第十七章   手手にやは

第一話  いもねずに

 その日、上毛野君かみつけののきみの屋敷に戻ってから、大川さまと三虎を見る機会は古志加こじかにはなかった。

 うまやに三虎の馬は戻ってきていたので、屋敷にいるのはたしかだ。


 このまま、怒らせたままは嫌だ。

 ちゃんと無事に、唐から帰ってきて、とも言えてない。


 だから、夜。


 三虎の部屋の前の庭で、こっそりと茂みに身を隠し、三虎の帰りを待つ。

 衛士の濃藍こきあいの衣。

 飾りは紅珊瑚の耳飾りのみ。


 謝って。

 無事に帰ってきて、と伝えて。

 恋してます、と言って。

 お願いだから、部屋に入れて、と言おう。

 部屋に入れて。

 あたしを入れて……。

 四ツ船に乗ってしまう前に。

 一夜でも良い。


 ……あたしは、三虎に恋われてないから。

 三虎は、誰でも良いからつまを得ろ、と言ったから。

 もう何も三虎に望まず、己の恋心だけを抱えて、一人で生きていこうと思ってた。

 でも、三虎はもう、唐から生きて帰ってこないかもしれない。

 何も三虎に望まないなんて、できない。


 あたしに一夜でも。

 三虎の全てが欲しい。

 あたしの命の全てを捧げきりたい。

 お願いだから……。


 花麻呂は思い違いをしている、と思う。

 やはり、三虎はあたしを恋うてるとは思えない。

 それでも……。







 ……三虎、……まだかな?







    *    *   *





ずに  きみ


いづくに  


今夜こよひたれとか  待てど来まさね



眠不睡いもねずに  吾思君者あがもふきみは

何處邊いづくへに  今身誰与可こよひたれとか

雖待不来まてどきまさね




眠りもせずあたしが想うあなた、


何処いずこにいるの。


今夜、あなたと共にいるのは誰。今、あなたの身体をあたえられているのは誰。


あたしは待っているのに、あなたは来ない。  





   万葉集  作者不詳





   *   *   *





 三虎は遅い。

 ちっとも帰ってこない……。

 二日月ふつかづきに照らされ、しんしんと身体が冷える。

 あたしは、こんな夜に覚えがある、と思う。

 こもを巻いて、三虎の帰りを待った、十歳の夜。

 あたしは、帰ってきた三虎を、


「どこ行ってたの?」


 と責めた……。







 うつむいて一人涙を流していると、身を隠している茂みが揺れた。


「誰だ!」


 おのこの鋭い声がし、


「あれ……。」


 驚き顔で燭火ともしび(松明)を持つ阿古麻呂あこまろに見つかった。

 古志加は顔をそらしながら立つ。

 組みの衛士……老麻呂おゆまろに、


「先に行ってて。」


 と阿古麻呂は声をかけ、


「どうしたの、古志加?」


 と遠慮がちに聞いてきた。


「………あたし、恥ずかしい。お願いだから、聞かないで。」


 情けなく、ぽろぽろ泣きながら、古志加は言った。


「古志加……。」


 と言いにくそうにしたあと、


「もうの刻。(夜9〜11時) 

 この時間で留守の者は、おそらく明け方まで帰ってこない。」


 と阿古麻呂は言った。

 はっきり言ってもらって、涙が引っ込んだ。


「……そうだね。あたし、女官部屋に戻るよ。」


 さばさばとした調子で、古志加は言った。


「送っていこうか?」


 阿古麻呂が心配そうに言った。

 古志加はふっと笑った。


「いい。この時間に二人で女官部屋に行ったら、阿古麻呂のいもにいらない心配をかける。

 甘糟売あまかすめ、大きくて立派な蒼玉へきぎょくの耳飾り、嬉しそうにつけてた。」


 甘糟売あまかすめは阿古麻呂のいもとなり、阿古麻呂は甘糟売の愛子夫いとこせとなった。


 甘糟売は、月に照り映えるような、

 輝く笑顔を浮かべるようになった。

 甘糟売が幸せそうで、あたしは心から嬉しい。

 ただ、もう、あたしに妻問つまといをした阿古麻呂は、どこにもいないのだ。  

 そう思うと、ほんのちょっとだけ、


「……ける。」


 一言、言うくらいは、良いよね?

 冗談だから。

 軽く睨みつけるように、にやりと笑って言ってやると、


「まいったなぁ。」


 阿古麻呂は照れて頭をかき、困って……、心から幸せそうに笑った。






 夜空の細い二日月を見上げつつ、ひとり古志加は女官部屋へ歩く。

 やりきれない想いを抱えて。

 十歳の頃、たった一度嗅いだだけなのに、あたしは良く覚えている。


 きっと今、

 三虎と一緒にいるおみなは、

 白梅の香りがする……。






 見つかったのが阿古麻呂で良かった。卯団の衛士なら、


「聞かないで。」


 と言えば、何も聞かないで察してくれそうだが、他の団の衛士なら、洗いざらい白状させられるだろう。

 夜、

 茂みで待つ、はもうできない。





     *   *   *





 それから三日して、三虎と大川さまが卯団うのだんと朝の見廻りをした。

 三虎が見廻りを終えて、馬を降りる前に、


「三虎!」


 と三虎の馬に素早く歩み寄った。


「この前はごめんなさい。

 あたし、許してほしくて……!」


 三虎は不機嫌顔で、さっと馬を降り、自分より前にいる大川さまを見た。


「あ! 大川さま……。」


 慌てて古志加は礼をとる。

 大川さまは馬上でこちらを見て、無言で笑顔を浮かべた。相変わらず、冴え冴えとした美貌だ。

 さらりと胸下まで垂らした長髪が揺れ、小さなもとどりに挿した銀花錦石ぎんかにしきいしかんざしが、銀、白、橙、翠に複雜にきらめいた。

 大川さまはすぐに馬を降りる。


「あて!」


 三虎が古志加の額を指で弾いた。

 けっこうな強さだった。


「ふん。これで許してやる。もう行け。」


 と三虎は顎をしゃくった。

 黒錦石くろにしきいしかんざしが、キラッと光る。

 古志加は額を手で押さえ、


「はい。」


 とその場を去った。





 許してもらってホッとした。

 と思っていたら。

 その日の組み稽古で、三虎にしたたかに吹っ飛ばされた。

 腕をとられ、背中から地面に落とされ、


「かっは……!」


 と息が詰まったところで、首を腕で締め上げられた。


「……! ……!」


 降参、の声もでない。

 手で一生懸命、地面をはたいて降参の意を示すと、


「ふん。」


 と三虎はこちらに一べつをくれ、他の衛士の名を呼び、次の稽古に移っていった。

 これは明らかに怒りがこもってる、と技の激しさに首元を押さえつつ、古志加は思う。


(い、いいもん……。これも三虎との貴重な時間だもん!)


 いや、許すと言ったら、もう許してほしい。

 大人げない……。








↓  挿し絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330662868075682




   

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