第六話 寄らなれや
肩の上に、三虎の腕が後ろからまわり、ゆるい力で、いつでもほどける力で、抱きしめられている。
三虎は無言。
無言の時間が、長い。
古志加はただ、無言の三虎に、背中から抱きしめられている。
さぁ、と風が吹き、
「寒くない。」
と一言、三虎が言った。
「え……?!」
何のことだか分からず、古志加は混乱する。
三虎はふっと息をもらした。
おそらく笑ったのだ。
「オレが悪かった。言い過ぎた。オレは口が悪い……。そんな何日も、おまえの笑顔を奪うつもりじゃなかった。
ちゃんと聞きたいか、古志加……?」
古志加はごくりと唾を飲み込み、うん、と頷いた。
「茜の衣も、赤い
舞も、ちゃんと舞えていた。
もう……、
オレも、おまえの舞が見たい。」
そう言って、三虎は腕を離した。
古志加はくるりと振り返り、三虎の胸に飛び込んだ。
三虎の口元は優しく微笑んでいる。
「見せてくれるか、古志加?」
三虎の慕わしい、天へ
「うん。」
と古志加は頷いた。
でもまだ、三虎に抱きついている。
「古志加……。」
と三虎は腕の中の古志加に、ゆっくり声をかける。
「
今、いいか……?」
古志加は顔を真っ赤にし、
「う、うん……。」
と言って、身体を緊張で
(こ、これは……! この流れは……!)
と鼻息を荒くしていると、ちょいちょい、と剥き出しの首筋を指でくすぐられた。
予想外のくすぐったさに、
「ひゃん!」
と古志加は驚いて肩をすくませた。
三虎は、ぱっと古志加の肩を掴んで引きはがし、
「あー、おもしれぇ。」
くくく、と笑った。
「うぅ。」
古志加はなんだか悔しくなってしまう。
三虎がまっすぐな目で古志加を見た。
「舞え。
古志加は二回、
「うん!」
と力強く笑った。
※
大ひれや 小ひれの山は や
寄りてこそ
────母刀自に届くように舞い、
山は寄らなれや 遠目はあれど
や 寄りてこそ 寄りてこそ……。
────あたしの恋いしい人が、大唐に行っても、心の片隅に留めてもらえるよう、四つ船から無事に帰ってこれるよう、祈りをこめて。
古志加は舞った。
最後まで、舞った。
* * *
三虎は静かに微笑みながら、古志加が舞うのを見ていた。
十一月の風が、さぁ、と木の梢を吹き抜け、黄色い
(きっと、秋津島を離れ死ぬことになっても、忘れない。
オレは死の間際、この光景を思い返すだろうか?
それとも
この世に残してしまう
大川さまの笑顔だろうか?
わからない。
どうだろうな……?)
古志加は舞い終え、しばらくじっと母刀自の墓に
「終わりました。ありがとうございました。」
とすっきりした笑顔でこちらを向いた。
三虎は一つのことに思い当たる。
「
古志加は顔をぎくりと
「あれは……、女官部屋の仲間にあげました。
あたしより、他の人に使ってほしくて、母刀自は、きっともう充分で……。」
「なんだと……?!」
三虎はうめいた。血の気が引き、一瞬くらりとした。
ついで、熱い怒りが身を震わせた。
「あの練り香油をなんだと……!」
あれは、人手も手間も惜しまず作る、貴重なものだ。
どれも高価で集めるのに手間がかかる。
最後には三虎が自分で、一年分の練り香油を医務室を借りて作る。
大川さまのためだ。
三虎は生まれのおかげで財貨に困ったことはないが、練り香油を作る材料は、全て大川さまの財貨で
三虎は従者として管理をしているだけだ。
あの練り香油は、香りが良いだけでなく、肌の乾燥に抜群に効く。
風の強い
大川さまの為のものなのだ。
だが、古志加が
感謝の印として一つあげても良い、という気になった。
それに、……古志加が使えば良い、と思った。
古志加はあきらかに、
(バカなことをした。)
自分自身、本来は大川さまのものなのに、と後ろめたく思いつつ与えた品だったのに。
人に物を与えて、ここまで
(まずい、怒りが収まらない……!)
三虎はビッと身をまわし、鋭く近くの
ミシ、と音を立てた木はゆさゆさと揺れ、大量の赤い葉を落とす。
「み、三虎、ごめんなさい。」
青ざめた古志加が両手の平を三虎にむけて、こちらに近づこうとするが、
「来るな!」
三虎は目を吊り上げ、一歩、後ろに下がった。
「近寄ったら、殴る。」
古志加が、ひっ、と身を
「花麻呂と帰れ。」
それだけ言いおいて、背を向け、馬を繋いである栗の木に足早に向かう。
(どうしてオレはこうだ!)
奈良の市で、
唐では、仙人は棗を食べるとまで言われている。
きっと、古志加は喜ぶ……。
そう思って買い求めて、今日、懐にしのばせてきた。
「古志加と花麻呂で食べると良い。」
と渡してやろうと思っていたのだ。
そんな自分が腹立たしい。
これは
* * *
本当に怒らせてしまった。
怖い。
古志加は何も言えず、三虎が馬を駆り、去っていくのを、泣きながら見送ることしかできなかった。
しばらくして、心配顔の花麻呂が道を上ってきた。
「三虎が一人で先に帰るって。なんかすごい怖い顔だったけど……。
どうしたの?」
首をかしげて、静かに泣く古志加に訊いた。
「花麻呂……。あたし、前に三虎にもらった練り香油、他の人にあげちゃったんだよ。
それで三虎、すごい怒って……。」
そこまで言って、
「わああん。」
と大きな泣き声がでた。
たまらず、花麻呂に駆け寄り、その胸に飛び込んだ。
泣きじゃくる。
花麻呂は、
「やれやれ。」
とつぶやき、背中を軽く叩いてくれた。
「なんでそんなことしたの、古志加?」
「だって! 練り香油くれてすぐ、あの人、梅の枝を持って、
あたし、悔しくて……。
あたし練り香油なんていらない!」
そう激しく叫び、わああ、と古志加は泣く。
「ああそう、梅の枝ね……。」
花麻呂は深くため息をついた。
しばらく古志加が泣くのにつきあってくれた後、
「古志加、一昨日、宴で舞った時、すげぇ綺麗だったぜ? 見てた連中、皆、
でも三虎が怒って、途中で古志加を連れ出しちゃったろ? どういうことかわかる?」
と花麻呂は言った。
古志加は花麻呂から身を離し、ずびっと鼻をすすってから、うつむいて言った。
「あたしが着飾ったって、猪が蜘蛛の巣を被ってるようなものだ、恥さらしが、ってさんざんに言われたよ。
見てられなかったんだろ。」
花麻呂は右手を藍色の布を巻いた額にあてて、天を仰ぎ、
「オレもう本当イヤ。」
とため息まじりに
「いい? 恥ずかしいから、こんなの他のヤツから言ってほしいんだけど、ここにはオレしかいねぇ。しょうがねぇ、オレが言う。
あれは三虎の嫉妬。
古志加が綺麗にしすぎたの。胸元も色っぽかったし……。他の
「え? ……何言ってるのか、わかんない。」
いきなり頭がどうかしちゃったんだろうか?
と
「も───っ! これだから!」
と花麻呂はうなった。
「あのね、オレの恋いしい
当然、綺麗に着飾って、こう……。胸元も開けるわけ。
オレは、他の遊行女が同じように着飾ってるのを見るのは、楽しいよ?
でも、オレの恋いしい
他の
こう、布をかけて、大事に大事にしまいこんでおきたい……。」
と花麻呂が布を頭から被せる仕草をする。
「そんなことしたいの?」
と、これまた訝しんで花麻呂を見ると、
「も───っ!
本当にやったら困らせるでしょ!
しないよ!」
と花麻呂は歯を見せてうなった。
「つまり
花麻呂は、じとっとした目で古志加を見た。
「……違うと思う。
けど、さっき、三虎が……。」
古志加は迷いつつ、顔を赤くし、声を小さくし、
「茜の衣も、赤い
おさまっていた涙が、また零れてしまう。
両手で頬をおさえる。
頬が熱い。
「それで、母刀自にきちんと舞を見せてやれ、オレも、おまえの舞が見たいって、三虎は言ったよ。」
「他の
……もう、三虎が
花麻呂の言葉を聴いてると、まるで三虎があたしに恋してるみたいだ。
そんなまさか、と思いつつ。
胸が震える。
ついさっき、背をむけたあたしを、三虎は優しく背中から抱きしめてくれた……。
「うん……。」
とぼんやり言ったあと、はっ、と気がつく。
「あたし、三虎すごい怒らせちゃった。
もう口もきいてくれないかもしれない。
あたし、どうしよう?!」
右手をぎゅっと握りしめ、自分の胸に押し当て、花麻呂にそう言うが、
「きっと、贈り物を
と花麻呂は投げやりに言った。
うぅ、そんな……。
* * *
※参考……古代歌謡集 日本古典文学大系 岩波書店
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます