女演俳優賞

ヤチヨリコ

女演俳優賞

 「将来の夢を書きましょう」という宿題に対して、私はこう答える。

 普通に良い大学へ行って、普通に良い企業に入社して、普通に結婚して、幸せな家庭を作る。

 これが何よりも難しいことだと、教師含め一度社会に出た大人たちは理解しているはずだ。そうに違いない。……などという屁理屈をこねる悪癖のせいで、私は生来親や親類から叱られてばかりだ。


「どうしてそう屁理屈を並べるんだ? 子供らしくパティシエとか無難なことを言えば、それでいいじゃないか」


 父は時計をにらみつけながら、私を叱る。結局のところ、私を見ていないのだ、この男は。


「だって、そういう人生が結局のところ一番幸せじゃない」


 「何かの主人公じゃないんだし」と言いかけてやめた。そんなつまらない空想を述べたところで、父は納得しない。


「あいつらなんか会社で働いたことのない馬鹿ばかりなんだから、うまいこと書けばいいじゃないか」


 父は私の背中に吐き捨てるように言った。



 そもそも、私はさして特別な人間ではないと思う。金持ちだとか貧乏だとか、病身だとか不義の子だとか、人様からあれこれ言われるような性質を持った人間では決してないはずだ。そう思いたい。


 兄が一人いて、父がいて、それと兄の飼う犬(私は犬は嫌いだが)。強いて特別なことを挙げるとすれば、父は再婚したばかりで、ここ最近血の繋がらない二人目の兄と母ができたくらいか。

 再婚、と言ったって、父は前妻を亡くして以来、男やもめで兄妹二人を養ってきたのだから、文句はない。そもそも物心がついた頃から母はいなかったのだから、亡き母への裏切りだとかそういうセンチメンタルなものを持ち込んでもしょうがない。


 退屈なお説教が終わったら自分の部屋に戻った。

 亡き母の写真に「馬鹿」と愚痴る。


 二人の兄は二人共同で部屋を使っているので、私は一人部屋だ。好き勝手できるからこっちのほうが気楽でいい。


 義兄からもらったシェイクスピアを開く。『ロミオとジュリエット』、『リア王』、『マクベス』、『オセロー』……。小学生向けではないことがはっきりわかる。どれも陰鬱なばかりで、ちっとも面白くない。


 どうやら、義兄は頭がいいらしい。それをあえてひけらかすことはしないが、選書とかで嫌味っぽいくらい頭がいいのがわかる。


[義兄さんのくれた本、つまらない]


 実兄にLINEする。すぐに既読はつかない。あまりにつかないから、諦めて、読んでいた本のページをめくる。


 ――ドアをノックする音。父か、義母か。どちらにせよ顔を合わせたくない。義母は私との距離を測りかねているようで、妙に馴れ馴れしいのがムカつくのだ。これが思春期のせいだというのはわかっているのだけれど。


「この前借りた漫画、面白かったよ。次の巻を借りたいんだけど、いい?」


 義兄の声。「どうぞ」とできるだけ平静を装って答える。

 陰口を叩いていたから、どことなく気まずい。


 ふと背中に体温を感じた。後ろから手が伸びてきて、ページをめくる。鼻孔をくすぐる、男の子のにおい。義兄だ。実兄よりも大人っぽいにおいだから、すぐにわかる。


「どこ読んでたかわかんなくなったじゃん」


 反射的に文句を言う。義兄は性格が悪い。私以外には隠しているみたいだが、私だけは知っている。


「それはそれは……」


 くすくす声を堪えて笑っているのはわかっている。体が揺れているのを背中で感じていた。


「貸してくれてありがとう。じゃ、また」


 義兄は私のほっぺたにキスをして、部屋を出ていった。

 少し遅れて、心臓の鼓動が早くなる。私は、変態かもしれない。義兄のにおいがうっすら部屋に残っていて、鼓動はますます早くなる。こういうところが心臓に悪いのだ、あれは。


 実兄からようやく返信が来て、それが至極どうでもいい内容だったので、少し笑えた。


 義兄はハーフらしい。どことなく外国人っぽい顔立ちをしていて、そのせいか時々キスをしてきたりする。もちろん、唇とかじゃなく、ほっぺたにだけ。


「レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた『モナリザ』を知っているかい?」

「知ってる。ルーブル美術館にあるんでしょ。作者の自画像だっていう説があるらしいね。あんなおじいさんの自画像があれだなんて信じられない話だけど」


 私が長々と自説を垂れ流すと、義兄は「お利口さんだ」なんて言って、私のほっぺたに触れるだけのキスをした。


 そう、こういうふうに私にキスをする。


 なるほど、思えばこれは少女漫画みたいだ。父や実兄にはしない、私や継母にだけだ。キスをするのは。


 私もされっぱなしは性に合わないので、キスを仕返したりもする。

 そうすると彼は私にキスの嵐をふらせるのだ。


 こんなことがあった。


「モナリザの微笑に込められた意味は知ってる?」


 私が首を横に振ると、義兄は笑いを堪えようにも堪えきれないといった様子で、くくっと笑った。


「あれはダ・ヴィンチを嘲笑しているんだよ」

「嘲笑?」


 義兄は口のあたりに意地の悪い笑みを彫りつけたように浮かべる。


「『モナリザ』のモデルは、この際、誰でもいいんだ。あれはダ・ヴィンチが自分自身を嘲笑した、言うなればシニカルに自分の愚かさを描いた作品なんだ」

「シニカル?」

「皮肉的ってことだ」


 そうなのだろうか。義兄が言うのであればそういう気がしてくる。

 シニカル、シニカル。義兄は『モナリザ』みたいに、笑う。


「『モナリザ』はダ・ヴィンチが描いているときはダ・ヴィンチだけを見ているだろ。もしかしたら、ダ・ヴィンチはマゾヒストのケがあったのかも。でなけりゃ、女に嘲笑されるような絵は描かない。その証拠に、ダ・ヴィンチは死ぬ最後まで『モナリザ』を手放さなかったという」


 待てよ、と思った。それはおかしい。


「ダ・ヴィンチが何を描きたかったかなんて今の私たちにはわからないのに、なんでそう思えるの」

「考察は自由だよ。考察は生きている我々観衆だけの特権だ。それがどんな意味であれ」


 なんとなく腑に落ちない。


「嘲笑は観衆にも向けられている。もしかしたら、彼女目当てにルーブルへ集まる愚かな観衆を『モナリザ』は嘲っているのかもしれないよ」


 唇をとがらせる私を見て、嬉しくて堪らない悪戯小僧のように義兄は笑う。


「これも教養だよ」


 義兄には碩学的に振る舞う癖があった。

 義兄の前だと自分が馬鹿みたいに思える。義兄よりも私は歳が下だから知識がないのは当たり前なんだけれど、物事に対して考えを深める、これが私はできない。


 それでも、義兄と同じようにものを見て、同じようにものを考えてみたいと思える私がいるのは誤魔化せない。


 義兄にそんなことを話すと、やっぱり笑われた。


「まだ子供なんだからそんなこと気にしなくていいのに」


 義兄の隣にいることが許されるような人間になりたいという私の思いもいっしょに笑われたような気分だった。

 でも、なんだか腑に落ちた。


「君はかわいいよ。君はそれでいいんだ」


 義兄の声は予言や予告のように聞こえた。


「そのままの君が好きだよ」


 優しく、諭すような声だった。慈悲深いとでも形容したくなるほど、ゆっくり咀嚼するように丁寧に言葉を区切って喋った。


「それでもそう君が望むなら、本を読むんだ。シェイクスピア、ゲーテ、オスカーワイルド……。なんでもいい。ただし、喜劇は駄目だよ」


 その声は甘くて、甘くて、甘い。まるで、砂糖みたいな。


「友達と遊ぶ暇があったら本を読むんだ。友達もいらない。必要ない。一人の人間に好かれたければ、他の人間に好かれようと思わないことだ」


 口調は穏やかだったけれど、有無を言わせぬ響きがあった。静かで優しい語り口で、まるで子供に読み聞かせをしているようだった。


「結局のところ、教養だよ」


 だから、シェイクスピアを読んだ。『ロミオとジュリエット』、『リア王』、『マクベス』、『オセロー』……。


 『じゃじゃ馬馴らし』、『真夏の夜の夢』、『ヴェニスの商人』、『お気に召すまま』。この四つだけは読む気が起きなくて読めなかった。


 『じゃじゃ馬馴らし』。

 『真夏の夜の夢』。

 『ヴェニスの商人』。

 『お気に召すまま』。

 シェイクスピアの四大喜劇。


 ――喜劇は嫌いだ。

 義兄が言った通り、喜劇は駄目だ。


 人生なんて喜劇みたいなものだ。

 自分から見ても他者から見ても喜劇でなければならない。

 人生は喜劇であり、悲劇である。そういうものだと義兄は言っていた。


 疑う余地もなく、そうだと思えた。


 思えば、義兄に贈られた本で私の本棚は埋まっている。

 オスカーワイルドの『サロメ』。

 ツルゲーネフの『はつ恋』。

 谷崎潤一郎の『痴人の愛』。

 江戸川乱歩の『人間椅子』。

 田山花袋の『蒲団』。


 ――この贈り物の意味がわからない私ではない。

 けれど、この関係に名前をつけてしまって、この関係を終わらせてしまうのが怖かった。言葉にして、形にして、この関係の危うさを再確認するのが恐ろしかった。

 いつまでも幼いかわいい私でいたかった。

 ――少なくとも義兄の前では。




 この奇妙な関係は私が高校生になるまで続いた。

 義兄が大学生になる前までは、においといえば体臭と洗濯洗剤と漂白剤のにおいだけだったから、においが移ったとしても、さしてわからなかった。けれど、整髪料やオーデコロンをつけるようになると、においが移ったのが自分でもよくわかった。義兄は煙草を吸うから、余計そう感じるのかもしれないけれど。


 三回のノック。義兄だ。


「ただいま」

「おかえり」


 義兄は私の額にキスをした。私は義兄の大きな身体を抱き寄せて、ハグをする。彼の背中に手を回すも両手がくっつかない。お互い大きくなってしまったものだ。肉体的にも、精神的にも。


 こういう関係に慣れてしまった自分が嫌になる。私の部屋に煙草臭は似合わないのに、こういうふうに招き入れてしまうのも、嫌だ。なのに、この関係を定義するのも嫌だと思ってしまう。


 きっと今、私はひどい顔をしているんだろう。

 私は義兄から離れると、ベッドに腰掛けた。そして、笑った。


「いいよ、もう」


 義兄は私から顔をそらす。私は義兄の顔を視線で追うと、ふっと目をそらした。やはり、お互い臆病なのだ。ベッドは煙草のにおいなんてしない。


 なんて愚かな男だろうか。


 私は思わず吹き出してしまった。ぽかんとした義兄の顔がおかしくって、笑って、笑って、泣いた。涙が頬を流れた。嗚咽もない、静かな涙だった。

 ああ、情けない。みっともない。こういう関係での涙はダサい。これじゃ、こっちが負けたみたいだ。これは勝ち負けじゃないけれど、自分の精神的な弱さがわかって、余計に泣けてくる。


「……顔に触れても?」

「……どうぞ」


 義兄は跪いて、ハンカチを取り出す。まっすぐ私を見て、私の顔に手を添えて、私の涙を拭った。


 義兄は私の涙を拭ったハンカチに優しく口づけた。


「君を愛している。君が望むなら君の奴隷にだってなる」


 まるで神にでもなった気分だった。少なくとも義兄の目には信仰の色があったのではないだろうか。……そんなわけないのはわかっているのに、そうあってほしいと思ってしまう。私は彼にとっての神になりたかった。彼に私だけを見てもらいたかった。


 私は彼の顔に自分の顔を近づけて、唇を奪った。

 顔を離して、私はもう一度笑った。私の、私自身の顔が歪んでいるのがよくわかる。感情が顔に出やすい質なのだ、私は。


 部屋を沈黙が支配した。

 煙草のにおいが私に移ったような気がする。それがなんとも愛おしく、また嫌だった。自分で自分を嫌悪した。これが恋だったのか、愛だったのか、私にはわからない。恋だったとしたらひどく独りよがりだし、愛だったとしたらこれもまたひどい自分勝手な想いだ。


 義兄は私から離れる。それははっきりとした拒絶だった。


「ごめん。つまらないことした。……なんでもないよ。いっときの気の迷い。忘れて。どうせ、赦されるようなことでもないんだし、いっそのこともうやめようよ。義兄さんだって今のままがいいってわけじゃないでしょう」


 どうも妙に早口になってしまう。言葉で拒絶されたわけでもないのだから、なんて、それで縋るような真似をして、みっともなさすぎる。


「……いや」


 私はそのまま口ごもる。これ以上は恥をさらしたくない思いもあったし、それ以上の感情もあったはずだった。それを私が言語化できないだけで、必ずあった。


 義兄はため息をついて、首を横にふる。


「『-All the world's a stage,

 -And all the men and women merely players.』」


 何を言いたいのか、わからない。

 口の中に溜まったつばを飲み込む。


「シェイクスピアの『お気に召すまま』。読んだことある?」


 義兄はなにか試すような笑いを頬に作った。


 「この世は舞台、人はみな役者だ」と義兄は付け加えた。有名なのかもしれないけど、私は知らない。


「倫理を選択授業で選んでいればわかると思うけど、エピクテトスって哲学者も「君は演劇の俳優だ」と言っている」


 彼は私を抱き寄せて、私の手に接吻をした。


「結局のところ、教養だよ」


 シニカルに彼は微笑んだ。


「ま、いいや、これは。……君が今の関係に満足せずに性愛の関係にまで至ったとする。血が繋がっていないとしても僕らは兄妹だ。僕の母や、君の父、兄はどう思うだろう?」


 そうか、倫理を説くか。

 ――私は唇を噛みしめた。


「……きっと許されないだろうな」


 何をわかりきったことを。知っている。知っているさ。


「君がこの関係を望むのであれば、君は家族すらも騙す女優になるんだ。僕らは今までどおりの兄妹。それだけだよ」


 私はまっすぐ彼を見て、頷いた。義兄は同じように私を見て、やはり頷いた。言葉はなくとも伝わるものが私たちにはあった。



 そういえば、小学生の頃、宿題で「普通に良い大学へ行って、普通に良い企業に入社して、普通に結婚して、幸せな家庭を作る。」なんて書いたな、なんてふっと思い出す。あのとき、父に叱られて、口答えをしようとしてやめた、なんてつまらないことも思い出す。


「主人公じゃあるまいし」


 一人になった部屋でぽつり呟く。

 これじゃ、主人公だ。それも悲劇の。こんな人生、ろくでもない人生。自分じゃ悲劇でも、他人から見れば喜劇だなんて言ったのは誰だっただろうか。

 ベッドには煙草のにおいが染み付いていて、私は結婚するまで毎晩このベッドで眠った。



 私は小学生の頃の宿題で答えたように、普通に良い大学へ行って、普通に良い企業に入社して、普通に結婚した。悲しいときも嬉しいときも、どんなときでも必ず彼が、義兄が私の側に寄り添っていた。

 そんな義兄はずっと独身の一人暮らし。実兄からは結婚しろとせっつかれているらしいが、今の私たちの関係としては都合がいい。


 私は義兄の家を訪ねても、ボディソープを使わない。彼のにおいを持ち帰らないために。家では良き妻を演じ、義兄の前では女になる。

 そんな今の私は私なのだろうか。女優としての私なのか、裸の心の私なのか。私にはもうわからない。


 私には煙草のにおいが染み付いていて、もう取れない。

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