第六話

 古志加こじかは目を見開いた。

 古志加の肩の上に、三虎の腕が後ろからまわり、ゆるい力で、いつでもほどける力で、抱きしめられている。

 三虎の浅香を微かに感じ、胸の鼓動が跳ね、言葉はひっこんだ。

 三虎は無言。

 無言の時間が、長い。

 古志加はただ、無言の三虎に、背中から抱きしめられている。

 さぁ、と風が吹き、が舞い、


「寒くない。」


 と一言、三虎が言った。


「え……?!」


 何のことだか分からず、古志加は混乱する。

 三虎はふっと息をもらした。

 おそらく笑ったのだ。


「オレが悪かった。言い過ぎた。オレは口が悪い……。そんな何日も、おまえの笑顔を奪うつもりじゃなかった。

 ちゃんと聞きたいか、古志加……?」


 古志加はごくりと唾を飲み込み、うん、と頷いた。

 心臓しんのぞうがどくどくと脈打ち、張り裂けそうになっている……。


「茜の衣も、赤い錦石にしきいしも、良く似合っていた。

 舞も、ちゃんと舞えていた。

 もう……、わらはじゃないな、古志加。

 布多未ふたみがアホ面でおまえのことを見ていたから、オレはおまえをあそこから連れ出してしまった。

 母刀自ははとじにきちんと舞を見せてやれ。

 オレも、おまえの舞が見たい。」


 そう言って、三虎は腕を離した。

 古志加はくるりと振り返り、三虎の胸に飛び込んだ。

 三虎の口元は優しく微笑んでいる。


「見せてくれるか、古志加?」


 三虎の慕わしい、天へくゆるような浅香を胸いっぱいに吸い込み、目に涙をにじませ、


「うん。」


 と古志加は頷いた。

 でもまだ、三虎にだきついている。


「古志加……。」


 と三虎は腕の中の古志加に、ゆっくり声をかける。


「四つ船に乗る前に、一度、おまえにしてみたかったことがあるんだ。

 今、いいか……?」


 古志加は顔を真っ赤にし、


「う、うん……。」


 と言って、身体を固まらせた。


(こ、これは……! この流れは……!)


 と鼻息を荒くしていると、ちょいちょい、と剥き出しの首筋を指でくすぐられた。

 予想外のくすぐったさに、


「ひゃん!」


 と古志加は驚いて肩をすくませた。

 三虎は、ぱっと古志加の肩を掴んで引きはがし、


「あー、おもしれぇ。」


 と口元に拳をあて、くくく、と笑った。もとどりに挿した黒錦石くろにしきいしかんざしが、明るく弾むように黒、銀、紅に輝いている。


「うぅ。」


 と古志加はなんだか悔しくなってしまう。

 だがすぐに、三虎が目を細め笑い、


「舞え。大唐だいとうに行っても、忘れないから……。」


 と口にした。

 古志加は二回、まばたきし、


「うん!」


 と力強く笑った。





 ※おおひれや  ひれの山は  や


 大ひれや  小ひれの山は  や


 寄りてこそ




 ────母刀自に届くように舞い、




 山は寄らなれや  遠目はあれど


 や  寄りてこそ  寄りてこそ……。




 ────あたしの恋いしい人が、大唐に行っても、心の片隅に留めてもらえるよう、四つ船から無事に帰ってこれるよう、祈りをこめて。

 古志加は舞った。

 最後まで、舞った。





     *   *   *





 三虎は静かに微笑みながら、古志加が舞うのを見ていた。


 十一月の風が、さぁ、と木の梢を吹き抜け、黄色いが、赤い蝦手かへるで(カエデ)の葉が散るなか、

 唄い、舞う古志加は、山吹の衣でも、


 充分、美しかった。


 きっと、秋津島を離れ死ぬことになっても、忘れない。

 オレは死の間際、この光景を思い返すだろうか?

 それとも莫津左売なづさめの、美しい澄んだ眼差しだろうか?

 この世に残してしまう母父おもちち

 大川さまの笑顔だろうか?

 わからない。

 どうだろうな……?




 古志加は舞い終え、しばらくじっと母刀自の墓にたたずんだ。そして、


「終わりました。ありがとうございました。」


 とすっきりした笑顔でこちらを向いた。

 三虎は一つのことに思い当たる。


宇万良うまら(野イバラ)の練り香油は、埋めてやらないのか?」


 古志加は顔をぎくりと強張こわばらせて三虎を見た。


「あれは……、女官部屋の仲間にあげました。

 あたしより、他の人に使ってほしくて、母刀自は、きっともう充分で……。」

「なんだと……?!」


 三虎はうめいた。血の気が引き、一瞬くらりとした。

 ついで、熱い怒りが身を震わせた。


「あの練り香油をなんだと……!」


 あれは、人手も手間も惜しまず作る、貴重なものだ。

 宇万良うまら、椿油、蜜蝋みつろう

 どれも高価で集めるのに手間がかかる。

 最後には三虎が自分で、一年分の練り香油を医務室を借りて作る。

 大川のためだ。

 三虎は生まれのおかげで金に困ったことはないが、練り香油を作る金は、全て大川の金でまかなっている。

 三虎は従者として管理をしているだけだ。


 あの練り香油は、香りが良いだけでなく、肌の乾燥に抜群に効く。

 風の強い上野国かみつけののくにで大川があれだけ美しい肌を持っているのは、この練り香油のおかげと言っても良い。

 大川のためのものなのだ。


 だが、古志加がうらぶれしかけ、古志加の母刀自が夢で救ってくれたので、三虎は古志加の母刀自に心から感謝した。

 感謝の印として一つあげても良い、という気になった。

 それに、……古志加が使えば良い、と思った。

 古志加はあきらかに、日佐留売ひさるめや、他の女官に比べて肌に手をかけていない。

 おみなのくせに……。


(バカなことをした。)


 自分自身、本来は大川さまのものなのに、と後ろめたく思いつつ与えた品だったのに。

 人に物を与えて、ここまで虚仮こけにされたことはない。


(まずい、怒りが収まらない……!)


 三虎はビッと身をまわし、鋭く近くの蝦手かへるで(カエデ)に回し蹴りを放った。

 ミシ、と音を立てた木はゆさゆさと揺れ、大量の赤い葉を落とす。


「み、三虎、ごめんなさい。」


 青ざめた古志加が両手の平を三虎にむけて、こちらに近づこうとするが、


「来るな!」


 と三虎は古志加を睨みつけながら、一歩、後ろに下がった。


「近寄ったら、殴る。」


 古志加が、ひっ、と身をすくませた。


「花麻呂と帰れ。」


 それだけ言いおいて、背を向け、馬を繋いである栗の木に足早に向かう。


(どうしてオレはこうだ!)


 奈良の市で、上野国かみつけののくにでは珍しいなつめを手に入れた。

 唐では、仙人は棗を食べるとまで言われている。

 きっと、古志加は喜ぶ……。

 そう思って買い求めて、今日、懐にしのばせてきた。


「古志加と花麻呂で食べると良い。」


 と渡してやろうと思っていたのだ。

 そんな自分が腹立たしい。

 これは秋間郷あきまのさとの祖父母への土産だ!




    *   *   *




 本当に怒らせてしまった。

 怖い。

 古志加は何も言えず、三虎が馬を駆り、去っていくのを、泣きながら見送ることしかできなかった。

 しばらくして、心配顔の花麻呂が道を上ってきた。


「三虎が一人で先に帰るって。なんかすごい怖い顔だったけど……。

 どうしたの?」


 首をかしげて、静かに泣く古志加に訊いた。


「花麻呂……。あたし、前に三虎にもらった練り香油、他の人にあげちゃったんだよ。

 それで三虎、すごい怒って……。」


 そこまで言って、


「わああん。」


 と大きな泣き声がでた。

 たまらず、花麻呂に駆け寄り、その胸に飛び込んだ。

 泣きじゃくる。

 花麻呂は、


「やれやれ。」


 とつぶやき、背中を軽く叩いてくれた。


「なんでそんなことしたの、古志加?」

「だって! 練り香油くれてすぐ、あの人、梅の枝を持って、薩人さつひとに今夜にも行く、って言ったんだよ!

 あたし、悔しくて……。

 あたし練り香油なんていらない!」


 そう激しく叫び、わああ、と古志加は泣く。


「ああそう、梅の枝ね……。」


 花麻呂は深くため息をついた。

 しばらく古志加が泣くのにつきあってくれた後、


「古志加、一昨日、宴で舞った時、すげぇ綺麗だったぜ? 見てた連中、皆見とれてたよ。

 でも三虎が怒って、途中で古志加を連れ出しちゃったろ? どういうことかわかる?」


 と花麻呂は言った。

 古志加は花麻呂から身を離し、ずびっと鼻をすすってから、うつむいて言った。


「あたしが着飾ったって、猪が蜘蛛の巣を被ってるようなものだ、恥さらしが、ってさんざんに言われたよ。

 見てられなかったんだろ。」


 花麻呂は右手を藍色の布を巻いた額にあてて、天を仰ぎ、


「オレもう本当イヤ。」


 とため息まじりにつぶいた。そしてこちらを見て、


「いい? 恥ずかしいから、こんなの他のヤツから言ってほしいんだけど、ここにはオレしかいねぇ。しょうがねぇ、オレが言う。

 あれは三虎の嫉妬。

 古志加が綺麗にしすぎたの。胸元も色っぽかったし……。他のおのこに見せたくなかったんだよ。」


 と花麻呂は言った。


「え? ……何言ってるのか、わかんない。」


 いきなり頭がどうかしちゃったんだろうか?

 といぶかしんで花麻呂を見ると、


「も───っ! これだから!」


 と花麻呂はうなった。


「あのね、オレの恋いしいおみな遊行女うかれめだって、知ってるよね?

 当然、綺麗に着飾って、こう……。胸元も開けるわけ。

 オレは、他の遊行女が同じように着飾ってるのを見るのは、楽しいよ?

 でも、オレの恋いしいおみなにだけは、本当はそんな格好をして、大勢の前に姿を見せてほしくない。

 他のおのこには、見られたくないんだよ。

 こう、布をかけて、大事に大事にしまいこんでおきたい……。」


 と花麻呂が布を頭から被せる仕草をする。


「そんなことしたいの?」


 と、これまた訝しんで花麻呂を見ると、


「も───っ! たとえだよ!

 本当にやったら困らせるでしょ!

 しないよ!」


 と花麻呂は歯を見せてうなった。


「つまりおのこの嫉妬。おまえに恋うてるからだよ。わかれよ……。」


 じとっとした目で古志加を見ながら、花麻呂は言った。


「……違うと思う。

 けど、さっき、三虎が……。」


 古志加は迷いつつ、顔を赤くし、声を小さくし、


「茜の衣も、赤い錦石にしきいしも、似合っていたって、舞も、ちゃんと舞えていたって言って、布多未ふたみがアホ面であたしのことを見てたから、あたしをあそこから連れ出してしまったって、三虎は言ったよ。」


 おさまっていた涙が、また零れてしまう。

 両手で頬をおさえる。

 頬が熱い。


「それで、母刀自にきちんと舞を見せてやれ、オレも、おまえの舞が見たいって、三虎は言ったよ。」

「他のおのこに見せないで、自分一人に見せてほしい。そういうことだよ、古志加。ちゃんと三虎は口にしてるじゃん。

 ……もう、三虎が上野国かみつけののくににいられる時間は限られてるんだから、良く考えて動けよ?」


 花麻呂の言葉を聴いてると、まるで三虎があたしに恋してるみたいだ。

 そんなまさか、と思いつつ、


 胸が震える。


 ついさっき、背をむけたあたしを、三虎は優しく背中から抱きしめてくれた……。


「うん……。」


 とぼんやり言ったあと、はっ、と気がつく。


「あたし、三虎すごい怒らせちゃった。

 もう口もきいてくれないかもしれない。

 あたし、どうしよう?!」


 右手をぎゅっと握りしめ、自分の胸に押し当て、花麻呂にそう言うが、


「きっと、贈り物を無下むげにされた経験がないんだろうなぁ──。あれは怒ってたな──。まあ……、頑張れ。」


 と花麻呂は投げやりに言った。

 うぅ、そんな……。







     *   *   *



※参考……古代歌謡集  日本古典文学大系  岩波書店








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