第五話  大川、何似幽懷攄、其の三。

何をもちてか幽懷ゆうかいべむ………幽懷ゆうかい(人知れず心の奥深く抱く思い)を、いかにべれば良いのだろうか。



    *   *   *




「そうか、そうか、ははは……。」


 大川おおかわさまの部屋。

 わらは二人を前にして、胸下まで流した長髪を揺らし、大川さまは笑う。

 その笑顔はいつものように柔らかい。

 声をだして笑うと、そのきらびやかな美貌がいっそう華やいだ。

 髪の毛上半分を結ったもとどりに、銀花錦石ぎんかにしきいしかんざしが、銀、白、橙、みどりに複雜にきらめく。

 

 三虎みとらから事の顛末てんまつをすべて聞き、今こうしている。

 部屋には、大川さまと、三虎とわらは二人の、四人がいる。


「では、叱ろうかなあ! この私が! うん……。」


 と、いつもの美しい柔らかさで笑って言うので、かえって怖い。


「まず浄足きよたり。主が間違っているところに、追従してはいけない。」


「はい。」


 と浄足がガックリうなだれる。


「私のせいです。私が無理やりつきあわせているのです!」


 難隠人ななひとさまが必死に言う。


「わかっている。こちらに来なさい。」


 と大川さまは難隠人さまのお尻を出させる。

 と、大川さまがこちらを見た。


(あ……。さっき思いっきり尻叩いちまったからなぁ……。ちょっと赤くなってるかもなぁ……。)


 と三虎は居心地悪く身じろぎした。それだけで大川さまには伝わるだろう。

 大川さまが笑みをたたえながら、難隠人さまのお尻を打った。


「ぎゃん!」


 そんなに力をこめてなさそうなのに、痛そうな悲鳴を難隠人さまはあげた。

 やっぱ赤くなってたんだろうな……。

 やりすぎたかもしれん。


 大川さまは二、三度尻を打ち、すぐにやめた。

 そのまま、衣を直した難隠人さまを自分の膝に座らせた。


「難隠人、何か言うことは?」


 と大川さまが問うと、


「古志加を泣かせました……。」


 と難隠人さまがうつむきながら言った。


「古志加は強い女官だし、胸もんだってお尻触ったって泣かないのに……。」


 お前、そんなことを……。

 と三虎は目をいた。

 やっぱり思いきりひっぱたいておいて良かった。


「イタズラが成功して、古志加を泣かせられたら、気分がいいだろうと思ってました。

 でも、いざ泣かせたら、全然、良い気分じゃなかった。」


 大川さまが優しく難隠人さまの頭をなでた。


「ではもう、泣かせるべきではないな。」

「はい。」

「父の言いたいことは、わかるかな?」

「はい。納曽利なそりの練習をすっぽかしました。……ごめんなさい。」

「そうだな。お前は上毛野君かみつけののきみの跡継ぎだ。人の上に立つべく、教養を身に着け、ふさわしくあれ。」

「はい。」


 大川さまは満足そうに、二度、三度、難隠人さまの頭をなで、


「私は、父上に怒られることがなかった。」


 と切り出した。自分語りは珍しい。


「一回、ひどく怒られたときは、八十敷やそしきに殴らせた。

 なぜ、自分の手で打つこともしてくれないんだろうと、寂しかったものだ。

 初めて父上の手で殴られたのは、やっと十五歳になってからで……。」


 そこで大川さまは言葉を切った。


「だから、自分の子には、寂しくないように、必要なときは、自分の手で打ってやろうと思っていた。だが……。」


 大川さまは難隠人さまの頬をなでた。優しく難隠人さまを見つめ、


「こんなに柔らかくて、すべすべで、かわいいわらはの肌を打つのは、辛いものだ。

 ましてや自分の子ならなおさらだ。いざ打ったら、全然、気分の良いものではなかったよ。」

「申し訳ありませんでした、父上。」


 泣きながら、難隠人さまは大川さまにぎゅっと抱きついた。まだ小さい身体は、大川さまの喉の下にすっぽりと頭までおさまる。身体をぴったりと大川さまにくっつけ、


「う……、ふぅっ……。」


 と声を静かに泣く背中に、大川さまは優しくゆっくり腕をまわす。


「話は聞いているだろうが、私は妻を迎えることになるだろう。

 阿刀宿禰藤売あとのすくねのふじめさまだ。

 おまえの母刀自となられるお方だ。礼と義を持って接しなさい。息子として……。そしたらきっと、おまえも寂しい思いをしなくてすむ……。」

「はい。」


 難隠人さまは大川さまの胸から顔を離した。 

 期待に頬を紅潮させ、泣きながら大川さまの顔を見上げた。

 くっ、と喉がしゃくり上げ、細かく震えつつ、目をつむり、


「ありがとうございます、父上。」


 小さいわらはは噛みしめるように言い、閉じた目から涙を流した。

 また、大川さまの懐で泣く。





    *   *   *





 大川は思う。

 難隠人ななひとの顔は、大川に似ているようで、亡くなった兄、広河ひろかわに似ているようでもある。

 では中身が広河に似ているのかというと、それも違う。


 兄はこんなではなかった。

 兄は私をいじめて、冷めた目で見ていたが、イタズラをするような子ではなかった。

 静かな子だった。

 私も、いつも父の目を気にして、良い子であろうと、イタズラなどしない、おとなしい子だった。

 難隠人は、嫌だと思うことは、


「イヤだ! イーヤーだ!」


 と全身で叫ぶ。

 大川はその声の大きさに圧倒されてしまう。

 難隠人は、人にどう見られるかなど気にもとめず、思いきりイタズラをする。

 思うままに。

 それを見ていて、


(もっとやれ。)


 と、心の何処かで思う大川がいる。

 私もわらはの頃、こんな風に過ごせていたら、きっと良かった。

 きっと、兄も……、

 こんな風に思いの丈を発散できる、

わらはらしいわらは」であったなら。

 もっと、私と兄の道はちがっていたはずだ。

 そう、私も兄も、

「童らしい童」ではいられなかった。

 難隠人は、私にも兄にも似ていないが、私と兄が童のときにやりたかったことを、やって見せてくれているように思えてならない。


 兄と私の子だ。


 難隠人を見ていると、生前よりも兄について思いをせる時間が増えたのが不思議であった。

 それが、子を残す、ということなのだろう。

 難隠人の目には、時折、母刀自のいない寂しさが揺れることはあるが、大丈夫、私はちゃんと難隠人を心から愛しんでいる。

 成長を楽しみ、上毛野君かみつけののきみにふさわしい後継ぎとして、育てることができるだろう……。


 


    *   *   *




「じゃあ、まずは九九ね。ここで唱えてごらんなさい。」


 鎌売かまめと、藤売ふじめと、難隠人ななひとと、浄足きよたりがこの部屋にはいる。


 藤売と難隠人が名乗りあい、


「私が大川さまの妻となった暁には、

 あなたの母刀自です。」


 と宣言したあと、藤売はそう言い放った。


「あの……、まだ全部は……。」


 難隠人は、照れているのだろう、さっきからモジモジしている。


「そう、ではまず、九九を覚えていらっしゃい。

 覚えたかどうか、明日また聞いてあげるわ。ではもう、行きなさい。」

「え。」


 難隠人が面食らった顔をする。


「ちゃんと教育はしてあげるわ。さあ、充分でしょう。もう行きなさい。」


 冷たい笑顔で藤売は言った。

 目には温もりのかけらもない。


「……たたらをや。(良き日を)」


 難隠人は震える声で退去の挨拶をし、礼をした。

 部屋をでたところで、わっ、と駆け出す。浄足が慌てて追いかける。




   *  *   *




 充分、部屋から距離をとった庭で、

 人気のないたちばなのそばで、


「わあ……ん。」


 と難隠人は泣いた。

 泣きに泣いた。

 浄足がそばでオロオロする。

 その浄足の腕を難隠人は、ぐっとつかまえ、泣いて腫れた目で、


「浄足は、日佐留売ひさるめが本当の母刀自でいいなぁ。」


 と言った。


「鎌売は本当の祖母だし、八十敷やそしきは本当の祖父だし、布多未ふたみだって三虎だっている。

 父親だって務司まつりごとのつかさで働いてる。」


 と涙を拭き、


「私の本当の母父おもちちは、どうして死んじゃったの。

 私も日佐留売が本当の母刀自なら良かった。

 父上も優しいけど、大好きだけど、本当の父上じゃないんだ。

 父上が本当の父上だったら良かった。

 どうして、こんなに一人なの………。」


 と胸を叩いて泣いた。浄足が大泣きしながら、


「オレは、オレは難隠人さまに何でもあげる、母刀自も父上もおばあちゃんも、何でも欲しいものはあげる、だから泣かないでぇ!」


 と叫んだ。


「バカ言え!

 日佐留売はお前の、たった一人の母刀自じゃないか。

 そんなこと言って、日佐留売を泣かすな、バカッ!」


 と難隠人がバシリと叱る。


「じゃあ、一人だなんて言うな! 

 難隠人さまはいつもワガママで、イタズラばっかで、すぐに女官泣かせて、オレがやめようって言っても聞いてくれない。

 でもオレは一人にしたことなんてない!」


 と言って、浄足が難隠人を抱きしめた。


「わあん、帰ってきて、母刀自……!」


 と浄足が泣いたので、つられて難隠人が、


「帰ってきて───!

 日佐留売───!」


 と大声で日佐留売を呼ばった。

 あとはもう二人で泣き崩れた。





    *   *   *




 その様子を遠くから鎌売は悲しげに見守った。

 どうにかせねば。

 藤売のあの態度は、身分ある人には普通であろうが、本当に寂しがってる難隠人さまにとっては、期待外れも良いところだ。

 どんな手がうてるだろう……。






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