穴に関するノート

かいとおる

穴に関するノート

       穴に関するノート


                        かい とおる




 ステレオアンプの灰色が好きでたまらない。四角い鉄の箱が、なぜかやわらかい未知の物質のようで、口にふくみ、歯をあててみたい。それでいて、すっきりと直線的だ。今、美しいと思えるものはそれだけだから、眺めていてあきることがない。日に日に重くなる自分の身体の上にうつ伏せになって、小さな魅惑的なカベを見つめる。背筋をころがるピアノの音が気持ちいいのは、あの灰色のカベがぼくに好意を持っていてくれるからだと思う。薄暗闇のなかに細いかがやきの針で語りかけるきいろい灯りと、信じられないほどの知恵を秘めた静かなまあるい紅い光が見える。生きて、呼吸しているのがはっきりと感じられる。ぼくは、全身で彼の恵みを受けとめながら、幸福のうちに浅い眠りを眺めるのだ。


 パンと水、水とパン、パーンと水、おいしい冷たい水、ぼくの場合は、陶器のコップに水道の水をなみなみと。今は冬だし、それも一番寒い時だから、これが最高、白いフカフカの食パン、意外とむつかしい、ハムサンドを作る時みたいに薄く切っちゃだめだ。むしろ、目をつむって、みにくいくらいに厚く切り出そう。ケチケチするな。感触、フカフ、カフ、カフ、フカッカ、フ、アフ、コー、フ、2枚切る。トーストしない。上に乗せるもの、または真ん中にはさむもの、たとえば、タマネギ、トマト、レタス、キャベツ、チーズ、はちみつ、天ぷら、魚のフライ、コロッケ、板チョコ、ローソク、トランジスタラジオ、など。食べ方、兎に角かぶりつく、3口食って、水を飲む。カプル、パプ、クプルボック、グブグブ、プ、という具合に飲む。口の中のものを全部胃におさめるまで、決してあわてない。大切な時間でもある。この時に様々な思索にふけると、意外な方向へヒラメいたりする。時にはぼくの意識は、うちへ内へとめくれ込む。なまあたたかい内臓のひだひだをていねいになぞり、眼球のいびつな曲線を確かめる。くるぬるなるまるめるとらきゅん。たぶん、そうこうしているうちに、穴がぽっかり開いていたりするのです。

 

 ポッカリ開いた穴の向こうに、不思議な思い出がある。あれは夢だったのかもしれないし、そうではないかもしれない。今となっては同じことだろう。真夏の夜のことだ。白い盆提灯が伸びきって、いくつも重そうに垂れ下がっている。風鈴も鳴らないむし暑い夜だった。ぼくは、数人の家族と夜遅くまで寝付けないでいた。母親のやわらかい胴に腕を回して、なにも聴くまい、なにも見るまいと思っていた。何かが、ひどく恐ろしかったのだ。なにかがだって?はっきり思い出そう。家のなか、そこらじゅう、異様な紅い火柱が見えていた。それらは、一瞬のうちにボウと音を立てて燃えたち、シュウシュウとかすれた笑い声をあげながら消えてゆくのだ。怯えたぼくの縮込めた足のつま先をくるみ込むようにして現れることもある。でも熱さは感じない。

「今年はまた、とくにはげしいことだねぇ・・・」

「いまのはすごかったねぇ・・・」

 誰かが、少し怯みながら、でもそれほど感動のない声でぼそぼそと話していた。

 火柱は、まるでぼくらをからかうような唐突さで、部屋中、どこにでも姿をあらわすのだった。それは、ある、自分たちの力ではどうしようもない『なにか』だった。ぼくは、漠然と、その不可解な現象が毎年、一度は起こるべきものであること、どうやら、この家の宿命のようなものらしいことを感じていた。

 しかし、記憶にあるのは、その一度きりなのだ。二度と、そのような恐ろしい目に合うことはなかったし、それに近い思いをしたとしても、はっきり夢であると自覚できるものだった。あの、なつかしい火柱が夢だったのかもしれないと自分に問いだしたのは、ずいぶん、ほんとにずいぶん後になってからのことだ。

 

 最近、もう一つ、ぼくの色つきの思い出に疑問をもちだした。家の庭で無数に舞っていたイトトンボたちの記憶がそうだ。北側の薄暗い、夏でもヒンヤリといつも湿り気のある狭い庭に、アジサイやらヤツデやら、他にも名前のわからない背の高い草花が密生していた。それらに囲まれるようにして小さな砂場がある。鉄分を含んだ砂のするどい湿った匂いと、植物の濃い緑色の匂いに頭のシンが痛くなるほどだった。イトトンボを見たことのない人がいるだろうか。今でもイナカに帰ると、ほんの数匹だが心細げに飛んでいるし、本のなかに生気のない姿をみつけることもできる。子供の指くらいの長さの細い華奢なトンボだ。その翅ときたら、ごく小さなアリ一匹でも軽々と運べるくらい薄くて、かるいかるいものなのだ。彼らは、木の枝や葉っぱの上にとまる時、2枚の翅をピッタリ合わせている。まるで背中に突き刺さった小さな虹色の剣のようだ。時折その繊細な刃で会話をするように開いたり閉じたりしている。彼らが飛ぶとき、そこだけ時間が止まったような奇妙な空間ができる。時間の流れに逆らって音もなく小さな弧を描く無数のイトトンボたち。赤、青、黄、緑、青と白のまだら、黄色と黒のまだら、緑と青のまだら。脳裏に浮かぶ彼らのイメージは鮮やかで、しかも複雑だ。ぼくは、一人アジサイの葉を手で押しのけながら、その狭い楽園に分け入るのだ。顔やむき出しの腕に、彼らが軽い衝突をくり返してくる。夕日に照らされて、薄紅く、濡れたようにキラめく翅を震わせてぼくの回りを飛びまわる様子は、何とも言えず不思議に音のない光景だ。そのままじっと動かずにいれば、きっと肩やかみの毛にとまってくるだろう。できれば、ぼくは植物になって体温を失い、永い時空に身をさらしながらその場に根をおろしたかった。だけど、ひとの体のなかには、サラサラした冷たい樹液の代わりにネバつく熱い血が流れていて、おもわず捕まえたレモンイエローのイトトンボは、湿った手のひらのなかで不格好に首をねじ曲げたままもう動かない。死んだイトトンボはさらに軽くなり、瞳に貼りついた笑みを残して、楽園のなかのなにものも映してはいないのだ。

 


 いつからだろう、眠れない時間を映画館で過ごすようになったのは。繁華街のはずれにある名画座へ降りてゆく階段は昼間から薄暗い。地下から俳優たちの声や、銃声や、効果音が地鳴りのように響いて来る。百円玉3枚だせば何時間でも過ごせる。入れ替えなし、よっぽどのことがない限りがらがらだ。古本屋の映画雑誌に載っているような映画ばかりが一週間ごとに入れ替わる。『キャバレー』も『明日に向かって撃て』も『ロッキーホラーショウ』も『サウンドオブミュージック』もここで観た。『タクシードライバー』のデニーロはポルノ映画を試していたが、あれは本気だとは思えない。ぼくは夜中の仕事も多いので、よく徹夜明けでそのままもぐり込むように映画館に堕ちていく。暗いし夏は涼しく冬は当然あたたかい。夢をみているのか映画を観ているのかよくわからなくなる。『フェリーニの道化師』なんか特にそうで、目覚めて目を開けてもまだ重力のない世界がつづいている。バラバラに動き回るクラウンたちの永遠に終わらないバカ騒ぎだ。病院を抜け出してきた老人が笑いながら死んでゆく。あたたかくも残酷な映画だった。邦画より洋画、英語よりイタリア語フランス語がいい・・・ホンコン映画は眠れない。

 

 おにぎり君に会ったのはそんな夢うつつの時間をすごした後だった。留年してまだ学生をやっている知り合いが就職活動で田舎に帰るとのことで、バイトの穴埋めを頼まれた。ホテルの駐車場の夜警で、一時間ごとに見回るだけの簡単な仕事らしい。23時から8時まで、2時間の仮眠時間もある。街の中心部にあるホテルまで人通りのまばらな商店街をだらけて歩いていると、若い男が自転車にのってグルグル円を描いている。目が合うと8の字に軌道を修正しながら近づいてきた。

「そーぷかーすかぁー」

「・・・・ ? 」

「そーぷかーすかあー」

「・・・だからなに?」

 男は目の前に自転車を止めた。

「だから、そーぷ・・・」

 ソープランドの呼び込みらしい。いかにもやる気なさげだったが、一応仕事をしているつもりなのだろう。「いかがですか?」と営業口調もつかっている。坊主頭にくるんとした丸い目、まつげがやたらと長くて眼差しだけは真剣だ。

「いや、おれもこれからバイトだから・・・」

 すると何を勘違いしたか同業者だと思ったらしく、

「えーほんとーどこでぇー」

 と聞いてくる。

「まあ、あっちのほう・・」

「ふーん、じゃあまたぁ」

 もう会うことはないだろうと思っていたら、それからたびたび同じ場所で遭遇した。いつの間にか話を交わす間柄になってしまった。22才でぼくよりふたつ年下だったけど中学生にみえたり四十のおっさんにみえたり不思議な男だ。あれでも時々酔っぱらいのおじさんがついて来るらしい。店の前まで案内して本職に引き渡せば終わり。広いアーケードを夕方から深夜まで迷った野良犬のようにうろうろしている。

「そのうちちゃんと働くさ」

 言っていたとおり、しばらくするとブティックの雇われ店長になった。古着も扱うおしゃれな店だが、客はホステスやキャバ嬢が多い。着ている服もTシャツにサンダルから小綺麗な開襟シャツとスニーカーに変わった。膝の破れたジーパンは相変わらず。一日中女の子と話しているか、頬杖をついてレコードを聴いている。貸したレコード返せよな。


 キリコと知り合ったのもそんな臨時のバイトが絡んでのことだった。世間は夏休みに入っていて知り合いは田舎に帰ったまま戻ってこない。ピアノの調律師になるつもりらしい。サックス吹きのくせに。駐車場とは別にホテルの脇の道路沿いにコイン式の駐車スペースがあって、そこも一時間おきに見回らなきゃいけない。車のナンバーをチェックする。街灯の灯りがあるにしても薄暗いなか、屈みこんで顔を近づけないとよく見えない。

「キャッ、ちょっとなに‼ 」

 突然女の声が響いた、同時に運転席のドアが勢いよく開いてスーツ姿の男が飛び出してきた。

「なんだおまえ!何してんだ!」

 覗きと間違われたらしい。無理もない。

「いや、・・バイトなんで、チェックしてます・・」

 ぼくは、ノートと名札を見せた。男は疑わしそうに睨んでくる。痩せて小柄だが触れれば痛そうだ。あまり付き合いたくないタイプだった。ネクタイはしていない。

「おまえなぁ、ふざけてると・・・」

「あら、あんた・・・」

 車の脇に赤い髪の女が立っていた。

「はあ、なんだぁ知り合いかぁー」

 男はますます凶悪な顔つきになる。

「いや、べつに、さあもう行こうよ」

 女がさっさと車にもどったから、男も不承不承ポケットの小銭を探りながら精算機に向かった。

 どっかで会ったかな・・・? 見当もつかない、ほっとして仕事を続けていると、白いクラウンがタイヤを軋ませて角を曲がっていった。午前四時の街はまた静かになった。明るくなるまではもう少しかかる。

 

 数日後、いつもの映画館のシートに沈み込んでいると、女がとなりに座ってきた。

「やっぱり、あんただった、ハハ・・」

 つよい香水の匂いに眠気を覚まされて薄目をあける。薄暗いなかでいつかの女が覗き込んでいた。

「まえからここでよく見かけてたんだぁ、あたしが誰だかわからないの?ざんねんだなぁ、K君でしょ?」

「・・・モモ・・?」

「そうよ・・・いまはキリコっていうの」

「なんで・・?」

「なんでもよ、なつかしいわぁ」

 懐かしいけどわけが分からなかった。映画はベルイマンの『処女の泉』をやっていた。神秘的なまでに美しい北欧の自然、高く鋭い光の交差する森のなか、鏡のように静かで冷ややかな湖のほとり、白い馬に乗った白い少女。この先の少女の無惨な運命をへたに知っていたら、まともに彼女の顔が見られないほどだ。何度観ても納得できない結末は変わらない。

 

 キリコ(モモ)は中学まで一緒だった幼なじみで、いわば少年時代に裏庭に埋めた宝箱のなかのガラクタだった。だけどそのなかで唯一ひかりを失っていないものだ。いまだに青い麦の穂や石ころだらけの田舎道や紅いへびいちごのように、ふとした時に思い出してかすかな痛みが胸を浸していく。耳もとをかすめる蚊の羽音のように聞こえてきた彼女の家の崩壊と離散は、底意地の悪い噂話としてしか知らない。ぼくらは湿気の多い田園地帯でそだった。

 キリコは『サラ』というクラブでホステスとして働いているらしい。地方都市の繁華街には珍しいなめらかな大理石に囲まれた重たそうなドア。縁のないぼくでも知ってはいた。

 源氏名にしては変じゃないか、と聞いたら、

「おぼえてないの? 」と顔をしかめる。

 何年も前、旅先からぼくが絵葉書を送ったことがあった。なぜそんな気になったのか覚えていない。古道具屋の籠の中から拾い出して、日付と名前だけ書いて送った。『春の二重の夢』という題のついた絵だった。葉書はずいぶん遠回りをして数年後彼女の手に渡ったらしい。その作者の名前をいま名乗っているそうだ。

「最初は反対されたのよ、ママやスタッフに。でもそれじゃなきゃいやだって言い張ったの」

 茶色っぽい潤んだ眼、昔より大きく見えるのは化粧のせいだろうか。影を追うようにちらちらと揺れるまなざしはそのままだが、あとはずいぶん変わってしまった。すぐに紅潮して溶けてゆきそうだった白い頬は、暗く沈んで灯りの消えたろうそくのように冷たい。背が伸びたそのぶん痩せている。赤く染めた長い巻き毛がやわらかくぼくのうでを撫でてきて、なぜかジャニスジョップリンみたいだと思ったのを憶えている。ぜんぜん似てはいなかったけど。モンタレーポップでのジャニスの踵とサンダルは強烈な印象をもってぼくの女性観を支配しているようだ。

「あのホテルで働いてるの? 」

「いや、しばらく頼まれてるだけ・・・」

 ぼくは、不必要に詳しく経緯を説明していた。たぶん動揺していたのだ。

「ふーん、今夜は?」

「行かなきゃいけない、まだ時間あるけど・・」

「あたしもいかなきゃ、じゃ、またね」

 あっというまに消えてしまった。夕方の6時、スクリーンでは娘を殺された信心深い父親が、怒り狂って犯人一味の罪のない少年を壁に叩きつけて殺していた。夜はまだ始まったばかりだ。


 真夜中をかなり過ぎたころ、キリコは駐車場の片隅にある小さなプレハブ建ての夜警室を訪ねてきた。ガラス窓を爪でたたく音に目を上げると、夜が沁み込んだような女が立っていて、赤い唇でニヤリと笑っている。

「なかにいれてよ」

 二人も入ればとたんに窮屈になる。ぼくは、パイプ椅子をキリコに譲り、エロ本のぎっしり詰まった段ボール箱に腰掛けた。窓辺のカウンターに広げていた雑誌をパラパラとめくりながら、

「やっぱりこんなのよむんだねぇ」

と、真顔で呟いている。しっかり見られていたからにはしょうがない、

「まあ、ここにあるのはあらかたね、もう二巡目かな、ひまだし・・・」

「けっこう真剣な顔してたよぉ・・これ、差し入れね」

 コーラの缶を二つ、ラメの入った大きな青いバッグから取り出した。それから食べかけのポッキーの箱。

「タバコ吸っていい・・?」

 アルコールと香水の混ざった匂いよりはましだと思い、灰皿を差し出した。上手に半分開いた窓の方に向けて煙を吐き出す。どんなに外見が変わっていても、うっすらとモモが透けて見える。

「あのときはごめんね・・・」

 男と車の中にいた夜のことだろう。店に来るお客さんで、時々帰りに送ってくれるらしい。それだけの関係じゃないことはぼくにもわかったが、べつに聞きたいわけじゃない。

「映画はよくみるの?」と、話題を変える。

「うん、あそこは落ち着くの、考えごとしたり、なにも考えなかったり・・・」

「ぼくもだよ」

「たいてい寝てるくせに」

 彼女は笑った。笑うとぼくの知っている少女があらわれる。幼さとも無邪気というのとも違う、なにか身をゆだねてくるような、おもわずこちらが心配して手を差し出したくなるような雰囲気をもっている。だけど差し出された手を不思議そうに眺めてくるような女の子だ。

「ここは静かね・・」

「うん・・・」

 本当はいろいろな音が聞こえてくる、夜中を過ぎても街の雑踏は路地を彷徨い、ビルの壁を這いまわる。だけどこの小さな夜警室のなかにいると、すべてが遠いところで起こっているように感じるのだ。

 空が白みはじめる頃、キリコは帰っていった。まだ蝉も鳴きだすのを躊躇するこの時間がぼくはすきだった。虹色の粉を撒いた炭の林のようだ。とくにその朝は街が生まれ変わったように、しっとりとやわらかくみえた。


 キリコは街はずれの古い雑貨屋の二階を借りて住んでいた。時代に取り残されたような黒ずんだ板壁の並ぶ一角に錆びついたシャッターが下りたままの店舗があった。老夫婦が細々と営んでいたが、ここ半年ほど閉まったままらしい。手書きの地図をたよりにやっとたどり着いたときにはもう日が高くて、買ってきたアイスクリームも溶けだしそうだった。建物の脇に貼り付いた鉄製の階段を上がると小さな踊り場があって目の前に緑色のドアがある。いかにも素人が塗りましたという感じだが、なんとなく趣があった。表札はない。

「わぁうれしい!」

 ドアを開けて最初に反応したのはアイスクリームにだった。Tシャツに麻の七分丈のパンツ、化粧をとってみるとやはりモモはモモだった。だけど今度はキリコが透けて見える。天井は低いが意外と広い畳敷きの部屋が狭い玄関の向こうに続いていた。奥にもう一部屋、そして小さなキッチン、無理やり取り付けたようなバスルームがあるが、キリコは近くの銭湯にいくのが好きらしい。さっぱりと掃除の行き届いた部屋は、どこか懐かしくて始めてきた気がしない。道路に面した明るい窓辺には、年季の入った木枠の手摺が張り出していて、いたわるように朝顔のつるが絡みついていた。

 小さな座 卓の上に朝食の用意がしてあった。といっても、もう昼に近かったけど。安っぽいドラマのような展開にぼくは戸惑いながらも、どこまでも素直に受け入れてしまった。いったいこの傾いだ既視感はどこからくるのだろう。

「おいしい?」

と聞かれて、なんと答える?ちゃんと両目のあいた目玉焼き、炒めたウインナーとトマト、豆腐とわかめの味噌汁、炊き立ての白いご飯、ケチャップとブラックペッパーをたっぷりかけてぼくは頬張る。不味いわけがない。

「うん・・・」

 キリコは笑って、それからまじまじとぼくを見た。

「ははは、K君だあ」

 冷たい麦茶を飲んで、次の展開をぼんやり考えているうちにどうしようもなく睡魔が襲ってきた。昨日からほとんど寝ていない。図々しいとは思ったがついつい畳に背中をつけて天井板の黒ずんだ染みを見上げた。どこかで風鈴が鳴っている。そのまま寝入ってしまった。

 気が付くともう夕方で、座卓の上のメモがやけに白く浮きあがってみえた。キリコはすでに出かけているらしい。出ていくときの鍵の隠し場所を指示してあった。


 それからはなんとなく時々会うようになった。驚いたことにキリコはおにぎり君とも知り合いだった。というか、『おにぎり君』と呼んでいたのは彼女のほうだったのだけど。聞いてみれば簡単な話で、彼のブティックの常連さんなのだ。持ち前の図々しさでおにぎりはキリコにまとわりついていた。キリコもまた、この世間から微妙にずれて街の隙間を縫うように生きている彼が好きなようだった。三人で飲みに行くこともあった。話題はバラバラでそれぞれが勝手にしゃべり、自分のタイミングで笑い、独特に解釈する。キリコが一番酒に強かったが、あまりプロっぽい飲み方じゃない。いつもその瞬間に生きているおにぎりは最初からあてにできない。結局ぼくが無理をして正気を保っていることになる。キリコを挟んで三人でいるとなにかと疎ましい世間が映画の遠景のように遠のいていく気がした。おにぎり君がキスを迫ると、同じようにキリコはぼくにも返してくれた。キリコの唇は柔らかくあたたかい。それぞれの関係は曖昧で、それぞれの抱えている問題もぼんやりと背景に溶け込んでいた。ただ、ぼくはモモを、おにぎりはキリコを愛していたのだ。


 キリコには男がいる。それについてはぼくよりもおにぎりの方が詳しかった。キリコに会えない日が週に数日ある。おにぎりはきちんとその日を把握しているようだ。ぼくはあの日以来キリコの部屋を訪れたことはない。下手に訪ねるとシャッターの降りた店舗の前に、白いクラウンが無造作に駐車しているらしい。

 だけどあの日、おにぎりが対抗して買った中古のブルーバードに乗せられて、夜中にキリコの部屋の下まで行ったのだ。なるほど、剣呑で頭の悪そうな車が銀色のホイールを光らせていた。キリコの部屋の窓はカーテンが閉められ、ほのかな灯りが漏れている。二人してしばらく無言で宙を睨んだ。

「バッキャロークソッタレーオメェ○✖▽◆/⁂」

 おにぎりが突然車の窓を開けて叫んだが、何を言っているのかよくわからない。猛然と走り出した車の助手席から振り返ると、キリコの部屋の窓があいて、男が身を乗り出してこちらを見ている。

「おまえ、恥ずかしくないか・・・?」

「・・・うーん、まあ、へへへ」

 おにぎり君は微妙に照れて見せた。そして言った。

「あいつ、時々殴られてんだ・・・」

「ああ・・まあ、知ってる・・・」

 お前は知らないだろうが、昔からそうなんだよ。

「なんとかならないかな・・・」

 おにぎり君は母子家庭で育った。小学校の間は次々と入れ替わる母の男たちにいいように弄ばれた。中学にあがるころから母親は変な宗教に入れ込み始め、彼は自分が天国へ導かれるための障害でしかない、と宣言された。

「なんとかしたいよな・・・」ぼくは言った。


 数日前、映画館の薄闇に、メガネをかけマスクをした姿でキリコが現れた。ぼくを見つけると黙って隣に腰を下ろした。ぼくと同じようにシートに深く沈み込んで真っすぐにスクリーンを見つめている。フェリーニの「アマルコルド」、久々に病院から連れ出された狂人が、家族と共にピクニックに来ている。広々とした田園の風景に恍惚となった彼は、目を離した隙に高い木に登って降りてこなくなる。そして叫ぶのだ。

「女を抱かせろ!」

 夕暮れが迫り、すりガラスを通してみるようにあたりは霞んでくる。男を乗せた大きな黒い木も水気を含んで膨張し風景に溶け込んでいくようだ。淡いバラ色の空に向かって、男は何度も何度も訴えかける。「女をだかせろーーー!」

 叫び声は永く尾を引いて遥かな地平線を越えていくのだ。木の下にはオロオロするばかりの家族たち・・・。おもわずのけ反るほど美しいシーンだった。

「あいつ、おにぎりに似てるよな・・・」

 ぼくが言うと、キリコが噴き出した。

「似てるかも・・・」

 背中を丸め声を押し殺して笑っている。しばらくして、やっと背を伸ばし、力なくため息をついた。

「あたし、今日しごと休むんだぁ」

 マスクをずらしてこちらを向いた。唇の端が赤黒く腫れあがっている。レンズの奥の目元も黒ずんでいた。

「だいじょうぶなのか・・・?」

「うん、心配しないで・・・いや心配して・・」

 キリコは笑っている。ぼくは笑えない。

 フェリーニの故郷であるアマルコルドの一年。ふたたび巡ってきた春は、野原での結婚式だ。タンポポのような花の種が舞い、目の見えないアコーデオン弾きが大げさな身振りで演奏するなか、人々は思い思いの楽しみ方で楽しんでいる。彼らの一人一人が花の種になったかのように、くるくる、ふわふわと地表を漂っていく。

 キリコは泣いている。キリコの伸ばした手を握りながらぼくも泣いていた。さらさらした涙がとめどなく流れてどうしようもなかった。

 映画館を出たらすでに日が暮れていた。何か食べようと言っても、何も食べたくないという。仕方ないからアーケードを見下ろす喫茶店に入ってかき氷を奢った。キリコはもうメガネもマスクもしていない。店員が一しゅん戸惑いぼくをちらりと窺う。キリコは目を細める。

「ねえ、あたしを叩いてみたい?」

「・・・いや、そんなことはしたくない」


 おにぎり君はやみくもに車を飛ばす。こいつと心中なんかしたくなかったが、今夜はそれもいいかもしれない。何もかもが許せないし、なかでも自分が一番情けなくて無茶苦茶に壊れてしまいたかった。おにぎりとぼくは、そもそもこんなにナイーブな人間だったか?人はそれぞれ重荷を背負って生きているけど、荷物の重さを比べちゃいけない。地下の映画館のシートに沈み込むだけの重さがぼくにはちょうどいい。だけどその夜は自分の存在の軽さに身の置き所がなかった。しっかりつかまっていないと流れてゆくネオンや街灯のあかりのほうに飛ばされてしまいそうだった。

 散々走り回ったあげく、気が付くと大きな川の土手に車はとまっていた。女性タレントの甲高い笑い声が気に障ってラジオを消した。おにぎり君はエンジンを止めた。川の音と虫の声が聞こえる。

「なんだかなぁ」おにぎりが呟いた。

「なんだよ」

「おれさあ、キリコにふられたんだぁ」

「いつものことじゃないか」

「いや、結婚を申し込んだんだ・・」

「そりゃ冒険だったな」

「そうしなきゃいけないと思ってさ・・・」

 何のために?、とは聞かなかった。

「おれもキリコと話してみるよ・・・」

 夜明けにはまだ時間があった。


 先ほどまでとはうって変わってのろのろと車は走った。いったい俺たちは何をしようとしているのか、キリコに会って何を話したらいいのか、男に会ったらそもそも話なんか通じないだろう、キリコはそれを望んでいるのか?キリコのなかにいる『モモ』は何もかもを受け入れて、それでいて誰も信用してはいない女の子だった。それでもぼくらは吸い寄せられるようにモモの部屋へと向かっている。きっとモモは待っているのだと信じて。


 まだ夜が明けきらない頃、キリコのいる寂れた路地についた。男の車はもうなかった。ほっとすると同時に、また自分が何をしたいのか分からなくなった。灯りの消えた窓を眺めながらおにぎり君がシャッターの前に車を止め、ぼくは助手席を降りて部屋に向かった。錆びついた鉄の階段を必要以上に足を忍ばせて登る自分に腹が立って、踊り場には乱暴に足を乗せる。けれど、ドアはそっとノックした。反応はない。鍵がかかっていて、隠し場所も空だった。

 その時、階下で低いエンジン音と重いタイヤがひび割れたアスファルトを踏みにじる音がした。悪い予感がして階段を駆け下りると、白いクラウンがおにぎり君のブルーバードの前を塞ぐように止まっている。身震いしながらエンジンが切れ、男がゆっくりと降りてきた。派手な青いシャツのはだけた胸には、太い銀色のチェーンネックレスが光っている。見るからにチンピラだが軟弱な一般人にとってはもっとも危険な部類だろう。薄ら笑いを浮かべながら男は近づいてきた。

「おまえ、こないだ駐車場にいたやつやな・・」

 答える前にいきなり髪の毛を掴まれた。激痛に体が硬直し、相手の手首を押さえるのがやっとだ。すぐに腹部にけりを入れられ、ぼくは無様に道路に転がった。

「なんなんお前ら・・」

 立ち上がったぼくにさらに男は迫って来る。大きく息を吸って、思いっきり右肘を相手ののどぼとけめがけて叩きつけた。昔、知り合いの自称武闘派の男から教わったのだが、かえって逆上させただけだった。そういえば抵抗しないのが一番、とも言っていたっけ。

「ふざけとんのかわりゃ!」

 変な関西なまりで喚きながら殴りかかってきた。一発目は辛うじてガードしたが、次を右目に喰らった。指輪で頬が切れる。間髪を入れずに左の脇腹に硬い靴がめり込み、ぼくは道路の反対側まで転がって息が詰まった。


 エンジンのかかる音がした。振り向いた男を眩しいライトが照らし、片手で目を蔽う。

「この、おれの車を・・」

 最後まで言わせないまま、クラウンが突っ込んできた。喚きながら飛び退ろうとした男は腿のあたりを払われ、一回転して硬い地面に落ちた。車は少し先の十字路で向きを変えまた襲ってくる。辛うじて立ち上がった男の顔は驚愕と恐怖で引き攣っている。今度はまともにぶつけられた体は棒きれのように飛ばされ、電信柱にぶつかって変なふうに首をねじ曲げて転がった。

 一瞬の出来事だった。一連の流れは鮮明に思い出せるが、それは薄闇のなかに浮かび上がる絵のようなものだった。こんなシーンを映画で観たっけ?おそらく、いや間違いなく僕の目の前で人が死んでいる。もし生きているならぼくがとどめを刺そう。幸いなことにこの侘しい路地裏の界隈はまだ目覚めていない。

 おにぎりが車から降りてきた。唇が青ざめ手が震えているわりには落ち着いている。この先なにがあろうと彼を一人にするわけにはいかない。

「トランクに入れるの手伝ってくれよ・・・」

 ため息とともに悲しげな声でおにぎりは言った。

 おにぎりがクラウンを彼の車をぼくが運転して、映像を巻き戻すように夜中に訪れた川の土手に向かった。そこでぼくらはいろいろと話し合い、今夜落ち合う場所を決め、それぞれすっかり明けた街に帰った。食欲はないが少し食べて、できるだけ眠ろう、そう思った。


 無人駅の草だらけの駐車場に車を止めてパラパラと稀に降りてくる人々を眺めた。まだ日が暮れたばかりだというのに、街灯の灯りに押しつぶされたように皆一様に疲れて見える。眼窩から零れ落ちた黒い影を切れ切れに引きずってどこへともなく帰っていく。いや、蝕まれているのはぼくの方だろう。それにしても遅い。

 おにぎり君のクラウンが横につけて止まったとき、ぼくは夢を見ていた。同級生だったころのモモが何かを手渡そうとしている。

「おい、起きてくれよ・・・」

 窓をたたく音で目が覚めた。

「ああ、おそかったな・・・」

「いろいろとな、やることがあってさ・・・」

 ぼくが買いそろえたものをクラウンの後部座席に放り込んで、目の下に隈ができているおにぎりに変わってぼくが運転した。すぐに眠り込んでしまったおにぎりと死体をのせて慎重に目的地へと走らせる。バンパーとボンネットが少しへこんだ車であまり目立つようなことはしたくなかった。ここらあたりはぼくの生まれ故郷にほど近く、土地勘はあった。山すその古い神社の脇をぬけて、ひたすら細い林道をくねくねと昇っていく。これからやることにどれだけの時間がかかるのか見当もつかないが、夜明けまでにはすべてを終えたい。林道から外れてさらに山のなかに分け入った。ここからは、人の手があまり入っていない原生林だ。雨に削られた道はさらに狭くなり、揺れる車体にとっくに目を覚ましたおにぎりは黙って前を見つめている。くそ、でかい車にのりやがって・・・。

 車を回せるスペースをみつけてエンジンを止めた。ここからは歩きだ。トランクを覗くと死体はブルーシートにくるまれ数か所をロープで縛ってある。

「とりあえず道具を運ぼうか、埋める場所見つけなきゃな、・・・おまえ大丈夫か?」

 おにぎりは後部座席の真新しいスコップやら、鍬やら、のこぎりやらをじっと見ている。

「これ現実なんだよなぁ、すげえなあ・・」

「なにいってるんだ、ここまでやっておいて」

 ぼくはトランクのなかを指さした。これが夢だとしても醒めるまでは行動し続けなければならない。


 持ち慣れない荷物を抱えて山に分け入った。小さな懐中電灯に照らされた森は狭い洞窟のようで、それこそ夢の中のようにうまく前に進めない。車と死体は置いてきている。ほとんど人は来ないにしても不安と焦りのために異常に汗をかいた。できるだけ道から離れたいが、あとの作業のことを考えるとそう遠くまで行けない。時間もない。ぼくらはずっと無言のまま歩きつづけた。もう少しでパニックになりそうな頃、少し地面が開けた平坦な場所に出た。周りは比較的小さな樹木に取り巻かれ、頭上には大きな樹の枝が幾重にも交差している。堆積した広葉樹の葉が柔らかく、野生の動物の休憩場所なのかもしれない。そういえば途中で鹿の頭蓋骨を見た。知らず知らずのうちにけもの道を辿ってここまできたのか。


 穴を掘るか、死体を先に運び上げるか暫らく迷ったあげく、後者を選択した。体力の問題もあるし、その方が決心もつくと思ったからだ。目印に地面に突き立ててきた木の枝を頼りに山を下りる。意外なほどすぐに車のところまで降りてきた。

 覚悟はしていたが死体は重かった。暴力に慣れた人間にしては小柄な方かもしれないが、それでも肩にぐにゃりとのしかかる重圧は単なる人の重さではなかった。ぼくらは前後を交代しながら、ときには藪の中を身をかがめてあざ笑うように抵抗する巨大な芋虫を引きずり上げた。乾いた鹿の暗い眼窩が後を追うように見つめてくる。

「あのツノ、持って帰ろうかな・・・」

 おにぎりが不意に声を出すものだからぎくりとする。

「・・・やめとけよ」

 目的地に着いたときにはすっかり三者ともぼろぼろになってしまっていた。これから穴を掘ることを考えるとさらに暗澹とした気分が込み上げ、座り込んで天を仰ぐ。頭上の枝から垂れ下がる苔だか植物だかわからないものがぼくの胸いっぱいに満ちていくようだ。だけどその網の目の向こうには針のように鋭い光をのばす星が涼し気に瞬いているのが見える。

 気を取り直して、バッグからペットボトルをふたつとりだした。

「さすが・・・・」

 おにぎりは力なく笑うと一気に生ぬるい水を飲みほして立ち上がった。とにかく最後までやらなくちゃならない。最後にどうなるのかはわからないが。

 落ち葉をはらった地面は湿っていて重く、細かな根がスコップや鍬の刃に絡みつく。叩き切れない根はのこぎりで取り除いたが、太い根はそのままにその下を掘り進んだ。あの忌々しいものをもぐり込ませるだけの隙間があればいい。できるだけ深く深く、地の底に埋めてしまいたい。二人は無言で穴を掘る。荒い息遣いだけが木々に絡めとられて森を目覚めさせてしまった。誰かに見られているような気がする。この土に塗れた喘ぎ声は自分のものなのか?汗は視界を滲ませ頬や首筋に流れ落ちる。土埃と枯れ葉と光に集まる羽虫を全身に貼り付けて、ぼくはいったい何をしているのか。

 腰にぶら下げた懐中電灯に照らされて穴は次第にその影を地中に伸ばしていった。


「おい、もう時間が・・・・」

 おにぎりに言われて我に返った。

「もうじゅうぶんだろう?」

 意外なものを見るような目つきでぼくを見ている。

「ああ、そうだな、あいつも待ちくたびれてるな」

 本当はまだまだ浅いような気がした。土くれの奥深く、地の底にすべてを預けてしまいたい。この山が拒絶して押し返せないほどの深みへ。

 シートに巻かれた死体は近くの木の根元に退屈して仰向けに寝転がっている。住所不定、職業不明のこの男がなぜか生きているときよりも人間的に共感できるような気がした。だけど今は二人とも疲れ切っている。乱暴に引きずってきて穴に落とし込んだ。無理やり木の根の下をくぐらせると、なんとかうまく穴の底に納まってくれる。不本意だろうがここで土に草に虫に獣に鳥に還ってくれることを願う。

 踏み固めた地面に落ち葉を元通りにならして一応手を合わせてみた。言葉はなにも浮かんでこない。おにぎりは顔をそむけてそれさえも拒んだ。彼はあらゆる宗教的な匂いのあるものを憎んでいる。そのくせいつも自分以外のなにかを信じたがっているのだ。そしてそれはぼくも同じだった。だけど、自分のなかのがさがさした矛盾する感情を山の闇はうまく溶かしてくれる。夜の森は無関心を装いながら興味深くぼくらを見守っている。


 目印の木の枝を抜きながら山を下りた。いつのまにか月が昇っていて発光性のきのこのように空に貼り付いている。オブラート紙のような光が森に下りてくる。見上げると黒い枝が頭上を蔽い地面に網の目のような影を落としていた。ぼくらは無意識のうちにそれらに囚われないように慎重に足を運んでいる。

 車に戻ってエンジンをかけると少しほっとした。わざと乱暴に車を走らせて山の呪縛を振り落としていく。おにぎりは相変わらず押し黙ってシートにもたれたままだ。   道々穴掘りに使った道具を一本ずつ木立の奥へ投げ捨てて行った。持って帰りたくはなかった。

「この黄金のスコップはあなたのですかって女神が現れたらどうする?」

 ぼくは沈黙に耐えられなくなって言った。おにぎりが眉をひそめて振り向く。

「・・・おれそのはなし嫌いなんだ」

「ああ、悪かった・・・」

誰だって試されるのは気分のいいものじゃない。


 いったん無人駅まで戻ってきた。あれから長い時間が過ぎた気がするがまだ終わりじゃない。夜明けまではまだ二時間ほどある。今度は車二台で駐車場を出た。これから行く場所もよく知ったところだ。高校時代によく仲間と集まってとりとめのない時間を過ごした。街のはずれに大きな川が流れていて、広い河川敷が広がっている。上流に向かうと次第に雑木林に覆われ、曲がりくねった細い道の奥に廃車になった車の墓場がある。居並ぶ錆びついた車たちがなぜそこに放置されているのか昔は考えもしなかったが、それぞれに事情があるのだろう。今の自分たちのように。ここで忌々しいクラウンを葬るつもりだ。おにぎりはドライバー一本で手早くナンバープレートの封印を破り外していく。こいつは不思議と色々なことに詳しい。あっという間に作業を終えガソリンを自分の車に移している。ぼくはできるだけ車を汚していった。すでに山道を乱暴に運転したせいで相当擦り傷だらけだがもう少しふさわしい姿にしてあげたい。いつも持ち歩いていたクラフトナイフでシートを切り裂いたとき思いがけない快感に鳥肌がたった。いつか自分の首筋に使うことになると思っていたナイフの冷たい刃。その頼もしさにおもわず夢中になった。

 最後に車をほとんど崩れかけた軽トラと比較的新しいミニバンのあいだに頭から突っ込ませた。おにぎりはさらに配線を切断しバッテリーをはずした。それからタイヤをパンクさせ、石を投げてテールランプを破壊する。明らかに彼も高揚している。


「ちゃんと廃車にできるのか?」

 帰りの車の中でぼくは心配になって聞いた。

「ああ、名義はキリコのだし・・・」

「そうか・・・でも・・」

「昨日キリコの部屋にいってきた、鍵はあのバカがもっていたからな」

「キリコは?」

「いなかった・・」

「・・・どこいったんだろう」

「・・いんかん探して委任状に押してきた、あとはおれがなんとかする」

「・・すまんな、運転変わろうか?」

「いや、だいじょうぶだ」

 夜が明けている。まだ通行のまばらな国道を車はもやを振り切るように走っていく。疲れ切っているが眼が冴えて眠る気にはなれない。体に伝わる振動がぼくらが現実を生きていることを教えてくれた。

「・・キリコの部屋に青い小物入れがあるだろう、小さい引き出しがいくつもついてるやつ・・」

 長い沈黙のあとおにぎりが言った。

「ああ、あったかな・・・」

「引き出しのひとつにあんたの葉書がいくつかあった」

「・・・いくつか?」

「年賀状やらそれから変な絵のやつ・・」

「・・・そうか」

「だいじにしてたみたいだ・・・」

 

 昔、モモが父親に暴行を受けているのを偶然見てしまった。学級委員だったぼくは欠席していたモモに明日のクラスのイベントについて資料を持って行ったのだ。近くの山に登りカレーを作って、班ごとの出来を先生が判定する。楽しそうだったのでぜひモモにも参加してほしかった。農家だったモモの家は母親が幼い弟を連れて家を出てしまい、小学生の小さな体で家事やら農作業を手伝っていた。父親はおとなしそうな無口な男だったから小屋の方から怒鳴り声が聞こえてきた時には誰か他の人間がいるのだと思った。肉をたたくねばついた音がして女の子の悲鳴が響く。薄く開いた古びた木戸の隙間、薄暗い小屋の奥の藁のうえにモモが頬と腹をおさえてくの字に横たわっていた。娘を見下ろす父親の痩せた後ろ姿はむしろ悲しげに見えた。何をすべきかもわからずただ呆然と立ち竦むぼくを、モモは確かに見ていた。そしてゆっくりと顔を両手で覆い丸くなる。そっとその場を立ち去り、郵便受けにプリントを入れて帰った。

 翌日、モモはずいぶん遅れて一人で山に登ってきた。はぁはぁと肩で息をつき頬を紅潮させて急いで坂を上ってきた。ぼくは嬉しくなって、思わず駆け寄り手を伸ばした。モモも嬉しそうに手を差し出し、その時初めてぼくらは手をつないだのだ。

 モモのためにするべきことは沢山あったのだろう。だけどぼくは誰にも話さず何もできなかった。だからばかばかしいとは思ったけども、毎年年賀状や暑中見舞いを送り続けた。とくに特別なものではないが、できるだけきれいに丁寧に描いた。それから例の旅先からの絵葉書。


 おにぎりの運転する車がぼくらの暮らす街に入るころ、世間はようやく活気を取り戻していた。そして誰もが無関心な態度でいてくれることが有難たかった。

「あんたをまきこむんじゃなかったな・・・」

 信号待ちの交差点で行きかう人々を眺めながらおにぎりがぽつりと言った。

 ぼくはというとモモの指先のネコヤナギのような感触をまた思い出していた。


 ぼくは巻き込まれたのだろうか?猛スピードで走り去る車を見送りながら自分に問いかけた。そうではない、と思いたかった。この一連の出来事に積極的に関わっているはずだ。車の中でおにぎりが言った。

「おれはさぁ、やっぱりキリコにそばにいてほしいんだ、笑ったり怒ったりしていてほしいんだ、あんたはどうなんだい?どうするんだい?」

「・・おれは・・・いま、それ言うか?キリコの気持ちも考えろよ、どうして・・」

「あんたは人の気持ちを考えすぎだよ、キリコはやさしすぎるし・・・おれは・・・馬鹿だし・・・」

 ドアを閉める前におにぎりはすました顔で、まるで明日の天気の話でもするようにこう言った。

「悪いけどおれ、いまなんだってできるような気がするんだ、あんたとキリコはおれが守るよ」

 おまえがいちばんあぶないんだよ、とつぶやいたけど聞こえるはずもなく、そんなセリフの吐けるおにぎりが羨ましかった。これから先どうなるのか何もわからない。キリコさえ大丈夫ならいいんだ、そう言いきかせた。



 一週間後キリコから連絡が入った。階段で足を滑らせて二日程入院したと白々しいうそをつく。軽い脳震盪をおこしただけだから平気よと笑う彼女に今度こそ葉書以上のものを送りたい。小物入れの小さな引き出しには隠し切れないものを。だけど留守電に入っているキリコの声はあくまでもあっけらかんとしている。メッセージの背景に入れたポリスの曲が趣味悪いと言って文句を言っている。寝ぼけてんのか留守なのかわかんないのよ・・

 おにぎり君と三人で飲もうということになった。あたしがなんか作るからとキリコの部屋で。あれ以来おにぎりとも会っていないからちょうど気になりだしたタイミングだった。


「なんだぁこれ、誰かの誕生日か?」

 おにぎりが並べられた食い物の数々を見て目を丸くしている。ありったけの皿に盛りつけられた料理は台からはみ出して畳の上に置かれている。名前の判るのは唐揚げと海苔でまいたお握りくらいだ。あとでおにぎりがおにぎり食ってると笑うつもりだろう。

「そうよ、フレディーマーキュリーの誕生日」

「だれだそれ」

「クイーンのヴォーカルだよ・・」

 ぼくはなんだか急に不安になってきた。

「おれきらい・・・」

 おにぎりはレゲエかパンクスしか興味ない。

 とりあえず両手に抱えてきたビールをキリコに見せてご機嫌をうかがう。おにぎりも無理をしてちょっと高めのジンを二本。一本は余計だよお前・・・

 三人で飲むといつも通り楽しい。キリコはよく笑うし、おにぎりは拗ねているし、ぼくはよくしゃべった。カタカナ料理の数々はどれもびっくりするほど美味かったが、「この肉うまいけど牛なのぶたなの?」とか「この魚ほねがないんだ・・」とか「串にさしてない焼き鳥みたいでうまい」とか「将来定食屋のおばちゃんになれるよ」とか男どもが言うもんだから終いにはキリコも、あんたたちみたいに料理の作り甲斐のない人間はいない、と言って怒り出した。とにかく久しぶりの食欲だった。ビールもあらかた飲んでしまい、ジンを冷蔵庫にあったオレンジジュースで割って飲んでいたがそのうち氷だけになった。喉が収縮し体の芯に火が灯る。二本あって正解だったよお前・・・

 夏も終わりだというのにまだ蒸し暑かった。風もないのでキリコとおにぎりが吸うタバコのけむりが部屋中に渦を巻いている。キリコは時々ピルケースにタバコの先を突っ込んでから火をつけている。ぼくはなんだか低い天井に無性に触りたくなった。


「泳ぎに行きたい」とキリコが言い出したのは真夜中をずいぶん過ぎたころだった。  今年はまだ泳いでない、水に飛び込みたい、と騒ぎはじめた。

「海なんかいかねえぞ」と、おにぎりが真顔で言う。

「プールでいいじゃない」

 キリコはもう立ち上がっている。

「どこも開いてないよ、まあすわれって」

 夜勤明けのぼくには心底面倒で煩わしかった。

「いや、あそこならいけるぞ・・・」

 こんどはおにぎりが乗り気になる。近くに国立大学のプールがある、誰もいないから忍び込もうというのだ。一度大学のなかに入ってみたかったんだそうだ。

「いいね、いいね、いこうよ」とキリコはぼくの髪の毛を引っ張る。「夜なんだからみんな裸で泳いじゃおう」

「まじ?よーし決まりだぁ」おにぎりも立ち上がる。

「このスケベ野郎!」キリコが蹴りを入れる。

「おいおい本気なのかい?」ぼくも目が醒める。

「先降りてて、ちょっと片付けていくから」


 車で五分もかからない。広いキャンパスを囲む石垣の脇に寄せた。ボンネットの上から手を伸ばして上の生垣の根元を掴んで体を引き上げる。最初におにぎりが、それからキリコを押し上げ、ぼくが続く。レジ袋に入れたお握りをぶら下げて。海水浴にはおにぎりでしょ。

 反対側に滑り降りると木々は多いが公園より暗くてさみしい。点々と灯る電灯は何も照らしていない。

「あっちだ・・・」

 ぼんやりと頑丈そうな校舎とプールの金網がみえる。

「大学生にもなってプールで遊んでんだからなあ」

 おにぎりはウキウキと調子がいい。とうぜん鍵がかかっていて、さっきの順番でまた金網をよじ登る。思いがけなくキリコも身軽だ。サンダルを脱いだ素足がぼくの肩を踏んでなんなく乗り越えると、向こう側でおにぎりが受け止めようと待っている。

ぼくとおにぎりは我先に服を脱ぎ捨ててプールに飛び込んだ。思っていた以上に冷たく重たい水が全身を押し包み、いっきに底まで沈んでいく。プールの底面は滑らかで人の肌のように波打っている。しばらくその懐かしさに浸り、ゆったりと緊張を解くと徐々に水面へと浮かび上がっていった。

 水の上ではおにぎりがしきりに文句を言っていた。

「はなしが違うでしょって!いつのまに・・・」

 プールサイドには白いセパレートの水着を着たキリコが立っている。長い髪を後ろに束ねながら脱ぎ捨てたワンピースを足でうしろに蹴りやった。

「ばーか、そう簡単に・・・」

 一瞬長く伸びた影が飛んでぼくとおにぎりの間に水柱があがる。飛沫と波は音もなく押し寄せて二人は黙るしかない。黒く光るうねりがおさまってもキリコは現れなかった。夜のプールは微かに呟きながら四方から手を伸ばしてくる。そろそろ心配になってきたころ、ずいぶん遠く離れた場所にキリコは魚のように跳ねた。赤い髪はほどけて上半身を蔽い大きく開けた口で喘ぎながら笑っている。まるで人魚に誘惑されている気分だった。なぜなら水の中でキリコは生まれたまんまの姿になっていたのだから。


 どれだけの時間ぼくらはそこで過ごしたろう。水にゆだねる浮力がこんなにも自由を与えてくれるのなら一生ここで過ごしてもいい。よそよそしい冷たさはだんだん感じなくなり体の芯の熱だけを意識した。その熱を保つためにこの限られた場所を支配し続けなければいけない。皮膚に直に感じる水のゆらぎを通してぼくらはお互いをより濃密に感じることができた。時々身体に触れてくる落ち葉や虫の死骸でさえ自分の一部として愛しいものに思えた。

 

 ふと気が付くとキリコがいない。空に貼り付いた雲が流れていてその下でぼくとおにぎりは途方に暮れてお互いを見ている。魔法は消えて捕らわれた囚人のようにぼくらは網の中にいる。伸びあがって威嚇する周囲の建物を見回すと、プールサイドの端にキリコはぽつんと膝を抱えて座っていた。すでに服を着ていたが濡れた髪もそのままにじっと前方を見つめている。

「おい、どうした、寒いのか・・・」

 声を掛けるとゆっくりと首を傾け、立ち上がってこちらに歩いてきた。

「あんたたち、ケンジのこと知らない?」

 半分欠けた月に照らされてぼくたちを見下ろすキリコは陽気さをげっそりとそぎ落としている。

「病院にあたしを運んでから連絡してこない・・・」

 心細げに立ち尽くすキリコは今にも消え入りそうだ。

「あたしはずっと待ってるのに・・・」

 青白い月あかりのなかでぼくたち三人には深い影が刻まれていて、お互いがずいぶんと痩せてしまったことにあらためて気づかされた。

 数か月後、おにぎり君は電車に撥ねられて死んだ。



 月の影に追いかけられて

 月の影に・・・月の陰に

 ぼくは飛び跳ねる

 月の影で・・・月の影で

 もしぼくが手を失くし

 鋤を失くし、土地を失くしたら

 ああ、もしぼくが手を失くし

 ああ、もし・・・・・

 もう働かないで済むだろう

 もしぼくが目を失くし

 色があせてなくなったなら

 そう、もしぼくが目を失くし

 ああ、もし・・・・・

 もう泣かなくて済むだろう

 もしぼくが口を失くしたら

 歯も何もかも失くしたら

 ああ、もし・・・・・

 話をしなくても済むだろう

ぼくを見つけるのに長くかかったかと

忠実な光に聞いてみる

ぼくを見つけるのに長くかかったのかと

そしてひと晩いてくれるのかと

 月の影に追いかけられて

 月の影に・・・月の影に

 ぼくは飛び跳ねる

 月の影で・・・月の影で

 月の影で・・・月の影で

          「ムーンシャドウ」

              キャット・スティーヴンス

  


 男は線路の上を歩いていた。寒い夜だったので、手を両方ともズボンのポケットに突っこんだまま、ゆっくり歩いていた。男を不安がらせていた月は、雲に隠れて、今、あたりは真の暗闇だった。くつ底をやわらかく押し返してくる枕木の感触だけがたよりだった。

「なんでまた、おれは歩かなくちゃならんのだ・・」

 男は唐突に歩くのをやめて、しばらく一本の枕木の上からうごかなかった。見上げるとぼんやり厚い雲が蔽っていて、月の潜んでいる雲の端が微かにオレンジ色に光っている。それから、またのろのろと歩き始めた。

「突っ立っててもしかたないし・・・・」

 静かすぎる夜だった。自分の足音を除けば、乾ききったススキの擦れ合う音だけが聞こえた。

 どれほど歩いたろうか。空が割れて月が出てきた。上空は風があるらしく、千切れた雲が流れていた。

 地上も活気を取り戻した。澄んだ月の光を浴びてそれぞれのかたちに塗られていく。

 男の歩む舞台に月は銀色の砂を撒きつづけた。

「ああ」男はため息をつく、「いやんなるよ」

 遠くで警笛が聞こえた。男は立ち止まり、耳を澄ませた。もう一度、ながぁい警笛が鳴って、同時に神経を痛めつける、あの鉄の圧力を感じることができた。

 それは彼の後方から迫るものだった。

「なんだ、うしろから来たのか・・」

 男は、今度こそもう二度と動こうとしなかった。でも、何が可笑しいのか、一人ニヤニヤ、ニヤニヤ、ニヤニヤ、ニヤニヤ、ニヤニヤ、

「歩いたぶんだけながく生きれるわけだ」



 警察署の地下にある霊安室にはおにぎりのブティックのオーナーが所在なげに一人で座っていた。青い縁取りの眼鏡をずり上げてキリコを見るとため息をつく。

「おいおい、たいへんだよ・・・」

「・・・かおはみれるの?」

「ああ・・」

 オーナーは顎をしゃくって折り畳み机の祭壇のほうを指す。蠟燭が二本、線香は短くなって消えかけている。ぼくとキリコは手を合わせることもせず回り込んで白木の棺に向かった。白い布の下には少し髪ののびたおにぎりの顔があった。足が一本亡くなったとはいえ綺麗な表情をしていた。おまえそんないい男だったか?

 男が二人入ってきた。くたびれたスーツ姿の中年といかにも新人の役人らしい若い男だ。

「いろいろと話をしてきました、えーとそちらは?」

 中年の男がぼくとキリコを怪訝な顔をして見ている。

「・・・友人です、ふたりとも」

 ぼくが答える。オーナーからキリコに連絡があって、キリコがぼくに泣きながら電話をしてきた。

「ああそうですか・・あの・・」

「それで・・・」オーナーが口をはさむ。

「あの、それでですね」若い男が言った。「葬儀はしません、火葬の手続きは役所の方でやらせてもらいます。あと少し時間がかかりますが・・・遺骨のほうはこちら・・あのお母さんのお兄さんにあたる方です・・引き取っていただきます」

これで説明は済んだ、とほっとしている。

「あの・・」キリコが意を決したように口を開いた。

「・・お骨をあた・・わたしに預からせていただけませんか?もし、よかったらわたしに・・」

「は?」おにぎりの伯父はあらためてキリコを見た。キリコは仕事帰り、涙で化粧は洗い流されていたがどう見たっていい印象はあたえない。まず紅く縮れた長い髪を、それからフェイクの毛皮のハーフコート、ラメの入った黒いドレスからレザーのニーハイブーツを疲れた目で順に追っている。だけどすがるようなキリコの視線に気が付くとあわてて目を逸らした。

「いや、あ、まあそれは・・・お断りします・・」

「キリコ、やめろ、そりゃむりだ」

 オーナーがきっぱりと、だが悲し気にそういった。


 もう閉めるからと全員追い出されかけたが、ぼくとキリコはあと一時間だけ居させてほしいとねばって、棺の前にパイプ椅子を並べて座っていた。三本の線香から上がる煙をぼんやりと眺めた。

「こいつ、オダギリって名前だったんだ」

「そうよ、なに、知らなかったの?」

「うん・・」

「オダギリコーゾーっていうの、偉そうでしょ」

「そうか、だから、おにぎり・・・」

「うん・・・」

 

 キリコの部屋に昇る階段のところでぼくは帰るつもりだった。プールでの一件以来ぼくらは一度も会っていない。重たい足どりで上がっていく彼女を見送りながら、じゃ、と言いかけたときキリコが振り向いた。

「また、あたしをおいていくの?」

 そう言って手を伸ばした。


 その夜、キリコをはじめて抱いた。ぼくの上で懸命に動いているキリコをなだめるように抱きしめた。ほっそりとした背中や震える肩は冷たい汗で濡れている。ここは静かで温かいが、部屋全体が息をひそめているような気がして、なにもかもがぼくらを断罪しているような気がして、凍るような寂しさから逃れるために、逆に外の世界を拒絶した。ぼくらはお互いのことをほとんど何も知らないまま、手探りで過ぎた年月を取り戻そうとしている。距離はなかなか縮まらなかったのだけど。キリコの強さと反抗心のおかげでぼくはかろうじて生きているようだった。キリコが塗り替えた世界は懐かしく、幼いころのリアルな手触りを思い出した。時間が引き延ばされていく感覚、とりあえず保留された安堵感。でもキリコにとってぼくは何だったのだろう。

 それから数か月、二人は付き合うことができた。

 つないだ手を振り払うように、春が来る前にキリコは突然いなくなった。ある日、からりと何もない部屋にカーテンのない窓から冷たい光が差し込んでいた。キリコの匂いが微かに漂っているだけで、なにもかも、どこかへ消えてしまった。

 ぼくのなかにぽっかりと大きな空白ができた。



 ひとりごと

○ぼくにとって重大なことが他人にとってはそれほどでもない。それだけ、彼らにとってはあたり前のことになっているのだ。ぼくが奇しくも他人よりすぐれていると思い込もうとしている部分は、しかし、くらべること自体まちがったことだし、それが重要なことなのかさえわからない。もちろん、ぼくにとってだけれど・・・・。

○ぼくは基本的なものを身につける前に、自分のなかへ帰ってきた。確かに人間には原形というものがあるのかもしれない。

○ぼくは発育しない、進歩する人間は論理をもっている。変化はする、つまり、それこそ成長するということだろうか。成長の先には衰退がある。

○ぼくには物語が必要だ。もう現実など語らない。

○溺れるように空をみる、硬い地面の上で。

○ものを書くこと、とくに小説は袋小路に迷い込む。かけばかくほど弁解せずにはいられなくなり、新しい言葉が必要になってくる。

○ネコを噛む。

○ぼくは女性が猫のようだとは言っていない、猫のような女性がいないかと思っているだけだ。

○キリコについて。観察すること。

○自然に生きるとはどういうことか? 時々、立って歩いている人間でさえ不自然で不安定に見えてくる。 

○価値のある生などない、価値のある死がないように。客観的にみればただ生きて死ぬことに意味などない。

○ぼくはいつでも失望する。おんなじことをくり返し、おんなじことで失望する。もういいかげんやめよう、失望することもある意味でおもしろいけど、すこし、いやらしい。

○何度も同じことを考えてきたが、本当に理解したときには実行できるものなのだと思う。

○言葉は論理のための道具ではない。一種の呪術的な力がある。そして女の方がそれをよく知っている。

○過去を彷徨っていると必ずどこかで落とし穴に落ち込む。いつか這い上がれなくなるかもしれない。ぼくは空だけ見上げて暮らすのだ。

○多種多様であること

○アラビアンナイトを4冊読んで、あと23冊もあることを思うとうれしくたまらんですよ。

○日曜日の朝には腐りかけのバナナを食べる、背後に迫るものが何であれ、この部屋で誰かの訪問を待つことにしよう



 ぼくはまた映画館のシートに沈み込む日々を送り始めた。【真夏の夜のロック大会】、徹夜で懐かしいタイトルが並ぶ。目の前では「ギミーシェルター」をやっている。      

 ぼくが最初にミックジャガーの動いている姿を観たのは、ロンドン、ハイドパークでのコンサートフィルムでだった。謎の死を遂げたもとメンバーのブライアン・ジョーンズの追悼コンサートは、彼の詩の朗読で始まるのだ。花のようなフリルのついた白い衣装を身に着けたミックは、女のそれより刺激的で肉感的な紅い唇で、古い、美しい詩を読むのだった。だけど、死者のいる遠い空を見やる彼は、とても邪悪な冷たい目をしていたっけ。ミックの唇はあたしの性的体験の始まりなの、女の子は彼のポスターに口づけするのだ。荒っぽいギターのリフにのって、しなやかに肢体をくねらせて歌うミック。″俺はハリケーンの最中に生まれた、俺は歯の抜けたヒゲのババアに育てられ、ムチの跡を体中につけて学校に通ったんだ・・・″ミックジャガーは踊っているわけではない。てんかん患者のように痙攣的、衝動的に動き回る。纏わりつくものをすべて振り払うように手足をバタつかせる。俺に触れるな、俺に構うな、激しい音にもかかわらず、世界はある種の静けさで満たされる。

 ロックと映像、刺激的な音はへたなセリフより説得力を持つ。「イージーライダー」、音楽があって、二人のきたない若者とへんな格好のバイク、つぎつぎと風に飛ばされていく風景、それだけの映画なのだがそれだけでいいのだ。若いアメリカと古いアメリカ間の断絶はすさまじく惨たらしい。しかし、むしろぼくは、最後に若者たちが、理解のないバカな大人たちに撃ち殺されるシーン、というのはない方がよかったと思っている。その後の時代を生きてきたぼくたちにとって、あのままなにごともなく果てしない荒野を丘を越えて走り去る恐怖のほうがなじみ深いのだと思う。

 「ウッドストック」これはやはり、なんというかいい映画なのだ。死者三人、負傷者五千人、出産が二件、集まった若者40万人。ただ人間を映しているだけでもう絵になってしまう。雨が降ろうが、風が吹こうが、人が死のうが、軍隊がこようが、なんにもない丘の上で若い男と女とそれと信じられないほどたくさんの子供たちがシンから楽しそうに群れている。ステージの上に積み上げられたスピーカからながれてくる音楽は、結局、彼らのためのBGMにすぎなかったのかもしれない。会場周辺の大人たちの反応がまたおもしろい。畑を荒らされた農夫がニガリきって、あのガキどものおかげでおれは大損害だと、差し出されたマイクに向かって喚いているのに、その周りをバケツを下げた女の子たちがうろうろしながら、ねえ、お水わけてちょーだい、ニコリともしないで声をかける。近くの町中でじいさん同士が口論している。「あいつら、無法者だ、人の物は盗む、麻薬はやる、男と女がざこ寝して平気な顔をしてやがる」「いや、彼らは悪い奴らじゃない、戦争に反対するために集まってるんだ、理解してやらなけりゃいかん」「ばかな!14、15の女の子がマリファナ吸って男とねているんだゾ」「私の見たところマリファナなんか吸ってなかった、お前は戦争に賛成なのか?」「14、15の女の子がーー」いつまでも平行線だ。でも、カメラは映し出してゆく。若者たちは、もちろんマリファナを吸っているし、全裸で歩き回り、池で泳ぎ、草むらでセックスする。そして、ステージの上での反ベトナム戦争の演説に拍手し、何万本ものピースサインはけっして冗談なんかじゃないのだ。でも、ウッドストックで起こっていたことは、そんなことよりもっと、なにかたいへんなことだったような気がする。一人の青年がニューヨークの友達に電話している。「おい、ちょっと来てみろよ、すごいぜ、いいから来いよ、どっからでも入れるんだ」なにか、とてつもなく可笑しくて、皮肉な意味でなく平和があったのだと思う。

時間を止めることは誰にもできない。あの若者たちは今何をしているのだろう。コンサートに土地を提供した年老いた農夫が、ステージの上から呼びかけるシーンがある、「君たちはすばらしい若者たちだーーー」

 ひょっとすると、あの時から悲劇は始まっていたのではないですか?

 「モンタレー・ポップ・フェスティバル」ザ・フーは、自分らの世代を叫びながら、ギターを床に叩きつけドラムセットをけり倒してぶっ壊した。そんならってんで、ジミ・ヘンドリックスはオイルをひっかけて燃してしまった。ぼくが、やっとロックミュージックがどんなものか少しわかりだした頃、それらのできごとはすでに伝説になっていた。ローリングストーンズは『たかがロックンロールだぜ‼』って歌う。自分らを主張することと、やんわり否定してしまうことを同時にやっている。最初から目の前には厚い壁があって、迂回するのも登っていくのも拒否した若者は彼らに共感する。今、壁は巧妙に偽装されて柔らかくなり、けばけばしい立派な門さえ作られた。ロックという張りぼての看板にぶちまけられた精液は急速に冷えていく。だけど、それでも尚したたかで寛容な子宮のなかで生まれてきたのがパンクなのか?自らを傷つけることで浄化する聖人たちだ。ジミヘンは死んだ、ジムモリソンもマークボランも死んだ、シド・ヴィシャスは還らない、スターになってしまったカート・コバーンは、もう歌うことができないとショットガンで頭を打ちぬいた。死よりも気持ちのいいものは結局見つからなかったのだろうか。

 ずいぶん昔、ボブディランが来日した時、何に怒りを感じ何に不満を持つかと問われた。彼は、今は何もない、と言った。そして、これから訴えてゆくことは、ラブだけだと答えた。愛についてはうまく語れない。ぼくには、大きな愛と小さな愛の区別がどうにもつけられそうにない。たぶん、彼は最初から愛について歌っていたのだと思う。そして、ノーベル文学賞を受賞した。

 「トミー」の途中からぼくは映画館をでた。ザ・フーの傑作ロックオペラ。幼いトミーは母親の殺人を目撃してしまう。あなたは何も見ていない、何も聞いていない、誰にもしゃべっちゃいけない!と言い聞かされたトミーは、何も見えない、何も聞こえない、何も話せない人形のような青年になる。ただトミーの心の中には悲し気な詩がいつも流れている。

「see me….feel me….touch me….heal me……」

 その後の展開を知っていたぼくは、トミーの崩壊をまた目撃するのがいやで外に出る。心を閉ざしてネオン街をふらふら歩いていても、ぼくはどうにか無事に家に帰りつくことができる。車の窓から猟銃を構えてくるバカな大人に撃ち殺されるかわりに、薄笑いを浮かべた客引きの兄ちゃんに腕を引っ張られてよろけるのが精一杯の今日このごろだ。


 

 シャツといっしょに洗たくしてしまった千円札を、ガラス窓にていねいに指で延ばしながら貼り付けてゆく。頭が痛い。今朝、目が覚めたとたん、やばいと思って、今日やらなくてもいいことを一つ一つ数え上げた。午前中に洗たくだけはしとかなくちゃならない。もう着るものがないし、明日はいそがしい。それから午後はお仕事に行かなくちゃネ、食べるためだもの、いや、それだけじゃないよ、寝る場所はやっぱり必要だし、何故かうちにいて、ちかごろ不平不満の多いブルーバードにも食わせてやらんと。さいきんは鉢植えの花なんかもあったりして。水しかやらんけど。名前、なんていうんだっけ。お酒も飲みたいしね、ゆうべみたいに。

 今日はべつにあれだから、仕事、適当にサボレるかもしれない。急いでどうなる仕事じゃないし。いや、いかんな、速攻やるべきかな。首が突っ張る、肩がこってるみたいだ。変な夢みたしな。もう、ギロチンにかけられたものな。コロコロ転がる自分の首が見えたっけ。じゃぼくの意識は首から下にあるわけか。なんとなく、なんとなくだよ。みょうに納得。

 仕事にいくときゃチャリンコに限る。お気に召すまま、こけのむすまま。今日みたいにやる気のない日は、二日酔いのでんでんむしになる。ぼくの好きなのはエリス通り。エリス家の桜は散ってしまったけど、ひとときは道いっぱいにピンクの雨が降っていた。けして開いたことのないカーテンの向こうには、キャシーかマリーかジェーンがすんでるかもしれない。しかも、白髪のじいさんと二人きりでだ。あと、でかい犬と、国産の若い家政婦が一人いてもいい。春うららの昼下がり、14才のキャシーが老人と犬に英字新聞を読んできかせている。キミちゃん(家政婦の名前です)は、台所で豆を煮ながら、アガサクリスティに夢中になっているのだ。いまいちおもしろくねーかな。キミちゃんをどう生かすかがポイントだろ。でも、あくまで気立てのいい、のん気で明るい娘という線はゆずれない。ぼくは頭がいたいのだ。

「荒涼として荒涼と、荒涼たり」 職場のロッカールームに入るたび、この言葉を思い出す。自分のロッカーの扉を開けるときには、もう天を仰ぎ涙を流さんばかりだ。それにしてもなんて狭いロッカーなんだ。

 えりの汚れた作業着を着込んだぼくは階段をあがる。エレベーターは使いたくない。いきなり扉がひらいて、はい、仕事です、今日も一日ガンバリマショー、なんてのはかんべんしてほしい。ぼくは、一歩一歩、階段を上っていくのだ。ようするに、だめなんだろうかぼくは。ヨースルニとぼくはいつも考える。要するになんなのだ。そのくせ、なんにもヨーしてないのだ。ヨースルニ、ヨースルニ、時間かせぎのヨースルニ。



『 前略、いろいろ考えた末、やっぱり手紙を書くことにします。どこかで会って話をしてみるのもいいですが、口に出すとやっぱりね、自分の言っていることがどんどん遠くに離れていくようでいやなの。でも、文章にするとつい噓をつきたくなるから気を付けなくちゃ。

 あたし、あなたのことがずっと好きでした、過去形になっていてごめんなさい、でもあたし昔のことを思い出していたの。ずっとずっと前から、あなたに見られていることを意識し始めてから、あなたはあたしの支えだったの。学校から帰ると急いで鏡をのぞくの、あたしはそんなに魅力的なのかしら?変じゃないかしら?うしろから見るとあたしの背中ってどうみえるの?そしてそんなとき、あたしの眼はキラキラ輝いていたわ。でも、あたしはやらなくちゃいけないことがたくさんあった。あなたはとうとう一言も声を掛けちゃくれなかったし。

 あなたのことは今でも嫌いじゃありません。う~ん、ちょっといやないい方ね、でも仕方ないの、考えてみるとね、あたしのキライナ人というのがいったいいたのかしら。あたしの前で、生身で息をしていて、あたしに本当に嫌われた人は一人としていないんじゃないかしら。みんな、嫌いになれるほど強そうには見えないのです。あなたを含めてみんな、とっても無理をしているような気がするわ。そういった意味で、あたしは自分のことも嫌いになれません。自己嫌悪なんて甘ったるくて、砂糖を入れすぎたコーヒーみたいに思えるのはあたしだけじゃないでしょ?かといって人は自分のことしか愛せないなんてとんでもない話よ。自分のことだけ本当に嫌いになれるものだと思うの。だって、一番よく知ってる人だもの。正直にいうと、あたし、じぶんやあなたを好きでもきらいでもないんです。正直にいうと、あたしは自分を好きになれるよう努力しています。昔も今もずっとあたしは自分が可愛くてたまらなかったわ、だけど、昔は、かすかにでも誇りをもってそれができたような気がする。

 あなたのおかげでもあるのよ。今は、みじめで、いらだたしいだけなの。

 でもね、そんなに悲観してるわけじゃないの、よくしたもので自分にアイソをつかしていれば、他人がどうしようと気にならないし、人を好きになることもできないみたい。自分に自信がないと誰のことだって本気で好きになれないの、たぶんね・・・

 あたしたち、あれから、おにぎり君のこと一言も話し合ったことなかったよね?あなたが知っていること、あたしが知っていること、お互いに秘密にしてたよね?それでよかったの?たぶん、よかったのよね、ひとつだけ言っておきたいの、あなたは大丈夫、そしてあたしも大丈夫よ、この意味わかるわよね?

 ねえ、もっと書きたいことがいっぱいあったはずなのに、なんにも思い出せないわ。あたしはずっと大事なことを忘れてしまって、なにかを思い出そうとして終わるのね。そうそう、あなたはまた詩とかかいてるの?昔のことを小説に書いたりしてるの?なにか創作できる人って運がいいわ。そうでないと不幸だもの。みんな自分自身を作品にするしかないし、生きなければならないし、それはおそらく満足のいくようなものじゃないからよ。あたしはどっち、なんになりたいの?ばかみたい、あたしはあたしでしかないのよね。

 あのなつかしいボロっちい映画館にまだ通ってる?いっしょにみた「欲望という名の電車」憶えてる?

「真実なんて大嫌い、魔法がいいんですよ・・・・あかりをつけないで!」

 ブランチのセリフね、いちばん好きなトコ。ねえ、あたしたち、五年後に心中することに決めてたら、もっとちゃんと生きてゆけたかしら?

 ごめんなさい、あなたへの皮肉じゃないのよ、自分についてなの、この手紙も含めてネ、あたし、いま、わりと幸福なの、でも実感がわかない、実感のない苦しみはにせものなの?

 どうしてあたしの部屋で一緒に住んでくれなかったの?あなたの部屋にだって一度行ったきりだった。あのネコちゃん、そうチエちゃん元気?あたし嫌われてた?

 もう、よすわ、あたしの言ったり書いたりしたこと、あまり気にしないでね、あたしのためいきの一つ一つに意味があるなんて思わないでね、おねがいよ、たぶん、もう、ずっと、会えない、いや、またいつか、うーん、そんなことわからないわ、        さようなら。      

                     キリコとモモ          』



 ある男の話をしよう。誰にでもあることだとは思わない。なぜなら、彼の頭のなかの出来事だから。彼は、自分の頭のなかにたいへん興味をもっていた。一日中、頭のなかのことを想像したり、感じたりして過ごすこともあった。時々、夢中になりすぎて、目玉を内側に向けたまま、じっと動かなくなった。そんな時は、いつも、まわりにいる誰かに肩を小突かれるか、耳もとで大声をあげられるかして正気にもどる。だれもが、なにをぼんやりしてんだ、と言った。彼は、ただ笑って、ああ、ちょっと考えごとしてたんだ、と言った。

 男は、いつも、なにか考えているように見えないこともなかった。考えることなんかなにもないし、考えたくもないのに。

 実は、男の頭のなかは、からっぽで、文字どおりのからっぽで、そう、出来の悪いアンパンみたいに隙間があって、そこを一個のまあるい鉛の玉がころがっていた。

 頭の中の空洞は歪んだ半球体をしていた。鉛の玉は、なめらかな底のカベをコロクロとかすかな音をたててころがるのだった。彼にとって、それは、とても心地よい感覚なのだ。エロティックだといってもいい。カコン、クンコ、コ、クン、コツン、トココ。頭がい骨の内側に玉があたる音です。

 彼が最初に意識したのは、サクランボくらいの大きさの鉛の玉だけだった。それから、鉛の玉が自由にころがることを知り、かべとの軽い接触の感じをたよりに、今では、空洞の内壁のどんな小さな窪みも、髪の毛がはりついたような細いひび割れも、指先でなぞるように知覚することができる。

ある日、空洞の底に穴が開いていた。最初の時と同じように突然、円形の底のどこかに、サクランボくらいの大きさの穴が開いた。さらに意識を集中させると、その穴は、彼の中心へと、空白へと真っすぐに通じていることがわかった。鉛の玉が穴に落ちるとどうなる?ぼくは死ぬのか?発狂するのか?解放されるのか?

 男の意識内における空洞の意味が少し変化した。彼は、しばらく、穴をうまく避けながら球をころがして遊ぶことに夢中になった。スリルのあるゲームだったといえるだろう。でも、本当は、ゲームなんて、好きでもなんでもないのだ。自分がゲーム向きの人間じゃないことぐらいわかっている。

 そのうち、穴の存在を忘れるようになってきた。


男は、また以前のように、空洞のかべと鉛の玉が小突き合うときの、あの秘密めいた快楽に耽るようになった。最も感覚の鋭い眼球の裏側あたりに球があたるとき、男はネコの集中力をもって、つま先まで一本の針のように緊張するのだ。逆に、後頭部の深い淵へと意識を誘い込むと、なんとも言えない気の遠くなるような、なつかしい気分に襲われることがあった。あの木立の中の小さな砂場へ帰って、アジサイの根かたに埋めてきた、どうしようもなく切ない思い出の断片を捜すのだ。雨にうたれるつばめや流れる浮草、手首に吸い付いたヒルの鮮やかな縞模様、あぜ道を並んで走り去る野犬の群れ、木によじ登るアブラゼミ、顔を洗うシオカラトンボ、葡萄のつるを滑り落ちる水滴、水道管を蔽う柔らかな緑色の苔、ガラス瓶に入れたカミキリ虫の細い鳴き声。

                                             

                      了

                      

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穴に関するノート かいとおる @kaitorupan

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