壊し、ステージ上は大混乱のこんちきちき。

 ただ猛獣使いピエロの頭の上で、踊り狂うウサギだけが楽しそうだった。

 そんな様子で……ステージ上の誰しもが、グードラがもうドラゴン・ブレスなんて吐いちゃいないことに気がついていないのだった。

 そして、アハハ……アハハ……こいつはおかしい……こりゃおかしい……と天から笑い声が降ってきた。

 楽しげな雰囲気がステージ上でくるくる回って、ピエロたちを暖かく包んで、ステージ上のピエロたちも次第に変わっていく雰囲気に気がつき始めていた。

 ハッと見上げて……、観客席の人々の顔……、腹を抱えて、頬を紅潮させて……。仕事の疲れも吹っ飛ぶような笑い顔、人々の笑い顔……。ステージを埋め尽くすほどの、この人たちの心に灯りを灯したのは僕らなのだと、ピエロたちは気がついて、誇らしい、晴れやかな気持ちになった。

 ピエロたちは手を繋ぎ、ゆっくりと腰を折った。

 そして、すると盛大な拍手が巻き起こる。

 ピエロたちは、チャプリーのような天才的な閃きはもっていないけど、スペンダーのような華麗な技をもっていないけど、それでも彼らのやり方で、マヌケな彼らが、フツウの彼らが、人々を楽しませる自分たちのやり方を見つけたのだ。

 ピエロたちは自分で気付かぬうちに、ただただ必死に走り回る内に、何者でもなかった自分を、何者かに――変えていた。

 そして……。

 ステージ中央で膝を地面につけて両手を広げる者がいた。

「また出番がなかった!」

 ナイフ投げピエロだった。

 ナイフ投げピエロが、手を結ぶピエロたちやライオンやウサギやカメのその後ろで、大袈裟に嘆いていた。

「今日も出番がなかった!」

 観客たちが再び笑い出した。

 


 ステージが暗くなり……、

「恐ろしいドラゴンめ、退治してやる!」

 鋭いスペンダーの声が響いた後、

 パーン……と……、

 銃声が鳴った。

 なにかが引き摺られていく音……。



「グードラ?」

 チャプリーが、舞台袖から様子を見ようとしたそのとき、

 頭部に衝撃が走った。

 地下サーカスが光に照らされていくことを感じながら、人々のざわめきを聞きながら、チャプリーは意識を失った。



 眠っていたのはほんの短い間だった。

「グードラはどこだ?」

 起き上がると、そこはスペンダーと寝起きを共にした地下の部屋だった。

 最初の日と同じように目覚めると、やはりスペンダーの姿はなく、チャプリーは起きだして部屋から出た。

 廊下を進み、階段に足をかけると、ひとりでに扉が開いた。

 階段上にある、地上へと続く扉が。

 地下室へと足を踏み入れてきたのは、地下サーカスの団長だった。

「ククク……もう、目を覚ましたのか」

「なんのつもりだ。グードラをどうした」

「別にどうもしていない。眠らせているだけだ……」

 コツ、コツ、と靴を鳴らしながら、団長が階段を下りてくる。

「……なに、そう警戒するな……。様子を見に来ただけだ。おまえとグードラのな……」

 そう言うと団長は歩み進んでいって、廊下を降り曲がった先の……、まだ入ったことのない一室の……扉の前で立ち止まった。

「ここにグードラがいるのか?」

 チャプリーがギロリ、と団長を睨み付けた。

 しかし、団長はまったく動じず……

「ククク……そうだ。まあ、待て……。スペンダーに一任してある。鍵は俺様も持っているが、なにせ竜を捕らえているんだ……。強力な薬を用意しているのでな……」

 団長が悪の言葉を口にする。

 チャプリーは怒った。

 悪団長の燕尾服を掴み上げ、捻り上げる。

「今すぐにこのドアを開けろ!」

 ガラガラガッシャン!

 何の音か? ――団長が太い腕を一薙ぎしてチャプリーを振り払い、そのあまりの強烈な勢いにチャプリーは倒れ、壁に身体を打ち付けた音であった。

「黙れ……、大道芸人風情が息を吸うな」

 息一つ乱すことなく団長は、邪悪な眼球でチャプリーを見下ろしていた。

 団長の巨体は伊達ではなかったのだ。

「クゥゥ……」

 チャプリーは痛みと悔しさ、恥ずかしさで涙を浮かべながら、打ち付けた身体を起こし、団長を睨み付けた。今にも跳びかからんとして、ギリギリと歯を食いしばっている、ずぶ濡れの犬だ。

「まぁ、待て。スペンダーがじきに来る。なぁ……、チャプリー、教えておいてやろう……。この俺様、団長様の言うことは絶対……、それがこの街の掟なのだ……」

「……ああ、そうかよ。勝手にしたらいいさ。僕はグードラとここを出て行く。誰にも邪魔はさせないぞ」

「ククク……、チャプリー、まだおまえにはわからんのか。おまえはもうこの地下サーカスから出られんのだ。ククク……グードラ……悪くない。竜の子ならそれだけで見世物になるなあ。立派な金の成る木だ……」

「バカな。おまえは誇り高い竜を支配できるつもりでいるのか?」

「違うのは薬の量だけだ。器の大きさが違うなら、見合った分の水を注ぎ込めばいい……」

 そこで……、バタン、と音がした。

 外からの来訪者――その足音に団長は薄笑い、チャプリーは身構えた。

 しかし、やってきたのはスペンダーではなかった。

 予定外の来訪者にチャプリーは戸惑い、団長は顔をしかめることになった。

 やってきた男は、人の生活に置いて彼の良かれ悪かれに関わらず、なるべく関わり合いになりたくない人物だったのだ。

 彼は警邏だった。

 警邏が開口一番言ったことには……こうだ。

「スペンダーに窃盗の容疑で逮捕状が出ています。団長殿……、あなたにも参考人として来て頂きます」

「なんだと……?」

 寝耳に水の発言に団長はぽかんとしかめっ面にマヌケ面をつけ足した。

 チャプリーもまた一体なんのことかしら、と首を傾げて様子を見守る無言の案山子だ。

「スペンダーが窃盗ですと。有り得ませんな……。彼とは今からここで会う約束をしておるのです。よろしい。後でスペンダーをそちらへ向かわせましょう……」

「残念ながら……そういった段階ではないのです。竜の子を連れたスペンダーが卑劣にも詰め所の馬車を強奪し、西門から出て行くところを何人もの庶民が目撃しているのです」

「スペンダーが街から出ただと」

「グードラを連れて?」

「ええ、そのようです。とにかくお二人とも来て頂きます」

「待て、待ちなさい。何かの間違いでしょう。キミ、そもそもその竜の子というのは、今ここにいるのだ。この扉の向こう、部屋の中に……。今、それをお見せしましょう……」

 団長が扉の鍵を回し、扉を開く。

 部屋の中は……ガランドウ。空しく吹く空っ風さえもなく、開きっぱなしの檻が、用無しのままで転がっていた。

「おお……。なんということだ……」

 団長が……ワナワナと……戦慄いた。

「さあ……来て頂きましょう。ええ、残念ですな。キミも来たまえ……」

 ショックで……人形のようになって、警邏に手を引かれ、微動だにしなくなった団長を……チャプリーは呆れ顔で見つめた。

「あなた、僕をここに置くつもりだったのでしょう……。それにドラゴンさえもその手で支配できるつもりでいた男が……なんて様です」

「スペンダーよ……おお……」

「いいから来るんだ。さあ、早く!」

 警邏が、ぼろぼろと崩れ落ちる団長を引き摺り、チャプリーにも早く来い、と手招きした。

 それにチャプリーは答える。

 ファイティングポーズで。

「なんだ、抵抗するつもりか?」

「生憎もう時間がないんでね……」

 両足を開き、踏ん張り、両手を掲げ上げたポーズ……。両手は何かを掴み取ろうとしているかのように半開きにしたチャプリーだ。

「タイーホだ!」

 警邏がチャプリーに殴りかかる。腹に、胸に、顔面に、チャプリーの全身に、警邏の拳が突き刺さっていく。

 殴りつけられ、殴りつけられ、殴りつけられて、しかしチャプリーは踏ん張る両足を支えにして倒れない。そして、警邏の息が上がったとき……チャプリーが素早く警邏の腕を掴み取った。

「キサマ……!」

「あんたも仕事だろうが、僕は友達を待たせているんだ。悪いね」

 チャプリーが警邏の手をクルリと体ごとまわし、裏を取ると、そのまま両手を捻り上げて、自分の両足を警邏の背中に乗せた。

 手を引っ張られて、背中に乗っかられた警邏は目の前の……固い壁を見て、自分がどんな目に合うのかをスッカリ理解した。

「やめろ!」

 チャプリーが思いきり警邏を蹴り飛ばすと、警邏は顔面から壁へ突っ込んでいった。

 チャプリーもまた……反対側の壁に両足で着地すると、そのまま壁を蹴って飛び上がり、うらぶれる団長の首に両足を絡めつけた。

 そのまま床に倒れると、ギリギリと団長を締め上げて、こう約束した。

「安心しろ。僕がスペンダーを連れ戻してやる」

「ウウ……俺様がルール……俺様に……逆らうな……ウッ」

 団長が意識を失うと、チャプリーは立ち上がり荷車を預けた西門へと急いだ。





 街を掻き分け辿り着いた西門は、整然としたざわめきに満ちていた。

 急ぎ足で制服姿の警邏たちが馬車に乗り込み、次々と街道へと抜けていく。

「これはどうしたことだろう」

 チャプリーは驚いたが、これは全てスペンダーを追うための編隊だという。 

 街から出た青年一人に大袈裟なことだと思ったが、マゼノヨコ街では申請を通さず街を出ることは御法度とされており、それに加えて窃盗までやらかしたスペンダーは重罪人と目されているらしい。

 それにしたって、やはり一人きりの男を一個中隊ほどの警邏に追わせる意味があるとは思えない。

 とにかく、

 旅人であるチャプリーはさしたる問題もなく(警邏に対する諸々の問題がばれるまえに)荷車とロバを受け取り、街を出た。

 街から遠ざかりながら、こんなときだというのに、

 チャプリーは堪えきれない寂しさを感じた。

 隣にも、背後にも人はなく、荷車の上で、チャプリーは一人きりだった。

 街を出た旅人にとって、それは常からつきまとう無情であったが、心というのは水のようなもので必要となれば人は心を凍らせ、固くすることで自分を守ることが出来る。

 しかし、ひとりぼっちだったチャプリーは、グードラに、アリアに、そして街の灯りに、心を暖められて、流れる河のせせらぎのように溶け出してしまった。

 流れ広がったものを元に戻すことは、むずかしい。

(人に会いたい!)

 気持ちが通じたのだろうか。ロバは両耳を少し動かすと、今は空っぽの川沿いの道を太陽の光を浴びて、キラメキ駆けだした。

 空っぽの河を挟んで左手側には延々と広大な森が続いている。右手にはのどかな畑が見える。近くには刈り取られた背の低い草原があって、遠くには刈り取られていない背の高い草原があった。

 チャプリーを乗せた荷馬車は、とある集団に追いつき合流した。

 マゼノヨコ街を出た警邏たちである。

「やあ、皆さん、ご苦労様です」

 チャプリーは何も知らぬ顔を装って、警邏隊の馬車に近づくと、最後尾を行く一台の横に荷馬車を並べ、歩かせた。

「なにやらものものしいですね。いったい何があったんです」

 突然話しかけてきたおかしな男に、警邏隊の青年は警戒なく柔和な様子でツラツラと答えた。

「我々は重罪人を追っているんだ。難しい任務だが、街の平穏は私たちの肩に掛かっているから、逃げることは出来ないのさ」

 熱く語る男に、寂しがり屋のチャプリーはずけずけとものを言った。チャプリーは構って欲しい子供だった。

「たった一人街を出ただけで騒ぎすぎじゃないですか? こんな大勢でバカみたいだ」

「なんだって?」

「いいえ。なんでもありませんよ」

 チャプリーはさっさと話題を変えた。チャプリーは飽きっぽい子供だった。いや、子供ではない。子供のようなチャプリーは、いけしゃあしゃあとものを言う。

「ところで、ご存じですか? マゼスト大河の水が無くなったのは、ドラゴンの仕業だそうじゃないですか。はあ、えらいこっちゃね、皆さんはどうするつもりなんでしょうか」

「それは管轄外だから良いのだ」

 訳知り顔のチャプリーは、警邏に向かって子供の真似を続ける。

「そりゃ羨ましいね。どうやらこれが、このまま行くと僕の役目になりそうなんだよね」

「なんだって?」

「いいえ。なんでもありませんよ」

 さて、そろそろ。

「安心しなさい。庶民の安全は私たちが約束する。重罪人は間もなく捕らえることができるからね」

 警邏の青年は背を丸めたままで、胸を叩いたが、ちゃんと立派に見えた。青年は話し相手としてはおもしろくなかったが、つまらなくても大人に見えるのはどうしてだろうか。その理由がチャプリーにはわかっているのだろうか。

 チャプリーは茶化した。

「あっ、スペンダーの話しね?」

 もういいだろう。チャプリー。警邏と話したって仕方ない。

「やりかたはこうだ。馬車に乗った本隊はこのまま真っ直ぐ進む。足の速い連中が馬を駆って先回りをしているんだ。どこにも逃げられないよ」

「先回りってどうするんです?」

 そうだ。チャプリーにはわからなかった。チャプリーは警邏の男を、あんまりおもしろくない、ありきたりなヤツだと内心思っている。大勢で同じことをすれば、それが正しいことだと信じている日和見主義者だ。

 全体主義的な行動は正しく、多くの場合好まれる。でも、いつだって疑問は持っているべきだとチャプリーは考えており、それがチャプリーの流儀だったので、短い会話だけでチャプリーは警邏の青年に退屈さを感じ、心からの友達同士にはなれなさそうだと思った。

 それなのに、彼のことをどこか立派な人だという印象も受けているのだ。それは彼が、人の生活のなかで生きている人だからだ。

 けっして子供に戻れない場所で生きている人なのだ。

 もちろん彼も、

 チャプリーのことがわからないだろう。

 大勢で街の外を我が物顔で行く、この警邏の青年にわかるはずもない。たった一人で荷馬車を走らせて、子供の顔をかなぐり捨てたチャプリーの眼差しが。

 二人のどちらがより良いかはわからないが、どちらにしろ二人が分かり合うには時間が足りなかった。それでも、歩み寄ることは、もしかしたら簡単かも知れぬ。

「橋を渡って疾走だよ。私たちの馬は速いからね、先回りされていると気付いた頃にはもう遅い、観念しいしいお縄を頂戴さ」

 ちょっとだけ警邏の男がおふざけ交じりの言い方をしたけれど、結局、この二人の気持ちは、最後までほんの少しも交差することはなかった。

 警邏の青年は得意げに言って手を振って、隣を見ると、そこに居た男は、荷車ごと影も形も無くなっていた。

 どこへ行ったのだろうと、首を傾げて辺りを見渡したが、ついに男はチャプリーを見つけることができなかった。









 また一人になって……

 チャプリーは爆走していた。

 ロバを猛スピードで走らせて、おまえだけに辛い思いはさせないぞと、荷車の上で腕立て伏せをしながらがんばれ、がんばれ、と応援していた。

 いったいどこで?

 チャプリーはマゼスト大河の川底を駆け上がっていたのだ。

 今はハドスに呑み込まれて、命の水を失ったマゼスト大河だったが、それでも底はぬかるんでいた。

 普通なら足を取られて上手く走れないところだが、ロバはそのぬかるみを逆に利用する独特の走法でもって、スペンダーを猛追しているのだった。

 






 開けた場所、スペンダーは取り囲まれていた。

 警邏たちに取り囲まれ、凶暴な正義の前に青春を終わらせようとしていた。

 スターとしての輝かしい将来と共に……。

 金髪の頭を屋根付きの馬車の中に隠して、テンカウントの秒読みを聞く倒れたボクサーの様に、何もできず、終わりがやって来るのを待つしかなかった。

 今しも法の名を冠した鉄槌が、バカな真似をした若者を押しつぶそうとしているのだ。

 目にも止まらない、

 一瞬の出来事が警邏たちの目の前で起きた。

 チャプリーの荷車が空っぽの川底から駆け上がり、街道へと跳び出た。そして勢いを回転に変えて、そのままスペンダーの馬車へと激突した。警邏たちがなんだ、何が起きた、と目を見張ったころには荷車の上は無人だった。

 この一連の出来事を、眼で追えた者は誰一人いなかった。

 

 勢いそのままで馬車のなかへと突っ込んだチャプリーは、声を張り上げた。

「スペンダー!」

「バカだな、チャプリー……なんで来たんだ」

「どっちがバカだ。見てみろ、スペンダー、君は囲まれている。もうお終いなんだ、バカ野郎!」

 スペンダーが床を殴りつけて、立ち上がる。

「関係ない! 僕は旅に出て、街には戻らない。ここを抜ければ、長い間の夢が叶うんだ!」

 チャプリーはハッとした。

「スペンダー、君は……、君はもしかして、冒険者になりたかったのか?」


「ああ、そうだ。チャプリー……、僕はグードラを見たとき思った。こいつを使えば何だって出来る。僕はどこへだっていける。僕はチャンスをずっと狙っていた」

「そのために……僕に優しくしてくれたのか」

「ああ……、そうとも。そうだとも。チャプリー……」

「僕はスペンダー、君を友達だと思っていた」

「そいつはとんだ勘違いだ、チャプリー、僕はおまえが忌々しくて仕方なかった。どこへでも行ける自由人。そんなおまえに誰もが魅了される……。サーカスには君こそがいるべきなんだ。君と僕は入れ替われるんだ」

 しかし、そう言ったスペンダーの瞳には友達を想う思いやりがあった。チャプリーに対する友情がありながら、瞳は紅く、いくつかの黒々とした感情と、清々しさがない交ぜになっていて、もう誰にも真意を理解できない……複雑な色を帯びていた。チャプリーはそういったことに思い至らないまま、言いたいことをただ言った。

 彼もまた、わがままな思いやりを込めて……。

「スペンダー、君はなにもわかっちゃいない。君が居たからあのサーカスは輝いていた。僕はサーカスを賑わしたが、あのお客たち、退屈なショーを見に、彼らが地下サーカスにやってきていたのはどうしてだ……。君を見るためじゃないか。君が好きだったんだ。ショーを最後に盛り上げるあの一瞬の輝きのために人々は集まっていたんだ。君は街のヒーローになれる男だ。僕とは違う……。君はいなくなってはいけない人間なんだ……」

 スペンダーはこのチャプリーの言葉を、鼻からバカにして笑った。

「せっかく街にいられるチャンスをやったのに、それをふいにしてきて僕に説教か? 教えてやるよ、チャプリー。おまえはグードラのことがなくたってあそこにはいられなかったんだ。地下サーカスのことじゃないぜ、あの街に君の居場所はない。君がここに来たのを見て、僕は確信したよ」


「そんなことはない……。確かに僕には地下サーカスは合わなかった。でも僕はあの街に戻るつもりだ……。もしかして、僕を受け入れてくれるかもしれないから……」

「おい、止せ、チャプリー。言ってみろよ。地下サーカスのなにが気に食わなかったんだ? 言ってみろ」

 見透かしたように……、チャプリーにはわからないことを見透かして笑うスペンダーに、チャプリーは戸惑い、足踏みした。

「地下サーカスは……不気味だ……。僕は恐かった。みんな笑うんだ。楽しそうに……。でも、そればっかりで本当のことは一つきりさえもない。見せかけばかりだ。何より僕が嫌だったのは、誰もそれをおかしなことだと考えていないこと……」

「ああ、ちくしょう。笑わせる。笑えない。掛ける言葉が見当たらないね。どうしようもない。いいかい、チャプリー、おまえの言ったことは、不気味でもなければ恐ろしくもない……。ただあたりまえの、普通のことなんだ……。チャプリー、おまえは異常なんだよ……。チャプリー、おまえにわかるか? ……僕の気持ちが……。僕はおまえみたいになりたかったんだよ。何者にも支配されず、自由に生きる男に」

「クソ食らえ、知るかよ……うざってぇ」

 チャプリーが言葉を吐き捨てたのがきっかけだった。

 睨み合うことさえ止めた二人は、

 これ以上言葉はいらないと、スペンダーとチャプリーは互いに跳びかかり、

 両者の拳が互いの顔面に突き刺さった。馬車の中、チャプリーとスペンダーは吹き飛び、転がった。

 二人は立ち上がり、その度に吹き飛び、転がり、何度も何度も立ち上がった。

 ぶつかって、ぶつかって、ぶつかって。

 歯が折れ、皮膚が裂け、血が跳び散った。

 そして、二人の足はガクついて、ろくに動けなくなった。

 二人は見るも無惨にボロボロになったが、それでもスペンダーとチャプリーは拳を振り上げた。

 満身創痍の一撃が互いに突き刺さると、馬車のなかで死んだように二人は倒れ……もう絶対に立ち上がれない倒れ方をした。

 それでも、チャプリーは立ち上がった。

 スペンダーはチャプリーを見て、振り上げられたコブシを見ていた。

 何だぁ、その面ァ……。チャプリー、おかしな面だぜ。

 なんでか……、無性にいい気分だ……。

 スペンダーは唇の端をつり上げ、意識を失った。

「さよなら、スペンダー」





 



「ふぁぁ、よく寝たぞ。チャプリー、おはよう」

「おはよう、グードラ。それじゃ、時間がないし、さっそくやろうか」

「おう、でもチャプリー、その前に、その顔なんとかしなくちゃな」

「わかってらぁ」

 チャプリーとグードラは馬車から外へ出ると大いに笑った。






 凶悪に口の端を歪めて──

 雁首揃えた警邏たちを見渡して、チャプリーとグードラは両手を広げ、こう言った。

「ククク! 狙い通りだ! あっさり罠にひっかかりやがったバカどもめ! グードラ、今だ。クソ忌々しいクソ警邏どもをやっちまうんだ!」

 息つく暇もなく、言葉の意味を誰かが理解する暇さえなく、容赦なくグードラが閃光のドラゴン・ブレスを解き放つ。

「ブーッ!」

「なんだいったいどういうことだーっ!」

「ギャー! ドラゴンブレスだとォ!」

「ドラゴンは管轄外ですーっ」

「僕たちが秘密裏に街に侵入し、ドラゴンを使って街を焼き払おうとしたところを、馬車の中のスペンダーとかいうくそったれ男が俺様のドラゴンを眠らせこんなところまで連れ回しやがって。そいつのおかげで街を焼き払う俺様の企みはおじゃんだが、バカ警邏ども、捕らえる相手を間違えたな」

「なんてことだ……。私たちは、街の英雄を、たった一人で戦ってくれていた勇敢な若者を捕らえようとしていたのか……」

「いまさら気付いても遅いぜ! ぎゃはははは」

「邪悪な悪人に我らは屈しないぞ! 私たちは街の安息を守る警邏隊なのだ!」

「おお、おお、向かってくるつもりか? だが、こうすればどうする・・…?」

「なんと……。スペンダーを盾にするだと。なんて卑怯な!」

「下がれ下がれ、馬車に近づくな。ほらよ! お坊ちゃんを連れて街へ帰りな! あの街を焼き付くされたくなければな!」

「スペンダー、無事か!」

 警邏に介抱されて、スペンダーは呻いた。

「……うう……、違う……。僕は……ァ」

「いいんだ。よくやってくれた。今は休んでくれ」

「ちくしょう、あいつら逃げていきます。――もう見えなくなってしまう」

「仕方ない。みんな、街へ帰ろう。ドラゴンやあんな凶悪な犯罪者から街を守るために、一層街の警備を固めなくてはいけない」

 たくさんの馬車が東へと、街へと帰っていく。一台の小さな荷馬車が、西へと上っていく。

 はぐれ者はただはぐれるのみか。


 そして、大きな音がした。


 それは濁流の音だった。

 とつぜん、

 マゼスト河に水が戻されたのだ。

 いや、それは水ではない。ドロドロと濁った大量の泥水であった。

 凶暴に荒れ狂う泥水にさらされながら、荷車の上でグードラとチャプリーは暴泥に流されぬよう、しがみつきながら叫んだ。

「この先にハドスがいる!」

 チャプリーとグードラは恐るべき怪物、ドラゴン・ハドスからアリアを助け出すため、荒れ狂う水際、いやさ泥際を、命知らずにもさらに西へと進んでいく。




 チャプリーとグードラが発見したとき、ハドスは喜悦に狂い、はしゃいでいた。

 そこにあったのは言わば城である。

 ハドスはマゼスト大河を塞き止めて、泥竜好みの格別の泥を流し込んだ。



 生物たる常軌を逸した存在、ドラゴンである。

 人の力が時折ちいさな奇跡を起こして、周囲の予想を覆すことがあるように、竜が手塩にかけて作り上げたその泥のプールは、まさしく人知の及ばない想像の外、常識外れの不可思議なものだった。

 巨竜ハドスは泥に両足を濡らしながら、鋭いかぎ爪のついた右腕に力を込めた。

 すると、

 泥の河から、いくつもの大きな馬車についた車輪ほどの大きさの、球体の物質がハドスの周囲に浮かび上がった。

 茶色の球体、ハドスがそれの一つを爪で突くと、空中に浮いた球体からダクダクと泥が漏れ出した。

 次第に泥の勢いは増し、球体の膜をなかから突き破らんとしているかのように蠢いていた。

 ハドスが両手を球体を包み込むようにかざすと、無軌道だった蠢きは統率のとれたものになり、なんらかの形を……形作ろうとしているようだった。

 泥が蠢くと共に、ハドスは尻尾を跳ね上げて、マゼスト大河に叩きつけた。

 泥しぶきは上がらず、代わりに泥のなかから現れたのは形容しがたい形状の意匠……泥でありながら、花のように華やかで、王座のように立派な巨大な建造物。睡蓮花にどこか似ている。 

 それが崩れ落ちることなく不思議に固まっていた。泥の性質を保ったままで。

 泥河から盛り上がり現れた、泥の建造物にハドスは上がると、引っ張ってきた蠢きをこねるように両手を動かし、自在に操って圧縮し、薄く傘状に引き延ばした。

 それは半透明なフィルターとなってハドスを覆う。

 これこそがハドスの力、否……ハドスの泥遊びであった。

 しかしこうしたハドスの摩訶不思議な泥遊びを見渡してみても、どこにもアリアの姿はなかったのだ……。

「ハドス!」

 勇敢に飛びだしたのはグードラだ。

「アリアはどこだ!」

 グードラを見下ろしたハドスは落ち着いており、満ち足りた表情で、来客を迎えるようでさえあった。

「おや、なんだ。おまえなんでここにいる。そんなことより見ろ。完成したぞォ! どうだこれ、オレの城だぞ」

 これに

「なんだこんなもん!」

 グードラは飛び上がり、ハドスを覆っていた泥の膜を尻尾ではたいた。すると、茶色がかった半透明のシールドはパリンと……形を失って、泥に変わり、ハドスの全身に降り注いだ。

 ハドスの顔、でかい顔に離れてある反り目の丸く紅い眼球、頭から生えた後ろへ伸びる皮膚から突き出た骨のような二本の角、大きく裂けた口から跳び出している巨大な牙、醜い顔面のなかにあって、それだけが不釣り合いにチャーミングなヒゲ。

 ハドスの身体、毒々しく黄色がかったまだら模様に、青とも緑ともつかない、絵の具のキャンバスから適当に色を混ぜ合わせて、失敗した子供が嫌になってそのまま放置したような……ブツブツの皮膚、人間を一捻りにする豪腕があり、太く大きな尻尾に、ちいさな翼……それら全体を支える強靱な足。

 その全てに泥水を浴びると、ハドスはズクズクと身体全体から泥を吸い込んで、雨天の蛙のようにテラテラとぬめった。

 空が崩れる。ハドスの唸り声は悪魔のごとき凶悪さで、呪われた女神の怨念が大地を腐らせるほどの怒りを、竜との邂逅はすべからく絶望であるということを、心底から人に知らしめるのだった。

「おまえ……、オレのハウスをよくも壊したな!」

 泥で全身を濡らしたハドスが震えた。それと共にハドスの周りに浮かんだ泥が――球体は泥である。ハドスによって超圧縮された泥の塊、一つ一つが元は湖一杯分ほどの泥であり、それが超常的な力で、常識を越えてちいさな球体へと変えられている──指向性を持ってグードラに襲いかかった。

 グードラは声なく無数の泥玉に弾き飛ばされて、それらはグードラに当たった瞬間、パッと弾けて、泥の洪水へと変わり、パッ、パッ、パッ、と弾けて、空飛ぶグードラを泥の洪水が押し流した。

 抗おうとも――次々と押し寄せる膨大な泥の放流によって、街道を突き抜け、鬱蒼と茂った草原を潰しながら、泥に呑まれて、見えなくなるまでグードラは流されていった。


「グードラ!」

 チャプリーは考えるより先に足を踏み出し、がむしゃらにグードラを追いかけようとするものの……目の前の光景……まるで泥の海……新しい地獄の形みたいな有り様に、足を竦みあがらせ、柔草が覆い茂ったその場にへたり込んだ。

 まるで……、目覚めたまま現実から、夢の中を覗き込んでいるかのようなデタラメが、チャプリーの目の前に広がっていた。

 さりとて……、ハドスはチャプリーに対してまったく無関心であり、いちべつさえもないまま泥遊びに興じていた。

 ぜいたくな泥の塊を宙に浮かべ、ちいさな小宇宙を己のまわりに形成しているのだった。

「ハドス……僕の質問に答えてくれ。君にしかわからないことだ。アリアちゃんはいったいどこなんだ!?」

ハドスが遠くを見るようにして、返事をしたのは――ハドスはチャプリーに返事をした! ――気まぐれの一種だったか、それとも、その声を人生の疑問を聞きにふいに訪れる風の問いかけと勘違いしたのだろうか。

「アー、アリアは……オレが食っちまった」

 衝撃の告白。

 アー、とハドスのつくった小宇宙がばらばらと崩れ落ちて、少し遅れて泥が河から溢れだし、広がっていった……。

 ハドスがあーあ、と空を見上げて、ちいさな火炎で雲を焦がした。

「アッ、アッ、アッ、アリアちゃんを……食べたって、どういう……。ホントのこと……? どうして、そ、そんなことを……したんだい……?」

 チャプリーの口のまわりの筋肉がガクガクと震えて、上手く喋れない……。

 受け入れがたい……最悪の結末だ……。

「オレはアリアといっしょに、川辺のほとりを散歩していた。あの子の機嫌が悪かったから、オレはどうにかアリアを喜ばせようとしていた。オレは何日もウンとウンと考えて考えて……オレは閃いた! このキレイな河に泥の家をつくったらどんなにステキだろう。それはとても・・…ウン……今まで思いつかなかったことがどうかしていたくらい……良い思いつきだった。なのに……なのに……アリアは……ちっとも喜びゃしねぇで……。じゃあもういいや、アリアはそこで見てなってオレはそう言ったんだが、アリアはじっとしてやしないで……オレをコテンパンに罵倒して……せっかくつくった泥の城をぶっ壊しやがった! け、どな、けど、いいんだ……。そんなことは。オレはアリアが何したって許したんだ。オレが許せなかったことは、アリアがそれをやるのに自分の命を賭けてやったことだ。命を捨てる覚悟をもって、オレを否定しやがった! わかるか! わかるか! オレの気持ちがよ! わかるか! オレの悔しさがよ! わかるか! オレの悲しみがよ! わかるか! オレの怒りがよ!」

 ドラゴン・ハドスはよくよくまくし立て、チャプリーは……

「ど、どういうこと……?」

 へたり込んだままで聞き返した。

「アリアとオレは、長いこといっしょだったのに……。なのに、アリアはオレのことなんか、どうでもよかったんだ。アリアは誰だかわからねぇ見もしねえ人間の方が、オレより大切で、アリアは人間で……、オレとは違ってた。だもんで、一呑みにしてやったんだ」

「だから……だから……アリアちゃんを食べたって言うのか……」

「アー、オレどうしたんだ……。一人で遊んでたってちっとも楽しくないや。前は一人でよかったのになあ――アーアァ」

「ハドス! ハドス! ハドス! ウワァァァァアッ! アリアちゃんを返してくれェェェェ」

 ハドスはそれっきり返事をしなかった。

 泥遊びもしなかった。自分の心のなかに閉じこもったように、泥の河の中で、ぼぅと呆けていた。

 チャプリーは泥が固まりだした大地のまえで、泥河のまえで、地面を殴りつけて泣きじゃくった。

 どれくらいそうしていたのだろうか……。ほんの数分だったような、半日ほども時間が通り過ぎていったような……。

 アリアを失った悲しみは、いつ頃からか憎しみへ変わっていた。

 ズブズブとチャプリーに染み込んでいく泥のような憎しみ……。

 どうすれば復讐を遂げられる?

 強大な竜を屈服させ、辱めを与えてやる方法はあるか?

 言葉にするほど思考は冷静じゃない。泣きじゃくる子供みたいにしっちゃかめっちゃかだ。

 その所為でチャプリーには現実とは違うものが見えた。

 イメージ……。復讐の味を舐める……。

 この手に弓があったなら……ハドスの目玉を打ち抜いてやる。己の傲慢でアリアを死なせたハドスの目玉を抉り取ってやるのだ。

 チャプリーは弓を引き絞り……矢を放った。

 ひゅーん……と、風を切って弓はハドスの顔面に突き刺さる。

 泥のなかにハドスは倒れた。もう、動かない。

 チャプリーが泥に沈んだハドスに近づくと、しかし、泥に浮かんでいたのはハドスではなく、チャプリー自身だった。

 どうして? 

 なぜこの手で放った矢が己自身に突き刺さっているのだ。

 チャプリーは青ざめて、土を頭から被った。

 これはきっと、どうやっても、ハドスには勝てやしないという啓示に違いないのだ。

 イメージのなかでチャプリーの無意識が教えているのだ。どれだけ上手くやっても結局は無駄だと言うことを。

 さて、そうだろうか。チャプリーは不思議に思った。

 頭の中にある湖畔に一石を投じると、新しい波紋があちこちで弾けて、チャプリーの頭のなかの雑音を消し去っていった。

 しーん、となる……。

 考えてみれば……問題にもならない。どうして……。

 ハドスに敵わないと心が感じたのなら、どうして矢がハドスに刺さったのだ?

 ハドスとの力の差を伝えるメッセージなら、ハドスに立ち向かい、あっけなく……返り討ちにあう夢を見るはずである。

 実際チャプリーとハドスが戦えば間違いなくそうなるはずだ。それだけの力の差がある。

 つまり、心がチャプリーに向けて送ったメッセージは、そうじゃない。

 いったい……、無意識は……なにを伝えようとしている?

 ハドスが倒れて……、しかし、近づいてみると、それは僕で……。

 ハドスはこう言ったんだ……。

 オレのことをどうでもよかったから……。だから、殺した……。

 どう思う? とても……恐ろしいこと……。……それだけか……?

 ハドスの気持ちが理解できない? イヤ、そうじゃない……。チャプリーにはハドスのことがわかっていた。共感さえしていた……。

 力を持つハドスは殺す。力のない僕は……。

 ああ、なんてこった。

 僕とハドスは……。

 チャプリーを立ち直らせたのは、自己解決だった。今のところ、チャプリーはこんな風にしかできない。

「そうかそうか、それならそうと早く言ってほしかったぜ」

 チャプリーは自分の鼻をつまんで引っ張った。

「なんてこった。自分勝手で他人の気持ちがさっぱり理解できないこの僕が、おまえのことばかりはこうまでわかっちまうなんてね」

 眼を閉じたチャプリーの頭に、とあるビジョンが浮かび上がった。

 最初はモヤモヤと霧がかっていたイメージは次第に明るく、鮮明になっていった。

 チャプリーはぴったりと泣き止んで、立ち上がった。

「賭けをしよう、ハドス。僕も彼女と同じように、命を賭ける」

 ハドスは返事をしなかったが、チャプリーが話しながら近づいていくのを邪魔しようともしなかった。

「約束してくれ。僕がもし……アリアちゃんを助け出すことができたなら、おまえはアリアちゃんを解放するんだ」

「アリアは死んだ。イカレ人間め、イカレてないで受け入れろ。あの子はオレが殺したんだ」

 この時はじめて、ハドスはチャプリーと会話らしい会話をした。

「そうじゃない。ハドス、アリアちゃんはおまえが何したって死にはしない。わからないか? ハドス、こっちを向いて、僕を見ろ。そうしたら、四の五の言わずに僕を掴み上げて、呑み込んでしまえ!約束だ、ハドス。そうしてくれたら、僕はお前のノドに刺さっている、僕のステッキを抜いてきてやるぞ」

 言われたとおり、ハドスはチャプリーを見た。ジッと見て、チャプリーという人間がどんな姿をしているのか、このときはじめてハドスは知った。そして、チャプリーが心に思い描いたイメージを読み取り、驚いた。

「まさかそんなバカげたことを信じているのか? 夢物語のような奇跡を? お前はとんだ愚か者だぞ」

「わかってる」

 ハドスはチャプリーを掴み上げた。


「エベベベッ! 面白いぞ、人間! いいだろう。オレもおまえに賭けてやる。だが、もしアリアを助け出せなかったら、そのときはお前を粉々にかみ砕いてやる」

「そりゃあ気っ風がいいね。僕はおまえのなかで、何をしでかすかわからないぜ」

「おまえごとき、オレに傷一つつけることさえできん、安心して暴れるがいい」

「まったく……イヤになるよ。僕はお前のことが、なんでかスッカリわかっちまうんだから」

「人間よ、何を言っている」

「ハドス、アリアちゃんは悪くない。悲しいけど、人と人はわかり合えない。だって、他人の心はわからないもの。特に、僕みたいなヤツにはさっぱりだ……。僕とスペンダーの間には友情があったけど、でも……きっと僕の気持ちのほとんどはスペンダーに伝わらなかったし、僕はスペンダーがどうしてあんな真似をしたのか、わからなかった。わからない。人は自分のことばっかりで、自分ばかりが大切で、他人が全然わからなくて、イヤになるよな……。ハドス、おまえは変わり種さ。人を食う竜の話しなんて、そこら中にありふれているけれど……そんなに人と向き合って、人を愛したドラゴンがおまえ以外にいるだろうか。おまえのようにわがままに自分を愛し、間違えて、上手くやれないバカなヤツ、僕は知らないよ。なんて不器用なんだ、おまえは。――まるでおまえは、僕じゃないか」

 ハドスが聞き返す。

「オレとおまえが似ていると言うか」

「鏡写しみたいにそっくりさ。女の好みまで一緒なんだから堪らないぜ、そうだろう?」

「オレはアリアを愛していた。アリアもオレのことを、ほんの少しは想ってくれていたのだろうか」

 チャプリーは頷きながらも、きっとそうだとは言わなかった。

「さあね、そりゃあ一生わからんぜ。なんと言っても心の中までは覗けないからな。……でもいいんだ。だって、人間は……嫌い合っていても、理解しあえなくても、つまらなくても、他人同士でも、気が合わなくても、同じ場所で、同じ町で……。ぶつかり合いながらでも寄り添って、いっしょに暮らしていけるんだ……。だから人間は素晴らしいんだよ。それが……人の生活ってもんなんだ……」

 チャプリーの言葉は、自分に向けたものだ。

 ハドスのやった失敗を見て、チャプリーは気がついたのだ。自分は今までずっと、ハドスと同じ間違いをし続けてきたのだと。ハドスのような力を持たないチャプリーは反感に出会ったとき、いつも逃げ出す選択をしてきた。

 チャプリーにとって、不理解は長く寄り添った友であり、慣れ親しんだ感覚だ。それゆえに、人と分かり合おうとしなかった。

 退屈さを嫌がって、風来坊きどりで、風の向くまま楽しいことばかりをやってきた。

 ひねくれ者で、見せかけの知った顔をなによりも嫌った。それでいて、幾度も出会ってきた不理解に、不愉快さに、向き合おうとはしなかった。

 自分が正しい気になって、ヤツラの方が間違っていると決めつけて、何も言わずに逃げてきた。僕がこれまでいた場所の、いったい何をわかっていたというのだろうか?

「僕はね、ハドス。逃げることには自信があったんだ。足の遅いヤツラを見て、内心見下していたかもしれない。あいつら……そうじゃなかったんだよ。逃げたりしないで、ぐっと踏みとどまってさ、戦っていたんだよ、すげえなあ……すげえなあ」

「オレはやりなおしたい。オレの生きる世界はアリアのいる世界だ。頼むぞ、人間」

「僕もおまえと同じ気持ちだ。任せておけ」

「人間……おまえ、いったい何者だ?」

 チャプリーはハドスの手の中で、片手をあげてお辞儀をした。

「僕はチャプリー、ただのしがない旅芸人さ」

「旅芸人だと。それじゃダメだ。チャプリーよ、今だけはなにものも怖れずに立ち向かう、勇敢な冒険者となれ」

「ああ、はじめるよ。僕は新しい冒険をここからはじめるんだ!」

 ハドスが大口をあけて、チャプリーを一呑みにした。



 はたして、泥河の前でチャプリーが見たビジョンは何だったのか。

 いかなる奇跡が起これば、アリアを助けられるのか。

 巨竜ハドスの口のなか、チャプリーは手を伸ばした。

 ハドスのノドに突き刺さったステッキに……捕まりぶら下がるアリアに!

「チャプリーくん!」

 驚き顔のアリア。

「どうしてチャプリーくんがここにいるの?」

 首を傾げ、不思議そうなアリア。

「でもよかった。今、ちょうどチャプリーくんに会いたかったの」

 なんて、にっこりと笑うアリア。なんてことだろう。奇跡なんて必要なかったんだ。

 チャプリーがハドスに投げ入れたステッキが、ノドに突き刺さったままで抜けずにある奇跡。

 ドラゴン・ハドスがアリアを呑み込んでおきながら、傷一つつけないでいる奇跡。

 死が目前に迫るこの絶望的な状況で、アリアが諦めることなく状況に立ち向かっている奇跡。

 アリアのことを真心で思い浮かべたとき、チャプリーの心に湧き上がってきたイメージが、呆れるくらいそのままここにあって、でもそれは、どれ一つとっても、奇跡なんかじゃなかった。

 アリアにとっては起こるべくして起こった当然でしかない。

 その証拠にほら……。


「チャプリーくん、君に手伝ってほしいのよ。わたし、マゼスト大河をもとに戻す方法を思いついたの!」

 なんてことをいって笑っている。

「アリアちゃん……君ってヤツは……まったく、君はなんて女の子だろう……」

 チャプリーはアリアの手を掴み、窮地から救い上げた。

 ハドスは巨体だが、人間を二人も口のなかに納められるほど、余裕があるわけではなかった。

 怪物ハドスの口の中で、ピッタリとくっつきあいながら、チャプリーとアリアは恥ずかしそうに顔を紅くして、小さくなってひとしきり笑いあった。

              


「ハドスよくもやったな!」

 衝撃。

 轟音。

 声が響く。

 ミサイルのように舞い戻ったグードラがハドスを殴り飛ばし、ハドスが倒れ、グードラが堂々と胸を張った。

「オレとやる気か、小僧。構わんが、なぜ戦う?」

「竜がケンカするのに理由がいるのか」

「いる。何にだって理由はある。意味がないことにだってな。貴様が倒れたらオレがチャプリーを貰っていくぞ」

「アリアがお気に入りだったんじゃないのか?」

「オレはアリアを殺した。もうオレにはアリアといっしょにいる資格はない」

「それで代わりにチャプリーか。いちいち面倒くさいヤツだな」

「フン、アリアはあの男にやった。オレはチャプリーといる。アリアはチャプリーといる。オレはアリアといる。どうだ、小僧? 賢竜ハドス様に学べ」

「なんだそれ。ずっこいぞ。じゃあ、グォウが勝ったらすごいもんもらわないとな」

「エベベベッ。いいぞ。なんだって貴様の思うがままだ」

「思うがママ? 決めたぞ、ハドス。それなら、グォウが勝ったらグォウにママの居場所を教えろ」

「ハァ? なにいってんの? 貴様に母親なんかいねーよ」

「えっ、そうなのか」

「バカらしすぎて、おもわずバラしてしまったわ。ドラゴンは何処からか現れて、ある日、人知れず去る。そういうものだ」

「グォウにママはいないのか。なら仕方ないな」

「それだけか」

「ああ、もういいぞ、ハドス。どっちが強いか決めようじゃないか」

「フン、誰もわかっちゃない。竜の悲劇を……。消えゆくオレたちの悲しみをやはり貴様も考えようともしない。──愚かな子竜よ、ならば聞こう。貴様はなぜオレと戦う?」

「ああ、ハドス、おまえグォウに負けたらな、たまには水浴びするって約束しろ」

「水浴び?」

「ハドス、おまえくっさいんだよ!」

 二匹の言葉が重なった。

「ドラゴン・ブレス!」


 

 ハドスの腹の中におさまる寸前だったアリアはチャプリーから貰った男物のシャツではなく、ドレスをまとっていた。

 ハドスの趣味だろうか。

 竜に囚われた姫はこうでなくてはならぬ……という、執念めいた……こだわりぬいた……清楚で優雅な、胸元の開いたドレスだ。

 アリアの姿は出会ったときと同じく泥まみれかというと、そうではなく、ハドスの唾液で濡れてはいるものの厚手の生地は透けることなく美しい。

 アリアと言えば金色を冠した輝くばかりの美少女であったので、まさに助け甲斐のある塔に囚われし、竜に食われし姫であった。

 なのに、アリアときたら懲りることなく、こんなことを言うのだ。

「チャプリーくん、わたしとこれから泥遊びをする気はあるかしらね」

「泥遊び? それなら外でハドスが散々やっているぜ。たぶん僕の一生分の泥遊びをあいつは一回ですましちまってるんだろうな。みんなが子供のうちにやりきれなかった分のノルマをハドスがこなしてくれていると思えば、あいつの泥遊びも悪くないのかも知れないな」

「嫌がる子に泥をぶつけるような真似しちゃいけないわ。ハドスに言っても聞きゃしないんだから。見て、チャプリーくん。……この下、ハドスのお腹のなかを……」

「どれどれ……」

 チャプリーはハドスの口内から、ノドに首をつきだしてアリアの示した先を覗き込んだ。

 刺さりっぱなしのステッキを飛び越えて……目線はその先、チャプリーはハドスのお腹のなかに二つの空間があることを発見した。

 それはあたかも分かれ道のような、どちらか正しい道を当てよと選択を迫られているかのような……幻想的な白と黒の洞窟であった。だが、正しい出口はもちろんそのどちらでもなく、二人のお尻の向こう側にあるハドスの口である。

 空間の片側は静謐で清らかだ。静かな海や、祈りを捧げる聖女を思わせる。

 もう片一方は火星のような有り様である。チョコレートを武器と勘違いした二つの敵対部族が争ったあとのような、約束なくサプライズで訪れた彼女の部屋のような、酷いところだ。

「天国と地獄みたいに見えるね」

「まあチャプリーくん、地獄ですって」

 あらまあ、とアリアは眼を丸くした。

「そんな大層なものじゃないの。だってこれって、ハドスの泥のコレクションなのよ」

「泥のコレクション?」

「ハドスは気にいった泥を見つけると、遊び終えたらあとはお腹のなかにしまうの。お気に入りのおもちゃを誰にも触らせたくない子供と同じね。それをちいさくしてお腹のなかに浮かべているんだわ」

「ちいさくして? そんなことが……」

「ドラゴンってそういうものよ。さ、それじゃいいわね?」

 説明はこれで終わり! と晴れやかにアリアは微笑んだ。

 え? ……何が? と聞く間もなく、アリアは立ち上がり、チャプリーの背後にまわると、迷いなく……チャプリーを蹴っ飛ばした。 もちろん……チャプリーは転がって、口内からノドへと落ちていく。

「わわ~っ」

 チャプリーは急いで手を伸ばし、ハドスのノドに刺さった……愛用のステッキに掴まった。

「なにするの、アリアちゃん! やることがむちゃくちゃだ!」

 アリアはチャプリーを見下ろして、先ほどとは上下逆さまの立場だ。

「見て、チャプリーくん。ハドスは大切な宝物を右の胃袋に、必要のないものは左の胃袋におさめるわ。とりあえずの置き場所としてね。あのキラキラ光っているのがなんだか分かる?」

 透明な反射に記憶を刺激されて、チャプリーはハッとした。

「まさか……、あの美しく光っているのはマゼスト大河から吸い上げた水なのかい?」

「ええ……そのとおり。ハドスは右の胃袋に……泥遊びをするのに邪魔なマゼスト大河を隠したの。私たちはマゼスト大河をハドスから取り返すのよ。――やりかたはこう。おもいっきり右の胃袋を押して、ハドスの口からマゼスト大河を吐き出させてやるのよ」

「そんなに上手くいくかなあ?」

「きっとわたしとチャプリーくんの二人ならやれるわ。……ねぇ、チャプリーくん、わたし思うんだけど、そのステッキって人間二人分の体重を支えるのはきっと無理だと思うわ。ずっとしがみついていたわたしが言うんだから、間違いないわよね」

「さあ? どうかなあ、わからないよ。意外と深く刺さっているみたいだしね」

「あら、チャプリーくん、さっきからわたしの言うことに反対してばっかりね。それじゃあこうしましょう。わたしが正解したら、あとはわたしの言うとおりにするの」

 チャプリーが、ハイともイエスとも言わないうちに、アリアは口内からノドに刺さったステッキめがけて飛び降りてきた。

 ドレスのスカートがひるがえり……美しさにチャプリーが見とれる間に、アリアはチャプリーの隣に並んだ。

 ステッキがゆっくりと、ハドスのノドから抜け落ちていく。

 ――チャプリーとアリアは落下する。

「やっぱり。ほらご覧なさい。わたしの言ったとおりになったわ」

「わわっ、落ちる! ねぇ、アリアちゃん、これからいったいどうするんだい?」

「このまま左の胃袋に落ちるわ」

 チャプリーはアリアに聞いてみた。

「きれいな右側じゃダメかい」

「水遊びでもしようっての。それじゃ物足りないでしょ?」

 チャプリーは肩を竦めて片眼をつむって、泥の穴へと落ちていった。






 どうしてグォウは戦っているのかしらん、とグードラはふと考えたが、心を制御してよしなしごとを打ち消した。グードラは高い知能を持つドラゴンであるがゆえ、莫大な思考の放流のなかに自分のモットーとは反するものが紛れ込むことは仕方がない。

 グードラはいかなる戦いにも理由を持ち込むべきでないと考えていた。

 戦いがバカバカしくあれば、ただのケンカですむが、理由を持ち込めばそれは戦争になる。

「理由のない戦いは美しくないのだ、美しくないものはいらねー」

 主張と共にハドスが茶色の物体を投げつけてくる。グードラはもぞもぞと蠢くそれを上昇することでかわした。

「泥まるけのおまえが美しさを語るな。ケンカなんてキレイじゃなくていいぞ」

 泥の球が空中で弾けて地面を覆った。壮麗な草原が、濁色に塗り潰されていく。

「美しいものにはそれだけで価値がある――賢竜ハドスの名言、覚えておけよ小僧」

「なんだそれ、遺言か。なら、覚えといてやる」

 ハドスは無数の泥玉を唸らせ、上下左右からグードラをつけ狙った。

 見事な空中演舞でグードラが身をかわすたび、泥は広がり落ちて、跳ね上がって空を汚し、それを見るハドスの両眼はランランと怪しく輝いた。

 美しいものを愛しながら、泥にまみれて破壊を撒き散らすハドスを、グードラは屈折したヤツなのだ、と気がついた。しかし、困ったことだが……グードラは変態的で屈折した男のことが嫌いではなかった。

 相棒のことを思い浮かべて――なんとなく嬉しくなってしまったのと、グードラ自身が真っ直ぐであったために気がつかなかったのは、ハドスの仕掛けたトラップだ。

 薄汚れた空である。いやさ、ハドスは薄汚れているのは空気であるとグードラに錯覚させた。

 グードラはマゼスト大河を占領するハドスの姿が、実物よりスマートになっていることに気がついた。

 いったいどうして? 思ったときにはもう遅い。

「もう逃げられない。超圧縮の衝撃は貴様をこなごなにする」

 光の屈折。泥の舞う戦場を隠れ蓑にして、ハドスは罠を張っていた。

 いつの間にか泥を薄い膜状にして、辺りに張り巡らし、グードラの周囲を覆っていたのだ。

 膜の中でグードラが、ぐにゃりと歪む。

 ハドスが掌を掲げ、握り込んだ。

 超速の水圧が、泥の全方位攻撃が、グードラの体内にまで浸透する衝撃を与える。

 グードラの翼がひしゃげ、両腕がねじ曲がりだらりと下がった。

 これだけでは終わらない。

 動けなくなったグードラに次々と泥玉が、ぶつかって、ぶつかって、ぶつかって、ぶつかって、破裂した。

 グードラは言葉なく落下していく。泥沼へと沈んでいく。



「とても歯が立たない」

 チャプリーは泥に浸りながら、背後で浮かぶ泥玉に気をつけていた。

 ハドスの泥袋のなかは意外と明るく、アリアの姿も周囲に浮かぶ泥球もくっきりと見えた。

 足下の泥は膝下までで、ぬかるんでバランスを崩す以外にこれといった驚異はなかったが、背後に浮かぶ泥玉たちはもともと湖ほどもある泥の塊である。

 辺りに浮かぶ泥球が、もし破裂したら……胃袋を泥が満たしたら、チャプリーもアリアも助かりようがない。

「チャプリーくん、押そう押そう。ぐいぐい~って」

「アリアちゃん、泥だらけじゃないか。せっかくのドレスが……」

 チャプリーは泥の沼にひざまずいて、アリアのドレスの裾をめくり上げた。

「もう! チャプリーくんったらエッチなんだから。ドレスなんてどうだっていいじゃない」

 チャプリーは泥沼に足を開いて踏ん張って、両手と顔とを胃袋の壁に押しつけて、押しはじめた。おもわず言葉にも力が入る。

「どうだっていいもんか。アリアちゃんは無茶ばっかりして。なんなんだよ。アリアちゃんが泥にまみれることなんかないのに。僕が死ぬ思いまでしてハドスに食われたってのになんだい」

 アリアの方は両手と金髪を壁に押しつけて、両足をばしゃばしゃと動かして前進しない行進を続けている。

「ごめんね、チャプリーくん。なにがあってもチャプリーくんは無事に帰れるようにするから。わたし、マゼスト大河をもとに戻したいの。街の子供たちには美しいマゼスト大河が必要だわ。そうでしょう? 友達と川遊びが出来ないなんて悲しいじゃない」

「そんなの……アリアちゃんには関係ないだろ。僕のことなんて。知らない子のことなんて。命を賭けるようなことじゃない。誰にだって平穏な生活を送る権利があるはずだ。君にだって。ずっとハドスに連れ回されて、大変だったんだろう? これからは、慎ましいちいさな幸福を享受して生きていくんだ。竜の腹のなかになんて入らないでよ。アリアちゃん。――こんなところさっさと出て、僕といっしょに街で暮らそう」

 チャプリーは驚いた。自分の口からおもわず出た言葉。――僕今なんと言ったんだ?

「みんなが平穏に暮らすために冒険者が必要なんじゃない。――あれ? って、え?」アリアから力が抜ける。足をすべらせて泥の中へ頭から突っ込んだ。それでもって、顔を上げて小首を傾げた。

「チャプリーくん、今もしかして、わたしプロポーズされたの?」

 このいいところで、

「ぐいぐい~! ぐいぐい~!」

 決めきれないのがチャプリーって男だった。

「ちょっと、チャプリーくん。なに照れてるのよ。……もうっ、わたしまで恥ずかしくなってきちゃったじゃない」

「アリアちゃん、僕と結婚してくれるかい?」

「ねぇ、チャプリーくん、わたしハドスに呑み込まれて、今度こそもうダメだって思ったのよ。でもね、チャプリーくんがハドスの口から入ってきたとき……わたし、なんでかな。勇気が湧いてきて、なんでも出来るような気がしたの。チャプリーくんと二人ならたくさんの人たちを助けることができるって。わたしハドスのノドにずっとぶらさがっていて、ずっと考えていたのよ。どうすればいいんだろうって。どうしたら、マゼスト大河をもとに戻せるんだろうって。でも、さっぱりわからなくて、そのうち腕が痺れてきて、ああ、もうダメだ。どっちに落ちようかな。なんて、思いはじめたとき、チャプリーくんが助けに来てくれて、そしたらわたしわかったの。チャプリーくんといっしょに落ちれば、なんとかなるって。なんでだろ。本当はイイ方法なんて思いつかなかったけど、でも君ならなんとかできるって、わたしわかっちゃったの。わかったの。わたしなに言ってんだろね? うん、だから、わたし、きっとね」

 支離滅裂に、アリアは散文的に話した。言葉にならない言葉のパズルは意味不明で、きらきら輝いて、ただ美しかった。

 胸が高鳴り、チャプリーはステッキを手にとってクルクル回した。

 こんなときに道化師ぶってお辞儀をした。

「アリアちゃん、このステッキを持てば僕は少しだけ自分に自信が持てるんだ。魔法のステッキなのさ。でもね、それは大それたものじゃない。僕は今、大好きな女の子を助けてあげられるかもしれないって思っている。大好きな女の子の願い事を叶えてあげられるかもしれないんだ」

「チャプリーくん……なに言ってるの?」

 チャプリーはステッキをおもむろに泥球の一つに突き刺した。

 泥球は破裂し、湖一杯分の泥を空間に溢れさせていく。

「ちょっと、なにしてるの! チャプリーくん!」

「マゼスト大河を救うにはきっとこれしかない。重い泥で向こう側の水を押すんだ。――アリアちゃん」

 泥が空間を満たし、チャプリーとアリアの体を容赦なく昇ってくる。……チャプリーは今度は愛用のステッキを壁に突き刺した。

 壁は分厚く、びくともしない。

 アリアを抱き上げたチャプリーはステッキの上にアリアを降ろす。お姫様を救う騎士みたいに。

「君は生きてて。僕はたくさんの人を助けてあげるような勇敢な冒険者にはなれないけど、アリアちゃんには生きていてほしいんだ」

 チャプリーは泥の重さもなんのその。跳び上がると、ステッキの端に跳び乗った。

 ステッキは人間二人分の重さに耐えきれず――弾け飛んだ。

 テコの原理に勢いも合わさって、アリアは宙へと投げ出されていく。チャプリーの計算通り、ハドスの胃袋を飛び出して、ノドをくぐり抜けハドスの口へと戻っていく。

「チャプリーくんのバカ! 街の生活はどうするのよ。わたしといっしょに暮らすんじゃなかったの?」

 アリアが叫んだ。

「早く行ってくれ! 僕は大丈夫だから。きっとマゼスト大河をもとに戻すから。グードラに伝えてくれ。いっしょに行けなくてスマナイって。あいつはああ見えて寂しがり屋なんだ……」

 チャプリーはアリアのぬくもりが感じられなくなると、途端に勇気が萎んでいった。

 寂しさが訪れ、心細くなり、心臓が石のようになって、呼吸が荒くなる……。

 やがて、死の恐怖が全身を支配していく。

 ずぶずぶと……泥が迫り上がってくる。泥は耳よりも高くなって、もうチャプリーには……何も聞こえなかった。

「うわあああああああああああっ」

 チャプリーはステッキを振り回して、泥玉を次々と破壊していった。

 泥が弾け、壁にぶつかって、跳ね返った。

 チャプリーは泥沼のなかでもがいて、もがいて――沈んでいった。

 



 絶望に打ちひしがれていたのは、ハドスだ。

「誰もが弱すぎる……。退屈なんだ。奇跡なんて起こりはしない。チャプリー、おまえもダメだった。もう少しのところでダメだった……」

 希望はないのか?

「ハドス! ここを開けなさい!」

 声が聞こえ、ハドスは立ち上がった。

「アリア?」

 口内に指を突っ込んで探すと、指先に感触がある。

「アリア、生きていたのか……。だが、それさえも今は虚しいよ。オレはもうアリアといられないし、チャプリーも竜の子も死んでしまった」

「グードラが?」

 ハドスはアリアを地面にそっと降ろした。

 アリアは泥沼から背毛だけが出ているグードラに向かって駆けていく。

「ハドス! 待ってなさい。今日という今日はあんたをぶん殴ってやらないと気が済まないわ」

「アリアが? 殴りたければ殴れ! 好きなだけ!」

「わたしじゃないわ。それは男の子の役割よ」

 アリアはグードラを引きずって、草原へ出た。

 周囲の空気は汚れ、草にまで泥が染み込んでいる。

 荒廃した大地には絶望が横たわっている。

 希望はないのか?

 アリアは金髪を耳にかけると、小鳥のさえずりのように優しくグードラに口づけた。

 すると――グードラがむずむずと動き――。

「アリア、生きてたのか! おっと、言っとくけど、グォウは負けてないぞ。ハドスを油断させるためにやられたふりをしていたところだ」

「グードラ、チャプリーくんがわたしを助けてくれたの。チャプリーくんはマゼスト大河を救うために……」

「ははあ。チャプリーらしいな。わかったぞ、アリア。グォウがハドスをぶん殴ってやる」

 アリアは祈り、グードラは空へ昇っていく。

 ハドスは、もう面影さえない禍々しいマゼスト泥河から足を踏み出した。

「貴様、なぜ生きている。オレの超速の衝撃泥を食らって無事なはずがない」

「あんなんでグォウが死ぬか。グォウは頑丈なんだ」

「大空を背負い――」

 グードラが空中で踊り、緑色の光に包まれていく。

「竜の息吹をまといし者……」

 変化があった。グードラの背毛が赤く輝き、一吹きしたドラゴン・ブレスがグードラの身体に巻き付いていく。グードラを守る鎧のように、運命を切り開く刃のように、燃えていた。

「小僧、その力、──まさか、おまえはキング・オブ・ドラゴンハートなのか!?」

「そんなの勝手に決めるな、グォウはまだ何者でもない。だから――グォウはなんにだってなれるんだ」

 無数の泥弾が――舞飛ぶ。

 グードラは旋回し、瞬く間に千の泥弾を焼き消した。

 グードラのまとう炎に触れた泥団は蒸発し、消え去っていった。

「エベベベッ! なにをやっても無駄だ! オレの泥袋はどんな衝撃にも耐えられるようにできている。外と内側から同時に衝撃を与えない限りは、オレの泥袋は微動だにしない。マゼスト大河は救えない!」

「グーオウ!」

 グードラの炎をまとった体当たりは、ハドスの腹にぶち当たり、衝撃波を巻き起こした。

 宙に漂う泥が、草葉を汚す泥が、天を覆っていた泥が、吹き飛んで――緑色の世界が歌を歌った。そして、奇跡が起こる。

「これは、いったいどういうことだ。ありえん。腹が……、泥袋が……揺れる!」

 ハドスは大きな口を空へと向けると、光り輝くマゼスト大河を吐き出した。

 マゼスト大河は泥のダムを壊し、空に虹をつくった。

 空が輝いたら――虹をバックに空中カエル泳ぎを披露しているのは、チャプリーだ。

「チャプリーくん!」

 チャプリーが真っ逆さまに大地に叩きつけられるところをグードラが助けた。

「グードラ、アリアちゃん、見てたかい? 僕の勇姿を」

 グードラとアリアは顔を見合わせて、

「もちろん!」

 ダムが壊れると、塞き止められていた水が流れ込み、涼やかな空気が辺りに立ち込めた。

 泥は払われ、マゼスト大河はもとの姿を取り戻した。  



「それでチャプリーくん、どうやったの?」

「え? アリアちゃんが言ったんじゃない。ぐいぐい押せって。息を止めて、泥袋の壁をずっと押していただけさ」

「それじゃあチャプリーくん、ハドスのお腹のなかで、ずっと泥袋を押していたの? ぐいぐい~って」

「うん、そうだよ」

「どうしてハドスはそれに気付かなかったのかしら」

「グーオウ、きっとそれは、チャプリーのことだから、泥袋のなかにあった泥玉を全部壊しちゃったんだ。それでハドスは、もうお腹の中で衝撃を与えるものはなくなったと思い込んで、油断したんだ。チャプリーがお腹を叩いたって、ハドスにとっては蚊が刺したほども感じないから、気付かなかったんだぞ」

「もうちょっとで危なかったけどね。息が保たないところだった。いきなりハドスのお腹のなかで泥沼が爆発したからビックリだよ。あっと言う間に噴水みたいに飛び出して来ちゃった」

 三人は笑い声をあげて、青空に響かせた。

 ハドスはあまりの衝撃に目を回している。

 グードラがハドスの大きな顔をはたくとハドスは目を覚まし、こう言った。

「オレはオレの好きなようにやる。それだけだ」

 ちいさな翼で空へ舞い上がり、

「だが、泥遊びは当分ごめんだ。きっと泥を見る度に、今日のことを思い出す。これからはそうだな。水遊びでも楽しむか、エベベベッ、エベベベッ!」

「ハドスったら、ぜんぜん懲りてないんだから」

「だけど、ひとまずこれで一件落着かな」

「グーオウ、それじゃ、これからどうするんだ?」

「そうだな、それじゃ――あっ」

 どうしたの? とグードラとアリアが聞いた。

「僕のステッキがなくなってる……」

「ああ、それなら」

 大丈夫、とグードラが指を立てた。

「グォウはステッキがマゼノヨコ街へ跳んでいったのを見たぞ」

「そうか、それなら――あっ」 

どうしたの? とグードラとアリアが聞くと、

「ロバ公がいない……。荷馬車ごといなくなってる」

 チャプリーはショックを受けたが、アリアが背中を叩いた。

「いなくなっちゃったものは仕方ないわ。それじゃ、歩いて行きましょう。いいじゃない。チャプリーくん」

「ああ、僕の稼ぎか……」

 グードラがあくびをして、アリアとチャプリーは目を合わせて。

「それじゃあ行こう。――街へ」

 マズノヨコ街へと、向かっていった。






 チャプリーたちがマゼノヨコ街へ着いたときにはすっかり日が暮れていた。

 街の灯が暖かく灯っている。

「なんだか緊張するな」

「あはは、チャプリー、もう来た街だぞ」

「そうだけど……はじめてさ。通り過ぎるのじゃなくて、一生を過ごすための場所として、街に入るのは」

「大丈夫よ、チャプリーくん。きっと受け入れてもらえるわ」

 マゼノヨコ街北西の門をくぐろうとすると、見張り塔から呼び止められた。

「やい、おまえたち、こんな夜遅くになんの用だ。街へ入る目的は?」

 答えるチャプリーの声は……うわずっていた。

「あ、あの……僕のこと知りませんか。今日の明るいうちに出たばかりなんです」

 門番の持つ照明が揺れて、チャプリーたちを照らした。

 あまりに眩しくて、門番の姿が見えなくなる。

 男は見張り塔の窓から顔を引っ込ませると、階段を下りてきた。

 手にはなにも持っていない。

 だから、今度は暗闇が男の姿を隠している。

 地面を靴で擦る音だけが聞こえる。

 男の方も……迷うように、戸惑いながら、近づいてきているように見えた。

 町中へ走り出そうとする足を、押さえながら、こちらへ近づいてくるように見えた。

「どうか、街へ入れてほしいんです、お願い」

 チャプリーは手を合わせた。 

 ああ、この仕草へっぴりごしで……お辞儀は何度だってしたけれど、人に手を合わせることなんて、チャプリーはしたことがないんだ。

「街に入りたいだと?」

 門番の男が両手を振り上げて……どうなる? 殴られるのか、イヤだ!

 門番の男は、

「あんたチャプリーだろ! 信じられない、水くさいこと言うなよ、みんなあんたを待っていたんだ」

 興奮して、感激して、チャプリーの肩を叩いて揺さぶった。

「いいかい。真っ直ぐ行くと、サンマロンという宿があるんだ。大きな宿じゃないが……」

 チャプリーとグードラはサンマロンと聞いてニッコリした。

「サンマロンなら知っていますよ」


「そうか! サンマロンに行ってくれ。私も仕事が終わったら向かうからね、あんたには聞きたいことがたくさんあるけど、私の方から一つだけ言わせてくれ。ありがとう!」


 

 男に肩を押されて、よろけながら、チャプリーたちは街へ入っていく。

 街灯が明るく瞬き、星が街を見守っている。


 おかしな男と女の子とドラゴンのへんてこりんな三人組が寄り添い合って道を歩いて行く。

 門番の男が、背中に向かって手を振っている。

 ありがとう、と大声を上げながら。


 ありがとう。

 ありがとう。

 チャプリー、ありがとう。

 街を救ってくれて、ありがとう。


 











「よく来たな」

「乾杯!」

「まだ早い! 主役が座ってもいないんだぞ」

 お宿サンマロンは大盛況、チャプリーたちが帰ってきたと聞いて、店の外まで人が溢れていた。

「いったいどうやってドラゴンを退けたんだ?」

「僕は何もやっていないんです。でも、どうしてそれを?」

 サンマロンのオヤジは大きなジョッキをチャプリーに渡した。

「どうした。なんだかよそよそしいじゃないか。何を遠慮しているんだ? 前とは別人みたいだ」

 チャプリーが黙っていると、オヤジは瞬きをして店の奥へと下がっていった。

 グードラがテーブルの上で酔客たちに話しを聞かせ、アリアがチャプリーの隣で魅力を放っている。

 チャプリーの杯に何度も乾杯が当てられて歓声が上がったけど、チャプリーはどうしてもヒーローになって酔っ払うことができなかった。

 極度に緊張にして、上手く喋ることさえできないのだった。

 店主が戻ってくると、チャプリーは驚いて立ち上がった。お客たちが頬を真っ赤にして手を叩いた。店主が手に持ってきたのは、チャプリーのステッキだったのだ。

「僕のステッキ!」

「泥だまりに変わっちまったマゼスト大河の岸から、みんなが西の空を見上げていた。奇跡でも起こりゃしないかって。誰もがもうダメだと思い……この街の行く末を嘆いた。――やがて空に虹が架かり、大きな竜が空へと逃げていったんだ。天高くマゼスト大河の水は噴き上げて、あるべき場所に戻った。そのときいっしょに打ち上げられて――お宿サンマロンの屋根に突き刺さったのが、このステッキだ。見てみれば、チャプリー、あんたのなまえがステッキにはっきりと書かれているじゃないか」

「持ち物にちゃんとなまえを書いておくチャプリーに乾杯!」

 みんなが笑って、チャプリーはアリアに手を重ねた。

 だけど、やっぱり今夜のチャプリーはエンターテイナーにはなれない。

 借りてきた猫のようにしとやかだ。

 見かねた店主が声を掛けた。

「本当にいったいどうしたんだ。本当の人間嫌いになっちまったのか」

「いえ、それはまったく逆なんです」

「逆?」

「疲れちゃって。奥で話せますか?」

「ああ、いいよ。みんな、チャプリーはもう休むけど、ゆっくりしていってくれ」

 店主がチャプリーのために人をどけて道をつくってくれた。

 チャプリーは巨竜と対面したときも、死の直前にも感じなかった緊張によって、汗で全身を濡らしていた。人と本気で向き合うことがこんなに恐ろしいなんて……。

 目は冴えている。右手と右足を同時に出して、店主の気を悪くしてはならぬと気にしい気にしい進んでいく。

 おかしな男だと誰かが笑った。

 店主がステージ裏にパイプ椅子を置いてチャプリーを座らせた。 傍らに置かれたドラムのシンバルがシャリンと揺れた。

「人に笑われるのは嫌いだったな。みんなすっかり酔ってる。勘弁してやってくれ」

「いいんだ、そんなこと。それより、アリアちゃんは今まで大変な目に合って来たんです。もう、休ませてあげたいのですが」

 チャプリーが言うと店主は立ち上がり、一度外へ出ていった。

 アリアがそこで、

「みんな歓迎してくれているじゃない。心配いらないわ」

 青ざめているチャプリーに暖かい言葉をかけた。

「うん、そうだとも。心配しないでね、アリアちゃん。御店主さんに話しをするから。この街で暮らす準備が整うまで、何日か世話になれないだろうか。無理な話しだけど、やらないと」

「それなら私も」

「街での暮らしでの第一歩だ。僕に任せてくれ。僕はわがままかい?」

「いいえ、だけど、無理しちゃダメよ。わたし、どこでだって生きていけるんだから」

「最初は苦労をかけるだろうけど、君を幸せにしてみせるよ」

 そこへ、店主が戻ってきた。

「お風呂場に着替えを置いておいたよ。使ってくれ。もちろん、宿代はいらないからね」

「宿代……実はお金を無くしちゃって……文無しなんです」

 ロバと共に失った財産を思い出して、チャプリーは嘆いた。

「お金はいいんだよ」

 アリアは立ち去らず、指を合わせて見守っている。弟の初仕事を木の陰から覗く姉みたいに。

「大丈夫、ゆっくりお休み」

 そう言うとアリアはようやく泥だらけの美しい顔で「おやすみなさい」と微笑んだ。労りと感謝、心配と寂しさがない交ぜになった絶妙な笑みで、チャプリーはこの子をなんとしても幸せにしてあげたいと思った。

「いい子だね」

「あの子は、これまで信じられないような辛い体験をしてきたんです。それなのに、ひねくれないで真っ直ぐで、僕はあの子に暖かい暮らしをさせてあげたい」

「あんたが変わったのはあの子のためか。なるほど、そりゃあステキなことじゃないか」

「そう言ってくれますか?」

「そう思うよ」 

 チャプリーは意を決する。

 真心で人と向き合うことがこんなにもキツイことだなんて。でも言わなくちゃ。いつかは、やらなくちゃならない日がやってくる。 そうだ。いつか、君にも。

「僕たちは、この街で生きていきたいんです。この街で働いて、家を買って――どこにも行かないで生きていきたい」

 サンマロンの亭主はジッとチャプリーの顔を見た。

 チャプリーは何も言わない。

 チャプリーは踊ったり、歌ったりしないでジッとしていた。

 おふざけはなく、真剣だった。

 オヤジは目を逸らすと、自分の膝を見ながら考え込んで、こう言ってきた。

「チャプリー、あんたの頼みなら、何でも聞いてあげたいんだが、よくわからないな。俺に何をしてほしいんだ?」

「どんなことでもしますから、この街でやる仕事を紹介してほしいんです」

「仕事なら」

 オヤジは事情が分からず首を傾げて、

「芸をやったらいいじゃないか。彼女のためになら、人に笑われるのだって我慢できるはずだろう?」訝しげな顔をした。

「それができないんです」

 どうして? と疑問符を浮かべるオヤジに事情を話す。

「あの恐ろしい地下サーカスの団長を、僕は締め落として出てきたんです。僕がこの街で芸をやったら、あの男は絶対に黙っちゃいない」

「ああ、なるほど。そりゃいかん。悪い男に目をつけられたもんだ。ところで、その笑い話、くわしく聞かせてくれないのかい?」

「機会があったら。でも、今は仕事を」

「仕事と言われても、すぐにどうにかできるわけじゃないよ。それより、酒の席に戻ろう。みんな待っているよ。団長を締めてきた話しをみんなに聞かせてやろう」

 チャプリーのこのときの台詞に、サンマロンのオヤジは唖然とすることになった。

「仕事が貰えるまで、僕はここを動きません!」

 何てことを言うんだ。どう思う? 男らしくて立派? いや、まさか。そんな無茶を言われたって、亭主も困ってしまうじゃないか。

 生まれてはじめての真剣にチャプリーらしくないというか、彼らしいと言うべきか。

 とにかく、このときのチャプリーは普段と全然違う人だった。

「こりゃ参った。あんた、とんでもなく不器用な男だ。千の技で人を魅了するあんたが、まさか、生きることに関して、そこまでへたくそとは」

 酷い言いようだったが、まさにその通りで、チャプリーはぐうの音も出ない。

「今まで好きな人間とだけ付き合ってきたな。興味のないものや嫌いなものには見向きもしないで。だからあんたは、まるで子供だ」

 オヤジは立ち上がって、アゴに親指をそえて、チャプリーを見下ろした。

「あんたを紹介したとあっちゃ、サンマロンの評判までがた落ちだ。ああ、分かるんだ。あんたみたいな人は珍しいが、たまに見かけるよ。身なりはそこそこで、楽しいやつだが、一皮むいたらヒドイ意固地で手に負えない。扱いづらくて、やっかいなんだ。何を考えているかわからんヤツは、何をしでかすかわからない。火をつけて導火線を隠した爆弾みたいにいつ爆発するかわからんのさ。そんなヤツを誰が手元に置きたがる?」

 チャプリーは顔を覆って、さめざめと泣いた。

 返す言葉がないのだ。そうじゃない、僕はやれる。人と交わって、生きていける。そんな言葉は出てこない。オヤジの言うことは全部本当のことだったからだ。


 オヤジはチャプリーの肩を叩いた。

「チャプリー、あんた間違ったんだよ」

 いったい何が? 今までの生き方を? 人との交わり方を? 

 それとも、この世に生まれてきたこと、それ事態が?

「そうじゃないよ。言葉を間違ったんだ。あんた、こう言うべきじゃないか。オヤジさん、僕をここで働かせてくれませんか? ってね」

 チャプリーが顔を上げると、亭主が優しく笑っていた。

「水くさいこというな。あんたがどんな変わり者だって俺は構うもんか。俺はあんたが好きなんだ。いい仕事があるよ。思いついたんだが……今までサンマロンは旅の楽団や芸人が立ち寄るのに頼ってきたが、どうもそれじゃ心許ないと気付いたんだ。そこで、俺は街の子供たちに芸を教えることにした。どう思う? 子供は好きか?見所のある子もいるんだ。あんたがそれを手伝ってくれたら心強い。新しいことをはじめるのはいつだって難しいが、上手くいけば、マゼノヨコ街はきっと今よりも賑わうはずだ。どうだ、チャプリー、笑ってくれ。こんな年寄りがバカな夢を見ているって。さあ涙を拭いて」

 チャプリーは

「ぼやっ、ぼやぢさん! ぶわ~っ」

 もう顔をむちゃくちゃにして、亭主にしがみついた。

「おい止せ。男がそんなに泣くな。本当に子供みたいだよ!」


 幸せな予感と共にチャプリーは布団に入った。

 そうすると、ベッドのなかは格別だ。

 暖かくて、気持ち良くて、何の不安もない。楽しい明日を迎えるために今日はもう寝なくちゃ。

 だけど、チャプリーは何事もなく眠ることはできなかった。

 ああ、一悶着の声がする。


 日が変わり、真夜中のことだ。

 こんな時間だってのに、騒がしい。

 宿の中じゃない。外から音がする。

 人々の怒鳴り合う声、なにかの壊れる音。

 チャプリーはグードラを起こして、宿の一室から外へ出た。玄関口のある食堂へ行くとサンマロンの亭主が、灯りを少なくした部屋から、外の様子を覗っていて、チャプリーに気付くとさっとカーテンを引いた。

「いったいどうしたんだい?」

「何でもない。問題はないよ。悪ガキが外でケンカしているだけだよ」

 グードラが

「オヤジ、おまえ嘘を言っているな。そんな風に上を見て、考えながら言ったんじゃバレバレだぞ」

 看破して、チャプリーがカーテンを破った。

 途端、サーチライトの光が射し込んでくる。そして罵声がドアを叩く。

「やはりそこにかくまわれていたか。出てこい、犯罪者め。出てこい、重罪人チャプリー」

「チャプリーって」

 グードラとチャプリー、二人は驚いて、

「僕のなまえだ」

 顔を見合わせた。

「出て行くことはない。ここでジッとしていなさい」

「何がどうなっているんだろう。本当に拙いことにはなっていないんですね?」 

 チャプリーが確認して、オヤジがもちろんだよ、と答えたそのとき、

 扉に重い何かがぶつかる音。

 意味の成り立たない人の声、罵り合い。

 そして、パーン……と、

 銃声が鳴った。

 チャプリーとグードラは居ても立ってもいられず、扉を開けた。

「やめろ。来ているのは警邏隊なんだぞ!」

 オヤジは手を伸ばしたが、

 もう遅い。外へ出たチャプリーとグードラは眼を見開いた。

 ぶつかり合う人と人。

 罵り合う人と人。

 真夜中に火が焚かれ、町人たちは松明を掲げている。

 炎に照らされた顔を見れば、頬を腫らしていたり、唇を切っている者もいるようだ。

 暗闇でよく見えないが、ああ、あの道端に転がっている人はいったいどうしたんだろうか。

 町人に対する警邏たちは盾を構え、ヘルメットを被り、黒々としたおもちゃの兵隊のように並んでいる。

 商店街で町人たちと警邏たちが睨み合っている。

「あなたたち何やってんです! こんな夜遅くに迷惑だ!」

 チャプリーが叫ぶと、人がどっとチャプリーとグードラに押しかけてきた。

 警邏たちが「あそこだ、確保ーッ」号令と共に突撃して来て、その前に町人たちが身体を張って立ちはだかり、行く手を阻む。

「人ごとみたいに言うな、あんたのことだぞ」

 そんなことを誰かが言った。

「犯罪者を庇い立てるヤツラはみんな犯罪者だ。全員タイーホするぞ! 場所を空けろ。そいつはドラゴンを使って街を焼き払おうとしている極悪人だ。テロリストだ。なんのつもりだ。貧乏人ども。犯罪者に取り入って、クーデターでも起こすつもりか!」

「何を言っている! この人は街の英雄だ。ドラゴンを追い払って、マゼスト河を救ってくれたのはこのチャプリーなんだぞ!」


「嘘を言うな。そいつが昼に警邏に反抗し、傷害事件を起こした上で、街から出ていることは事実だ。つべこべ言わずにそいつを引き渡せ」

 町人の若い男が、チャプリーに寄ってきて、早口で聞いた。

「本当なのかい。あんた、警邏を殴り飛ばして、街を出て、ドラゴンを街にけしかけるつもりだったのかい」

「ああ、うん。つまり、そういうことがあったのはホント。でも、ドラゴンで街を焼くなんて、それはホンのちょっとした、ウェットにとんだジョークのつもりだったんだけど、この街では流行らなかったみたい」

「マズイな。ヤツラ、話しの通じる相手じゃない。とにかく、あんたたちはサンマロンに戻ってくれ。おれ達でヤツラを食い止めるから」

「ちょっと、キミ、なにいって」

 数人掛かりの男たちに押されて、チャプリーとグードラは宿のなかへ戻された。

 その瞬間、ガラスの割れる音。

 そして銃声。

 暗く、恐ろしい夜。

 家の外では争いの音がしている。

 子供たちは耳を塞いで、うずくまる。

 グードラとチャプリーとオヤジは店の奥へ押し込まれ、ジッとしているしかなかった。

 そしてやがて、静寂が訪れた。

 窓の外が白んできたころだ。

 結局、チャプリーたちは眠れず、街の男たちが店のテーブルに顔を並べた。

「警邏たちは何とか追い返したが、ヤツラきっとまた来る。いったい、どうする?」

「何度だって追い返してやる。ヤツラ、ぶっ殺してやる」

 街の強面が物騒なことを言う。

「平和的な解決法を模索しよう。みんなで考えれば、何かあるはずだ」

 サンマロンのオヤジが窘めたが、

「平和的な解決? そんなもんはないでしょ。ヤツラ、オレらのことをバカにしてんですよ。同じ人間と思っていないから、話しを聞く気なんかないんだ。いけ好かない南街の連中、くそったれめ」

 若い不満を止めることはできない。普段からあった鬱憤が、わだかまりが、今回の事件をきっかけに吹き出して、店中に充満していた。

 まさか、チャプリーのしでかしたことが、街をこんなに複雑にしてしまうなんて。

 こんなのは望んじゃいない。

 欲しかったのは、心の平穏とちいさな生活。

 好きな人、大切な家、穏やかな街の灯り。

「ねえ、僕が悪いみたいですね。こうしたらどうでしょう。僕が南側に出向いて、正直に話しをするんです。話しを聞いてもらえなくたって、僕が刑務所に入れられるだけですよ。こんな風に街同士でいがみあってちゃ始まらない。これから皆さん、仕事があるんでしょう。一先ず僕がいなくならなきゃ。僕が刑務所から戻ってきたら、またみんなで楽しく飲みましょうよ」

 チャプリーは立ち上がり、

 こう言ったのだが、誰の胸にも届かずに、熱くなったハートを刺激するばかりだった。

「街の英雄をヤツラに渡すもんか!」

「目にもの見せてやる」

「高慢ちきどもめ、労働階級を舐めるな」

 ぐんぐんと盛り上がり、町人たちの怒りはエスカレートしていく。

「グードラ、このまま行ったら、この街はどうなるんだろう?」

 グードラは眼を閉じて頷く。

「グーオウ、グォウたちは火種なんだぞ。グォウたちが居続けたら、街で戦争が起こるはずだ」

「僕が刑務所に入ったとしたら?」

「戦争の場所が南側に移るだろうな。チャプリーを取り戻すって名目を掲げて。ガスはそれだけなら臭うだけだけど、火種があると大惨事になるんだ」

 グードラのつまらない例えにチャプリーはへらへらと笑った。

「オヤジさん、オヤジさん」

「ああ、チャプリー……」

 いつもの調子、人を食った道化顔に戻ったチャプリーを見て、オヤジは犬のような瞳を揺らした。

 チャプリーは両手を枕にして、椅子を揺らしながら、みんなの笑いものファニーマンのふりをする。

「お願い聞いてもらえますか? アリアちゃんのこと頼みます。彼女は普通の女の子。街の生活がよく似合う、花も恥じらう町娘。辛い旅暮らしはもうたくさん。ドレスをまとって恋をして、イイ人の帰りを待つんです。きっとあの子ならこの街でそんな人生が送れるはずだから」

 グードラは立ち上がり、チャプリーの伸ばした手を握って、立ち上がらせた。

「二人とも、どこへ行く気だ?」

「荷物を取りに、僕は部屋へ行く。そしたらこの街から出て行くよ」

「なんだって。どこにも行かせはしないぞ」

 言葉を間違えた若者が立ち上がって、チャプリーとグードラの前に立ちはだかった。

「ねえ、キミ。いいかい。僕はドラゴンをけしかけて、街を燃やそうなんて気はさらさらないよ。――今の所はね。警邏たちにこれがジョークに聞こえなかった理由がわかるかい。僕にはそれがいつでも実行可能だからだよ」

 眉を八の字にして、戸惑った若者はその場にへこたれた。

 彼を置き去りにして――。

 少ない荷物を持ったチャプリーは、とある宿の一室の前で立ち止まった。

 チャプリーの頬に一筋のしずくが伝った。

「どうかお幸せに」

 ちいさくお祈りするとその場から離れた。

 あとは迅速だった。

 晴れやかに、軽やかに、道化のように、チャプリーとグードラは踊り、人々を惑わした。

「やあ、皆さん、ショーの時間は終了です。お楽しみ頂けましたか?もうすぐ街にかかった悪い魔法は解けるでしょう。通りすがりの道化師が起こした気まぐれでいたずらな魔法でした! それではシーユー!」

「バイバ~イ」

 こんな風に底抜けに明るく、夢のように楽しく儚く人々の前から姿を消した。

 サンマロンの扉は開かれて、二人は出て行く。

 扉が閉じられると、街人たちはハッとし、こう言った。

「仕事に行かなきゃ!」



 誰かの歌声が空っ風に溶けていく。

 子供たちが窓を開ける。

 歌声が遠ざかる。

 ああ、街からピエロが行ってしまう。

 

 がに股歩きで空を見上げて、早歩き。

 風は冷たく、日は暖かい。

 街のビルや家々が知らんぷりを決め込んでいる。


「チャプリー、そんな顔するな」

 返事は聞こえず、グードラは欠伸をした。

 頑丈そうな街門から、外の景色が見えてくる。

 ポッカ、ポッカ、と聞こえてくる。

 街を出るとやってきたのは、どこかへ居なくなっていたチャプリーのロバだ。ロバが戻ってきたんだ。

 荷車を引き、その上には、荷物も、稼いだお金もあった。

「なんだ? おまえ、僕とまた一緒に冒険がしたいのかい」

 チャプリーがロバの頭を撫でて、荷車に跳び乗った。

 荷車が揺れて、ロバが迷惑そうに地面を蹴った。

 






 サンマロンで本日最後の大爆発。

 何が起きたかって?

 朝になって、アリアが起きだしてきたんだ。

 そして、チャプリーとグードラが自分を置いて、街から出て行ったことに気がついた。

 その怒りようったらなかったもんで、淑女の恥を晒すのはあまりイイ趣味じゃないし、書き記すのは止すとしよう。

 ただ一つ、サンマロンの亭主がこう言った。

「パジャマ姿でどこへ行くつもりだ! アリア、戻ってこい!」

 さてはて。





 街道を荷車が行く。

 マゼスト大河の果ては見えない。

 乗っているのは帽子のない大道芸人と、相棒のドラゴン。

 荷車がちいさな石につまづくたびに、上に乗った二人もちいさく跳ねる。

「あの街でならきっと、アリアちゃんは穏やかな生活が送れるだろうね。アリアちゃん、どうかお幸せに……」

 そんなチャプリーと、

 揺れる馬車の上で、

 グードラが欠伸をしながら……。

「ふうん、でもグォウは……そんな風になるとは、思わないぞ」

 二人の言葉が空を舞って、河下へと流れていく。

 風に涙を拭われて、チャプリーは顔を上げた。

 もうすっかり夜は明けている。

 二人の門出を祝うように、太陽が輝いていた。

 

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チャプリーとグードラ~人間社会ってむずかしいからドラゴンと冒険してみた~ @nchap

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