第5話 五

糸田警部補は二十九歳、つい三か月前に結婚したばかりである。

「どうだ?」

 何がです、というな眼を松川警部に向けた。

 「結婚のことだよ」

 糸田はニコッと笑った。結婚して、糸田は三か月だった。

 「この仕事ですから、家にじっくりいることは出来ませんから・・・いつもと余り変わりませんね」

 二人とも、警視庁・公安部の所属である。

 「あいつは、頂上まで行くのでしょうかね?」

 その話からそらしたいために、糸田警部補は前を行く男から眼を逸らさずに、言った。

「行くだろうね。そこで落ち合うに違いない」

 松川は深く息を吸い込んだ。糸田は後ろを振り返り、誰も後をついていないのを確認した。

 「そこで、誰かが待っている?」

 糸田が独り言をいう。

 「・・・かも・・・」

 松川警部の返事はあやふやだった。

 「何も情報がないのでしょうか?」

 「・・・」

 松川は黙ってしまった。実際、その情報は、タレコミだが、あったのである。前川和典の後をつけて、こうして、大儀山に登っているのである。頂上で、誰かが待っているのか・・・その確たる保証は、二人にはなかった。・・・のだが、こうして、前川和典に後を付け、登るしかなかった。

 「少なくとも・・・」

 松川は後ろを振り返った。

 「後ろからは誰も来ていない。ということは、マイクロチップを受け取る相手は、すでにわれわれのずっと先を登っているのかもしれない・・・」

 「あっ、休憩所がありますよ」

 糸田が声を上げた。彼らの前を歩いている薄くヒゲをはやした男と黒猫、コリー犬が、そこで休憩をするようだった。いつの間にか、少年も一緒にいる。どうやら道連れになったようだ。

「糸田くん、われわれも少し休もう」

 「はい、でも、いいんでしょうか?」

 「大丈夫だ。彼らの前を見たまえ。前川も腰を下ろしている。一気に登るつもりだったようだが、あいつも疲れたのだろう」

 「ああ、そうですね」

 松川は枯れ葉をかき集め、座り込んだ。ふぅ・・・と、吐息をついた。

 その前を行く前川和典も立ち止まった。

 「前川も休憩するようですね」

 「ちょうどいいな。良い所に、休憩所を作ってあるものだな。多分この先、何か所か休憩所があるんだろう」

 前川和典は龍作たちより前の場所に腰を下ろしていた。

 公安部の二人は、龍作たちとは離れて、座り込んだ。


 「何か・・・落ち着くものが聴きたいものだな」

 龍作は少年を見て、言った。日本語だが、通じたのか、少年は電子バイオリンを顎に当て、演奏をし始めた。

 やさしい夏の風が登山道の梢の間をすり抜けて来ている。電子バイオリンの音が胸の中に染み込んでくる。心臓が締め付けられるような感覚に陥り、涙がこぼれそうになる。

 ビビは、そんな少年を見上げている。

 ランは、気になるらしく時々少し離れた場所にいる二人の男を見返している。

 「ラン、気にするな。悪い人ではなさそうだよ」

 くぅぅぅん

 ランも納得したようだった。そのランは主人を見上げた。

 「いや・・・私の知らない人たちだ。でも、明らかに、そういう関係の人たちだろうな」

 龍作はもう一度彼らを見、

 (・・・その内、何かが動き出すだろう。それまで、待つか・・・)

 この間も、少年の弾く電子バイオリンの音は大儀山の山並みに響き渡っている。


 そのために、彼は会社をクビになろうとしている。

 それでも構わない、と前川は思っている。今は何よりも、この苦境を何とかしたいのである。

 前川のいる会社は鈴鹿の自動車部品の会社で、H会社は月に何千台もの自動車をも生産している。彼は毎日残業して、ある作業をやっていた。もともと彼は数学が好きだったし、コンピューターの知識も独学だか充分得ていて、そのH会社のパソコンに侵入するのは、きわめて簡単なことであった。

 「これでいい」

 彼はにやりと笑みを浮かべた。いくつかの図面が、彼のパソコンのディスプレイに映し出された。

 「全部はいらない。肝心な図面だけを抜き出せば・・・」

 二つ三つだけで充分だった。他は必要なかったし、墓穴を掘るつもりはなかったのだ。

「よし!」

 前川和典は、エンターキーを叩いた。そして、マイクロチップを抜き出した。


「松川さん、あいつ、行くようですよ」

 「よし、行くか」

 松川はゆっくりと腰を上げた。その後、糸田警部補も立ち上がった。

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