第9話

 まだ較正できていない振動子のせいで、一歩踏み出すだけの距離がとんでもなく遠く感じる。手すりに寄りかかりつつ、おろしたての肺からくすんだ空気を吐き出し、がたがたと胸腔を支える肋骨を押さえる。


 廊下の遮光スクリーンから空を見上げると、人食い雨を吸ったポリマージェルがふわふわと落ちてくるところだった。回収ロボットがバキュームで吸って行くのを、監督官が欠伸交じりに追っている。


 はあ、と息をつき、また足を踏み出す。

 クローニングセンターの白い床を歩くのは久々だった。


 前回は潜水訓練でやらかして、肺胞まで海水漬けになったとき。

 あれと比べると、今回はいくらか言い訳が利く。私のミスじゃなくて、他人の故意で身体が壊れたのだから。

 急に吐き気が襲ってきて、その場でもどす。大量の唾と一緒に、アポトーシスで自切されたクズ肉が廊下にピンクの跡を広げた。


 この心臓は十二代目。目は八代目。骨はしょっちゅう折れるから長いこと数えてない。


 リハビリ室から戻ると、病室のベッドに人間が座っていた。

「復帰プログラムは順調なようですね」

 スーツ姿の女性。抱えたファイルの青い表紙を、長い指がカチカチとたたいている。

 二十四世紀ごろのデザイナー・ベイビー特有の細い目が私の顔を見つめ、それからゲロにまみれた病衣の裾へと視線を移していく。


「あの男の銃、ジュニアコルトだった」

 私は後ろ手に閉めたドアに寄りかかった。

「リンカン大統領みたいに接射された。あいつがあと一センチ背が高ければ片肺で済んだはず。近すぎて目方を測り間違えたのがアタシのミスだった――」

「大丈夫です。報告書で読みました」

 女が苦笑しつつファイルをワイパーみたいに振る。


「知ってる。今のは自分が覚えているか確認してるだけ……」


 私が近寄ると、彼女は立ち上がってシーツを整えた。紅茶を淹れるときと同じようにシームレスに動く彼女の背中を見つめつつ、私も義手を小指から折り曲げていく。

 インプリンティングで動作は規格化されているはずなのに、どうしても違和感が残って、何度もグー、パーを繰り返す。しまいに爪を肉に立てたけど、そのわずかな痛みも微妙に記憶と違う気がする。


「フレア」と私が声をかけると、彼女の規格化された『ニューヨーク顔』が振り向いた。

「なにか?」

「このスキン、どこの」

「大半はカリフォルニアの臓器オルガノプラントでの生産ですが」

「感圧器の配置がおかしい」

 フレアは少し困った風に頭を掻くと、ぱらぱらとファイルをめくって、しばらくうーむと小さくうなり、「慣れてください」と返してきた。


「規格が変わったんです。AD-3より拒絶反応のリスクが低いタイプに……」

「抗体がちゃっちい安物ってことでしょ」

「そうとも言いますが」


 左の二の腕を引っ張る。まだ定着していない皮は簡単に剥がれて、真っ白な樹脂製の血がどろどろと溢れてきた。私が顔を上げると、フレアは嫌なものを見たように顔をしかめていた。

 まったく、この人は今でも血とは無縁な生活を送っているらしい。


 四年ほど前にマンハッタンの文化保護区に行ったときは、『八八年初演版』のオペラ座の怪人をやっていた。プロシージャル生成されたマイケル・クロフォードがカーテンコールを終えると、役者の皮膚のカラーバリエーションが増えた『二三年ラストラン版』のアナウンスがあった。

 その日の帰りにブルックリン橋を渡ると、壊れた人間の死骸を満載したトラックとすれ違った。じっと見ていると、折れた手が荷台から落ちてタイヤに潰された。

 あのトラックも、検問のところできっと民衆の目に入らないように回収されただろう。あそこの人間は「平和」な暮らしを演出することに余念がない。


「次の仕事はなに?」

 ちぎった皮をゴミ箱に捨てて、ベッドに横になる。

 膝を上げたとき、腿を軽くマットレスにぶつけてしまった。やっぱり身体のバランスがおかしい。

「そう急がなくても、あなたは修理中なのですから……」

「フレア・ノイマンさん」

 私が名前を呼ぶと、彼女は眉をひそめた。たとえ世界が終わったあとでも、フルネームを呼ばれて嫌な顔をしないアメリカ野郎はいない。

「今のアタシ、目的に向かって身体を作ってる途中なんだよね。ヒマだからって趣味とか好みでボディビル用の”見せきん”を鍛えてるわけじゃなくてさ」


 フレアはちょっぴり真顔になって天井を見上げた。

 タタタ……とシミひとつない指がタイトスカートの生地をタップし、そのままパッと両手が開く。

「一応、気を使っているのですが」

「アタシが気を使われるようなオンボロに見える?」

「いえ……手足と頭の勘定が合っていれば、人間のパフォーマンスは同じですから」

 彼女の視線が下がり、防腐処理された角膜が私を映す。


 初めて、自分が不安そうな顔をしていると分かった。


 外ではバキュームのイコライズされた駆動音が響いていた。清掃業者のひかえめな咳がわずかに不協和音を作ったが、すぐにかき消される。


「あなたも、しぃのが見えてるの?」

 少し、答えまで間があった。


「いえ」とフレアは小さく言って、病室の壁に視線を這わせた。


「そういう話がある、とは聞いていました。旧世代の作戦用クローンに、女の幻覚を見るバグがあると……」

「旧世代?」

「単一の胚からクローニングしてた時代です」


 フレアの指が自分の頭を軽くたたく。

「あの頃はまだ未発達で、記号論として人体を解釈できると信じられていたんです。基になった人物の脳をマッピングして、検体のシナプスに転写すれば見かけ上は同じ振る舞いをするとか……」

「複数の刺激に対する反応のスコアがすべて同じなら同一人物ってことでしょ。餌を見て唾液を出すパブロフのイヌみたいにさ」

「イヌの神経を百万本つなげたら人間が出来るっていうレベルの暴論ですよ」


 亜麻色のくせっけを指が巻き取り、ぴんと跳ねた毛先が私を差してくる。


「あなたは誰ですか?」

「管理番号YJA-2016-484-52-6822。そう教えられてる」

 顔の前に左手を持ってくる。

 乾きだした血で、肩のあたりが少しつっぱったのを感じた。

「ええ。あなたのサンプリングされた脳は、そういう管理番号です」

「何が言いたいの?」

「上書きした脳に、マスターデータが残っているのです」


 フレアは弱々しく微笑み、私の手を取った。硬い義手がぱきりと音を立てる。


「少し、お時間をいただけますか。あなたのオリジナルと会わせたい」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

我が遍在するイリヤへ 平沼 辰流 @laika-xx

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ