墓守の入水 ~殿下に婚約破棄と言われました~
宮苑翼
一話完結
「ルイーズ、君との婚約は破棄させてもらう」
カチカチと鳴る秒針の音が室内に響く。それ以外に一切の音はなく、身じろぎすら聞こえない。
私は小さく息を吐き、ティーカップをソーサーへ戻した。ついに来たか、そんな思いで顔を上げる。
「理由をお聞かせいただいても?」
表情を変えることなく告げる私に、殿下は顔をゆがませた。
そういうところだ、そう言って吐き捨てる姿は、嫌悪感に満ちている。
「君は昔からそうだった。何を言っても、何をやっても表情一つ変わらない。愛想もなければ可愛げもない。そんな女と添い遂げるなど、私にはできない」
睨みつける瞳に、温度はない。心底嫌なのだという感情がよく分かる。その瞳は雄弁に、婚約者への不快感を語っている。
「なぜ、君だったのか。ヴェイユ侯爵家には、マリーという素晴らしい娘がいるのに。どうして私の婚約者に君が選ばれたのか。今でも理解に苦しむよ」
殿下は長い脚を組み、ティーカップを傾ける。
輝く金色の髪に翡翠の瞳。まるで宝石のごとき容貌は、いつ見ても美しい。絵本に出てくる王子様そのものだと、令嬢たちから熱い視線を受けている。婚約者がいても、彼へアプローチする者は後をたたない。この美しさなら、それも納得だ。
「マリーであれば、私は愛せただろう。くるくると変わる表情に、愛らしい笑顔。人目を惹く愛らしさには、誰だって敵わない。
それに比べて、君はどうだ。愛らしさの欠片もない。双子だというのに、なぜ彼女のようにできないんだ? 君が見せる笑顔は作り物、感情一つ見えてこない。
血の通わぬ人形を、どうして愛せようか」
私は扇を取り出し、口元にあてる。表情を気取られぬためだ。貴族令嬢であれば当然の振る舞い。
どうやら、それすら殿下は気に食わないらしい。扇を持つ私に、「そんなものなくとも、表情が動くことはないだろうに」と鼻で笑った。
「つまり、殿下はマリーを愛していらっしゃると?」
「そのとおりだ。君はそれに気づいていたんだろう? だからマリーがいる場所に、君は顔を出さなくなった。マリーが出席するお茶会にも同席しないそうじゃないか」
嘲笑を浮かべるその顔は、私を見下している。愚か者を諭す気にでもなっているのだろうか。彼はそのまま言葉を続けた。
「それに、私がこの家に来る際、マリーは顔を出さなくなった。君が来させないようにしているんだろう。
私がマリーに惹かれているから、彼女へ冷たくするのか? 皆言っていたぞ。双子なのに、仲が良くないようだとな」
本来であれば、同じ家の者同士、同時に茶会に誘われることが多い。幼少の頃は、揃って顔を出していたものだ。
しかし、二人揃ってお茶会に出ることはなくなった。貴族たちにはいい話のネタだったようだ。顔こそ良く似ているが、正反対な性格の二人。きっと、比較しては面白おかしく話していたに違いない。
「自身の片割れにすら醜く嫉妬するなど……そんな女との婚姻は御免だ。
幸い、私たちの婚約式はまだ開かれていない。今ならば、神に咎められることもなく婚約を破棄できる」
この国は、結婚にあたり二つの式を挙げる。一つが婚約式、もう一つが結婚式だ。
婚約式は、神へ婚約の誓いを立てる。生涯相手を愛し抜くという誓いだ。式を挙げることで神に認められ、死後も共にあれると言い伝えられている。
結婚式は、いわゆる人前式だ。人々の前で夫婦になるという誓いを立てる。多くの人に祝福され、夫婦として歩みだすのだ。
婚約式が神へ誓いを立てるとき。ゆえに、婚約式後の婚約破棄は基本的に認められない。それもあり、殿下は今婚約を破棄したいのだろう。神への誓いを破るのは体裁が悪い。そうなる前に終わらせたいのか。
「婚約式を行えば、死後も相手と共にあると言う。
私はそんなのは耐えられない。君と死後も側にいるなど、耐え難い苦痛だ」
殿下は紅茶を飲み干すと、ティーカップをソーサーへ戻す。カチャリ、と音が鳴ったことに、私は眉を顰めた。茶器で音を鳴らすなど、マナー違反。王家の人間がする作法とは思えない。
「君は本当に、こんなときでも変わらないな。婚約破棄を言い渡されようとも、体裁の方が大切か」
吐き捨てる彼に、私は冷ややかな目を向ける。これ以上、話すことはなかった。
「殿下のお気持ちは分かりました。婚約破棄、お受けいたします。書面は後日、父よりお送りいたします」
それが、殿下の婚約者である、ルイーズ・ド・ヴェイユの最後の言葉だった。
ルイーズとマリー、私たちヴェイユ侯爵家の双子は、似てない姉妹として有名だった。
外見は瓜二つ。しかし、中身が全く違ったのだ。落ち着いた性格の姉と、感情豊かな妹。顔はよく似ているのにね、と言われる度、苦笑するしかなかった。
私たちは趣味も真逆だった。ルイーズの趣味は読書、マリーの趣味は外遊び。自由時間の過ごし方すら違っていて、メイド達は苦労したことだろう。別々に遊ぶ姉妹、そのどちらも面倒を見なくてはならないのだから。
殿下とルイーズの婚約が決まったのは7歳の頃のこと。家族はとても喜び、マリーも喜んでいた。お姫様になる、それはあまり本を読まないマリーにも分かる“凄いこと”。姉が本当のお姫様になるのだと、メイドや幼馴染に語っていた。
ルイーズの婚約が決まり、次はマリーの婚約だと親は張りきった。そんなマリーの相手に選ばれたのは、幼馴染だったセドリックだ。
落ち着いた性格で、優しい少年。お転婆なマリーを支え、ときに窘める彼は、マリーにぴったりの相手だった。
幼馴染だったこともあり、二人は順当に中を深めていった。晴れの日には外で遊び、雨が降れば部屋で会話に興じる。仲睦まじい姿に、屋敷中の誰もが安心していた。
殿下の婚約者であるルイーズは、上手く言っていなかったけれど。そんなところまで、私たち双子は正反対だった。
ある秋のこと。普段義務的な交流しかしない殿下が、ルイーズを湖へ誘った。
紅葉が綺麗な季節。出かけるのにはぴったりだと、両親は嬉しそうに笑っていた。二人の仲を心配していたのだ。マリーは婚約者と仲良くやっているからこそ、二人の不和が気がかりだった。
こうしてデートに誘われるのだから、関係は悪くないのだろう。そう考えた両親は、ほっと胸を撫でおろしたらしい。そのせいか、違和感にすら気づかなかったようだ。
殿下が遊びにくるとき、彼はいつもマリーを呼びたがっていた。マリーが婚約者と会っているときは控えたが、それ以外であれば必ず側に呼んだものだ。それを、両親はすっかり忘れていたらしい。
何か違和感がある、それに気づければ未来は変わっていたのかもしれない。
「誰か! 早く医師を!」
その声が屋敷に響いたのは、夕方の時刻。殿下は濡れた服のまま、婚約者を抱えて屋敷へ入ってきた。ルイーズが湖へ落ちたと言う彼に、両親は慌てて医師を呼んだ。
屋敷内の人間達も、慌てたように走り出す。着替えや湯の準備など、やるべきことは多いのだ。
震える身体で、周囲を見つめる。それはどこか非現実的な、物語を見ているかのような光景だった。
あの日から、私たち双子の人生は大きく狂わされたのだ。
真っ暗な夜道を抜ける。わずかばかりある街灯は、既に姿を消していた。周囲に人影はなく、響くのは馬の蹄の音。静かな空間に、ただその音だけが鳴り響いた。
婚約を破棄する。それは、私が何より欲しかった言葉だ。婚約者へ見向きもせず、妹に心を寄せる。そんな男、誰がいいと思うのか。ずっと欲しかった言葉、それをもらえたあの瞬間、私は天にも昇るような心地だった。
あの男は、それに気づいていないようだったけれど。扇を出したとき、酷く嫌そうな顔をしていた。扇の下で、口元が弧を描いていたなど、思いもしなかっただろう。
こぼれそうな笑みを隠すのに、神経を使ったものだ。口元は隠せても、瞳は隠せない。喜んでいるのがバレてはならないと、必死に目元へ力を入れた。
その表情がまた気に食わなかったのだろう。彼はしかめ面を崩さなかった。笑っているのがバレずに済んだなら、それでいい。
目的地が近づいてきた。馬の歩みを緩やかにする。この先は道らしい道がない。慎重に歩を進めねば、辿り着かないだろう。
街道から逸れて、森の中へ入る。周囲は一層暗く、あまり先が見えない。馬を傷つけるわけにはいかないと、ここで降りることにした。馬の足元に飲み水と食べ物を置いてやる。ここは森の入口。朝になれば、馬の姿に気づく人も出るだろう。
枯葉が敷き詰められた地面を、ゆっくりと歩き出す。森の中は恐ろしいほどに静かだった。普段なら、怖くて来られなかったかもしれない。昼間でなければ近づこうともしなかっただろう。
あの男に婚約破棄を言い渡された、その日だからこそ来られたのだ。私の胸を占めるのは高揚感。それが本来感じるはずの恐怖心を抑えているようだ。
「はぁ、随分と遠いのね」
徒歩での歩みは、思っていたよりも時間がかかる。外出時は基本的に馬車だ。例え近隣であっても、貴族令嬢が徒歩で向かうことはない。
それを思えば、自身の感覚も致し方ないのだろう。慣れぬ徒歩に、真っ暗な森。最悪の組み合わせだ。時間がかかるのも、無理からぬことといえる。
歩きながら考えるのは、私たち双子のこと。あの秋の日、私たちの人生は大きく変わった。
性格こそ違えど、仲の良かった双子。その姿は遠い過去になってしまった。二人が笑い合う姿は、誰の目にも映らない。
仲がいいだなんて、誰も信じてはくれなかった。お茶会も、パーティーも、同席することがなかったのだ。信じてもらえないのも、無理はない。
唯一理解してくれたのは、セドリックだ。ミルクティーブラウンの髪に、青い瞳をした青年。双子の幼馴染で、マリーの婚約者。その彼だけは、私たち双子を理解していた。
悪意ある噂を聞くたびに、その穏やかな顔を歪ませた。正義感の強い彼は、双子を取り巻く環境に苦い気持ちを抱えていたようだ。それが、私にとっては何よりもの救いだった。
「ここね」
木々の合間をすり抜けて、私はやっと足を止める。足はじんじんと痛みを訴えていた。慣れない徒歩に、歩きづらい道。それが私の足を随分と酷使したようだ。
目の前に広がるのは、美しい湖だ。水面には、三日月が浮かんでいる。湖の端には紅葉が映り込んでおり、幻想的な光景だった。
「……美しいのね、とても」
胸を押し寄せるのは、悲しみか、それとも諦めか。表現し難い思いを抱え、私は静かに瞼を伏せた。
ずっと、この湖が嫌いだった。あの秋の日を思い出すから。
掛けていたマントを落とし、靴を脱ぐ。晩秋の冷気に晒された足は、ふるりと震えた。これからのことを思えば、この冷気など大したことでもない。
すっと湖へ足を踏み入れる。刺すような冷たさが足を襲った。
けれど、そこで諦めるわけにはいかなかった。帰る場所など、どこにもないのだ。婚約が破棄された時点で、私の終わりは確定した。
私に期待されたのは、次期王妃だ。両親の願いは、ただそれだけとなっていた。あの秋の日に、それをまざまざと痛感させられた。
あの二人はずぶ濡れの娘を前にして、泣きもせず言い放ったのだ。王妃になるはずだったのに、と。
「私、この湖が嫌い。でも、ここでならあなたに会えるんじゃないかって、そう思うのよ。
仲のいい双子が終わりを迎えた日。あの日、何もかもが変わったのだ。最愛の片割は天へ昇り、私だけが地に残された。
お茶会も、パーティーも、同席などできるはずがない。ルイーズはもう、神様のもとへ行ってしまった。
「自死は禁じられている。知っているのよ、私でも。
お勉強は好きじゃないけれど、私、頑張ったの。あなたそっくりになれるように、沢山本も読んだわ。マナーだって身につけた。もうお転婆なマリーだなんて、誰も私を呼ばないのよ?」
信じられる? そう言って、私は軽やかに微笑んだ。
ルイーズにとって、私はお転婆な妹だった。賢いルイーズに、元気なマリー。本を読まない私に、読み聞かせをしてくれたのはルイーズだ。
いつだって、ルイーズは私の憧れだった。絵本に出てくるお姫様。彼女の姿はまさにそれだった。
だからこそ、殿下との婚約を聞き喜んだのだ。やっぱりルイーズはお姫様なんだ、きっと幸せになれるんだ、って。
だが、現実は悲惨だった。殿下は、あの男は、よりにもよってルイーズを殺したのだ。せめて婚約破棄をしてくれたなら良かった。
なぜ、あんな強行に及んだのかは分からない。彼の周囲にいる人間が、彼の企みを認識していたのかも不明だ。
それでも、私は知っている。あの秋の日、ルイーズを抱いて現れた男。ルイーズを屋敷の者に手渡すと、彼女が部屋へ連れていかれるのを見送っていた。その口元には、いびつな笑みが浮かんでいたのだ。私は確かに、それを見ていた。
ルイーズが青褪めたまま目を開けないことも、両親が慌てていることも、屋敷の者たちが走り去っていくことも、あの男が歪んだ笑みを見せたことも。何もかもが非現実的で、まるで物語のようだった。
ルイーズは、三日三晩苦しんだ。医師の尽力もあったが、ついに、神の下へと旅立ってしまった。
ルイーズの枕元で泣きわめく私に、両親は言った。「お前がルイーズになるのだ」と。涙すら浮かべずに告げる姿は、気味の悪い人形のようだった。
それからの私は、ルイーズという役を演じることになった。何度泣いたか分からない。ルイーズは私の憧れ。理想のお姫様だ。
でも、私は彼女のようにはなれない。「できない」そう言うと、飛んできたのは罵声と大きな手だ。
両親に怯えながら、私は必死で真似事を始めた。度重なる心労に、外遊びへの意欲などとうに消えた。笑うことすら難しくなっていた。それにより、ルイーズの表情に近づいたと褒められたのは、皮肉でしかない。
私には婚約者がいる。大好きなセドリック。いつも私を支えてくれる彼。両親の狂った考えに、苦言を呈そうとしてくれたこともあった。
それを止めたのは、他でもない私だ。そんなことをすれば、両親は間違いなくセドリックを害そうとする。ルイーズが死んだことを隠したい二人は、もはや狂っていた。狂人の手が彼に伸びること、それが何より怖かった。
両親は、私をルイーズにするため、セドリックとの婚約を破棄しようとした。
けれど、私にもセドリックにも特段の瑕疵はない。私たちの仲睦まじさは有名で、セドリックの家が認めるはずもなかった。
あちらの言い分はもっともで、両親は仕方なく私たちの婚約を続行した。もしかしたら、殿下との婚約が破棄されるかもしれない。その不安もどこかにあったのだろう。保険として、婚約関係を維持したのだ。
マリーという存在はもはや、両親にとって保険でしかなかった。
そうしてルイーズとして過ごす日々、否が応でも気づくことがあった。
殿下はルイーズを愛していなかった。挙句の果てに、婚約者の妹である私を愛していただなんて! とんだ悪夢だ。それに気づいた日は、強い吐き気に襲われた。気持ち悪い。そんな理由で、人を殺せるのかと。殿下も両親と同じ、気味が悪い人形にしか見えなくなった。
そして両者の望みは、最悪の形で結ばれようとした。ルイーズとの婚約を破棄し、マリーと婚約する。それは、殿下にとっても、両親にとっても、都合のいい話だった。
殿下としては、惹かれた女と結婚できる。両親としては、自分の娘を王妃にできる。落ち着いた頃にでも、ルイーズの事故死を発表すればいい。そうすれば、両親が吐いた嘘は闇に葬られる。そう考えていたのだろう。
王家からの婚約打診とあらば、セドリックの家も引き下がらざるを得ない。
だからこそ、もう打つ手が無かった。どちらにせよ、私に逃げ場はなかったのだ。殿下が私に恋をした時点で終わっていた。
「ねぇ、ルイーズ。天国に行ったあなたとは、離れ離れになるのでしょうね。自死をするなんて、私はきっと地獄へいくのだわ。
でも、この湖なら。あなたを奪ったこの湖でなら、あなたに一目会えるんじゃないかって、そう思うのよ」
水は、私の胸下の高さまで来ていた。この湖は、中心部へ向かうに連れて深くなる。もう少し足を進めれば、きっと、私の姿など覆い隠してくれるだろう。
「何もかもを失うくらいなら、せめて一つくらい成し遂げたかった。それが叶ったの。それだけで、私は十分幸福だったわ」
ルイーズと殿下の婚約破棄。私が最後に望んだのはそれだった。婚約式を挙げてしまえば、ルイーズの死後すらあの男にくれてやることになる。
それだけは、それだけは許せなかった。命を奪い、その死後すらも明け渡す。そんなことは、例え神が望んだとしても許せない。
ルイーズの死後を守ること。それだけが、私にできることだった。苦しい最期を迎えた片割の、安寧の眠りを守ること。それができるのは自分だけだと、必死で奮い立たせた。
美しく、賢いルイーズ。私の理想のお姫様。あなたの眠りが穏やかであるように、そんな願いは聞き届けられた。
今日、あの男が婚約破棄を伝えてきた。それに私がどれほど喜んだことか! あぁ、守り通せたのだと、彼女の眠りは穏やかなものになるのだと、歓喜が胸に湧きあがった。
もう、私が彼女の眠りを守る必要はない。彼女は名実ともに神のもとへ行けるのだ。死後の縁などなく、ただ安らかに眠ることができる。
それならば、守り人はもういらないだろう。私の役目は、今日をもって終わるのだ。
ゆっくりと、歩みを進める。胸下にあった水は、今は鎖骨ほどの高さに来ている。足の感覚はとうにない。麻痺をしたかのように、冷たさすら感じなくなっていた。
静かに瞼を閉じる。きっと、明日になれば騒ぎになるだろう。新たに婚約を申し出るはずのマリーが、どこにもいないのだから。
それでいい。王妃になるマリーなど、夢物語だ。そんな未来、私は望んでいない。できることならば、セドリックと。あの優しい青の眼差しに見つめられ、平穏な人生を歩みたかった。
守り人としての役目を終えた今、手放せないのはただ一つ。セドリック、彼の婚約者であるという立場だ。ルイーズとして生きることを命じられた私に、唯一残された
婚約式も挙げられなかった私たちは、死後を共にすることはないだろう。どこまでも優しいあの人は、きっと新たな幸せを見つけられる。彼の心を癒す人が必ず現れる。
できることならばそれは、私でありたかったけれど。
こぼれる涙が頬を濡らす。どうせ最後は水に浸かるのだ。わざわざ拭うまでもないと、流れるままに放置した。
見上げた月は、いつもと変わらぬ輝きを見せている。
どこまでも美しく、遠い月。それは、たった一人の片割のようで。天に昇った彼女は、今も美しくあるのだろう。それを思わせる月に、小さく笑みがこぼれた。
ごきげんよう、小さく紡いだその声は、叫び声にかき消された。
「っ、マリー!」
耳に届いたのは、恋しい声。いつもは甘く響く音が、今は切り裂かれそうな痛みを伴っている。
視線の先に浮かぶのは、美しい青。
ゆっくりと微笑んで、私は一人目を閉じる。最期に見えたあの青に、心の中で愛を告げた。
口にするのは残酷だ。けれど、美しい青へ別れの言葉は言えなくて。
「ありがとう」
愛した青に感謝を。水に沈むその前に、思いを言の葉に乗せた。
沈む身体。その手に、何かが触れる。寒さに麻痺した身体では、それが何かは分からない。
私の意識は既に、まどろみの中にいる。
墓守の入水 ~殿下に婚約破棄と言われました~ 宮苑翼 @Tsubasa_Watanabe
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