第6話      六

その少年は、前を行く前川和典から眼を逸らさず、観察をしているようだ。

 「気になるようだな。あの男を知っているのかな?それにしても、優しい眼だな」

 九鬼龍作は首を傾げた。

 (気にはなった・・・)

 今の所、ただ、それだけのことである。

 ビビは、その子に相変わらずまとわりついている。抱いてほしいのか、時々少年の前に出て、振り返って、

 ニャニャ

 と、甘える鳴き声をしている。


 二人の男、公安の警部であったが、その二人がこんな山奥までそろって出て来ているのは、多分捜査なのだろうが、それなりの理由があるからなのだろう。龍作にはその理由が分からない。

 「何処で落ち合うのでしょうね?」

 糸田はいった。

 「多分、頂上まで行くことになるんだろうな」

 ここまで登って来ると、松川警部はしんどそうである。大分と標高が高くなって来ていた。

 「前川を捕まえるのは簡単だが、何処の国が機密事項を欲しがっているのか・・・」

彼らには知る必要があった。

 「想像は・・・出来る。だが、確かなことが知りたいんだ」

 松川は苦しいのか、肩で息をしている。

 「はい・・・大丈夫ですか?」

 糸田は松川に気を使った。頂上は、もうすぐなのか・・・まだなのか・・・分からない。背後から見ていると、松川がいかに苦しいのか、よく分かる。二人の前を行く前川は足の歩みを止めないでいる。


 昨日、家を出る時、糸田五郎警部補は妻やす江に、

 「今日から出張だ。だから、しばらく帰れないかもしれない」

 と、念を押した。やす江は夫が刑事だと知っているが、糸田は妻に公安部の人間だとは言っていない。公安は秘密性の高い部署のため、家族にも詳しい仕事内容は言えない。

 「分かりました」

 やす江は笑顔を見せない。糸田五郎は少し怪訝な眼をしたが、

 (これでいいのかも・・・)

 知れない、と自分を納得させた。

 公安は家族を捜査に使うこともある。ただ、家族はそのことを認識していない。ごく普通の生活の中で捜査や備考に参加させている。

 (あの時も・・・)

 糸田は冷や汗を掻いた。ある事件の容疑者の日常を見張るのに、糸田は後をつけ回していた。この時、彼はまだやす江と一緒になっていなかった。無理にやす江を巻き込んだのではなく、自然そうなってしまったのである。

 普通の若いカップルのように振舞った。その時も、絶えず捜査対象者から眼を離さずにいなければならない。


 「あいつ、嫁さん、いるんでしょうか?」

 「あいつ・・・」

 松川警部は新婚の糸田を睨み、

 「いない、と聞いている」

と、答えた。松川は官舎に十三歳の娘と妻英子と住んでいた。極めて平凡に日常を・・・と、彼は思っているのだが、そう思っているのは夫であり父である彼だけなのかも知れない。改めて、そんなことは聞いていないし、妻に訊く気もなかった。

 一度、糸田が官舎に訪ねて来たことがあった。

 「ぜひ、お願いします」

 と、糸田が言うので、松川としてはしぶしぶ招待したのだった。

 松川義男が、糸田にとって理想とする公安の人ではなかったし、夫婦でもなかった。ただ、若い糸田にしてみれば、頼りたい人が近くにいて欲しかったにすぎない。仮にも刑事になるというものが、性格も気性も弱い筈がないのである。

 「素敵な奥さまですね」

 糸田はちらっと松川を見た。

松川の表情に変化はない。松川義男という人は、心の内を顔に出さない人だった。糸田は思う、それはそれでいい・・・と。彼にとって、私生活はともかく、公安部の警部として何よりも信頼できる人だった。

 糸田は、婚約したての時、やす江に、

 「あなたって人は、すぐ顔にだすのね」

 と、半ばからかうように言われたことがあった。糸田は一言も反論しなかったが、内心、ちょっとまずいな、と思ったこともあった。しかし、彼はこの性分を改める気はなかった。この性分と、彼は長く付き合っているのだ。

 (今更・・・無理だ)

 自慢する気はなかったが、我を張る気もなかったのだが、少なくとも、公安部の刑事としてこの性分は、

「気を付けなくてはいけない・・・」

と、胸にとどめた。

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