第9話

「おい!」

 松川警部は糸田警部補の肩を叩いた。

 「あいつを見てみろ・・・」

 「あっ!」

 前川に一人の男か近付いて行く。

 「警部、あの男・・・日本人ですよ」

 「そうだな・・・糸田、眼を離すな」

 肌が黒く・・・見える。東南アジア系の人種なのかも知れないが。今の日本人の中には、何処の人種なのか分からない奴がいるのも否定できない。男は眼を逸らさずに、真っ直ぐ前川に近付いて行く。

 「間違いない」

 松川警部はそう断定をした。

 「行きますか?」

 糸田警部補の動きがそう応えた。

 この時、公安の二人が眼をつけた男より早く、別の男が・・・白い服を身に着けていて、藁草履を履いていたのだか、その男が前川に近付き、

 「《西の覗き》だけど、よろしければ・・・やってみませんか?ほら、あそこですよ」

 白い装束を着、藁草履の男は右手を差し出した。

 前川は首を強く振っている。頂上に着いた時に、彼はしばらくそれを見学していたのである。《西の覗き》とは、二つの太い綱を右と左の肩に付け、崖から体をのり出させる。二人の白い装束の男が、崖を覗き込む人の足をそれぞれ持っている。間違っても落ちないように万全を期しているのである。たとえば、

 「お母さんの言うことを聞くか。親孝行をするか」

 と、怒鳴るのである。からかって気いないのだか、足を持っている二人の白い装束の男が、ず、ずっと体を崖から落とそうとするのである。太い綱の輪を両方の肩にかけているのだが、何百メートルの高さからの、その恐怖は並大抵の恐怖ではない。

 それを、前川は誘われている。

 前川和典は、

 「ダメなんです。私は高所恐怖症なんです。こんな高い所から覗いたら、気を失ってしまいますから・・・」

 それでも、前川は強引に引っ張って行かれ、崖の前に立たされてしまった。

 「わあ・・・!」

 ほとんど悲鳴に近い絶叫だった。

 「助けて!」

 前川は眼をつぶった。

 「あんたは、独り者か?」

 白い装束を着ている男が訊いて来た。

 前川は首を強く振る。

 「いや・・・」

 首を振る前川。

 「家族は・・・」

 「母が、ひとり・・・」

 二人の白装束の男は顔を見合わせ、

 「一人か・・・ははっ」

 と、笑う。

 「よし」

 前川和典の両腕には太い綱がかけられた。そして、前のめりになり、崖から体をのり出させた。

 「真面目に働いて、お母さんに孝行をするか?」

 「は・・・はい」

 「好きな女はいるのか?」

 前川和典は首を振った。

 そうか、じゃ、お母さんのために、早く嫁さんを見つけるんだ。いいか」

「はい、はい」

前川の足・・・というより、彼の体が震えているのが、分かる。足を持っていた白い装束の二人は顔を見合わせ、首を振る。

「おい、いかんな。引っ張り上げよう。まずいぞ」

 白い装束の二人は前川を引っ張り、崖から引き揚げた。

 「おい、あんた、大丈夫か!」

 右の足を持っていた男が、前川の顔を覗き込んだ。

前川和典の顔は真っ青で、言葉をしゃべれない状態見えた。眼が虚ろだ。

 この時、前川の耳には電子バイオリンの音色が聞こえて来た。その方を見ると、あの少年がいた。

 この時、彼はその音色をはっきりと思い出した。この日朝から登山道をその少年と一緒に登って来たのだが・・・誰だか気にはなっていた。今、少年が誰なのか、思い浮かべることが出来た。いや、この子はもっと幼かった。多分、その時一緒にいたのは母親なのだろう、その女の後ろに隠れるようにいた女の子がいた。ということは、この少年は・・・女の子か・・・。そして、聞こえていたのは、

 「あの時の音色だ」

胸に染みわたり、魂を揺さぶる音色だった。前川は心の底から、今の思いを叫びたい気分になった。

 (俺は・・・何も悪くはない。ただ、他人から見下されやすく騙されやすいんだ。この性情は、俺には変えられない。その一言に尽きる。何で、この俺がこんな目に合うんだ・・・いや、他人を軽蔑し、見下してしまう俺も悪いかも知れない。俺は嫌いな人間を毛嫌いし。見下す。徹底して、嫌う。俺は何という性分なのだ。)

 彼の体から力という力が抜けて行く。彼は、その感覚を感じていた。

前川和典はしばらく呆然としていて、その場にしゃがみ込んだ。まだ、夢を見ている気分だった。

まだ、電子バイオリンの音色は止まない。


「違いましたね」

 糸田警部補の体から力が抜けて行く。現れるべき相手が見当たらない緊張感は並大抵ではないのだろう。

 松川警部は笑っている。

 「お前もやってみるか?」

 「私は・・・」

 糸田警部補は手を振る。

 「嫁さん孝行・・・なんて、おどされてもいいな」

 松川警部は笑う。

 「からかわないで下さいよ。どん気持ちなんでしょうね」

 「ちょっとした恐怖なんだろうな。ただのお遊びなんだが、平々凡々と暮らしている人にはいい刺激にはなるんじゃないかな」

 松川警部は苦い顔をした後、

 「俺があいつを見張っているから、この頂上に外国人が・・・それらしい人がいるのか見て来い」

 「は、はい。分かりました」

 糸田警部補はすぐに頂上を彷徨い始めた。

 (ここで、マイクロチップの受け渡しが行われるならば、必ずそれらしき人はいるはずである)

 二人の公安の刑事は、こう確信している。

 (必ず・・・)

 いる筈だ。

 「・・・」

 この時、松川は岩の上に座り、大儀山系の山々を見つめている男がいるのに気付いた。この頂上に上がって来てから、ずっと動いたれ敗はなかった。

 「あいつか・・・」

 松川警部の勘である。彼はゆっくりと男の傍に近付いて行った。

 「警部!」

 糸田警部補がやって来た。

 「ダメです。外国人風のひとはいません」

 糸田は松川警部の視線の先を見た。

 「見てみろ!」

「誰ですか?」

「あいつかも知れない」

糸田警部補は殺気立ってしまい、焦って男の傍に行こうとする。

「待て・・・」

「しばらく様子を見よう」

誰かを待っているようでもある。

「日本人・・・?」

「ここからでは分からない。だが、・・・そうでもないような気もするのだが・・・」


「奴ですね。間違いないですね」

糸田警部補は、やっとマイクロチップを渡す相手がいたという安堵の表情をした。

「どうします?」

「まあ、待て。マイクロチップを渡す所を確認するんだ。どうするかは、それからだ」

前川に眼をやると、彼もその男の存在に気付いたのか、ゆっくりと男に近付いて行った。

その男は立ち上がった。それ程大きくはない。見た感じ、どうやら中国人のようにも見えた。

「間違いないだろう」

松川警部は確信した。

前川和典はシャツの胸ポケットに手を入れた。

「渡しますね」

糸田警部補は今にも飛び出していきそうな体制を取っている。

だが、この瞬間、マイクロチップを受ける男は自分たちの方を見ている二人の男に気付いたようだ。

瞬間、大儀山の空間の時間が止まった。

その刹那、松川警部が動いた。

「糸田!」

「はい!」

だが、その前に、その男が動いた。

「あっ!」

その男がマイクロチップを渡す相手だ、と前川和典も確信した。多分・・・相手はおそらく自分の顔を知っているに違いない。

その男は前川に向かって走って来ている。

「間違いない」

前川は微かに笑みを浮かべた。

「いた」

と、彼は安堵した。

彼はシャツのポケットに手を入れ、マイクロチップを取り出そうとする。その男の手には、前川に渡すであろう金が入っている黒のバッグを持っている。

「さあ、これです。持って来たんだ」

こう、彼は呟きながら、歩を進めた。

龍作も前川の動きに注目していたのだが、今も直、龍作は不審な二人か何者か分からなかった。ただ、警察関係のものだとは想像出来た。その二人の動きにも眼を離していない。そして、前川に向かっている男にも・・・同様に注意を払っている。

「ラン」

クゥゥ・・・

ランも何かを感じているようだったし、龍作の指示にも反応した。だが、この時点では動けなかった。何かが動いたことには間違いなかったのだが・・・。

「いくぞ」

松川警部が糸田に叫んだ。

糸田警部補が走った。後に、松川警部が続いた。

受取人のその男は、凄い勢いで近づいて来る半端ない気配に気付いた。そして、その方を向いた。

その瞬間、その男は走った。

「渡せ・・・」

その男は前川の差し出しているチップをひったくって、逃げた。

「あっ、金は・・・?」

「受け取れ・・・」

その男は振り向き、バッグを投げて寄こした。バッグは、前川の二メートルばかり前に落ちた。

前川はバッグに走り、抱き寄せた。

「大人しくしろ・・・」

松川警部が前川を抑え込んだ。

前川はバッグに抱き付いたまま、必死に逃れようともがいている。

松川警部の眼は糸田警部補を探している。頂上にはいなかった。多分、男の後を追って行ったのだろう。前川は松川警部に完全に捕らえられていた。

「立て・・・!」

松川警部は前川を立たせようとした。

「それを、こっちに渡せ」

松川警部はバッグを引っ張った。

「これは・・・私の金なんです。大事な金なんです」

前川はバッグをなかなか渡そうとしない。松川警部にしてみれば、糸田警部補がどうなったのか気になっていた。人は二つの行為を同時に出来ない。何方かが優先されるが、無防備になる。

そこに、前川の隙が出来た。

前川はバッグを抱えたまま、逃げ出した。彼は混乱して、どうすれはいいのか分からない精神状態に陥っていた。彼の耳には電子バイオリンの音色が重々しく響いていた。

「いかん」

龍作は叫んだ。

「ラン!」

すぐに反応したランは前川に向かって、走り出した。

だが、その時には、前川は崖に向かっていた。彼には何をする・・・という意識はなかったのかもしれない。とにかく、この金を持って行って、保証人になっているという汚名から逃れたい気持ちがあった。

「間に合わない・・・のか」

龍作は・・・悲劇だけは避けたかった。

「ラン・・・間に合わない。とまれ!」

前川は崖の前に立ち、一旦立ち止まった。

次の動きに躊躇しているのではない。それは、彼の表情を見れば・・・分かった。

(もう、これ以上・・・いやだ。お母さん、ごめんなさい)

彼は振り向き、崖に向かって、走った。

この時、

ピ・・・

「あっ、ピックル。来ていたか。そいつを止めろ」

前川の動きは止まった。何処からか飛んで来た小さな鳥が、彼の眼の辺りをパタパタと何度も羽根を羽ばたかせた。


前川和典の動きは止まり、崖の前に両ひざを着いた。彼は泣いた。泣き崩れた。そして、うずくまり、嗚咽し、大声で泣いた。

「よく、やった。ピックル」

ピックルは泣き崩れる男の上を、羽根を羽ばたかせていた。

「お前は、何をする気でいたんだ。死ぬつもりだったのか・・・まあ、いい。さあ、立て!」

松川警部は前川和典の腕をつかんだ。


「ご協力、有難う御座いました」

松川警部はその男に礼をいった。その後、その男に眼をやった。その男の肩には先ほどの鳥が乗っていた。

「いや・・・ビビ、こっちにおいで」

その男は手を振った。黒猫は少年の傍を離れたくない素振りをしていたが、素直にその男の胸に飛び上がった。

「ラン、行こう」

ワンワン・・・

松川はこの不思議な男の様子を観察していた。

その内に、糸田警部補が戻って来た。

「どうした・・・」

「足の速い奴で逃げられました。登山道の入り口には応援が来ているそうです。人相や服装を連絡しておきました。捕まえられる筈です」

「それでいい。それより・・・」

その時、松川警部は、その男の気配が消えたのに気付いた。

「いない。あの男がいない」

不思議なその男は何処に行ってしまったのか、いなかった。

「いないって、誰がですか?」

「いや・・・いい」

(あの男・・・何処かで見たことがあるような気がするんだが・・・)

松川警部には思い出せなかった。

「こいつを、頼む」

松川は糸田警部補に前川を渡した。

「警視庁に帰って・・・そうだ、小原正治警視正に伺ってみるか。おい、糸田。降りるぞ」

「はい」

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九鬼龍作の冒険 大儀山に木霊する電子バイオリンの音色 青 劉一郎 (あい ころいちろう) @colog

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