ミストスキャンダル

結騎 了

#365日ショートショート 342

 1メートル先も見えないような濃いミストサウナだった。

 入った瞬間から、汗がじんわりと滲み出す。口の中の水分が一気に持っていかれたようだ。持参のサウナマットを敷き、ゆっくりと腰かける。姿勢を正しく、流れ落ちる汗を真っすぐに感じられるように……。

 男はサウナに熱中していた。今日は、自分専用のサウナマットを買って、ドライブがてら隣町までやってきたのだ。

 ここのミストサウナは評判が良い。サウナの質を温度で語る輩がいるが、あれはとんだ間違いだ。サウナは湿度が重要である。温度と湿度のバランスが生み出す発汗体験は、施設によって様々な味がある。このミストサウナは非常に濃く、視界はとにかく真っ白だ。どこに誰が何人座っているかもよく分からない。だからこそ、とにかく湿度が高く、汗は思った以上のペースで噴き出していた。

 いいぞ。このまま、あと10分はこうして座っていよう。時計すら視認が難しい部屋で、じぃっと耐えていく。

「それがさ、ヤっちまったんだよ、カノコと」

 つい耳を傾けてしまった。煙の向こう、8時の方向だろうか。声のトーンを聞くに、20代くらいの若い男性だ。

「ええっ。カノコって、あの二丁目の郵便局の角の、お屋敷の娘?」

 おっと、二人組みだ。ちゃらちゃらしていそうな、軽薄な二人組みだ。

 しかし、なんてことを話しているんだ。ここはサウナだぞ。無心になるための場所だぞ。それを、ヤっただのなんだの。いい加減にしろ。

「そうそう、そのカノコだよ。ちょっと声をかけたらついてきてさ。そのままホテルに行っちゃったんだよ。あんな顔して意外と尻軽なのな」

 気味の悪い、軽い笑い声が聞こえる。拳をぎゅっと握りしめ、聞こえないふりをする。しかしそれは無理だった。彼らの声が脳にまとわりつき、こびりついてくる。怒りか、焦りか、憤りか。心臓がけたたましくドラミングを始める。やめてくて。やめてくれ。

「それも、首を絞めてやったら喜ぶんだ」

「へえ、いいじゃないか。上玉だろ、確か。親が用意した許嫁がいるって聞いたけど、実は奔放ってことか」

 仮に後ろを振り返っても、彼らの声はミストに遮られて見えないのだろう。無心になるどころか、これまでにないくらい心を乱されている。しかし、ここで席を経つわけにはいかない。ここで先に出てしまっては自分の負けだ。それは分かっている。

 ……そう念じながら、男はじっと耐え続けた。

 二の腕から手首にかけて、玉のような汗が出始める。数えきれないほどぶつぶつと並ぶそれは、うねる精神をよそに健康的に発汗していることを示していた。瞼を閉じると、額の汗が頬を伝って流れ落ちていく。

 やがて、軽薄そうな男たちはサウナ室を後にした。彼らは汗を流し、水風呂に入るのだろう。そのまま浴槽に向かうのか。椅子にでも座って休憩するのか。それとも、脱衣所に行ったのか。

 それは分からない。いや、分からないからいい。

 このまま、体が枯れる寸前までサウナ室にいよう。行動をずらし、彼らの正体が分からないようにしよう。あそこで肩まで浸かっている男か。あそこでドライヤーを使っている男か。目で追っていないのだから、真実は分からない。それでいい。それでいいんだ。そう、自分に言い聞かせる。

 自宅で夕食を作っているであろう華乃子にだって、秘密のひとつやふたつ、あるのだろう。

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