第4話 四

前川和典は今三十三歳だが、大学を卒業するまで、外・・・つまり県外には出たことはなかった。地元滋賀県の大学を卒業すると、彼は思い切って三重県の鈴鹿市にある自動車部品会社に入社し、十一年経っている。

 例外として、その前川は、十三年前カナダに行ったことがあった。世界翻訳家協会の本部はカナダにあるのだが、その年、世界各地を持ち回りで三年に一度、世界翻訳家大会というものが行われた。それに出席するためである。前川は語学に興味を持ち、通信教育で勉学に励んでいたのだが、その時、こんな大会があるのを知ったのである。翻訳の仕事もしていない自分に出席する資格があるのか迷ったのだが、行くことに決めた。関係者から、さ・ら・く・・・でいいからと出席してくれと依頼を受けたのだ。その時には翻訳家が出席するものが少なくて、人集めが必要だったようだ。

 その年度は、カナダのモントリオールでその大会があり、前川の他に三人ばかりの若者が、さ・く・ら・として出席をした。彼は英語がほとんど話せなかったのだが、それなりに五日間過ごすことが出来たのだった。各々のテーマに沿って会合が開かれた。もちろん、彼も事情も分からずに出席した。彼にとって、それは見栄を張ったに過ぎなかった。それだから、帰って来て二年間・・・自分の境遇に何の変化もなかった。

 「馬鹿か・・・お前は・・・」

 無駄な金を使ったことになる。彼は自分を罵った。

そこで、ある事件は起こった。

 カナダのモントリオールのホテルで、五日間いる間に、前川はちょっとした事件に巻き込まれたのだった。確か・・・三日目の午後に、前川はホテルのロビーのソファに座り、のんびりとしていた。誰が弾くのか、電子バイオリンの音楽が鳴り響いていた。見ると、電子バイオリンを弾いているのは、二十五六歳の女性であった。どうやら韓国のひとらしかった。心の中に食い込んで来て、魂を揺さぶる哀愁のある音色であった。胸が締め付けられる心持ちで。彼は眼を瞑っていた。

 その刹那、ロビーの奇声が響いた。

 前川は、眼を開けた。初め、前川は何が起こったのか理解できなかった。電子バイオリンの音は止んでいた。

 よく見ると、ひとりの黒人の男が、彼女が弾いていた電子バイオリンをひったくり持ち去ろうとしていたのが、彼の眼に入った。理由は分からなかったが、黒人の男がその電子バイオリンをひったくって行こうとしていたのだ。

 前川に、どうするという意識があったのではなかったが、反射的に彼は立ち上がり、目の前を横切ろうとしている男に体当たりをしていたのである。

 ロビーは大騒ぎになった。

 前川和典は体格がそんなに大きくなかったが、がっしりとしていた。別に、柔道とか、をやっていたのでもない。彼は一瞬躊躇したが、気合を込めた。

 「ワッ!」

 二人は転げまわりながら、ロビーの壁に突き当たった。

 先に立ち上がったのは、馬鹿でかい黒人の方だった。電子バイオリンは、その男の手元にはなく、黒人男は和典を睨み付け、逃げて行った。

 韓国人らしい女は彼の傍に来て、仕切に何かを言っていた。多分、電子バイオリンを取り返してくれたことへの礼だと思えた。

 「サンキュー、サンキュー」

 と言っているのは分かるが、それ以外何を言っているのはさっぱり分からなかった。

 前川和典は首を振り、ぎこちない笑顔を見せた。その子供と思われる二三歳女の子が傍にいる。

 しばらくして警察が来て、逃げた男の人相を訊いて来たが、その男が黒い・・・という以外説明出来なかった。彼の体は震えていた。しばらく、その震えは止まらず、気を失いそうであった。

 ホテルの部屋に帰り、すぐにベッドの横になった。また、震えが襲って来た。

 (俺は・・・)

 後の言葉が出て来ない。

 (俺はこんなに勇気があったのか・・・)

それ以上、前川和典の思考は続かなかった。同じに大会に出席していた同室の若い男が帰って来た。彼は英語が出来たから、その日モントリオールの街を散策していたらしい。

 前川はその男と眼を合わしたが、何も言わなかった。世界翻訳家大会は無事最終日を迎え、終わった。その日の晩餐会にはカナダの文部大臣も来ていたし、モントリオールの市長も出席していたようだ。前川には誰が大臣で市長なのか・・・全く興味がなかったのて、眼を壇上に向ける気はなかった。

 日本に帰って来ると、いつものような変わりない日々が戻った。そして、七年後に、前川を襲ったのは、別の事件・・・だった。

 その事件に、彼には怯えもなかったし、恐怖で身体が震えることもなかった。

 その個人的な事件は、会社の友人に保証人になるように頼まれて、安易な気持ちで実印を押してしまったのである。その時、彼には、

 (ひょっとして・・・)

 という不安と慄きがあった。

 その不安は三か月後見事に的中し、彼の友人谷口亜里は、前川に何事も告げずにいなくなってしまったのである。彼がその事実を知ったのは、半年後だった。自分の家に見知らぬ男が二人やって来て、谷口亜里がいなくなり、取れない。

 「保証人になっているあんたに、金を返してもらいたいんだが・・・」

ということを告げられたのである。

 前川和典は思案にくれる。彼らに、そんなお金はない、といっても効かない。今度来る時までに、これこれの金額を用意しておいてくれ、と無理矢理約束させられる。無理と言っても、彼らは承知しない。

彼らとのこんな問答はやはり半年ほど続いた。どうしたらいいのか・・・しかし、長い思案は必要なかった。このままにしておくと、会社にまで押しかけて来る気配が感じられた。

 前川の会社にもアパートの部屋にもパソコンがあった。学校で習得した技術ではなく、独学で情報機器の知識を習得した。もともと彼は数学が好きだったし、ビデオ機器も自分で分解したこともあった。その内、その知識を活用したくなり、市役所や市内の企業のパソコンに侵入し、内部情報を盗み出したりして、気分的に満足していた。決して得た情報を使い、悪用したことは一度もなかった。彼にとって、結構楽しい遊びのようなものだった。

 しかし・・・もはや・・・もう、遊んでなんかいられない。そんな気分に襲われて来たのだった。これ以上何もしなかったら・・・という焦りがあった。

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