最終話 大切な思い出

 十年前。

 母と出かけて、焼きたてのクロワッサンを買って貰った日のこと。

 抱える袋はポカポカ温かく、いい匂いがする。


 知り合いと立ち話を始めた母を呆れた目で見つめ、一個だけ食べてしまおうとこっそり入った路地裏で、子供を見つけた。

 街灯に照らされた肌は黒く、髪は白い。

 母が嫌っている異国の子だ。何をされるか分からないと逃げる準備をしたら、その子のお腹がまぬけな音を奏でた。


「クロワッサンよ、食べる?」


 思わず一個差し出していた。安心したのだ。肌と髪の色が違っていても、同じ人間なのだと。

 その子は受け取らず困っていた。

 向こうもまた警戒しているのだと気付き、手にした一個をムシャムシャ食べて見せた。


「美味しい〜!」


 自然と笑顔が浮かぶ。その様子に緊張が解けたらしい。

 次に差し出した分は受け取った。

 ガツガツと貪る姿が、飢えた子犬のように思えたから、悪気なく言ってしまった。


「もっと欲しければワンとお言いなさい」


 すぐに後悔した。

 慌てて訂正しようと開いた口が、思わぬ反応にかき消される。


「ワンワンワンワン!」


 寒気がした。

 自分が恵まれた環境で生きている事を分かっているつもりだった。

 だが、世の中には犬の真似をするほど飢えている子供がいるのだという事を、その時初めて知ったのだ。

 自分の愚かさに耐えきれなかった。

 手にしていた袋ごと、クロワッサンを子供に押し付けた。


「これは恵みじゃない。貸しよ。わたくしはローズ・デンファレ。アナタが大人になったら返しにきて」


 そう言い残し、逃げるように走った。

 母には全て食べてしまったと嘘をつき、はしたないと叱られた。

 それから何度もあの子の事を夢に見た。元気だろうか、大人になれたのだろうか。

 色々あって忘れていた大切な思い出。



 ナインと初めて会った朝、黒い肌と白い髪の彼を見て、懐かしい気持ちがした。

 あの時の子と重なるからだったのだ。



 ナインの後ろ姿が浮かぶ。

 厨房で何か生地を伸ばしている。いつもの大好きな背中、とても良いことが起きそうな──。



「ねえ、ナイン。朝ごはんは何?」



 自分の寝言で覚醒すると、ナインは涙を零しながらナイフを床に落とした。ああ、絶対に死にたくない。

 好きな人にこんな顔をさせていいわけがない。



「わたくし、生きるために死ぬ気になるわ」



 +++



 投獄されているリサに会いに行った。

 これでもかと罵声を浴びせられること二時間。頭を下げ続けた私に、彼女は呆れた様子で告げる。


「プライドを無くしたメスブタお嬢様にぃ、思うことはもう何もありません」


 私への殺害依頼は消え去った。


 その後、婚約者である変態男の元に行き、クリスティーヌにした悪行を洗いざらいぶちまけた。更に五股かけていて性病もあると嘘八百を並べた。


「うわ、無理。ぼくちん純朴な十代にしか興味無い」


 二度目の婚約破棄はガッツポーズと共に。

 勝手に会いに行き、勝手に振られた事で激怒した両親に勘当された。それなりの手切れ金と共に。

 もうデンファレを名乗る事はない。

 ただのローズだ。


「ナイン、この金額でアナタに殺害依頼をします」


「なっ、ローズ様。いったい誰を」


「百年後のわたくしです」


「──ッ!?」


「一度依頼を受けたら、キャンセルされるか完遂するまで別の仕事を出来ないのよね? 百年間わたくしと暮らすしかないわね」


 ナインは少年のような顔をして笑った。


「生涯貸し切りにするには、足りないですよ」


「ならば断る?」


「まさか!」


 ナインはきつく抱きしめてきた。甘いお菓子の香りがする。さて、これからどうしようか、生きていくためには働かなければならない。



 +++



「そろそろ休憩にしましょう」


「今日のお昼は何?」


「クロワッサンサンドイッチです」


 老夫婦がやっている農園で働かせてもらう事になった。野菜も果物も作っている大規模なところで、仕事はたくさんある。

 額に汗してお給料をもらう事は、とても大変で楽しい。

 どんなに体力的に辛くても、どうにでもなる。ナインの絶品料理さえあれば。


「んー美味しい!」


「あなたの笑顔を見ることが、私の何よりの幸せです」


 肩を並べて食休みをする、穏やかな時間。

 ナインが静かに口を開いた。


「クロワッサンには思い出があるのです」


「聞かせて」


「子供の頃、両親を亡くして路上生活をしていた時に、どこかのお嬢様に袋ごと頂いたのです」


「えっ?」


「暗くてお顔が見えなかったのですが、あのクロワッサンのおかげで生き延びました。いつかお会い出来たらお礼をしたいと思っているのですが……」


 エプロンの裾をぎゅっと掴む。

 あれはあなただったのね。覚えていたのは、わたくしだけじゃなかった。


「その人はきっと、あなたが元気なだけで充分だと思うわ」


「そうでしょうか、犬の真似をさせるような、ちょっと意地悪な方だったのですが」


「本当にやるとは思わなかったのよ。悪かったわ!」


「……」


「……」


「あの、それはつまり──」


 もう! それ以上は言わないで!

 ナインを草原に押し倒し、野暮な事を言おうとする唇をふさいだ。



 終わり。

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悪役令嬢が殺し屋男子に恋をした! 秋雨千尋 @akisamechihiro

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