向こう側には行かない

 僕と外界にある現実は、何かに隔てられているのだろう。

 簡単に壊せはしない何かで阻まれ、地続きなのにそうではないかのように感じられる。

 僕が眺めている世界は、アクアリウムのようだと思う。

 見えるだけで、触れることはない。僕が眺めるだけの、世界。

 時折その不便さを感じることもないではないが、アクアリウムの中に触れてしまう方が、面倒なのだろうと予想できるから、僕は今の位置にい続けたい。

 この場所にいたい。


 僕のありようを読んできて、いくつかの病名を想起した人もいるだろう。おそらくそのどれかは正解だ。僕は自分が医学で何と名付けられるのか、よく理解しているつもりだ。

 その上で、病名を一度も口にしなかったことには意図がある。

 僕は、「病気だから」と許されたいわけではないのだ。

 心が波打たないことも、フィクションや探究にばかり気持ちが行くことも、病気であろうがなかろうが、それをいい悪いと断じられるいわれはない。

 病気だから、仕方ないのではない。

 そういうありようの人がいて、淡々と生活を営んでいる。

 それを変えさせようとすること自体が、暴力的だ。

 心の波打ち方なんて、紅茶かコーヒー、どちらを好むかぐらい、どう答えてもいい問いにしてしまいたい。

 病気でも病気じゃなくても、自分の心のままに、生きていいし、誰かに己のありように口を出されてそれを聞く義務なんかない。

 他人の死に心揺らがない僕も、現実でもインターネットでも散々に言われた経験があるけど、サクッと無視して、今楽しく生きている。


 他人の内面に遠慮なく規範を押しつける、傲慢で暴力的な人間が多すぎる世界だから、僕のように大多数と違う、特異な感覚の持ち主は悩まなくていいのに、特異であることについて悩まされるかもしれない。

 変わりたいと思って変わる感覚でもないし、僕自身変えたいとも思っていない。

 淡々と成果を積み上げていったその先で、心のありようじゃなくて、仕事の成果や思考に基づいた話をする相手は現れるのだから、生活には困らないだろう。

 生活に困らないなら、フィクションで遊んだり探究したりするのに不都合はないから、僕はそれで納得できる。


 小説執筆における不利は感覚ではなく、知識で補えばいい。

 そして、僕は僕自身の感情の薄さをはじめとした特異な感覚を案外気に入っている。

 このありようを心から肯定しているし、隠すべきものだなんて思わない。

 どうあるべきかを説いて、僕のありようを変えたがる人間は僕の人生から退場願うだけだ。


 僕は、これからも、向こう側には行かない。

 アクアリウムを眺め続けようじゃないか。

 (了)

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アクアリウム 染井雪乃 @yukino_somei

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