第7話 七
前川和典は覚えていないだろうが、モントリオールのホテルで、ちょっとした事件が起きた。何回目かの世界翻訳家大会が行われていたそのホテルのロビーには韓国人の女がいたのだが、多分、いやその女の子供なのだが、五歳くらいの女の子もいた。彼は覚えていないのか、忘れてしまっているのか・・・ロビー内には、電子バイオリンの音が響き渡り、彼の心に染み込んで来て、胸をくすぐるように迫って来る感情の波が襲って来ていた。
あれから、もう十年以上も経っていた。
やはり、前川和典は、もうその時の光景を忘れてしまっていた。今の彼の頭の中は現在の苦しみから一刻も早く逃れたいという焦燥感襲われていた。
何時ぞやも、ヤクザらしき二人組の男が、前川の家に押しかけて来た。
「もともと私の借金ではありません、・・・」
前川は口ごもった。彼としては、そう言うしかなかった。
「でもね、あんた・・・」
彼らは保証人の証書を見せた。確かに、彼がサインし印鑑を押した証書だった。
「見覚えがありますね」
彼は一言も弁解出来なかった。
「だったら、お願いしますよ」
この人たちも、何年か前の借金の取り立て屋のように、人を脅して暴れることはしないようだ。ことを荒立てる気はないのは、彼らを見ていて分かった。今は・・・そういう時代だった。十年・・・二十年前だったら、もっと荒っぽいことをするんだろうし、アパートのドアに、金を返せ、というような張り紙を貼られたりするに違いない。
「我々も、こうして大人しくやって来ているんだから、そちらもこちらの誠意を組んで下さい
よ」
前川には返事のしょうがなかった。彼には谷田亜里という男が理解できなかった。あいつは・・・と、彼は思う。
(俺を友だちだと思っていたかも知れない・・・!
が、前川は一度もそんな気持ちを思ったことは一度もなかった。それなら、なぜ保証人なんかになったのか、彼は首を傾げた。結論として、前川は騙されたに過ぎなかった。
「ここに、こうして、あんたの名前が書かれている以上、何度もいうが、我々はあんたにこの責任を取ってもらわなければならないんですよ」
(そうだろう)
と、前川は残念ながら、思う。改めて、
「俺はなんて馬鹿な奴だ・・・」
と悔やむ。
「ああ・・・」
前川和典は嘆きの声を張り上げた。その声は、彼の後に続いている龍作にも聞こえたし、その前川をつけている公安の警部たちにも聞こえた。
「あいつ・・・だ、どうしたんでしょうか?」
糸田警部補が驚いている。
「さあ・・・」
松川警は口を歪めた。
九鬼龍作は、
「ふっ」
と、笑った。
この先、面白いことが起こるかもしれないな、と、龍作は推測した。
登山者がちょうど疲れそうな場所に、また休憩所がある。
前川はその度に座り込んだ。彼の方が前を行くのだから、先にそこに陣取っていることも
ある。玄人が登る山ではないから、急な崖のような所はなく、幅四五メートルほどの登山道
になっている。
段々標高が高くなるにつれて、空気が薄くなってきていた。八月になったばかりだが、汗を掻くような暑さではなく、むしろ涼しいくらい爽やかな風が吹いていた。
休憩する度に、少年の弾く電子バイオリンの音は相変わらず心に染み込み、疲れを癒し
てくれた。時々、何処からか小鳥の鳴き声が周りの梢の間から聞こえて来ていた。
「ピックルかな・・・」
と、龍作は空を見回すが、登山道を覆う梢に邪魔されて、ピックルらしい鳥は見えなかった。
「ラン、違うな」
ランもキョロキョロと見ていたが、見つけられないようだ。
前川の横に少年が座っていた。彼は少年を気にはしていない。しかし、少年は時々前川を見ていた。
(知っているのかな?)
と、龍作は気になった。
ビビは少年にすり寄っている。少年はビビに微笑みかけている。この時、少年は立ち上がったが、電子バイオリンを弾くのを止めない。何という曲かは分からないが、胸の中に染み込み、魂に食い込んで来る。不思議と涙は流れないのだが、ジーンと胸がかき乱れてしまうのは、単に電子バイオリンの音色のせいばかりではない。聞き入るその人が今生きている人生の苦しさを思い、胸が締め付けられるのかもしれない。
「不思議な音色ですね」
糸田警部補がいう。
「・・・」
松川警部は、この時も黙ったままだ。
時間が止まったままだ。時間が流れているのは、電子バイオリンの音色だけだった。
「行くか!」
龍作が立ち上がった。
と、同時に、前川も目覚めたように、立ち上がった。
「ラン」
ワン・・・
少年の弾く電子バイオリンは永遠に聞いていたい気分になるのだから、
「不思議・・・」
だった。
頂上に着くまでには、岩場を登らなければならない難所があるが、素人でも登りやすいように鎖があり、それを伝って登ればいいのであって、けっして難しい難所ではない。ランとビビは、違う道から頂上に登れた。頂上はもうすぐであった。
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