右足の親指と人差し指の付け根を、一匹のアリが這っている。


「なんで小坂に目をつけた?」


 俺は怒りを隠すこともなく、ハナエに訊いた。


「……目なんかつけてない。ただ、仲良くなりたかっただけだよ」


 白々しい言葉を吐いて、ハナエがかすかに笑みを浮かべた。


「いや、お前には分かってたはずだ。小坂がお前に惚れるのを」

「私には、だれかと仲良くなる権利すらないわけ?」

「仲良くした結果があれだ」


 眼下で暴れる化け物を見ながら、俺は苦々しくこたえた。


「あいつまでショーシンにすることなかったろ?」


 逃げ惑う人々に襲いかかる小坂だったモノから目を背け、俺はハナエを睨みつけた。


「一体、いつ終わるんだ?」

「最後の一人を倒すまでだよ」

「そんなの……無理なんじゃないか? お前が告白される限り、ショーシンは増え続けていくんだろ?」


 言って、俺はハナエと契約を交わした日のことを思い出した——




 ——今から三ヶ月前。


 高校の運動場に突如として現れた怪物につぎつぎと生徒が襲われ、そのときたまたま屋上でサボっていた俺は、恐怖にかられるままその光景を呆然と眺めていた。


 あれは一体、なんだ?


「あれは、ショーシン」


 とつぜんした声に振り返ると、屋上の入り口にハナエが立っていた。


「ショーシン……?」

「そう。あれはショーシン。恋に破れて傷ついた人間が変身した姿」


 言いながらハナエは俺の真横まで来て、右手で金網をつかんだ。


「なに……言ってるんだ?」

「時間がない。最上くん、を倒して」

「さっきからなにを言ってるんだ、おま——」


 とつぜんハナエの口に塞がれた俺の口内を、柔らかい舌が這う。


「……これで契約は完了ね」


 唖然とする俺に言って、ハナエが金網をよじ登った。


「契約って、なんだよ。お前、さっきからなにをしてるんだ?」

「すぐに分かる」


 背を向けたままのハナエが、そのまま屋上から飛び降りた。


 眼下で爆ぜるハナエをただ見ていることしかできなかった俺の胸に、突然とてつもない痛みが走る。耐え切れずに胸を押さえながらうずくまった俺を、身内から立ち昇る炎が包みこんだ。


「……セ。……セ」


 頭の中にハナエの声が響く。


 炎に包まれたまま俺は立ち上がり、人外の跳躍で運動場に降り立った。


「……ロセ。……コロセ」


 明瞭になるハナエの声に、俺は裂けんばかりに口角を上げた。


 眼前で殺戮を繰り広げるショーシンが俺に気がつき、


「コロシテクレ……」


 と、涙を流した——



 ——あのとき殺した最初のショーシンは、隣のクラスの長谷部という男子だった。


 サッカー部の人気者で、ショーシンになる一週間前にハナエに告白し、フラれていた。行方不明になった理由を、俺とハナエ以外の人間は知らない。


 それから、俺はハナエに言われるがままに八体のショーシンを殺した。ショーシンを殺すと、その魂を糧にしてハナエは蘇える。


 その美貌を前よりも増して。


 ショーシンは、ハナエの美しさのための生け贄だった。


「俺は、お前のためにショーシンを殺し続けなければいけないのか?」


 言って、うんざりとした顔でハナエへ目を向けた。


「私のためじゃなく、人々のためによ。怪人を倒すのが、ヒーローの役目でしょ?」

「俺は……ヒーローなんかじゃない」


 俺の懊悩おうのうあざけるように、


「あなたはヒーローよ。私を好きにならない、たったひとりの人間だもの」


 と、ハナエが言った。


「だから俺と契約したのか?」

「そう」

「化け物め……」

「その呼び方はやめて。傷つくから」


 勝手なことを言い、ハナエが屋上から飛び降りた。


 眼下で血色の花が爆ぜ、胸の痛みに悶えながら俺も屋上から転がり落ちた。


 落ちながら、考える。「なぜ俺はこんなことをしているのか?」と。答えなどないのかもしれない。これは運命さだめだ。自らこの役割を受け入れたとはいえ、後悔ばかりが脳裡を過ぎる。


 契約を交わしたあの瞬間、ハナエの唇をかわすこともできた。だが俺は、自分の意志でそれを受け入れてしまったことを自覚していた。


 ハナエは言った。私を好きにならないたったひとりの人間だと。確かにそのとおり、俺はハナエを好きにはならない。


 好きになってはいけない。


 炎に包まれ、地面に降り立った俺は、眼前で殺戮を繰り広げる小坂だったモノに視線を据えた。


「コロセ。コロセ」


 頭の中に、ハナエの声が響く。


 分かってるさ。分かってる。


「ホノオだ! ホノオが来てくれたぞ!」


 ヒーローの登場に歓声が上がり、小坂だったモノが小坂の頃と同じ目を俺に向けた。


「コロシテ……」


 俺は、いや、俺だったモノは裂けるほどに口角を上げた。


「アア……イマコロシテヤル」


 アリの感触は、もう無かった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ホノオ ノコギリマン @nokogiriman

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る