波打ち際よりあなたまで

クニシマ

◆◇◆

 ……はあ、どうも、こんばんは。え? はい、男ですよ。男です、男。はは、すみませんね、なんだかね。でも、そんなに女に見えますかね。あなた、だいぶ酔ってらっしゃるんじゃないですか。酔ってない? ああ、そうですか。僕? 僕は全然、まったくもって。え、これですか。ギムレットです。

 そうですね、横のホテルに。はい、泊まってます。ああ、東京じゃないんですが、まあ、その辺りからですね。弟と二人で、はい、旅行に。……あ、へえ、この近くにお住まいで。ああ、夏場はね、多いでしょう、そりゃあ。海水浴客がね。きれいな海ですもんね。あ、なるほどね、それぐらいの頃には、はい、若い子もたくさんいますよね。ああ、だからそれで、さっきみたいに声かけたりと。確かにね、いい雰囲気ですしね、この店。ああ、そういうことですか。

 いやあ、しかし、いいところですね、ここは。僕らの生まれた町には海がないんですよ。ですから、僕も弟も、ここみたいに海がよく見える場所はずっと憧れだったんです。一昨日でしたかね、僕らは朝早くに家を出て、まあ、どこに行こうと決めていたわけでもないんですが、とにかく海のあるところに行きたいと思っていたもんですから、とりあえず電車に乗りまして。あそこの駅についたのが昼の十一時頃で、ホテルについたときにはもう三時半ぐらいだったと思います。やっぱりね、バスが少なすぎますよ。ええ。

 弟は僕と双子なんですが、二卵性なもんでまったく似ていないんです。僕よりずっと背が低くて、いつまでも子供っぽいやつです。よく言えば若々しいということなんですかね。よく周りからも歳を間違われておりまして、それがどうも嫌だったようで、ちょっと前から髭を生やし出したんですよ。髭なんか多少生やしたところでなんにも変わりゃしないんですけどもね。まあ本人がそれでいいならね、僕がなにか言うようなことじゃないですね。

 僕らはいたって普通の兄弟で、まあ、ときには些細な諍いなんかがありながらも、特別に仲違いをすることはなく過ごしてきました。それはたぶん、弟の性格によるところが大きいと思います。弟は人と争うことが極端に苦手なんです。気の弱いやつでしてね。だから昔はよく同級のガキ大将やなんかに泣かされてたんですけども。そういうときは僕がね、出ていってやったもんです。それで弟はいつも僕の後ろに隠れてね。まあでもそんなのは小学生くらいまでのことですね。不思議なもんで、弟はね、中学に上がると女の子から好かれ出したんですよ。ええ、それはもう、途端に、そうなりましたね。小学生の頃はガキ大将と一緒になって弟を馬鹿にしていたような女の子たちがね、優しくてかっこいいだとかどうとかと。あれは、どういうことなんでしょうね。弟のなにかが変わったわけじゃないんですよ、彼女たちがからかっていた弟の、そのまんまなんですよ。

 ところで、あなた、それ、何杯目ですか。大丈夫なんですか。いや、いいんなら、いいですけども。

 そうやって寄ってきた女の子のうちのひとりと、弟は付き合ったわけです。言ったように、気が弱いですから、断れないんですね。僕はそのことにどうしてだかひどく腹が立ちましてね。それはきっと、僕が守ってやらない限りは泣いてばっかりいるだけだったようなやつのくせして、生意気にも女を手に入れるなんてという嫉みなんだと、そのときは思ったわけです。ですので僕はその彼女に手を出しました。ええ、出しましたとも。もともと彼女にとって僕は彼氏の兄というだけの存在でしたから、いけないとは思うけど君を好きになってしまったとかなんとか言って、まあ、半分ほどは本気だったと思いますよ。かわいい子でしたしね。弟には気づかれませんでした。突然彼女に別れを告げられたと、僕に泣きついてきたくらいですから。

 それから何度も似たようなことをしましたね。弟が恋人にするのはいつもちょっとばかり勝気な女で、自分に足りないものを補っているんだとわかりました。そしてその女はどれもこれも奪うべきものであるように見えたんですね。奪うべきものに見えたのだから、つまり魅力的な女なんだと僕は考えました。奪うたびいい気分になったのは、魅力的な女が手に入ったからなんだと、そう僕は思っていました。

 ですけどもね、あるとき、あれはいつぐらいでしたかね、僕が会社勤めを始めて、弟は修士課程だかでまだ大学を出てない頃だったでしょうか。僕が弟の彼女に手を出しているということを勘づかれてしまったんです。しかし弟はあっけなく僕を許しました。どころか、好きになったんならしょうがないと、彼女を僕に譲ろうとしたんですね。今でも覚えています。あのときの弟は、後にも先にもないほど、きっぱりと笑顔でした。そして僕は弟の公認を得て彼女を手に入れたんですが、手に入れた途端、ええ、途端ですよ、まったく、これっぽちも、不要になってしまったんです。

 あなた、ちょっと呑みすぎじゃないですか。本当に……ああ、はい、わかりました。はい、はい。

 それでね、そのとき、ようやく気がついたんです。僕が愛しているのは、それまで恋人にしたどの女でもなくて、弟なんだということに。それというのはキスやなんかをしたいような愛情じゃないんです。ただ、僕のところにあってほしいというだけなんです。僕のところにあって、そして誰のところへも行かずにいれば、それだけでいいんだと、そういうことなんです。だって、そうじゃないですか。弟は生まれたときからずっと僕のところにあったんだから、そこから離れていくというのは、これはどうしたっておかしいじゃないですか。笑わないでください。僕を笑っていいのは弟だけです。ですから、今はもう、誰も笑っちゃいけないんです。

 ええ、僕は殺しました。弟を殺しました。

 今日の午後、ああ、もう、昨日になりますかね、僕は部屋に弟を残して、ひとりで海を見に行ったんです。風が強く吹いていました。雲はひとつもなくて、すばらしい青空でした。僕はちょっとの間、浜辺を歩きました。そして、ふと、このまま海面へ向かっていって、そしてずっと歩みを止めずにいたらどうなるかと——考えたともいえないほど、ほとんど無意識にそうしていました。それは死を思ったわけでもなんでもなく、ただ純粋にそう足が動いたというだけのことなんです。しかし、靴の爪先に波がかかった瞬間、僕は飛び退っていました。もう、反射的に、理解したんです。弟のところへ帰らなければいけないと。

 僕はずっと俯いたまま部屋へ戻りました。ドアを開けると、弟は窓辺の椅子に腰かけて煙草を吸っていました。僕も火を借りて、煙草をふかして、それで、言いました。愛してると、一言。弟の顔は見ませんでした。けれども驚いてはいなかったんじゃないかと思います。しばらくあって、僕もだよ、と返ってきました。なにかを諦めたような声にも聞こえました。それからふたりとも陽が沈むまで黙っていました。 

 一番星が見え始める頃、僕は、弟の首をそっと絞めました。そうしたことに理由なんてものはないんです。人には異常性愛の果ての行為といわれるのかもしれませんけれど、そんなのはまったくの外れです。まあ、こんなことを言っても、わかりやしないでしょうね。弟の見開いた目が窓の外の空をじっと見ていました。そのうちに、がくりと頭が振れて、まるで動かなくなりました。そして僕は部屋を出て、ここにやってきました。窓辺に弟を座らせたまま。唾液で濡れた髭に星明かりが映って、少しばかり輝いていましたから、今も、そうだと思います。

 僕は知っています。この世に生まれてくるということは、なにかものすごく大きな罪なんです。それで、生きるということはそれに対する償いなんですよね。ですから、僕は、弟の分まで、これから償ってやろうと思うんです。なぜって愛していますから。ええ。

 ああ、ちょっと、大丈夫ですか。やっぱり呑みすぎだったんじゃないですか。誰か呼んできましょうか。……そうですか。あ、トイレならあっちですよ。はい。じゃあ、すみませんでした、どうもね、長々と。

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