嘘も時間も飛んでくれ

三神スナ

【完結】嘘も時間も飛んでくれ

 

ここ半年ほどの生活といえば、部屋の隅でやる気なく縮こまるか、死んだように横になり過ごすかのどちらかであった。いつかに買い替えたスマートフォンは、据え置かれた漬物石のように変わり果て、外界から断ち切られた今の私の姿は、とてもではないが、人様にお見せできる代物ではなかった。何もかもに無気力だった。普段は、目の上ほどで切りそろえられている黒い髪も、今は、黒い瞳を持つ両目を隠してしまうほどに伸びていた。変わらない日常で、変わったものはその程度だった。一日の過ごし方も、食べる物も、眠りにつく時間も、暇つぶしも、何もかもが半年前から全く同じだった。声の出し方など、忘れてしまったのではないかと思うほどだった。いつかどこかの漫画で、似たような境遇の人物が、『試しに大声を出してみたところ、隣の部屋から怒鳴られた。』という逸話を思い出した。そんな愚かしいことはしない。しかし最近、人前では喋れなくなったように思う。昔より愛想笑いが増えたのだ。大人になったから。ロックスターは、二十七歳で死ぬという。私はいつまでこうして生き続けなければならないのだろうか。目を瞑る。口を紡ぐ。スマートフォンに通知が来る。


 

「だからね、こういう貴重な今の時間を無駄にしてほしくないのよ。」

今日は、久しぶりに外出したように思う。よく伝記小説にあるような、『久しぶりに外に出たら季節感を間違えてしまった。』というような、ありきたりな失敗など、起きるわけもなく。久方ぶりのスーツに袖を通し、昼の十一時を過ぎようかというところで自宅を後にした。一昨日、自分のスマートフォンを光らせることになった通知は、人事部長からの昼食のお誘いであった。特段の事情もなく、ましてや人事部長からの連絡を断れるはずもなく、憂鬱感に堪えながら、私は連絡を即断即決で了承し返答した。それから当日までの二日間は、実に憂鬱な二日間だった。何をするでもなく無垢に二日間を過ごしたし、代わり映えのしない日常そのものだった。自宅を出て、最寄り駅であるJR南武線沿いのJR中野島駅まで歩き、川崎方面行の下り列車に乗り込む。外の音は聞きたくなかったので、イヤホンで耳をふさぎ、音楽を聴いていた。JR中野島駅からわずかに一駅先、JR登戸駅で下車し、中央改札口から出で、自動改札をくぐる。待ち合わせ場所に指定されていた中央改札前の広場には、約束したはずの時間である十一時四十五分から、まだ十分前にもかかわらず、すでに件の人事部長がお待ちになられていた。

「…お疲れ様です。」

 自分の中では、それなりに愛想よく挨拶したつもりだった。人事部長がどんな顔をしていたのかは、うつむいていたのでわからない。人事部長からは、準備万端とばかりに「行こうか。」と言われ、半歩後ろをついて歩いた。昼食をとる場所は、まだ決まっていなかったらしく、暫しの無言の後、前を歩く人事部長から「この辺りは、中華か和食のお店がおすすめだよ。」と言われた。心底どちらでもよかった。しかし昼食の選択権は、どうやらこちら側にあるようだったらしく、慌てて考える。どちらでもいいことなのに、ひどく大事なことのように思えた。果たしてどっちが正解なのだろう。人事部長は、どっちを食べたいのだろうか。どっちの気分なのだろうか。怖くて一瞬だけ目をつむり、私は正解が曖昧なまま、心細く中華を選んだ。とにかく帰りたかった。億劫だったし、面倒だったし、何よりも嫌だった。肝心の選ばれた中華店の店内は、木造で雰囲気の良い場所だった。愛想も良い店員さんに促されるまま、私たちは四人席に着いた。向かいに座った人事部長と私の元へ、おしぼりとお冷が渡される。

「最近、どんな感じなの。」

 人事部長は、開口一番といった具合だったが、自分からしてみれば、どんな感じも何もなかった。「特に何もしていません。ただ横になって寝たり、暇になったらゲームしたり、いろいろ時間つぶししています。」とは、さすがに言えなかった。口ごもる。悪い癖だった。いつも優柔不断で生きてきたから、癖になっているのだ。先ほどお店を選んだ時のように、頭を一生懸命に巡らす。

「…そう、ですね、最近は調子もよくて、二週に一回のペースで、通院している感じです。はい。」

 嘘をつくときは、『真実に少しだけ嘘を混ぜるといい』と、どこかで聞いたことがある。意識したことはなかったが、ちょっとだけ嘘を混ぜて喋ったら、思いのほかすらすらと喋れた。嘘をついた部分は、言うまでもなく『最近は調子がいい』という部分である。人事部長は二、三回頷いて、満足そうにしていた。どうやら最初の入りとしては、総合的にはまずまずのようだった。ひそかに胸をなでおろす。そこからは、他愛もない質疑応答だった。「休みの間は何しているの。」とか、「これからどう考えているのか。」とか、ほとんど就活の面接のような状態だった。日替わりメニューで注文した『和栗と牛肉のチャーハン』は、普通サイズだったが、普段から一日に一、二食しか食べていない自分にとっては、信じられないほど多く思えた。チャーハンに手を付け始めてからすぐ、自分はまだ半分ほどしか食べ終えられていない状態で、人事部長は、軽々とお昼を平らげ「ゆっくりでいいよ。」と言ってくれた。お昼を急いで食べることなど、社会人の基本中の基本なのに、そんなことすらもできない自分が、ひどく惨めに思えた。相手を待たせないように、ある程度サイズ感のわかるチャーハンを注文したつもりだったが、とんだ外れくじだった。結局それからは、話のほうも特に何も進展がないまま時は流れ、ただただ、人事部長にお昼をご馳走になって解散という形になった。中央改札前広場で人事部長と別れて、せっかく外出したのだから、このまま映画でも見て帰ろうかと考えたが、調べているうちに面倒になり、最終的には自宅へ直帰した。最寄りのJR中野島駅からわずかに片道五分、自宅に帰りつくと、すぐに着替えて横になった。別に疲れているわけではないし、まったく眠たくもなかったが、生きている中で一番楽な体勢が、横になることだったから仕方がない。手を前に組んだまま眠ると、悪夢を見るらしい。よく悪夢にうなされるが、大抵は、妙にリアリティのあるものだった。正確には、悪い夢ではないから、悪夢ではないのかもしれない。実家で穏やかに暮らしているだとか、夢中になってギターの練習をしているだとか、声優になってメジャーデビューしているだとか、そういう空想の世界の夢だった。あったかもしれないけれど、すでに諦めてしまった。そういう世界の夢をよく見る。目覚めた時のあの感覚は、形容しがたいものがある。酷い感覚なのだ。そうして今日も一日を無駄にして、怠惰と絶望を小さな世界で巻き起こし、私は眠るのだ。



 『好奇心は猫を殺す。』とは有名な西洋の諺である。昔から慎重で臆病なくせに、好奇心だけはあったように思う。猫は、九つの命を持つといわれている。会社からの帰り道、車も通行できないような、学生の登校区間を歩いていると、よく猫に出くわした。夜更け、終電も近いような時間でさえ見かけた。白いやつから、黒いやつから、斑のやつまで、目の前を駆け抜けていく。社会人にもなっても道端の猫を追いかけるような、いじらしい性根は待ち合わせていないので、当然すべて無視した。ただ、見かけるたびに思うのだ。本当に猫は、九つも命を持っているのだろうか。と、確認するには猫を殺すしかない。無論、そんな無礼を働く野蛮な人間に待っているのは、世論の非常な非難の声と、然るべき法的措置なのだが、この場合、問題はそこではないだろう。そういえばと思う。実家にいるあの猫は、まだ元気にしているだろうか。新卒で福岡から上京してから四年、ここ二年は、実家にすら帰っていなかったが、あの白と黒が斑に入った、愛想の良い好奇心旺盛な猫は、まだしっかり実家で生きているだろうか。好奇心が旺盛な部分は同じだったが、人の顔色を見て生きるような臆病なやつではなかった。そこだけは、自分とはまるで違った感性を持っていた。愛らしい、人に愛される猫だった。自分が人に愛されていたのは、いつ頃までだっただろうか。思い出すのはもう難しい。本当に愛されていたかどうかなど、知る必要はないのかもしれない。好奇心だけで物事に関わると、真っ当な目に合わない。それは、この少ない社会人生活で、自分が身に着けた処世術だった。好奇心は猫を殺す。百年前なのか千年前なのか知らないが、そう考えると、『好奇心は猫を殺す。』とは、中々に面白い諺であるように思えた。私は、猫を無視して会社帰りの夜道を歩く。カバンから自宅のカギを取り出す。時刻はとっくに深夜1時を過ぎていた。



 あの当時は、激情に駆られて生きていた。表現者じゃあるまいし、世間に向けて発信することなどついぞなかったが、いつも激情に駆られて生きていた。その日は、社内向けシステムのリリース日だった。自分が担当していた箇所の、開発と試験の工程はすでに済ませていたが、残念ながらその本質は、とてもではないが、自分の知識量だけで解決できる代物ではなかった。それは結果として、就業時間のギリギリにバグが見つかる、という最悪の形で露呈することになり、改修作業だけで泊まり込みの徹夜が確定した。終電で帰ることは珍しくなかったが、徹夜は、さすがに初めてだった。新人だった自分が、直接上司や周りから怒られることはなかったが、当の先輩や上司は、ついに愛想をつかせた様子だった。そこから四、五時間ほど、上司が改修作業を行っている傍らに立ち、無言で画面を見つめ続けているだけの、拷問のような時間が続いた。その時にいよいよ、限界を感じたのだった。会社を辞めようと思った。連日にわたる残業で、月次の定められていた既定の残業時間は大幅に超過し、余りを次の月に繰り越して清算する。という火の車状態だった。それなのにも関わらず、自分よりも仕事のできる先輩や上司たちは、さらに残業時間を伸ばしていた。このまま仕事を覚えていったところで、仕事をこなせるようになるどころか、残業時間が増え続けるだけなのは、火を見るよりも明らかだった。いきなり直接は言えなかった。土日を挟んだ月曜日、就業時間外でチーフマネージャーを捕まえ、相談したいことがあると切り出した。

「…すみません、これまでお世話になったのですが、…会社を辞めさせていただきたく、ご相談させていただきました。」

 このたった一言を切り出すのに、本当に五分以上かかった。その間は、お互いずっと無言だった。狭い共有スペースで向かい合わせに座り、チーフマネージャーは、私が口火を切るのをじっと待っていた。喜怒哀楽の表現が薄く、イエスマンとして生きてきた自分の中にあった激情があふれ出した。泣くのを抑えられなかったし、最後には、泣きながら言葉を言い放った。この時の感情も言葉で説明するのは難しい。それは、あんなにも羨望していた、社会人というものに対する怒りでもあり、作業一つ真面目にこなせなかった、自分への不甲斐なさでもあり、社会の仕組みに対するアンチテーゼでもあった。先輩や上司の見えない圧力に、日夜さらされ続け、心身ともにボロボロだった中で、チーフマネージャーは、唯一といっていいほど、私が好感を持っていた人物であった。それだけに、相談内容がこんなことで、ただただ申し訳なさと心苦しさがあった。その日は、チーフマネージャーが話を持ち帰るということになり、後日、自分は休職という扱いで仕事を休むことになった。それから約半年ほど、もう心の中の激情は、何も残っていない。



 土曜日の朝の電車に乗り込むと、実にいろいろな人がいるということを、実感することができる。あるいはもしかしたら、地元の福岡でも同じような景色が見られたのかもしれないが、福岡から上京して関東圏に住まいを構えてからは、さらにそう思うようになった。制服を着こんで単語帳を見つめる女子高生、朝帰りして泥酔したまま眠りこけている若い男、スーツを着た中年の男、朝から家族でどこかへ出かけているらしい親子、そして私。ここにも小さな世界が広がっているのだ。列車が一度止まれば、女子高生がいなくなる。もう一度止まれば、中年の男がいなくなる。それに入れ替わるように、大学生くらいのカップルと、三人組の外国人が現れた。目をつむる。頭の中を渦巻く思考は、明瞭になることはなく、ただ物言わぬまま沈殿していくだけだった。意識がはっきりしないまま俯く。これでは泥酔しているのと変わらない。電車に乗っているのだから、酔っているのだろう。顔を上げて次の駅を確認する。まだたったの二駅しか進んでいなかった。目を瞑る。十円玉が回っている。回したのは自分だった。人差し指を畳み、十円玉をセットする。腕を軽く振り上げて十円玉を弾く。十円玉は宙を舞う。何もかもがゆっくりとなる。車窓も、呼吸も、間延びしていく。女子高生が回る。踊るように、くるくる回る。ターンの速度は、徐々に上がっていく。視界が揺れる。激しくなる。回って、回って、回って、回って、呼吸も浅くなっていく。短くなる。動悸がする。鼓動がやけに大きく聞こえる。耳鳴りが加速する。加速して、加速して、そして、そしてゆっくり目を開ける。泥酔していた若い男は、いつの間にかいなくなっていた。休日出勤中の自分が乗り合わせている車両に、車内放送が流れる。

「まもなく、終点、川崎です。」



 この世で一番うれしかった日のことを、あなたは覚えているだろうか。私は、忘れもしない。あの戸籍上は、母親と称される人間が、家を出ていったときである。まさかあれほどの夢のような瞬間が、人生で訪れようなどとは思いもしなかった。母親の部屋の前を通るときは、絶対に足音を鳴らしてはならない。目が覚めてしまったら殴られるから。基本的に目を合わせないほうがいい。野次られるから。弟と二人兄弟だったが、父と母がどんな関係で、家庭内の雰囲気が、どんな状態だったのかなど、想像に難くないだろう。ある時、玄関口で母親が、誰かと話し込んでいる場面に遭遇したことがあった。私は、変な怒りがこちらに飛び火しないように、部屋の隅に潜んでいたが、不意に呼びつけられて玄関口へと向かった。部屋には入らず、玄関口に立っていたのは若めの男女二人組だった。どちらも小綺麗な黒いスーツを着込んでいたのを覚えている。

「お母さんとは、どんな感じですか。」

 開口一番にそんなことを聞かれた。母親を見ると、こちらを見て不自然なほどにっこりと笑い、優しい口調で「本当のことを言いなさい。」と言ってきた。この時が、人生で一番思考を巡らせた瞬間だったと思う。ここで本当のことを話せば、また私は、殴られるに違いない。何とか体裁を保たなければと。何とか。何とか。当時、中学一年生くらいだったと思うが、そこまではっきり考えていたことを、未だに覚えている。

「…とても素晴らしい母親だと思います。はい。」

 刹那の無言の後、若干十三歳の口から出た言葉は、そんな言葉だった。結局その後、来客者がその場を立ち去った後に、「あんないい方したら、何かしていると思われるだろうが。」と言われ殴られたのだが、今にして思い返してみれば、あれは児童相談所の職員だったのだ。事の真相に気が付いたのは、高校生になった後だった。そんな母親が、ある朝、家を出ていった。部屋には母親の姿がなく、父親に尋ねると、素っ気なく「出ていった。」と言われた。この瞬間も、形容するのは実に難しい。よくアニメやドラマでは、悲しいシーンとして扱われることが多いが、実際はそんなことはない。雄叫びをあげ、地団太を踏み、飛び跳ねながら、弟とこの日を喜び合った。忘れもしない一日である。だから、私と世間とではズレがある。母親がいないと悲しいと思われるのだが、私の中では良い話なのだから仕方がない。こういうズレを、社会人になってからも何度も感じてきた。みんなが笑っているようなところで笑えない。周りのような社会貢献や上昇志向な考えが持てない。現状維持することが精いっぱいの自分には、このズレを埋めるのは不可能だった。この世で最も嬉しかった日、この日のズレが、自分が社会に馴染めなかった一旦といえよう。



 人生でやり直せる機会があったら、いったいどこでやり直すだろうか。これは持論なのだが、おそらく、すでに起きてしまった出来事を変えることは難しいと思う。例えば、人事部長との昼食の場面にタイムリープしたとしても、きっと同じ性格や死生観を持ったままでは、同じようなやり取りだけして終わることになると思うし、自分一人で解決できるような事象でなければ、タイムリープして現実を改変する事など出来はしないと思う。事のきっかけは、スマートフォンからの突然の呼び出し音だった。画面をみる。相手は、元々大学時代に働いていたバイト先の一つ年下の先輩だった。呼び出しに応じるかは、ほんの少しだけ迷った。迷ったそれは、純粋に面倒に感じたからである。バイトを辞めた後でも、それなりに付き合いはあった。四半期に一回は一緒にご飯に出かけていたし、定期的に連絡も取り合っていた。しかし自分が会社を休職してからの半年間ほどは、ほとんど連絡らしい連絡は取り合っていなかった。鳴り続けるスマートフォン。時刻は【二十時半】、日付は【二〇二二年十一月十七日】を表示していた。逡巡。躊躇。それでも最後には、仕方なく、通話ボタンに手をかけたのだった。

「…はい、もしもし。」

『うぉ!ホントに出た!お疲れ様です!お元気ですか!』

「…元気ですよ。先輩どうしたんですか。」

 相変わらず、テンションの高い話し方だった。先輩は、とても気さくな方だった。人前だからというのももちろんあるのだろうが、嘘などつくことがないような、純粋な人だった。純粋なエピソードにも事欠かないが「自分のほうが年下なのだから、敬語をやめてくれ。」としきりに言ってくるような、上下関係を感じさせない柔和な雰囲気を持ち、泣き顔などほとんど見たことがないような、あまり恵まれなかった人間関係の中でも、手放しで称賛できる女性だった。バイト先での経験歴は、先輩のほうが自分より一年ほど長かったが、ゲーマーという趣味が高じて親しくなった。

『いや実はさ、明日発売のゲームが楽しみで待ちきれなくてさ!同じゲーマーのよしみで、キミに電話を掛けちゃったわけだよ!新作のゲームソフトだよ!もちろんキミも買うよね?』

「…まあ買います一応。過去作のシリーズは、ほとんどやっていましたし。」

『お!いいね!じゃあさ!明日、通話しながら同時進行で新作ゲームやろうよ!ね!いいでしょ!』

 ほとんど一方的な取り決めだったが、こういうぐいぐい来るパーソナルスペースの狭さも、先輩を語るうえで欠かさない要素の一つだった。新作ゲームを一緒にプレイするという先輩からのお誘いは、それは魅力的ではあったものの、ただし正直なところ、乗り気はしなかった。理由は、いくつかある。ゲームなのだから、自分のペースでプレイしたかったというのと、それに何より、単純に先輩と自分とでは、ゲーマーとしての質が違いすぎたこともあった。会話する分には問題ないが、実際にプレイするとなると、ゲームに対するやりこみ具合に大きな開きがあった。それに、これが実際のところ、一番大きい部分を占めていたのだが、社会人相手の先輩に、仕事を休んでいる自分が、一緒にゲームするのが情けなく感じられて、嘘をついているような気分にさせられてしまうのが、憚られる理由の一つだった。しかし相手は先輩で、断るのもそれはそれで憚られたし、理由なく断ることを変に思われたくなかったのもあったので、私は内心では渋々、先輩の提案を了承したのだった。通話は、たったそれだけの、三十秒にも満たない短い内容だったが、この内容が、次第に事を大きく運び始めることになる。

次の日【二〇二二年十一月十八日】、仕事も休んで一日中眠っていた私を覚醒させたのは、部屋のインターホンの音だった。家は、社宅で借り上げたマンションの一室を借りており、オートロック付きで家賃補助まであるという好待遇ぶりであった。インターホンのモニターから配達員を視認してから解錠し、玄関で受け渡しのサインだけして、物品を受け取った。荷物を運んできてくれた配達員さんの姿を見るだけで、働いていない自分がひどく惨めに思えた。受け取った小さめの段ボールの中には、今日発売されたばかりの新作ゲームソフトが、丁寧に入っていた。壁に掛けてあるアナログ時計を確認する。時刻は、ちょうど【一五時十分】といったところだった。社会人の先輩は、きっとまだ仕事中だろう。先輩には申し訳ないが、自分はちょっと早めにゲームを触らせてもらうことにする。丁寧に封をほどき、カセットを取り出す。最新式の家庭用ハード機に、ゲームソフトを詰めて起動するまで、五分もかからなかった。椅子に座ってモニターを眺める。起動音。そしてここで一度、記憶が途切れることになる。



 次に目が覚めた時は、カフェの一席に座っていた。綺麗でサッパリとしていて、人もそれほど込み合っていない。閑散とした店内には、世間を賑わせている流行りの映画の主題歌が流れている。窓際の席からは、オフィス街を忙しそうに歩く老若男女と、西鉄バスの到着を、いまかいまかと待ちわびている人々の姿で溢れかえっていた。しかしその様相が逆に、今の自分の状況と、世間の在りようとの差を見せつけてきているようで、どうしようもない気持ちになった。ぼんやりとしていた。

「お!早かったじゃない!結構待つつもりだったのだけどねー」

 ぼんやりとした雰囲気を壊し、明るめの声で目の前に現れたのは、昨日電話していた先輩だった。先輩に会うのは、もうかれこれ二年ぶりだというのに、まったく変わらぬ出で立ちをしていた。肩ほどまである透き通った黒色の髪に、ベージュのカーディガンを羽織ったオフィスカジュアルの姿で、先ほどまで窓の外を歩いていた人たちと同じように、すっかり社会人といった様相を呈していた。

「あれ?どしたの?そんなに待たせちゃった?」

「…え?あ、いや…あれ、え?」

 先輩は、不思議そうにこちらの顔を覗き込みながら、何食わぬ顔で向かいの席に座った。動揺、ぼんやりしているわけはもちろん、突然、自分が見知らぬ場所で座っているからでもあったし、そんな自分の眼前に先輩が現れたからでもあった。直前まで部屋着姿で新作のゲームにいそしもうと椅子に座っていたのに、気が付けば今は、人事部長とお昼を共にした時と同じグレーのカジュアルスーツに身を包んで、自分もまた、カフェの店内風景の一部に溶け込んでいた。ここはいったいどこなのだろうか。そしてなぜ、地元の福岡で社会人をしているはずの先輩が、目の前にいるのだろうか。謎が深まるばかりだったが、いい歳にもなって訳もなく取り乱すような、人の目も気にしない不埒な真似は出来なかった。

「いやー待たせたみたいでごめんね!何か奢るからさ!キミ、何飲みたい?」

「あ…いや、え、と…じゃあオレンジジュースで」

 メニュー表もろくに確認せずに、適当にありそうな飲み物を注文した。動揺していたとはいえ、もっとアイスティーやアイスコーヒーみたいな、落ち着いた飲み物を頼めばよかったかと後悔した。「いい加減早く大人になれよ。」と言われた、在りし日の記憶が蘇った。先輩には「まったく子供だねえ。」と揶揄われながら、先輩は店員さんを呼びつけて、自分の分も一緒に注文をしていた。それよりもどういうことなのだろうか。いきなりスーツ姿で先輩とカフェで一息つく状況が、まったく理解できなかった。ただし、それを騒ぎ立てるほどの度胸も持ち合わせてはいなかったし、これまで流されて生きてきた自分にとって、目立つことは何よりも恐ろしいものであった。小さく一呼吸。落ち着いて、いつもズボンの左ポケットに入れているスマートフォンの時間を確認する。時刻は【一八時四五分】、日付は【二〇二二年十一月十八日】を画面に表示していた。それは紛れもなく、新作ゲームソフトの発売日であり、自分がゲームを起動したその日だった。やはりあの時、自宅でゲームソフトを起動したのは嘘じゃなかったのだ。訳が分からなかった。一五時すぎごろに、ゲームソフトを起動したところまでは記憶にあるが、そこから三時間近く経過していた。その間の記憶もない。しかもいつの間にか外出までしており、どうやら先輩と待ち合わせまでしていたようだった。店員が、オレンジジュースとアイスコーヒーを持ってくる。少し迷ってからオレンジジュースのほうを先輩の前に置いた。自分には、アイスコーヒーが渡される。店員が一礼して立ち去った後、先輩は飲み物を入れ替えながら言った。

「今日のデート、予約しておいたアクアリウムでいいよね?」

 喋ってもないのに絶句した。とは、どういうことかと思うが、そのままの意味なのだから仕方がない。デート。自分と先輩が、今日はデートすることになっていた。先輩は一度、ストローに口をつけた後、反応のない自分に向かって「もしもし?聞いていますかー?」と手を振っている。何も言い返せなかった。普段あれほど、気まずい無言の間を嫌って生きているのに、ここでは返答する言葉一つひらめかなかった。疑問がありすぎて、それどころではなかった。いつの間にか先輩と付き合っていることになっている。いや、付き合ってはいないのか。考えを巡らせる。全力で頭を回す。先輩が心配そうな顔をする。静寂が辺りを包み始める。頭の中も視界も白くなる。何か言わなければ、無言の間が耐えられない。早く、早く、何か言わなければならないと、焦燥感に駆られる。焦り見えない何かに追われる圧迫感、そんな自分の口から出た言葉は、昨日の晩に約束した電話の内容だった。

「あ…え、と…ゲーム…」

「ゲーム?なにそれ、まさかキミ、また何か買ったの?」

 そうではない、そうではないのだ。確かに昨日の晩に、先輩と電話で約束したはずだ。新作ゲームを買って、一緒に通話しながら、ストーリーを進めようと。三十秒ほどの短い時間だったが、忘れるはずはない。スマートフォンを確認すれば、きっと履歴だって残っているはず。そもそも一緒にプレイしようという話を持ち掛けてきたのは、先輩からではなかっただろうか。慌ててスマホを取り出し、ブラウザ機能で、新作のゲームソフトを検索しながら喋った。

「あ、あの、これですよ、昨日電話で話したじゃないですか!一緒にやろうって、えっと…あれ…。」

 先輩が「ゲーム?」と訝しむ中、ゲームソフトのタイトルをスマートフォンで検索する。クリック、スクロール、スクロール、クリック、クリック、クリック、ホームページを探して…ない。ない。ない。ない。ない。ない。ない。どこを探しても、そんなものは存在しなかった。新作ゲームソフトの情報が消えている。Web上にもSNS上にもどこにもない。話題になっていないという次元の話ではない。存在そのものが消えていた。

「どうしたの?昨日?わたしそんな話したかな?」

 スマートフォンを一生懸命操作している自分を、先輩が心配そうに見ている。まずい、変な人だと誤解される。人からの好感度を、何よりも重要視している自分には、耐えがたいことだった。これ以上やっても何も出てくることはないだろうというのは、すぐに気が付いたし、何かが起きているのだから、何かが起きたに違いなかった。適当なところで検索を切り上げ、スマホを机の上に置くと「…あーいや、なんでもなかったです。」と適当にはぐらかした。思ったよりも力ない声だった。先輩は、気になるだのなんだのあれこれ言って騒いでいたが、適当に愛想笑いをしながらごまかした。愛想笑い。悪い癖。

「…そ、それより、何でした?さっきの話、アクアリウム…?」

「そうだよー。昨日、一緒に行こうって電話で話したじゃない!私がチケット取っておくよって。十九時半から入場だから、もうちょっと時間あるけれど、どうする?もうお店出ちゃう?」

「…あー、いや、まだ時間あるから…大丈夫です。」

 昨日の電話の内容が、まったく変わってしまっていた。確かに昨日は、ゲームを一緒にプレイしようという内容だったはずなのに、先輩の中では、アクアリウムを一緒に見に行くという内容に置き換わっていた。少し考える時間が欲しかった。オレンジジュースに口をつける。苦い。そんなに時間は立っていなかったが、オレンジジュースは、中身が沈殿していて、表面部分はすっかり薄味になっていた。目の前では先輩が、今日の仕事はどうだったこうだったと話していたが、それもすべて愛想笑いで流した。だんだんと気分が悪くなってきた。愛想笑いしていると、ひどく疲れてくるのだ。徐々に積みあがった課題に対する考えの輪郭がぼやけてくる。結局、現状では何の理解も解決も得られないまま時間になったので、先輩に促されるまま、名の知らぬカフェを後にした。名の知らぬカフェは、大型ショッピングモールの中に併設する形で、装いが構えられていたようで、ショッピングモール内は、仕事帰りや学校帰りの人たちで、大いに賑わいをみせていた。先輩は、ショッピングモール内を先導して歩き、その場を後にした。慌てて後ろを追いかける。外に出ると、辺りはすっかり日が落ちていたが、ショッピングモール自体は、大型駅に併設されているようで、駅のライトやビル、タクシーの光があちこちに点在しており、世間は、眠らない街といった様相を呈していた。そして自分の目の前に現れた併設されている大型駅の名称をみて、ふたたび絶句することになる。

『JR博多駅』

 自宅で休職期間中に、先輩と新作ゲームをプレイしようとしていただけなのだが、いつの間にか自分は、地元である福岡にまで移動していたようだった。



 先輩が予約したというアクアリウムは、JR博多駅の九階に住まいを構えていた。アクアリウムは、九階フロアを丸々貸し切りにして内装を作りこんでおり、博多駅の一階から乗り込んだエレベーターから出ると、すぐに受付場所があった。今作のアクアリウム展は、光と海のコントラストをテーマに、アクアリウムが作りこまれていたようで、受付場所になっているチケット販売広場からすでに薄暗く、暗い深海のムードを漂わせる内装になっていた。受付では先輩が、スマートフォンの画面を見せながら、何やら男性と会話し、すぐに二枚分のチケットを入手して戻ってきた。先輩からチケットを受け取り、そのまま入場口に向かう。入場口は改札式になっており、無人の改札では、チケットのQRコードを読み込ませて、店内に入場した。十一月というのもあるだろうが、屋内全体が薄暗くひんやりとしており、周りを見渡しても、ほとんどカップルばかりの場所だった。薄暗い室内で水槽が、赤や黄色、黄緑と鮮やかにライトアップされている。魚の種類などは、あいにく詳しくなかったが、それでもグッピーやネオンテトラといった、見知った名前の魚も散見された。ふと、アクアリウムなど来たのは、いつ以来だろうと考える。あまり家庭環境に恵まれたとはいえない自分にとって、商業施設というのは、夢のまた夢の場所だった。旅行や観光できる環境を羨ましいと思ったことはないが、劣っている自分の環境を穿ってみているように思えて、自分がひどく子供にみえたのは確かだった。

「結構綺麗だね。これ当たりじゃない?」

 先輩の中での当たりの定義はおいておくとして、確かにデートスポットとしては、アクアリウムは最高の場所だった。先輩の言う『結構』という言葉が、果たして何と比較したものだったのか、何を期待したものだったのかは、その大人びた横顔からは、残念ながら想像できなかったが、少なくとも今この場所が、自分が置かれている状況に一息つけるような、憩いの場所になっているのは確かだった。「ちょっと寒いけどね。」と苦笑いしながら、先輩はどんどんと前に進んでいってしまう。自分は、何となく景色が名残惜しくて、なかなか前に進めなかった。本当だったら「先輩も綺麗ですよ。」といった、お世辞の一つでも挟めれば良かったのかもしれないが、そんなに人づきあいが上手くない自分には、少々高すぎるハードルだった。辺りが薄暗くて、先輩を見失いそうになる。人生の路頭に迷っている今の自分には、お誂え向きの景色だった。博多駅の一階分フロアを丸々貸切っていたとはいえ、アクアリウム自体は二十分ほどで見終わってしまった。フロアを一周する形でルートが取られていたようで、出口は、入り口になっている無人改札の場所だった。ふたたび改札をくぐり、下りのエレベーターを待つ先輩は、実に満足そうな顔をしていた。

「いやー、これでもう思い残すことはありませんな!」

 満足そうにしている先輩の横で、相槌を打ちながらスマートフォンの画面をちらりと確認する。時刻は、ちょうど二十時に差し掛かろうかというところだった。そろそろ解散という雰囲気が、あたりを包む中で、自分のこれからについて思案していた。今からでは、とてもではないが、飛行機を予約して東京に帰る気にならない。そもそもなぜ自分は、こんなところにいるのかもわからない。途方に暮れる、という言葉が、これほど刺さる場面に自分が遭遇するとは、思いもしなかった。先輩とエレベーターで一階まで降りる。表に出るとすぐに辺りは、駅の雑踏に包まれた。一瞬だけ思案した後、仕方がないので目的地は、実家があるJR荒木駅に設定した。JR南福岡駅が最寄り駅の先輩とは、同じ大牟田方面行の各駅列車に乗り合わせることになった。中央改札をくぐり、八番ホームで列車を待ち、到着列車に乗り込む。時間帯もあってか、列車内は、それほど込み合っているわけでもなかった。JR博多駅からJR南福岡駅まで三駅ほどあったが、先輩とは、特にこれといった会話もなかった。

「それじゃあ、今日はもう解散でいいよね?キミ、明日も仕事でしょ?あんまりゲームばっかりしちゃだめだぞ」

 まもなくJR南福岡駅というところで、先輩が唐突に口を開いた。自分の返事を遮るかのように、列車の扉が開く。先輩が扉のほうへ振り返る。謎は深まるばかりだった。これでいいのだろうか、先輩とこのまま解散していいのか。なぜ今日、先輩と一緒に出掛けることになったのか。なぜこんなところにいるのか。何かをしないといけなかったのではないだろうか。引っかかる。先輩の後ろ姿に後ろ髪を引かれる。しかし引き留めるだけの理由も持ち合わせていない自分には、どうしようもないことだった。

「それじゃ、またね。」

 結局、振り返ることなく先輩は列車を降りてしまった。扉が閉まる。


10


先輩を引き留めることはかなわなかった。仕方がないので列車内の空いている席に座る。実家のJR荒木駅に向かう列車の中でスマートフォンの画面を確認する。メッセージも電話も、通知は何もない。時刻は、二十時半を回ろうとしている。さすがに両親も帰ってきているだろう。いきなり帰省して何を言われるだろうか。どう思われるだろうか。実家まで片道一時間弱、久しぶりの人付き合いで疲れた心と頭を休めるには、それはちょうどよい時間だった。イヤホンをつけて適当な音楽を流す。奇しくも、名も知れぬカフェで流れていた流行りの映画の主題歌が流れた。

JR鹿児島本線沿い、実家の最寄り駅であるJR荒木駅の改札をくぐったときは、すでに二十一時半を回っていた。列車内で一時間近く温まっていたせいもあり、十一月の冷え込みを全身で感じながら、自宅に向かって歩く。駅から実家までは、片道十分ほどもない。少し考えるにはいい時間だった。結局のところ、何が起きたのだろうか。仕事を休んでいた今日、自宅でゲームソフトを起動し、気が付いたらJR博多駅で目が覚めた。ゲームソフトに関する情報は、何もかも失われ、なかったことになっており、そしてなにより、先輩が恋人になっていた。誰に何を確認すればいいかもわからなかったし、代わり映えしていない世間を見ると、おかしくなったのは、世界ではなく自分なのは明白だった。休職中で世間から取り残されている今では、そんなに急ぐ必要はなかったが、とりあえず今日は実家に帰り、明日になったら飛行機で東京に帰ろうと決めた。かつて歩き慣れた最寄り駅までの片道を歩き終えて、実家の前までたどり着く。インターホンを押す手が、かすかに震える。両親は、どう思うだろうか。もちろん驚くだろうし、出迎えてくれるだろう。ただし近況は、どうしたものか。「会社を休んでいる。」などとは、とてもではないが、言えたものではなかった。インターホンに手をかける。

ピンポーン

 しばらくすると、ガチャリと鍵が回る音がして扉が開いた。夜更けの来訪者を不信そうに出迎えてくれたのは、父の再婚相手の母親だった。こちらからでもわかるくらい、驚きが表情にでていた。

「あんたどうしたんこんな時間に!びっくりした!」

 手招きと共に「早く入らんね!」と招き入れられる。当たり前だが、ほぼ二年ぶりの帰省は、快く迎え入れてもらえたのだった。帰省の理由を適当に見繕いながら、家の中に入れてもらう。実家に住んでいるあの白黒の、人懐っこい猫も出迎えてくれた。二年ぶりの実家は、住み慣れていた時とは違い、何だか手狭で小さく感じられた。床のフローリングもここまで劣化していなかったように思うし、動物を飼っている家特有の、生き物の臭いも強烈に感じられた。福岡から上京してから四年、一度は帰省していたが、かつてと変わったのは何なのだろうか。

「おぉ、なんやどした?」

 リビングに入ると、テレビを見ていた父親も声をかけてきた。晩御飯中だったようだが、相変わらず元気そうだった。二年前に比べて白髪化が進み、老け込んでいたようにも見えたが、まだまだ現役といった具合で、再婚した母親同様、突然の帰省に驚いた様子だった。二人がてんやわんや舞い上がっている中、適当な相槌を打ちつつ、かつて座っていたソファーに腰を下ろした。

「あんた、ご飯は食べたとね?」

 どうやら二人は、まだ晩御飯時だったらしく、母親が私の分まで準備しようとしていたので慌てて断った。目覚めてから、ほぼ何も食べていなかったが、不思議とお腹は空いていなかった。テレビでは、線路内への飛び降り事故のニュースを速報で放送している。

「歩道橋から飛び降りたらしか。あんたよー帰って来られたね。」

 電車に乗っていた時は、遅れはなかったな。と思いつつニュースを見ていると、どうやら現場は、JR南福岡駅のすぐ近くだということが分かった。たかがニュースの一トピック。大した気にも留めずに辺りを見渡し懐かしんでいると、あるものが目についた。それは、懐かしい記憶の中には、確かに存在しないものだった。立ち上がって戸棚に収まっているそれを取り出す。それは、それは、それは世界から消えたはずの、自分が今日のお昼過ぎに起動したものと全く同じ、あの新作のゲームソフトだった。目を疑った。動悸がし始める。何か重大な秘密に気が付いたような、そんな何か。

「…これ、これ何でここにあるの?」

「あーそれね。今日発売日やからって買ってたんよ。どうせ誰もせんのにねー」

「ちょ!ちょっとこれ貸して!」

 慌てて戸棚からパッケージとソフトを取り出す。本体も引き釣り出すと、飛び降りのニュースを見ていた父親に強引に割り込んでセッティングする。ゲームソフトを開封し、本体にソフトを差し込む。頼む、頼む、動いてくれ。本体の電源を入れる。事に備えて、ゆっくり深呼吸した後、ソフトを起動する。小さな起動音が鳴り、ここで意識が途絶える。


11


 次に目が覚めた時は、カフェの一席に座っていた。

「おー!早かったじゃないか!結構待つつもりだったのだけどねー」

 ぼんやりとした雰囲気を壊し、明るめの声で現れた先輩は、つい三、四時間前に会った時と同じ服を着ていた。肩ほどまである透き通った黒色の髪に、ベージュのカーディガンを羽織ったオフィスカジュアルの姿で。

「あれ?どしたの?そんなに待たせちゃった?」

「…いや、全然待ってないですよ」

「よかった!でもごめんね!何か奢るからさ!キミ、何飲みたい?」

「…じゃあオレンジジュースを」

一瞬だけ逡巡し、全然気分ではなかったが、再びオレンジジュースを注文した。「まったく子供だねえ。」と揶揄われながら、先輩は店員さんを呼びつけて、自分の分も一緒に注文をしていた。念のためスマホで時間を確認する。時刻は【一八時四五分】、日付は【二〇二二年十一月十八日】。それは紛れもなく、新作ゲームソフトの発売日だった。ジャンプした。確信した。今日発売の新作ゲーム。発売日から一緒にやろう。と話していた先輩が、目の前にいる。間違いない。ゲームソフトを起動するとここに飛ばされるのだ。しかしなぜだ。店員が、オレンジジュースとアイスコーヒーを持ってくる。少し迷って、アイスコーヒーのほうを先輩の前に置いた。自分には、オレンジジュースが渡される。店員が立ち去った後、先輩は、飲み物に口をつけてから言った。

「今日のデート、予約しておいたアクアリウムでいいよね?」

「え、ええ、博多駅の九階のところですよね、一九時半からの」

「…あれ?私、時間とか、キミに伝えていたかな?」

 いきなり失敗したと思った。確か時間だけは、先輩がここで直接教えてくれたのか。慌てて「昨日、先輩が前もって教えてくれていましたよ。」などとごまかしつつ、オレンジジュースに口をつける。先輩が訝しげに見つめる中、スマートフォンを操作する。通話履歴には、確かに昨日、先輩と電話した三十秒ほどの短い時間の通話記録が残っていた。次にブラウザ機能で、新作のゲームソフトのタイトルを検索する。クリック、スクロール、スクロール、クリック、クリック、クリック、ホームページを探して…ない。やはりどこを探しても、ゲームソフトの情報は存在しなかった。実家の戸棚に丁寧に収めてあったはずの、あの新作ゲームソフトの情報は、やはり存在そのものが消えていた。どうしてなのだろうか。ジャンプしたという事実は理解できたが、それ以外の要因や要素は、未だに不明のままだった。

「…どうした?なんか顔色悪いよ。今日、やめとこうか?」

「あ!いやいや!大丈夫です!」

目の前では先輩が、今日の仕事はどうだったこうだったと話していたが、すべて愛想笑いで流した。さすがに仕事話の雑談の内容まで前回と同じだったかどうかは、定かではなかったが、聞いていなかったのだから仕方がない。これも自分の悪い癖だった。人に親身になって寄り添うことが難しかった。いつも同調できない精神は形を変え、上辺だけの寄り添いに姿を変えていた。きっと何かを変える必要があるのだ。しかし、何を変えればいいのだろうか。何かを変えるには、まず何かを知る必要があった。結局、またしても現状は何の解決も得られないまま時間になったので、先輩に促されるまま、名の知らぬカフェを後にした。ショッピングモール内は、相変わらず仕事帰りや学校帰りの人たちで、大いに賑わいをみせていたが、周りの人間まで前回と同じかどうかの判別は付かなかった。意識していないことは記憶にも残らない。先輩は、ショッピングモール内を先導して歩き、また後ろをついて歩くことで、その場を後にした。外はすっかり日が落ちていたが、駅のライトやビル、タクシーの光があちこちに点在しており、眠らない街といった具合は変わらなかった。

JR博多駅の九階、アクアリウム展の受付広場では先輩が、スマートフォンの画面を見せながら、何やら男性と会話し、すぐに二枚分のチケットを入手して戻ってきた。チケットを受け取り、そのまま入場口に向かう。チケットの装いも前回と全く同じだった。屋内全体の薄暗くひんやりとした雰囲気も、周りを見渡しても、ほとんどカップルばかりの場所だということも変わらなかった。薄暗い室内で水槽が、赤や黄色、黄緑と鮮やかにライトアップされているが、綺麗なグッピーやネオンテトラを見ても、さすがに二回目ともなると若干の飽きがでてきた。

「結構綺麗だね。これ当たりじゃない?」

 先輩は相変わらず綺麗で、そして楽しそうだった。思えばこの人は、出会ったころから子供っぽさと大人っぽさの両方の面を持つ不思議な人だった。歳は一つ下なのに、考え方が大人びているかと思いきや、子供っぽいものが好きで、イマイチ掴みどころのない人だった。自分は、そういう部分が苦手でもあった。正解がわからなかった。人から何かを聞かれたときは、必ず、相手がどうしたいかを考えて答えるようにして生きてきた。自分の意志は二の次で、そうしてこの生きづらい世を生きてきたのだ。だからこそ、掴みどころない人は苦手だった。楽しそうで羨ましかった。先輩の言う『結構』という言葉は果たしてどういう意味だったのだろうか。何と比較して、そして何を期待したものだったのかは、相変わらずその大人びた横顔からは、残念ながら想像できなかった。「ちょっと寒いけどね。」と苦笑いしながら、先輩はどんどんと前に進んでいってしまう。せめてはぐれない様に、先輩の後ろをついて歩いた。本当だったら「先輩も綺麗ですよ。」といった、お世辞の一つでも挟めれば良かったのかもしれないが、そんなに人づきあいが上手くない自分には、やはり少々高すぎるハードルだった。今回もアクアリウム自体は、二十分ほどで見終わってしまった。出口になっている改札をふたたびくぐり、下りのエレベーターを待つ先輩は、実に満足そうな顔をしていた。

「いやー、これでもう思い残すことはありませんな!」

 満足そうにしている先輩の横で、相槌を打ちながらスマートフォンの画面を確認する。時刻は、ちょうど二十時に差し掛かろうかというところだった。そろそろ解散という雰囲気が、あたりを包む中で、前回と同じ展開を前に途方に暮れそうになる。エレベーターで一階まで降りる。表に出るとすぐに辺りは、駅の雑踏に包まれた。一瞬思案した後、仕方がないので目的地は、実家があるJR荒木駅に設定した。JR南福岡駅が最寄り駅の先輩とは、同じ大牟田方面行の各駅列車に乗り合わせることになった。ホームで列車を待ち、到着列車に乗り込む。列車内は、それほど込み合っているわけでもなかった。JR博多駅からJR南福岡駅まで三駅ほどあったが、先輩とは、特にこれといった会話もなかった。

「それじゃあ、今日はもう解散でいいよね?キミ、明日も仕事でしょ?あんまりゲームばっかりしちゃだめだぞ」

 まもなくJR南福岡駅というところで、先輩が唐突に口を開いた。「わかっていますって。」と電車に揺られながら、苦笑いと共に口を開く。列車の扉が開く。先輩が扉のほうへ振り返る。謎は深まるばかりだった。これでいいのだろうか、先輩とこのまま解散していいのか。なぜ今日、先輩と一緒に出掛けることになったのか。なぜこんなところにいるのか。何かをしないといけなかったのではないだろうか。引っかかる。先輩の後ろ姿に後ろ髪を引かれる。しかし引き留めるだけの理由も持ち合わせていない自分には、どうしようもないことだった。

「それじゃ、またね。」

 結局、振り返ることなく先輩は列車を降りてしまった。扉が閉まる。ここで考える。少しだけ。半年間も動かしてなかった脳を必死になって動かす。『結構』という言葉の意味を考える。何かと比較した、見え透いた言葉。後ろ髪をひかれても、今ならまだ追いつけるかもしれない距離について考える。答えは出ないけれど、何かを知るためには今しかないとも思った。私は、先輩の後を追うようにしてJR南福岡駅で降りたのだった。

 先輩の後をつけていくのは、思いのほか簡単だった。周りを気にする素振りなどみじんも見せず、悠々自適に歩く先輩の後ろを、真逆にこそこそ歩く自分。どうしてこんな犯罪まがいなことをしているのか、自分でもよくわかっていなかったが、この先を知るためには、まだ帰るわけにはいかなかった。二、三分ほど歩いたところで、すぐに辺りはしんと静まり返っていった。外套も少なく、人通りもない。足音がバレそうになり始めてきたので、少し距離をとって追いかけるしかできなかった。暗く、静かだった。本当なら今頃、実家でごろごろしていたはずなのに。テレビでも見て。先輩は跨線橋形式になっている歩道橋の階段を昇って行って見えなくなった。慌てて後を追いかける。バレない様に歩いて。先輩は、歩道橋の真ん中で立ち止まっていた。慌てて自分も隠れる。何をする気なのだろうか。カンカンと踏切が鳴り始める。風がひときわ強く吹く。そういえば今頃テレビで何を見ているはずだったか。父親が見ていたテレビの内容。一トピック。列車がホームに入ってくる。ニュースを読み上げるアナウンサーの声が聞こえた気がする。我に返ったその時。

 先輩は歩道橋から飛び降りた。

 ドップラー効果で低音になった風切り音と共に列車がホームに入ってくる音、衝突音、甲高いブレーキ音とホームにいる人の悲鳴、何も聞こえない。声も出なかった。


12


 人が目の前で飛び降りる光景というのは、思いのほか精神にダメージを与えた。揺らいだのは視界かスカートか。とにかくすぐにその場から逃げ出したし、列車のダイヤもぐちゃぐちゃになった。JR鹿児島本線は、九州を上下に長く一本通った路線である。そのおかげで関東圏のように替えの路線を使うという風にはいかず、自分はJR南福岡駅で、ただダイヤの復旧を待つほかなかった。復旧には十二分過ぎる時間を有したし、そのおかげで、ダイヤが復旧してから、実家に帰りついた時には、とっくに0時を回っていた。事件現場は、すぐに規制線が張られ、先輩がどうなったかは定かではなかった。実家のテレビでは、帰り着いてからでも速報で線路内飛び降りのニュースを流していたし、突然の帰省に驚く両親を尻目に、何も食べる気が起きなかった私は、静かに部屋で横たわっていた。まるで半年前の休職直後の自分そのものだった。休職し、自宅でカビのような生活を送るだけの日々、健康で文化的な最低限の生活の定義は、果たして何だっただろうか。常に受け身に生きてきたように思う。結果だけを享受してきた人生は、成長からかけ離れた存在になり、成果を求める社会のありようからは、いよいよ愛想をつかされた。それは在りし日の、あの改修作業に追われる上司のそばで立ち尽くしているあの日の自分そのものであった。自分の意志で行動したことは少なからずあったが、果たしてどれほどの選択肢が、後悔せずに歩めただろうか。好奇心は猫を殺す。先輩の後を追ったのは間違いそのものだったのか。嘘をついて生きてきた。何も人を騙して生きてきたわけじゃない。騙してきたのは自分だ。恥の多い生涯を送って来ました。という言葉を誰かが言った。人には決してわからないだろうけれど、自分だけはわかる。そういう嘘を、ずっと自分についてきた。だからこそ、嘘でも、ふたたび起き上がり、新作のゲームソフトに手をかけた自分は、奇跡だと思う。自分に嘘をついて時間を飛ぶことにした。いったい何をしようというのかと問われれば、それはただ、好みの女の子を助けようと思っただけに過ぎないのだが。


13


 目が覚めた時は、カフェの一席に座っていた。

「おー!早かったじゃないか!結構待つつもりだったのだけどねー」

 ぼんやりとした雰囲気を壊し、明るめの声で現れた先輩は、生きていた。あの最寄り駅の近くの、歩道橋から飛んだ時と同じ服を着ていた。肩ほどまである透き通った黒色の髪に、ベージュのカーディガンを羽織ったオフィスカジュアルの姿で。当たり前のことだが、姿を見るまでは気が気ではなかった。

「あれ?どしたの?そんなに待たせちゃった?」

「…いや、全然待ってないですよ」

「それはよかった!でもごめんね!何か奢るからさ!キミ、何飲みたい?オレンジジュースでいい?」

「…それでお願いします」

「まったく子供だねえ。」

揶揄われながら、先輩は店員さんを呼びつけて、自分の分も一緒に注文する。一呼吸。落ち着いて、いつもズボンの左ポケットに入れているスマートフォンの時間を確認する。時刻は【一八時四五分】、日付は【二〇二二年十一月十八日】だった。軽率に使っていい言葉なのかどうか怪しいが、どうやら『タイムリープ』は成功しているようだった。しばらくすると店員がオレンジジュースとアイスコーヒーを持ってくる。

「あ、オレンジジュースは自分です。」

店員さんからオレンジジュースを受け取ると、アイスコーヒーのほうを先輩の前に置いた。店員が立ち去った後、先輩は飲み物に口をつけてから言った。

「今日のデート、予約しておいたアクアリウムでいいよね?」

「あ、はい。大丈夫です。時間何時からでしたっけ?」

「んー?十九時半からだけど」

 なぜか少しいぶかしげな表情をされた気がした。その後は大方の予想通り、結局また、先輩の仕事の愚痴に付き合ってから時間通り店を出ることになった。ここまでは大方の予想通りの展開である。ショッピングモール内は、相変わらず仕事帰りや学校帰りの人たちで、大いに賑わいをみせ、先輩は、相変わらずショッピングモール内を先導して歩き、自分は後ろをついて歩くことで、その場を後にした。外はすっかり日が落ちていたが、駅のライトやビル、タクシーの光があちこちに点在しており、眠らない街といった具合は、変わらなかった。

JR博多駅の九階、アクアリウム展の受付広場では先輩が、スマートフォンの画面を見せながら、何やら男性と会話し、すぐに二枚分のチケットを入手して戻ってきた。チケットを受け取り、そのまま入場口に向かう。屋内全体の薄暗くひんやりとした雰囲気も、周りを見渡しても、ほとんどカップルばかりの場所だということも変わらなかった。薄暗い室内で水槽が、赤や黄色、黄緑と鮮やかにライトアップされているが、綺麗なグッピーやネオンテトラもこれで三回目の鑑賞となった。

「結構綺麗だね。これ当たりじゃない?」

 先輩は楽しそうで心底羨ましかった。ただ考える。一体先輩はどんな気持ちでこのアクアリウムを楽しんでいるのだろうと。これからホームに飛び降りるという最後の晩餐の時に、まともな食事もとらず、軽いアイスコーヒー一杯で済ませて、こんな働いてもいないような嘘で固められたろくでなしと、アクアリウムを回る。何だか先輩が、ひどくかわいそうに思えた。可哀想な目にあわせているのは、他でもない自分なのに。「ちょっと寒いけどね。」と苦笑いしながら、先輩はどんどんと前に進んでいってしまう。はぐれない様に、後ろをついて歩いた。「先輩も綺麗ですよ。」と、悔しくて、お世辞の一つでも挟んだ。先輩は、しばし閉口した後、「ちょっとキザすぎるかなー」とおどけたが、嘘をついて生きている自分には、十分な自己採点だった。やはりアクアリウム自体は、二十分ほどで見終わってしまった。出口にもなっている改札を再びくぐり、下りのエレベーターを待つ先輩は、実に満足そうな顔をしていた。

「いやー、これでもう思い残すことはありませんな!」

 返事はしない。思い残すことならたくさんある。あるはずなのだ。満足そうにしている先輩の横で、相槌を打ちながらスマートフォンの画面を確認する。時刻は、ちょうど二十時に差し掛かろうかというところだった。そろそろ解散という雰囲気が、あたりを包むが、途方に暮れることはない。エレベーターで一階まで降りる。表に出るとすぐに辺りは、駅の雑踏に包まれた。実家があるJR荒木駅を目的地に設定した。JR南福岡駅が最寄り駅の先輩とは、同じ大牟田方面行の各駅列車に乗り合わせることになった。ホームで列車を待ち、到着列車に乗り込む。列車内は、それほど込み合っているわけでもなかった。博多駅から南福岡駅まで三駅ほどあったが、先輩とは、特にこれといった会話もなかった。

「それじゃあ、今日はもう解散でいいよね?キミ、明日も仕事でしょ?あんまりゲームばっかりしちゃだめだぞ」

まもなく南福岡駅というところで、先輩が唐突に口を開いた。「わかっていますって。」と電車に揺られながら苦笑いと共に口を開く。列車の扉が開く。先輩が扉のほうへ振り返る。

「それじゃ、またね。」

 先輩は後ろ髪惹かれることなく、さっさと降りて行ってしまった。ここからだ。しばらく間を置いてから自分も列車を降りる。前回とは違う、今回は明確な目的があるのだ。改札を抜けるとすぐあたりは薄暗く無人になった。先輩の後をつけていくのは、簡単だった。周りを気にする素振りなどみじんも見せず、悠々自適に歩く先輩の後ろを、真逆にこそこそ歩く自分。どうしてこんな犯罪まがいなことをしているのか、今回は、自分でもよくわかっていた。この先を知るためには、まだ帰るわけにはいかなかった。二、三分ほど歩いたところで、すぐに辺りは、しんと静まり返っていった。外套も少なく、人通りもない。足音がバレそうになり始めてきたので、少し距離をとって追いかける。暗く、静かだった。本当なら今頃、実家でごろごろしていたはず。テレビでも見て。暗い夜道を一人歩く。先輩ははるか前だった。跨線橋形式の歩道橋に差し掛かる。先輩は、階段を上り見えなくなった。走る。走る。走る。歩いていたままじゃ追いつけない。受け身じゃ人生、浮かばれない。走って階段を駆け上がる。今度は、今度こそ。歩道橋の真ん中に。

 先輩の姿はなかった。

 追いつけなかったわけじゃない。ゆっくり歩いて、歩道橋の真ん中までたどり着く。先輩は、すでに飛び降りたわけじゃない、いなくなったのだ。踏切の音も聞こえない。風も吹いていない。静かで肌寒い夜だった。そこですべてを悟った。ふふっ、ふふふふっ、あっはっはっは。声を出して笑ってしまう。自分の必死さに笑いが出てしまう。こんな夜更けに何をやっているのだろう。探偵気取りでこそこそして、周りから見たらさぞかしあほな奴に違いなかった。社会人になってから、これほどまでに何かに一生懸命になったことがあっただろうか。正直に生きた自分に照れてしまった。ひとしきり笑ってから深呼吸する。

「なんで自殺なんかしちゃったのですか。先輩」

 向かいの階段から、先輩は、ゆっくりと現れた。決して笑顔ではなかったけれど、悲しみに彩られているわけでもなかった。ただし人生に絶望したようには、残念ながら見えなかった。きっと先輩も嘘をついていたのだ。世間に。そして自分に。別に変な話ではない。先輩もタイムリープしていたのだ。あの時間、名も知らぬカフェでお茶をして、JR博多駅の九階でアクアリウムを見て、そして帰るだけ。この半日にも満たない僅かばかりの時間を、先輩も繰り返していたのだ。だから私が、この時間この歩道橋に来ることもわかっていた。


14


「…疲れちゃったわけだから、仕方がないよね」

 カンカンと踏切が鳴り始めます。風がひときわ強く吹きました。列車がホームに入ってきます。ドップラー効果で低音になった風切り音と共に列車がホームに入ってきます。衝突音はしない。悲鳴も聞こえない。

「疲れちゃった。毎日毎日人の顔色ばっかり見て、休みの日でも時間でもひっきりなしにかかってくる仕事の電話やメッセージ。楽しいことなんか何もなかった。この半年間なんて特にひどいものだった。仕事も辞めてやることも何もなくなって、何もかもどうでもよくなっていたらさ、新しいゲームがでるっていうじゃない。それで昔やキミのこと思い出したわけだよ。」

 もし電話に出なかったら、これ以上、声を掛けることはやめようと思っていました。最後に私が連絡したのなんて、仕事辞めることになる半年以上前だったし、半年ぶりにいきなり電話するのも、どうかとは思ったけれど、諦めるにはちょうどいいと思っていたのです。でも電話が繋がったから。心底驚きました。ホントに繋がった!って、必要とされてない自分にとって必要としてくれている人が見つかったみたいで、心底嬉しかったわけです。それで一緒にゲームをプレイする約束をして。ホントに楽しみだった。

 当日は、一日中暇だったし、お店で買ったゲームソフトを早々に起動して、でも次に気が付いた時は、JR博多駅近くのカフェの入り口で立っていたのです。キミのことは、すぐに目に入りました。慌てて声かけて、キミもあんまり慌てるから、私、笑っちゃった。そこからたくさん話をして、嘘ついて仕事続けているふりなんかして、キミはもう覚えてないだろうけど、どっちも同じ境遇に立っているってわかったときは、本当に嬉しかった。だからアクアリウム見てお別れして。喪失感に耐えられなかった。また明日におびえながら生きていかなくちゃいけないのだって思って、それで最後…。でもまた次に気が付いた時は、またカフェの入り口で立っていて、それで私、すべてに気が付いたわけです。今日を永遠に繰り返す方法を。


15


「さすがに飛び降りる瞬間を見られたときはびっくりしたけどね」

 先輩は笑っていた。心は泣いていたように思う。人の心の機微には敏感だった。処世術の一つだったけど、それを後ろめたく思ったことはなかった。そういう心の機微に気が付かなくていいように、できるだけ人とは距離をとって生きていたかった。先輩に何を言おうか。なんと声をかけるべきなのか。先輩も、自分とは同じ似たような境遇で、似たような人生だった。嘘ばっかりの人生だったし、嘘みたいな人生だった。

「…先輩、もしよかったら…なんですけど、一緒に東京に行きませんか?」

 好きだの嫌いだの、愛だの恋だのではないのだ。こういう劇的な一幕が、人生のどこかにこっそり存在しているのはダメだろうか。言われたとおりに生きてきた。出されたものを食べてきた。前に倣って生きてきた。だから少しくらい、他の誰もやったことのないようなことをやってみるのは、ダメだろうか。泣き顔なんてほとんど見たことない明るい先輩は、一人でめそめそと泣いていた。

「…明日、福岡空港で十二時に、一階で待っています。わからなかったら…連絡してください。迎えに行きますから。」

 いたたまれなくなって、その場を後にした。さすがに、泣いている先輩を抱きしめるような勇気も度胸も、自分にはなかった。我ながら、何を言っているのだろうと思う。人の人生を心配している場合じゃないのに。ただ、JR南福岡駅から電車に乗りこんで、揺られて、先輩を一人置いてきてしてしまったのは心苦しいけれど、それでも不思議な感覚だけが、そこにはあった。


16


 先輩を歩道橋で置き去りにし、実家に帰った自分を待っていたのは、両親からの質問攻めの嵐だった。「仕事はどうしたのだ。』だの、「何しに来たのだ。」だの、「飯は食ったのか。」だの、茫然自失でのらりくらり交わしていたら、次第に何も聞かれなくなったが、最終的には、「ゆっくりしていきなさい。」とだけ言われた。お風呂に入って、スーツから着替えて、床に入ってから考える。後悔しだす。あのまま先輩を、一人にするべきじゃなかっただろうとか。そもそも常識的に考えて先輩が来るわけないじゃないかとか。色々と。布団に入ってしばらくは、JR鹿児島本線の運行状況を確認する手が止まらなかった。最終的には、諦めて眠ったのだが、目覚めはさほどいいものでもなかった。時間がたつにつれて、心の中にどんよりと雲がかかってきている。またスーツに着替えて家を出るときは、誰もいなかった。両親は、先に仕事に出かけたが、何も言われなかった。書置きを残そうかと考えたが、柄じゃないのでやめた。根性の別れでもあるまいし、『裏口から出ていくから』とスマートフォンでメッセージだけ送り、家を後にした。

 福岡空港には、結局、十一時すぎに到着した。どう考えても早く着きすぎだった。やることもなかったので、さっさと一階中央広場まで移動した。平日のお昼前とあってか、関東にいたころに慣れてしまったせいか、ひどく閑散な印象を受けた。適当にターミナルの椅子に座っていると、ベージュのソリッドセーターを着こんだ上品な女性が、辺りをキョロキョロしながら現われた。少し見てようかとも考えたが、あまり邪険にしてもよくないと思い足早に近づいて声をかけた。

「…先輩、早かったですね。結構待つつもりだったのですけど」

 先輩は、一言だけ「お世話になります。」というと、小さく頭を下げて、あとは口を閉ざした。空港内で昼食をとったが、昨日のJR博多駅での、あの名も知らぬカフェとは違い、特に会話らしい会話はなく、十三時四十五分発の羽田行きの飛行機の中でも会話はなかった。約一時間のフライトの後、羽田駅からモノレールとJRを乗り継いで、自宅まではすぐに帰ってこられた。


17


 先輩と二人暮らしを始めた。結局、話題の新作ゲームソフトは、【二〇二二年十一月十八日】の時点で、全国に一斉発売されており、『タイムリープ』の再現はできなかった。会社のほうは、人事部長経由でチーフマネージャーまで連絡してもらい、同じ部署に復職した。存外こんなものである。先輩は、あの後、一人暮らしの家を引き払うため一度帰省し、なし崩し的に始まった二人暮らしも、なんとか続いていきそうだった。今日は、久しぶりの土曜日だし、どこかへ出かけようかという話になっている。行先はまだ決まってない。品川のアクアリウム展なんかどうだろうか。先輩が見飽きてなければいいが。

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嘘も時間も飛んでくれ 三神スナ @mikami_suna

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