第8話
頂上に着いた。
そこで登山道は途切れていた。それまで登山道を覆っていた樹木は消え、遮断物のない天空の空間があった。
そこに立った人は日々の些細な苦悩から解き放された気分に襲われて、思いっ切り叫び声を上げたくなる。だが、誰も叫ばない。それ程、この世のものでない空間に圧倒それてしまう。
今、季節は夏なのだが、心地よい空気が頂上全体を覆っていた。大儀山寺は、大儀山山上ケ岳の山頂に建っている。女人禁制を今も守っていて、毎年五月三日に戸開式があり、九月二十三日に戸締式がある。この間、寺院内は百四十三日公開されている。
この時、頂上には三十人足らずの人がいたが、大儀山寺にお参りする人や遮断物のない空間を満足し、大きく背伸びする人もいる。また気に入った場所に座り、ゆったりとした気分を浸っている人も何人かいた。
「ふぅ・・・」
前川和典は深く吐息を吐いた。空気が薄い。薄いが、気持ちがいい。彼は若いがここまで上がって来ると、さすがに肺に少しは負担が掛かっているのかもしれない。若い彼でもゆっくり呼吸をしないと苦しいようだ。標高・千七百十九メートル以上ある山上ケ岳・・・この高さまで登って来るには、何度も引き返そうかと思ったが、どうしても出来ない相談だった。彼は周りを見回した。そう、
(人を・・・探している!)
彼には、どんな男なのか全然聞いていなかったのである。
(何処にいる・・・?)
彼には詳しいことは分からなかった。ただ、その相手が日本人でないことは分かっていた。おぼつかない日本語の声だけは、覚えていた。しかし、
(・・・)
彼には、その情報さえ定かではなかったのである。
前川はその外国人を探していた。彼はそう思い、信じていた。ひとりなのか、それとも二人なのか、そのことも、彼には知らされていない。
「行けば、分かる。君は余計なことをあれこれ考えなくていい」
とだけ、指示を受けていた。
「しかし・・・」
と、前川は言った・
「分かっている。金は、その時、そこで・・・渡す。間違いない」
電話で指示する男はきっぱりといった。
一度も会ったことのない人で、電話での感じは日本人でないような印象を受けていた。そう感じただけで、そうだと決めつけるだけの確証はなかった。それに、その時の電話の相手が、この日やって来ているとも分からなかったのである。
見た処・・・そのような人はいなかった。いや、正確に言うならば、外国人風の人はいなかった。
「ひょっとして・・・」
待ち合わせの時間は決めていなかった。寺院の中に入っているのかも知れないと思い、前川は寺院の中に入って見ることにした。
ピー、ピックル
龍作はその方角を見上げると、ピックルが気持ち良さそうに、この天空の空間を飛んでいた。彼には、ピックルがこの高さまで上がって来れるのか心配したのだが、楽しんでいるピックルを見た感じ、大丈夫そうに見えた。
ビビは相変わらず韓国風の少年にぴったりとくっ付いていた。
さて、その少年だが、前を歩いていた前川が寺院の中に入って行くのを見ると、その後に続いた。
ところで、警部・・・」
糸田警部補は首を傾げた。
「何だ?」
「前川がマイクロチップを渡す相手は・・・誰ですか?」
「その情報は入っていないんだ・・・」
「そんな・・・一番肝心なことではないですか」
「そうだ。だが・・・日本企業の機密情報が欲しいのだから、外国人なんだろうな」
「そうですか。もし、そうなら、この頂上にいる外国人と前川が接触するのを待てばいいんじゃないですね」
「寺院の入っていったぞ」
松川警部は動いた。彼は息苦しそうに見えた。もうじき、彼は四十に届く。医者からは心不全の傾向があるから気を付けるようにと言われていた。
「行きますか?」
糸田警部補は松川を見た。顔色が悪い・・・苦しそうだ。
松川警部は返事をしない。
「大丈夫ですか?」
彼は首を二回強く振った。
「行こう」
糸田が後に続いた。
前川はマイクロチップを持っている筈である。彼がここで、相手の外国人と接触するという保証はなかった。ただ、大きくブツならともかく小さいマイクロチップであるから、他人に気付かれずに相手方に渡せるのである。だから、公安の警部は眼を逸らせられなかった。
寺院の中はひんやりとしていて、寺院独特の匂いと線香の匂いが充満していた。
糸田警部補が眼で合図をした。その視線の先には、前川和典がいた。
ひとりでいた。
寺院の中には五六人のひとがいるだけだった。その中に、外国人風の者はいなかった。公安の刑事二人は、前川とは一定の距離を取っていた。糸田警部補が前川から七メートルほど離れていて、松川警部からはそれより離れていて、十メートルばかり離れた処にいた。松川警部は時々寺院の入り口の方に眼を配っていた。渡すとすれば、
「ここしか・・・ないはず・・・」
で、あった。
頂上にいる人数は知れている。
「マイクロチップを受け取る相手は・・・まさか、日本人ではないのか・・・」
松川警部の自信は薄らぎ、苛立って来ていた。
電子バイオリンを持った少年は寺院の中にいた。少年は前川の傍に立ち、彼を見ていた。
前川と公安の刑事の間に九鬼龍作がいた。龍作がビビを抱き上げている。仕切りに、龍作の腕の中から逃れようとしていた。どうやら、あの少年の傍に行きたいようだ。
「あの少年は、何者なんだ?」
呟く松川警部。見る感じ、日本人離れした顔をしているように見えるが、
「まさか、あの少年ではあるまい・・・」」
松川警部は一瞬迷うが、すぐに否定する。
(そんなことはない。それなら・・・)
彼は改めて寺院の中にいる人を確認するが、やはり外国人風のひとは一人もいなかった。まさか、幼い少年がそのような使いではあるまい・・・。もう一度少年に視線を移すが、首を振るしかない。
松川頸部は急いで引き返し、寺院の外に出た。
「後から、来るのか・・・」
この時間になっても、頂上にいる人の状況は少しも変わっていない気がした。
「とにかく、中にはいない・・・」
ことは確認した。
この時、松川警部は人の動きを感じ取った。
(寺院の中だ)
その方を見ると、少年が前川に近付いて行く。
「やはり・・・あいつか!」
彼は動いた。しかし、彼の動きはすぐに止まった。
「違う・・・」
少年は頭を下げ、ぎこちない日本語で、
「こんにちは」
と、前川に挨拶をした。
前川は急に声を掛けられ、戸惑った。それでも、ひょい、と彼は頭を下げた。そして、笑みを浮かべ、
「こんにちは」
と、言った。
少年の微笑みには、傍にいる人を心地よくさせる何かがあった。
気になるのか、前川警部は少年から眼を離さなかった。この時の前川はもう完全に少年に対する疑念が消えていた。そうかといって、少年が何者なのか判然としなかった。
「私を覚えていますか?」
少年の言葉はおぼつかない。身振り、手振りをして、自分の言いたいことを必死に伝えようとしていた、前川警部は見ていて、それを素直に感じ取ることが出来た。もちろん、それだけで、松川警部の位置からは話の内容は聞き取れなかった。
前川和典は寺院の外に出た。少年がその後に続いた。少年が何を話したのか分からないが、どうやら少年の気持ちは伝わっていないように見えた。
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