たなからぼたもち

夢乃

第1話

 喉の痛覚が反応した。少し頭痛もして、冷気に脳が犯されているみたいだった。歩く冬空の中、道端に止まる黒い車が白い斑点を帯びた。隣の家の犬がくしゃみをした。僕は悴む手に小銭を握りしめて、遠いコンビニを目指した。


「おいしいよ」コンビニから帰る途中、不意に声がした。声がした方向を見ると、移動式の餅屋だった。中で鉢巻を巻いたおじさんが無表情でこちらを見ていた。餅屋なんて珍しいと思って、僕はメニュー表に近づいた。「何が一番おいしいですか?」「ぼたもちだよ」そう言われて、僕はぼたもちの値段を見た。お酒を買った残りの小銭で、十分に買える値段だった。僕は一つぼたもちを買って、ビニール袋越しに少しの温もりを感じた。「また、春に来るよ」帰り際、おじさんはそう言った。おいしかったらまた春に来ようと思った。


 僕は家に帰る途中にある公園で、ベンチに座ってぼたもちを食べた。「うえ」甘くないあんこと、米みたいな餅が口の中に拡がって、僕は吐き出したくてたまらなくなった。これが一番おいしいんだ。もうあの店には行かないかもしれないと思った。僕は残りを全部口に入れて、喉に詰まらせないように食べきった。ゴミはゴミ箱に捨てた。そこで僕はお酒が温くなったら怒られるかも、と思って、急いで走って家に向かった。帰ったらお水が飲みたかった。


「ただいま」僕が扉を開けると、狭い廊下越しにお父さんが寝転がっているのが見えた。僕が靴を脱ぐのに手間取っていると、お父さんは「はやく持ってこい」と怒鳴った。僕が慌ててお酒を渡すと、お父さんは乱暴にお酒を受け取って、開けて一気に飲みだした。カシャ、ごくごく。そんな音だけ聞いていた。突然お父さんは飲むのをやめて、持っていた缶を僕に投げつけた。残っていたお酒が僕の服に思いきりかかる。「温い」「うん」「何してた?」「がんばって急いで帰りました」お父さんはイライラしていた。やっぱりぼたもちを食べたから、温くなっちゃったんだ。僕はぼたもちのことまでバレたらもっと怒られるかもなと思った。「おい、釣り渡せ」僕はバレませんようにと願いながら釣り銭を渡した。お父さんはそれを机の上に置き、そして二缶目の酒を開けた。「お水飲んでもいいですか?」僕はその場に立ったままお父さんに聞いた。喉がからからで仕方なかった。「ダメだ」お父さんはテレビを見ながら言った。「なんでですか?」「酒が温かったからだ」テレビの明かりと、白い蛍光灯の微かな点滅がシンクロしていた。僕は喉に残ったぼたもちの味を、早く洗い流したかった。そしてキャンディとか、アイスとか、そういう物が食べたかった。「またお酒、買ってきますか?」僕はそう言った。また釣り銭でお菓子を買おうと思った。「あ?」お父さんはこっちを見て、机に酒をドンと置いた。むくりと立ち上がって、僕の方に向かってくる。「酒買ってこようにも、金が無いんだろうが」僕は部屋の内側に逃げて、怒っているお父さんから離れた。「逃げるな。大体俺がお前の面倒見てるのも、こんな生活してるのも、こんなに金が無いのも、全部お前のせいだろうが」「ごめんなさい」僕は謝りながら、お父さんから頑張って逃げた。「謝る暇があったら働いて金稼いでこいよ、ゴミクズが」「ごめんなさい」僕は部屋の角まで来て、逃げる場所を失った。お父さんは構わずのそりのそりと近づいてくる。僕はまた殴られるのが怖くて、でも逃げられるはずもなくて、ただうずくまっていた。酒に酔っていたお父さんは、足元がよく見えていなかった。「あっ」僕に投げつけた酒の缶を、お父さんは踏んだ。缶を踏んだ瞬間のお父さんの顔は、完全に酒から覚めてしまっていて面白かった。お父さんはそのまま顔から大きな棚に激突して、ゴン、て音がして、あの大きな棚が思いきり震えた。「っクソ…」お父さんは起き上がろうとした。頭から血も出始めていた。僕は棚の1番上の何かのトロフィーが、棚の振動で落ちるのを見た。トロフィーがお父さんの頭に落ちて、お父さんはまた床に顔をぶつけた。「お父さん?」僕は近づいて、血だらけのお父さんの頭を見た。ぐにゃぐにゃになって、人間じゃなくなったみたいだった。「お父さん、死んじゃった?」返事もしなくて、動きもしなかった。「ラッキー」僕は台所に行って、コップに水道水を汲んで飲んだ。嫌な甘さが残っていた喉が、すっきり洗い流される。僕は机に置いてある小銭を握りしめて、キャンディを買いに外に出た。もう二度とぼたもちなんか、食ってやるかと思った。

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