第一章   くるみの人

第一話

 あらたまの  年月としつきかねて

 

 ぬばたまの  いめにそゆる


 きみ姿すがた




 

 未玉之あらたまの  年月兼而としつきかねて  烏玉乃ぬばたまの 


 夢尓所見いめにそみゆる  君之容儀者きみのすがたは





(あらたまのとしをこえて 


 なが年月としつきにわたり 何度もかえ


 ぬばたまのよるゆめなか


 いしいきみ姿すがたを。)






 万葉集     作者未詳




     *    *    *





 母刀自ははとじは、美しいおみなだった。

 しかしその、美しさこそ、母刀自ははとじを不幸にしたみなもとだった。






 オレは古志加こじか

 オレの母刀自ははとじ舌足したたらずだった。

 舌の長さが足りず、上手に喋れない。

 もちろん父やオレは、何を言ってるかわかるが、他の人には満足に通じない。


「生まれた時から、そうだったの?」


 と聞いたことがある。

 母刀自ははとじは悲しそうに目を伏せ、首を振るばかりで何も言わなかったが、酔った父が、己の右目にかかった刀傷を触りながら、


「違うさ。オレが切ってやったのよ。

 そうすりゃ余計なことは喋れねぇし、どこにも行けねぇからなあ……。え?福売。」


 と言って笑うので、心底腹が立って、


「この野郎!」


 と殴りかかったが、あの頃はまだオレは五歳だったので、逆に殴られて、軽々と吹っ飛んでしまった。

 全く歯が立たなかった。


 母刀自ははとじの親をオレは知らない。

 この酷い父が、遠くのさとから母刀自ははとじをかどわかし、逃げられないよう舌を切ったのだろう。

 もちろん文字は書けない。

 産まれざとの場所がわからず、さとの名も言えなければ、母刀自はどうにもできなかったはずだ。


 母刀自は福成売ふくなりめという。

 しかし、母刀自は「福あい売」としか言うことはできない。

 そうやって、この酷い男は、母刀自から永遠に自分の名を奪ってしまったのだ。



 オレの家は、土床だ。広さは充分。寝る時は寝ワラ。家にかまどがあるよ。鉄の鍋だって持ってる。パタン、パタン、押し出し間戸まど(窓)を自由に開閉もできる。

 やけに家のまわりが静かだって?

 そうだね。何故か、一軒だけポツンと、郷から離れた山の中腹にあるからね。

 さとの人はうちに全く来ない。

 かわりにいつも数人の、人相の悪いおのこたちが出入りし、オレと母刀自は世話のためこき使われ、気に入らないと、母刀自はともかく、オレは容赦なく蹴られた。

 下人げにんか何かと思われているらしい。


 父は畑仕事をしなかった。

 オレと母刀自は二人で畑仕事をし、豊作のときは郷の市へ売りに行った。

 しかし、そんな生活なのに、不思議と飢えたことはない。

 父が怒って、一日食事抜きはしょっちゅうあったが、凶作のときも、父は何かしら、三人がゆうに食べれる分だけの作物や布などを手に入れて帰ってきた。


 とくに「私出挙しすいこの取り立て」の時期は、羽振りが良く、うちに出入りするおのこたちも皆上機嫌だった。


 オレは本当は女童めのわらはだ。

 大事な事なので、もう一度言う。おみなだよ。

 オレって言ったり、男童おのわらはみたいな格好をいつもしてるのは、親父がおみならしくするのを一切許してくれないせいだ。

 理由は知らない。

 親父はオレに、いつも土や灰で顔を汚し、おのこの格好をしているようにと命令した。

 たまに顔を汚し忘れていると、


なまちろい顔してんじゃねぇ!」


 と殴られた。


「なんでだよ!」


 と言うと、


「いいかぁ、おみななんてのは、綺麗にしてるからいけないんだぜ。

 とくに、ここみたいに、ならず者が出入りするとこじゃあなぁ……。」


 と言って、手に灰をつけて、オレの顔をごしごしこするのだった。



 オレは自分のことを、ほとんど古志加こじかと呼ばない。

 母刀自が古志加と言おうとすると、どう頑張っても「こりは」とも「こるは」ともつかぬ言い方になるからだ。

 だからオレは、自分を呼ぶ時は「古流波こるは」と呼んだ。


「親父が呼ぶ古志加こじかより、母刀自の呼ぶ古流波こるはがいい。」


 と言うと、母刀自はオレを抱きしめ、


 ──あなたは古志加こじかよ。

 あの人の呼ぶ古志加こじかは、ちゃんと、あなたの名前なのよ……。

 ね、古志加こじかでいいのよ……。


 と、何故か悲しそうにするのだった。


 また、父は、何故かオレに剣を教えた。

 畑仕事や家のこと、やることは沢山ある。


「イヤだ。」


 と言うと、


「じゃあなぁ、食事抜きだ。おまえじゃなくて、福成売ふくなりめのだ。」


 と右目の刀傷を歪めながら笑って言うので、本当に腹が立って、持たされた棒でがむしゃらに殴りかかった。

 父は気まぐれに、だが頻繁ひんぱんに剣を教えた。

 身を入れてやらないと、


「母刀自の食事抜き。」


 とすぐ言うので、手は抜けない。

 怒って荒々しく打ち込めば打ち込むほど、


「いいぞ、いいぞ。」


 と父は言うのだった。


「強くなれ、古志加こじか。オレが鍛えない日も、毎日剣の稽古をしろ。

 一日でも休むと、すぐ弱くなるぞ……。」




     *    *    *




 あれは七歳。

 たわむれに母刀自に、


「オレ、兄か姉か、弟か同母妹いろもが欲しいなぁ。」


 と言ったことがある。

 あんなこと言うんじゃなかった。

 母刀自は震えだし、オレを抱きしめた。

 父が酒を飲み、ニタニタしながら、


「あん? いたさ。おまえの上に。

 あんまり泣くのがうるさかったんで、産まれて十四日で、子を欲しがってた裕福な家に売ってやったよ。

 福成売ふくなりめが寝てるうちにな。」


 とゲラゲラ笑った。

 母刀自が、うぅっ、と唸り、泣き出した。

 しかし父の下卑た笑いは止まらない。


「下もいたぜ? 三日でこれまた売ってやったよ。

 緑兒みどりこ(赤ちゃん)なんてうるせぇし、大勢いてもわずらわしいだけだからな。」


 いつもは父にくってかからない母刀自が、オレをしっかり腕に抱きしめ、父から守るように遠ざけながら、


 ──あんたは酷い奴だ!

 この鬼!

 あたしの緑兒みどりこ(赤ちゃん)を返して!


 と泣き叫んだ。

 父の飲んでいた酒の土師器はじきが勢い良く飛んできて、母刀自の顔の横の壁にあたり、ぱぁんと散った。


「うるせぇ! 

 古志加こじか一人はおまえの為に残してやったんだ。

 感謝しろ!」


 オレは心底ムカッぱらが立って、母刀自の腕を振り払い、家に置いてあった棒を握り、覚えたての剣術で、


「このクソ野郎!」


 と父に棒を振り下ろした。

 父は左腕でやすやすとその棒を受け止めると、オレの左脇腹を右腕でしたたかに殴った。

 倒れたオレを蹴ってうつ伏せにし、左腕を締め上げて背中にのしかかった。


「素手でかかってくるなら、殴るだけですませてやる。

 だが、得物を持って向かってくるってことはどうなるか、覚えておけ。」


 と言い、そのまま左腕を折られた。

 あれは酷い事になった。

 痛いし、その夜は高熱がでた。

 その後一月以上、弓が持てなかった。

 熱が下がったあと、


「あんなヤツ嫌いだ。

 母刀自のぶんだけ残して、この身の父の血を、全部体から絞り出してやりたい。」


 と言うと、母刀自は憔悴しょうすいしきった顔で、


 ──古志加こじか古志加こじか

 そんなことしたら、死んでしまうわ。

 あたしには、あなただけなのよ。

 あなただけが、あたしの幸せ。

 あなたが死んだら、もうこの母刀自は生きていかれない。

 熱が高くて、うなされて、どんなに、どんなに心配したか……。


 と泣くので、本当に後悔した。

 あの時はごめんなさい、母刀自。

 可哀想な母刀自。

 子供を取り上げられて、きっとまだ悲しいんだ、と思った。


 でも……。

 上の子も、下の子も、裕福な家に行ったんだろう……?

 あのクソみたいな親父のことを、知らずに暮らしてるんだろう……?

 母刀自には悪いけど、それはそれで、良いことだったんじゃないかと、オレは思うよ……。









↓鉛筆画の挿し絵です。


https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330659617152866

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