第二話 柘の櫛 〜つみのくし〜
あれは九歳の十二月、しんしんと寒かった日。
ふいに父が消えた。
そして、父が消えて、半月ぐらいたった頃。
ふらりと、父の仲間の一人が家にあがりこんできた。
「死んだよ。なんでかわからねぇし、死体もでてねぇけど、姿がない。あれは……、死んだよ。」
と言い、
──帰って。
という
「オレがお前の
前からいい
と、いやらしい顔で母刀自の
「よせっ!」
とオレは殴りかかった。容赦なく腹を蹴られ、ふっ飛ばされた。
「ぐっ!」
きゃああ、と母刀自が悲鳴をあげる。
その首を
「大人はこれから良いことをするんだ、出てけ、ガキ。」
と言い放ち、もがく母刀自に組みつきはじめた。
オレは頭がすっと冷えた。
(わかったよ、親父。)
と心でつぶやき、家に置いてあった剣をとり、
すらり、
と男の背中、肩から尻の下まで浅く長く切り下ろした。
男が悲鳴をあげ、こちらに向き直し……、その首もとに剣の
「出てけ。二度と来るな。」
なるべく凄みをきかせて言った。男は、
「この……、この……。」
と顔を赤くしたり青くしたりしていたが、
「こんなコブつき、こっちが御免だ、飢え死にしろ、後悔するからな!」
と言って家から出ていった。
母刀自はオレに抱きついて大泣きしたが、オレは泣かなかった。
これで良い。
オレがなよなよした、
そうだったら今日、母刀自を守れていなかった。
剣を教えてくれた父に、生まれて初めて感謝した。
父は死んだのだろうか?
本当に?
わからなかった。
死とは、きっと、オレが
ただ、オレはまだ、人が死んだところに立ち会ったことはない。
だって、本当に、市でごく短い時間しか話をしなかったんだもの……。
知識としては、人が死んだら魂は黄泉に行く。それは知ってはいるけれど、実感できるものではない。
オレにとっては、死んだ、というのは、いつの間にか消えていた。もう会う事がない。そういう事でしかなかった。
父もそのように、この
あの、乱暴で自分勝手な父が?
なんでだろう?
本当に?
オレは父の事を考えると、なんとも言えない気持ちになり、いつも、なんでだろう? を心の中で繰り返してしまう。
父はその後も帰ってこなかった。
そして、母刀自が見違えるように明るくなった。
もう
母刀自とオレの二人の時間は、安らかで幸せに満ちていた。
このままの時間が、ずっと続けば良いな、と思った。
* * *
「やった!
これで今日は
二羽は
何に交換しよう……。
とホクホクしながら、
母刀自は大量の荷物を
「何を持って行くの?」
──鎌よ。なんだか大量に見つけたの。
いつの間に、こんなに稼いだのかしら?
もちろん、オレも知らない。肩をすくめるだけだ。
山を降り、
たくさんの人が道の横にゴザをひいて、思い思いに品物を並べ、
「それ、良いね。」
と交換を申し込む。いろんな品物があって、いつも市に来て歩くと胸が踊った。
ゴザに座った塩売りの
「ねぇー、その塩と、この
「ああ、塩一
「ええっ、高いよォ、もう少し負けて。」
「うーん……、塩一壺と、豆一
と、
「悪くない! けど、もう一声!
雉二羽あげるから、塩
豆食べたい!」
交渉がまとまった。
つい盛り上がってしまった……。
オレはニコニコしつつ、塩と豆を
「あれ?」
とあたりを見回す。
母刀自は市では、あまり喋ろうとしない。
いつもオレが口がわりになっているので、一緒に行動するのに……。
と、キョロキョロしていると、人波のむこうに手をふる母刀自を見つけた。
「母刀自!」
こっちだよ。
二人で市を歩きながら、美味しそうな握り飯を見つけた。
「うちの握り飯は
鹿の干し肉をじゅうっと
……旨いよ?」
と言うので、もう口の中に唾が湧いてきた。
豆一握り分、二袋と、握り飯二つを交換して、その場ですぐ母刀自と一緒に食べた。
(また次もこの
と固く心に誓った。母刀自も、
──美味しいね、美味しいね、
と言い、二人で目をあわせて、ふふふ、と笑った。
市から帰り、荷ほどきをしていると、
──ワーホイ!
と母刀自が輝くような微笑みで、手のひらに乗る小さなコロンとした壺と、
その
きらり、
と金色に光を放っていた。
──綺麗でしょう?
こちらの壺には、
と、うっとりと
……たしかに綺麗だけど。
「母刀自。……いくら?」
う、と母刀自が動きを止める。
──この二つで鎌三本。
小さい声で言った。
「高い! 高すぎる!」
無駄遣いはよろしくない。
オレに叱られ、母刀自はしゅん、と肩を落とし、
──まあ、そう言わないで、
いえ、あなたがそう言うだろうとは、わかってたわ。
と言いながら、こちらの顔を自分の袖で優しくふいた。
いつもの
──それでも、本当に欲しかったのよ。
だって、こんなに良い細工の
ね?
あまり気はすすまなかったが、母刀自の好きにさせてあげる。
後頭部に
背中の中程まであるクルクルのくせっ毛は、ボワンと広がりつつ、腰の上まで届いた。
母刀自は、小さな壺から、椿油を手にとり、オレの髪に塗り、櫛で梳き、それを丹念に繰り返した。
たくさん油を塗ったので、あたりに油の匂いが薄くただよう。
母刀自は、そのまま、オレの髪を
「ふはむやおや〜、はえ……、」
──
はれ、
と鼻歌を唄いだした。
珍しい。
母刀自は、滅多に……、いや、ほとんど歌をうたったことがなかった。
よほど機嫌が良いのだろう。
「母刀自、綺麗な歌だ。」
と、なんだか胸が切なくなりながら、笑顔で言うと、
──ふふ。
母刀自も笑う。
母刀自は笑いながら、オレの髪を結い上げ、顔にも薄く、優しい手つきで油を塗ってくれた。
風にあたるとしょっちゅう切れて血がでる唇にも、小指でちょん、ちょんと油をたっぷり塗った。
そしてオレの頬を両手で包み、限りなく愛にあふれた眼差しで、こちらの顔を見つめながら、
──あたしの
これからは、もっと
あなたは
余裕ができたら、
あなたは、こんなに可愛いのだから……。
と言ったが、何かがオレの胸のなかで居心地悪そうに身動きした。
(母刀自、オレはそんなんじゃない。
ちゃんと、母刀自を守れるオレでいたいんだ……。)
そう思ったが、母刀自の上機嫌を壊したくなかったので、黙ることにする。
その後も母刀自は唄いながら、オレとそっくりなクルクルのくせっ毛を
たしかに、髪がつやつやになり、茜色の西日に反射している。
そうやって、二人で一壺分の椿油を一回で使い果たしてしまった。
母刀自は、うっとりとした顔で、艶のでた己の髪を何回も触っていた……。
(母刀自、綺麗……。)
最近の母刀自は、なんだかますます綺麗だ。
あの自分勝手な父が、どれだけ母刀自から
今は、生気が満ちて、
とは思ったが、オレはなんだか自分が似合わないことをしているようで、翌朝にはすっかり髪を
顔もわざと汚した。
オレはそれですっかり落ち着いたのだが、母刀自は
オレは
「昨日はその木綿の袋なかった。それも買ったの?」
と母刀自に鋭く聞く。
──まあ! 違うのよ、これは……。
母刀自は目を見開き、その後悲しそうに笑った。
瞳がきらりと光る。
──この撫子色の木綿はね、違うのよ……。
「ふうん。」
そんな綺麗な色の木綿、うちにあったの?
と思ったけど、オレはパッと背を向け、家の外へ出る。
もうその
オレにはやめてほしい。
──
と母刀自が家の中から叫んだけど、オレはもう庭の畑だ。
↓私の挿し絵です。
https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330659619998782
↓かごのぼっち様から、ファンアートを頂戴しました。
かごのぼっち様、ありがとうございました。
https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093077113601887
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