あらたまの恋 ぬばたまの夢 〜未玉之戀 烏玉乃夢〜

加須 千花

序章

君が姿は



 ことん、と物音がして目を覚ます。


 寝床ねどこのそばの机に、飯売いいめ青灰色せいかいしょく水瓶すいびょうを載せたぼんを、置いてくれた音だ。


「起こしてしまい、申し訳ありません、古志加こじか

 でももう、うま三つ(昼12時)ですよ?」


 飯売いいめは四十五歳。

 顔には今まで苦労してきたのだろう、日に焼け、深いシワが刻まれている。

 白髪がチラホラし、あごが尖り気味で、目は優しそうなおみなだ。


「ん……。」


 あたしは寝床のなかでもぞもぞ動いて、起きるか迷う。

 眠気がおりが積もるようにあり、頭が重い。

 昨日の夜はあの人が、


「恋いしい、古志加こじか。」


 と言い、あたしを、揺すり上げ、深く引き。

 揺すり上げ、深く引き。

 何度も、何度も、逆巻さかまく波の向こうまで連れて行き、明け方までそれを続けた。


 あたしは途中からずっと泣いていたように思う……。

 恋いしさがあふれて泣いてしまうのはいつものことだが、昨日はそれだけでなかった。

 やはり、……寂しくて。


 短い眠りのあと、二人で下紐したひもを結びあった。

 おのこ下袴したばかま下紐したひもと、おみなのひらみ(腰から下につける下着)の下紐したひもを、互いに結びあって、次に逢う時まで他の人にはほどきませんよ、とする、おのこおみなうけひ……。


 そして、口づけをかわし、門のところであの人が旅立つのを見送った。


 愛子夫いとこせ(愛しい夫)は、ここ上野国かみつけのくにから奈良へ、今朝、行ってしまった。

 途中、馬上でうっかり寝てしまわないか、それだけが心配だ……。


 あたしは、明け方まで起きていたせいで、体が夜番よるばんと勘違いしてしまったようで、恋いしい人を見送った後、深く眠りについた。

 夜番あけならさる三つ(午後四時)まで、眠る時間をとるものだが。


「もう起きて、昼餉ひるげをとらないと、今夜、眠れませんよ?」


 飯売いいめが穏やかに言う。

 外から差し込む二月の昼の光と、ふわりと漂ってくる白梅の花の匂いを感じながら、


「それもそうだねぇ。」


 とあたしは寝床から体を起こす。


「あふ。」


 あくびを一つして、この新しいはたらは、まるで母刀自ははとじ(母親)みたい……、と思う。

 あたしの母刀自ははとじは、もうこの世にいない。


昼餉ひるげにしましょう。」


 ぐぅ。


 あたしの腹が大きく鳴った。


「ま……。」


 飯売いいめが目を丸くして、笑った。


「えっへっへ。」


 あたしも笑い、須恵器すえき水瓶すいびょうから、そろいの須恵器のつきへ水を注ぎ、がぶがぶ飲んだ。

 須恵器すえきは、固く焼きしまった土の口触り。

 よく冷えた水がなめらかに喉を滑る。 

 美味しい。


「よろしければ、昼餉をとりながら、古志加こじかの話を聴かせて下さいな。」


 飯売いいめがここに来て、まだ三日目だ。


「ん! いいよ。」


 あたしはにっこり笑って、つか、目を閉じる。







 ……あの人は、今朝、あたしの下紐したひもを結び、


 ───古志加こじか、大きな瞳に強い光を宿やどす、オレのいもよ。

 どこにいても、おまえの美しい姿を忘れることはない。


 と、あたしの目をまっすぐ見て言ってくれた。

 あたしもだ。

 どんなに離れていようとも、愛子夫いとこせの姿を忘れたりしない。

 あの人はあたしに、いっぱいくれた。

 あの人の瞳を覗き込むと、その奥にたしかな輝きがあって、目が、おまえを恋うてる、と教えてくれる。

 たとえ近くにいなくても、あの人の愛が、あたしを薄く包んでくれているように感じる……。









 

 あたしはゆっくり目を開け、ゆるやかに笑った。


「あたしと、あたしの愛子夫いとこせの話を。

 長くなるけど、するよ。」



 いとしくて。


 恋いしくて。


 何度も夢に見た。


 あの人との話を……。







     *   *   *






 あらたまの  年月としつきかねて

 

 ぬばたまの  いめにそゆる


 きみ姿すがた





 

 未玉之あらたまの  年月兼而としつきかねて  烏玉乃ぬばたまの 

 夢尓所見いめにそみゆる  君之容儀者きみのすがたは







 あらたまの年月としつきをこえて、何度もり返し。

 ぬばたまの夜の夢に見る。

 恋いしい君の姿を。







 ※あらたまの……「年」にかかる枕詞まくらことば

 ※年月としつきかねて……長い年月にわたり。

 兼ねて、は、二つ以上あわせて、という意味があるので、年月を何度も繰り返してゆく、というイメージを持った言葉。

 ※ぬばたまの……ヒオウギの種子。丸くて黒い。「暗き」「黒」「夜」「夢」などにかかる枕詞まくらことば





      万葉集     作者不詳




   

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