君の作ったナポリタンを
浅雪 ささめ
君の作ったナポリタンを
作ったはずのないナポリタンのにおいに、去年死んだ彼女を感じた。
八月に入ったばかりの昼下がりに目を覚ます。カーテンの隙間から漏れる光が、ちょうど顔に当たって目を細めた。こんな日は外に出るのがおっくうになる。会社鞄を持って、汗を流す自分を想像するだけで嫌になった。まあ、この時間に目覚まし時計が鳴ったってことは休みだからなんだけども。
さて。ナポリタンはいったい誰が作ったのだろうか。七月のままのカレンダーをめくり確認するが、お盆にはまだ早い。つまりは幽霊ではないだろう。
そもそも俺はもう二十年は一人で暮らしているわけで、合鍵を持っているのは彼女くらいなものだが。俺じゃないってことは……。
「
試しに名前を読んでみるも返事はない。ここで「はーい」なんて元気に返事が返ってきたら問題解決なんだがな。念のため「うちでナポリタン作った?」とメールを残しておく。すぐに既読はついたが、返信はなかった。いつものことだ。
まあいいや。腹が減っていては深く考えることはできない。とりあえずは朝飯、いや昼飯を食おう。ベッドから起き上がりキッチンへ向かう。フライパンのふたを取っても、そこにナポリタンはなかった。やれしょうがない。食パンをトースターに突っ込み、コーヒーを淹れ終わるころにはナポリタンのにおいもなくなっていた。
結局、あれは何だったのだろうか。
食後のストレッチを済ませ、パソコンに向かう。昨日少しだけやり残していた仕事があるのを思い出したからだ。そして雑務も終わりスマホをいじる。SNSを見てゲームをして、またSNSを見る。学生のころからの抜けない習慣。そのせいか最近目も悪くなった気がする。今も視界が若干ぼやけている。だからといってやめられるものでもないのだ。もう少し年齢が来たら、体がついてこなくなるかもしれないが。
ふと画面から目を離すと、部屋の中が薄暗くなっていたのでカーテンをしめて電気を付ける。
晩ご飯どうするかな。彩花に来てもらうってのも一つの手ではあるが。腹をさすり考える。家に居ても仕方がない。冷蔵庫の中は空っぽと等しいのだから。とりあえず歩きながら考えることにしよう。
和、洋、イタリアンも良いな。中華という手もある。ラーメンってなんのジャンルに入るのかなとか考えながら、大通りに出て道なりに進み、結局良さそうな喫茶店に入ることに決めた。店の外まで良い香りが漂っていたからだ。喫茶店というと昼の営業のイメージがあったんだが、こういう風景も悪くはない。
席に案内され、メニューを見る。ふむ。どれもうまそうだ。
「すみません」
「はい。何にしますか?」
「アイスコーヒーとナポリタンを一つ」
「かしこまりました」
注文を繰り返すと厨房のほうへ消えていった。
「お待たせしました。ナポリタンとコーヒーです」
すぐに運ばれてきたナポリタンの香り。朝のそれよりも幾分も上品で、とてもおいしそうだった。フォークで一口すくって食べてみる。強めで少し辛いケチャップソースがとてもおいしい。
コーヒーを飲み干して店を出る。夜でもまだ暑い。特に寄り道するでもなく、そのまま家へと帰ることにした。そういえばエアコンつけてきたっけな。
家に入るとむわっとした、夏の湿り気が体を覆う。エアコンは付いてなかったみたいだ。
ナポリタン。ナポリタン、か。
ソファに座りテレビを見ながらそう悩んでいるとき。ピンポーンと、インターホンがなった。宅配便は頼んでいない。
「はーい」
「やっほ。今夜泊まってくね」
彩花か。
「どうぞ」
「わーい。あと、色々買ってきたから。とうせ空っぽなんでしょ、冷蔵庫」
「おう。ありがとう」
彩花が買い物袋をガサリと置くと、その隙間からパスタとピーマンにベーコン。ナポリタンが作れるな。なんて思った。
ああ、わかった。何故俺がナポリタンにここまで固執しているか。あれは確か、お互いが高校生のときか。
隣の席から「よろしく」と声をかけてきたのが彩花だった。俺はよろしくとだけ返す。なんだか無性に恥ずかしくなって、鞄をあさるふりをした。
彩花はよく喋るやつだった。それは俺に対してだけではない。分け隔てなく、誰にでも笑顔だった。悪い噂を聞くこともなく夏休みを迎えた。
そうしてカレンダーが変わり、二年に上がった桜の綺麗な日。俺にとって初めての告白。手紙を書いた。今まで文章なんてまともに書いたことはなかったけど、直接言うには遅すぎるから。
『彩花へ。好きです』
何回も書いては消してを繰り返し、やっとの思いで書けたのがこれだけだった。今更になってなにをやっているんだと恥じるが、書いた以上、渡すしかなかった。
早めに教室へ行き、誰もいないことを確認してから彼女の机にすっと入れておく。開いてもいない図書室の扉の前で時間が過ぎるのを待つときに、差出人を書いていないことに気付いた。これではいたずらだと思われて終わってしまうかもしれない。今戻って鉢合わせるのも気まずくて、結局その場から動けなかった。
ホームルーム開始の二分前に席に着く。彩花はもう席についていて、「おはよう」と声を掛けられても「お、おはよう」とどもり気味に返すのがやっとだった。
昼休みに、ちょっといい?と彼女に声を掛けられて、図書室の歴史コーナーの前に連れてこられて、今頃彩花の鞄の中でくしゃくしゃになっていると思っていた手紙を見せられた。
「直接言ってほしいな」って言われたときはもう心臓が飛び出るかと思った。
俺のたどたどしい告白に笑いながらいいよって言ってくれたっけ。
凄く嬉しかった。人生全ての運を使い込んだなんてはしゃいでいたら、彩花にそんな大げさな、ってもっと笑われたのも今では一つの思い出になっている。
そんな初めての彼女の家に招かれたとき。「親居ないから私が料理作ってあげるよ!」
そう意気込んで彩花が作ったのがナポリタンだった。ケチャップの掛かってない所もあって、野菜の大きさもバラバラだったけど。それはとても特別な味だった。
そんな特別が、普通に変わっていったある日。彩花と二度と会えなくなってしまった。不慮の事故だと医師は言っていた。調べてみると、思ったよりも多い死因らしい。「見ない方が良いですよ」と医師にも諭されたが、どんな姿であろうと俺は彩花の彼氏なのだ。現実から逃げるわけにはいかない。もしここで見なかったら彩花の幻影に苦しめられることになりそうだった。
その日の夕食は市販のナポリタン。ケチャップの味も何もかも、一切味がしなかった。
ふと我に返り違和感に気づく。彩花はとうにいないのだ。それは俺も確認した事実。じゃあ今目の前にいる彩花は……?
「何が食べたい?」
私作るよ、とエプロンを結ぶ彩花。
そうだな。
「ナポリタンが食べたいな」
「ん?」
悲しいのか不思議がっているのか、よくわからない顔で俺の顔を覗く。
「あ、だめだったか?」
材料はあったはずだが。
「いや、そうじゃないんだけど。なんで泣いてるの?」
それは。理由ははっきりとしていた。
これが夢だと分かっているから。
俺はただ、彼女の作ったナポリタンが。
また目が覚めると、キッチンからはナポリタンの香り。
これは確かに昨日の夜、俺が作ったものだった。
君の作ったナポリタンを 浅雪 ささめ @knife
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