Q.どんな夜を過ごせば報われるか(いたらぬ男に処女を捧げた女について)

かめかめ

はじめまして、さようなら

「初めてって、本当に血が出るんだ」


 そう知ったのは三十一年と五か月を生きた冬のことだった。初めて男性と夜を共にした。

 初恋だった。


 理由もなく子どもを叩くような父親に育てられ、幼いころから男嫌いだった。

 そんな私にも、理想の男性像があったのだと初めて知った。

 だがそのときには、なにもかも遅かった。


 想い人は職場の上司。他部署から異動してきた。異動の挨拶で皆の前に立ったときには、すでに好きになっていた。一目惚れだ。

 柔和な笑み、眼鏡を掛けた知的な表情、若年にして部長に抜擢された有能さ。

 既婚者で子煩悩。誰にも平等に優しい。


 もちろん、私にも優しさは与えられた。だが、誰にでも見せる優しい笑顔を見るたび、上司にとってその他大勢のうちの一人が私なのだと思い知るばかりだった。


 きっと奥さんには、子どもには、家族にだけ見せる、とっておきの優しさがあるのだろう。

 家庭でしか見せない厳しさも持っているかもしれない。私はそんな顔を一生、見ることが出来ない。


 三十一年と五ヶ月。男性を嫌悪し続けた私には、男性との接し方がわからなかった。

 

 その年の忘年会。私の席が想い人の隣になって、舞い上がった。

 上司となにを話せばいいかわからず、強くもないのにお酒をがぶ飲みした。そこで意識が途切れ、次に気づいたときには、私はベッドの上で全裸だった。


 上司が私の上にのしかかっていて、汗を流し、息を荒くしていた。私はゆさゆさと揺さぶられるまま、本当にすぐ近くで上司の顔を見つめた。力が入って歪んだ顔には、私が知りたかった優しさなど、微塵も存在しなかった。


 事が終わると、上司はさっさと浴室に行き、私は置き去りにされた。どんな会話の末に、ここに辿りついたのだろう。

 部屋の中央にダブルベッド。アダルトビデオがいつでも見られるテレビ。ローテーブルと二人がけのソファ。それだけの部屋。

 私は腹部の鈍い痛みに顔を顰めながら立ち上がった。シーツにはポツリと、処女ではなくなったという徴の血のシミがあった。


 ぼんやりしている間に上司がシャワーを終えて浴室から出てきた。身支度を済ませて「シャワーしたら?」と、いやに平板な声で言った。


 いつも持っているビジネスバッグを開けて、小さな箱をしまった。


「それ、いつも持ってるんですか?」


「ああ」


 恋心は一気に醒めた。常にコンドームを持ち歩いている男のどこが子煩悩だろう。どこが家族思いだろう。

 私は男を嫌い続けた年月で、男を見る目を曇らせてきたのだ。


 翌日からの勤務は地獄のようだった。

 煙草を吸う上司が喫煙室で言いふらしたようで、私の痴態が社内の噂になっていた。

 上司は人目を気にすることもなく、私に擦り寄ってきた。陰に隠れて指を絡めることさえした。


 どのように接すれば自分の尊厳を守りつつ、男を退けられるか、そんなことも私にはわからない。全裸を見せたという事実を思い出し、ただ真っ赤になってうつむくことしか出来ない。


 経験を積もう。

 性行為に慣れるのだ。

 男など、なんでもない。性行為など大したことじゃないと言えるまで。性行為を繰り返せば私が侵した人生の恥部は薄まり、次第に記憶から消えていくだろう。



 

 出会い系サイトに写真を晒した。ブサイクな女とでも寝たいという男は、ぞろぞろと現れた。ぞろぞろ来ても誰でもいい。ただの性行為の練習台だ。

 出会い系サイトで連絡を取り、待ち合わせしたのは、時間や場所の条件が合いやすいというだけの理由の男で、既婚者だった。


 性行為をするためのホテルの待合室で、非日常で背徳的な経験に、男は情けなく震えていた。初めての不倫なのだろう。体を固くしてうつむいて、声も出せない。


 きっと上司に指を絡められたときの私もこんな姿なのだろう。弱くて自信もなくて、押せばなんでも言うことを聞きそうだ。

 私も男も、本当に情けない。


 男の手をぎゅっと握った。男の手も、私の手も震えていた。

 彼の羞恥は純粋な好奇心からくるもので、童貞の男の子の心に通じるものがあるだろう。けして妻のことを考えて思いやって罪悪感に震えているのではないはずだ。

 ブサイクだろうが、なんだろうが、女だというだけで私に欲情するような男なのだから。


 そう自分に言い聞かせて、私は私を騙そうと経験豊富な女ぶってみせた。処女を脱したばかりだなどと知られて、ナメられる気はない。


 男の手を優しく愛撫して緊張がほぐれたところで唇を押し付けた。煙草の臭いがして上司の事を思った。

 もう恋心はないのにまた抱かれたいという思いと、自分の痴態を言いふらされた憎悪を同時に感じた。

 そのどちらをも男にぶつけるために、何度も男の唇を吸った。


 男は私と性行為をするためだけに、何度も遠路はるばるやって来る。自宅の近場で相手を探さないのは、絶対に不倫がバレないようにという用心だろう。

 そんな小心過ぎる用心を私は笑う気にはなれなかった。彼はホテルに入るまで、いつも脅えていた。人の目を気にしてビクビクと。

 本心では家庭が大切なのだ。彼のカバンに、コンドームの箱は入っていなかった。私は親近感を抱いていた彼との連絡を断った。


 彼と性行為をしなくても、出会い系サイトには性行為ができれば、相手はどんな女でもいいという男が無限にいるようだった。


 太っている年上女性でないと満足できない小男。


 外での行為に発情する大人しそうな若者。


 女装しないと興奮しないのに、化粧がめちゃくちゃな、痩せた男。


 世の人からは特殊だと思われるであろう性癖を持つ男がたくさんいた。

 世の中には何通りもの性行為があるのだ。なにが普通かなんて、誰にも決められない。


 きっと、私の初恋も、他人から見れば爪の先ほどの価値もない、問題にならない、くだらない、バカバカしい子どもじみたものだろう。

 そんなことに囚われているくらいなら、セックスの腕でも磨けばいいと思われるようなことだろう。

 私にとって男なんて、上司以外ならだれでも良かったのだから。




 待ち合わせ場所に着いて驚いた。その小柄な青年の左手はまったく動かなかった。

 青年は物静かでひっそりと悲しそうに笑う人だった。

 ホテルで服を脱ぎ、シャワーを済ませ、ベッドに入った。


「腰が悪くて動けないんだ」


 青年は微笑を崩さずに言った。

 いろいろなセックスがあることを知っていて良かったと初めて思った。

 出来る限り、私が気持ち良くさせてあげたい。そう思わせるなにかが青年にはあった。


 数ヶ月前に出会った嫌な男、その男がベッドに横たわったまま命令した屈辱的で淫らな行為を、ありがたいと思えた。

青年のためなら屈辱など感じない。


「じゃあ、また」


 それだけで私たちは解散した。次の約束はしなかった。性欲を満たすためだけに会うのだ。男性が性欲をいつ発散させたくなるのかなど私にはわからない。

 女性の生理とは違うのだ。


 私は元来、性欲が強い。その性欲は生理の一週間ほど前から現れる。ほぼ毎日、自慰行為をして疲れてそのまま眠る。虚しいような、満足なような、どちらともつかない気分になる。


 そんな夜は紫色のデパートの夢を見る。

 その紫色のデパートで、私は欲しい物を探す。どこからどこまでも空っぽの棚、マネキンは何体もあるのに、すべて裸だ。

 屋上から地下まで探し歩いても、誰もいない、なにもない。

 仕方なく私はデパートの試着室で自慰行為をして、欲望を満たそうとする。まったく報われることはないとわかっているというのに。


 夢占いでは、紫色は欲求不満を表すのだそうだ。

 確かに、自慰行為では満たされない暗い洞窟を私は体内に持っている。

 男が入ってきて、新しい生命が出ていく。そんな洞窟を。




「絶対、病気持ってるよう。そんなに何人も男咥えてたら、絶対病気持ってるよう」


 ホテルに行くための金を、一晩だけセックスする女に使いたくない男だ。性行為の前に恥部を清潔にする必要も感じてはいない。公園のトイレの壁に両手を突き、尻を男の目に晒し、私は男を嘲笑った。

 コンドームを付けていたって移る性病はある。何人もの男を咥え込んだ女とセックスをしたがるのに、自分だけは大丈夫だとでも思っているのだろうか。


 病気が怖くても性欲をコントロール出来ない男。

 女を傷つける言葉を繰り返していることにも気付いていない男。


 本当に私が性病を持っていたら良かったのに。過去に出会った男たちに性病を移してやれたのに。

 それが私がもっとも望むことなのかもしれないと思いながら、男の性器を暗い洞窟に受け入れていた。




 あの青年とは何度か連絡を取り合った。不自由な指で私のためにスマートフォンを操作しているのだと思うと、胸の底に灯りがともったような暖かさを感じた。

 交わすのは、わずかな情報。彼は事務職をしているけれど、たまに力仕事をしなければならず、腰の痛みに悩まされること。

 家族構成や飼っている犬のこと。

 どうということでもない、どうでもいい情報。だが、それを教えてもらえる間柄になれたのだと嬉しかった。


「僕に入れ込まないでくださいね」


 五度目のメールでそう言われた。なるほど。私は通りすがりの女ではなく、重い女になっていたのか。

 付き合ってもいないのに重い女、最悪だ。


 次にメールを送るときには一言一句、一字にまで気を使って軽いノリになっているか確認した。

 青年は私をブロックした。当たり前だ。そんな徹底的に精査した文章のメールが重くないわけがない。鬼気迫った怨念すらまとっていたかもしれない。


 突然に連絡を切られても少し残念だと思っただけで、寂しくも悲しくも辛くもなかった。

 私は青年の、男っぽい臭いが薄くて、優しくてかわいらしいところに執着しただけだった。


 彼に恋をすることができればよかったのに。

 対等な人間として触れ合えればよかったのに。

 長年、男を見てこなかった結果が、これだ。人を見る目がなく、本当に愛すべき人を見過ごす。

 彼のなにに惹かれたか、やっとわかった。

 彼は一人の人間だったのだ。性別など関係なく、真っ直ぐに生きていた。




 出会い系サイトは私にとって、とても楽しいものだった。

 男たちは女を求めている。そのうえで、セックスの相手は私でいいと言う。 

 私が女という性だと自認させてくれる。

 男を拒否し続けることで、私はずっと自分が女であることを拒否し続けていたのだろう。

 男が嫌いだったのか、自分のことが嫌いだったのか。どちらでもいいと今は思える。



 どうでもいいことだが、私が出会った男の中で、車が汚れている人には、希少だろうと思われる性的欲求を持つ人が多かった。


 ドリンクホルダーにコーヒーのシミがたくさんついている男は、人目につきかねない海沿いのコンテナの影で私の体をまさぐってきた。


 使われていない後部座席に白くホコリが溜まっている車を運転していた男は、私の小便を飲みたがった。


 足の踏み場もないほど、ゴミ溜めのような車に乗っていた男は、風呂にも入っていない状態の私の尻の穴を舐めたがった。


 さすがに付き合いきれず、どの男もお断りした。


 だがもし、出会い系サイトで出会った一人目がそんな性的嗜好を持っていたら、私は断り切れただろうか。

 男がどういうものか知らないまま、言いなりになっていたのではないだろうか。


 初めて見た象がサーカスの曲芸をしていたとしたら、すべての象が曲芸をするものだと思わないだろうか。

 男は皆、カバンにコンドームの箱を忍ばせていると私が思ってしまったように。



 繰り返すが、私は男が嫌いだ。とくに同年代の男子たちが。騒々しくて品位が低くマナーというものを知らない。

それが私の男に対する知識の全てだった。


 男を嫌っていたため、女子校に通い、女性ばかりの職に就き、男子は成長すると大人になるということを見ないふりして生きていた。知識を書き換える労力を厭うていたのだ。


 私の怠慢を教えてくれたのも、出会い系サイトで出会った男だった。

 年齢が二歳違いで、書店が好きだというところで話が合った。

 彼はセックスを求めなかった。真面目な婚活だと言った。


 まさか嘘だろう。そのうち、セックスが目的だったと尻尾を出すに違いないと疑いながら何度か会っていた。

 その間に、阿呆なだけだった男子は、紳士になることがあるのだと教えられることが何度もあった。


 一つ一つは小さなことだ。バスでスムーズに席を譲れるとか、車が一台もいなくても信号無視は絶対にしないとか、タクシーから降りるご老人に通りすがりに手を貸したりとか。


 私が知ろうとしなかった男性の姿を見せられて、うろたえた。

 大切なことは小さな行為の積み重ね。それが出来る男性は本当はたくさんいたのだろう。


 私は自ら好んで、悪臭をはらむ行為を積み重ねる男たちと出会い続けていただけなのだ。

 出会い系サイトにセックスだけを求め、セックスのことばかり考える男たちを、わざと選んで。

 男がどうしようもない生き物だと思い込みたいばかりに、自分は正常なフリをして。

 薄汚く留まるところを知らない、自分の性欲に目をつぶって。



 醜悪な自分の性根を知られたくなくて、私は紳士と連絡を断った。

 電話もメールも着信拒否していたが、出会い系サイトでメッセージが残されていた。


 付き合っていた時間への感謝と、良い出会いがあるようにというエール。


 本当に別れて良かった。

 私のセックスの餌食にしなくてすんで良かった。

 私が男を蔑むための道具なんかにならないで。どうか幸せになって欲しいと願った。



 職場の忘年会が終わりかけた時、遠くの席にいた上司がやって来た。

 私と隣の女性の間に割り込んで座ると、隣の女性と話しながら私の太ももに脚を擦り付けてきた。


 すっと体を離して、上司の脚に触れないように足を組んだ。

 それだけだ。


 私が知りたかったことは、たったそれだけだったのだ。そのためだけに、何人もの男とセックスし続けてきた。


 拍子抜けしたような上司の顔を横目で確認して、私は恋心なんてとっくに完全に消えていたことを知った。セックスをしたいとも思わない。

 やっと私は、自分の処女性を重視する、どうしようもなく独りよがりな考え方から逃れることが出来た。


 出会い系サイトは退会した。

 もう恋愛に興味はなく、だが、いまだに衰えぬ性欲に困らされている。 


 それでも、もう男はいらない。私の性根は変わらないし、誰かを傷つけるためにセックスする必要もない。皆、好きなように自分の性欲に振り回されて踊ればいい。

 ラテンでもいい、タンゴでもいい、盆踊りだって、好きなように踊ればいいのだ。


 だけど私は、もういい。ダブルベッドの上で踊っている誰かが、純粋な性欲を発散していることもあるのだと知ったから。

 後ろ暗いことなど何一つない愛情を、交歓出来る人がいると知ったから。

 ビジネスバッグにコンドームを常備していないセックスは、醜いものではなく思いを伝え得るのだから。

 

 そんな美しいセックスは、性欲まみれの汚れた洞窟を持つ私には似合わない。

 

 だから私は今日も、足を組んで座る。

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Q.どんな夜を過ごせば報われるか(いたらぬ男に処女を捧げた女について) かめかめ @kamekame

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