レンズ越しの君を探して

灰崎千尋

○-○

 眼鏡。

 レンズをフレームの中にしっかりと抱き、鼻の上に少し寄りかかかりながら、両のテンプルで優しく頭を包み込み、耳にそっと縋る、眼鏡。

 それは、失われた目の機能を補うための医療器具であり、人の目許を彩る装身具。顔の印象を如何様にも変えることができ、けれど視力という弱点を晒すもの。


 そんな眼鏡に、私が惹かれてやまなくなったのはいつからだったか。正直なところ、これが自分でも不思議なほどわからない。初恋の相手が眼鏡だったわけでもなく、特別好きな眼鏡キャラクターがいたわけでもなかった。小学生の途中から眼鏡をかけるようになり、なんとなく親しみを覚えていたとはいえ、たぶんそれだけでにはならない。


 気付けば私は、眼鏡とみると飛びつかずにはいられない“眼鏡狂い”になっていた。


 友人知人は元より、道行く人や創作されたキャラクターが眼鏡をかけていて、尚且つそれがその顔に似合っているのを見ると至上の喜びを感じる。幸福。感謝。昂奮。あらゆるものが湧き上がり私をいっぱいに満たすのである。

 街中に眼鏡屋があればふらふらと入ってしまう。素晴らしい眼鏡を眺めながら店の人と眼鏡談義をすることも少なくない。私が富豪であればその度に眼鏡を新調するところだが、残念ながらそうでは無いので次の機会の参考にさせていただき、自作の眼鏡屋マップリストに追加などもする。TPOやファッションによって使い分ける手持ちの眼鏡は、現在三本。少しずつでも増やしていきたいと思っている。

 また、眼鏡モチーフの雑貨を見ると購入意欲を抑えられなくなる。我が家のコレクションボックスには、眼鏡柄眼鏡拭き、眼鏡素材製眼鏡型耳かき、眼鏡型ネックレス、眼鏡型コンタクトレンズケース(未使用)等がぎっしりと詰まっており、そろそろ溢れるので収納を考えねばならないだろう。

 他にも、日頃から眼鏡業界の情報を追いかけ、得た知識や眼鏡の魅力を伝え広めるよう努めていたりもするが、私は眼鏡屋でも無ければ広告屋でも無い。眼鏡に狂ってしまった、ただの眼鏡フェチなのである。


 眼鏡とはなんと完成された道具なのだろうかと、知れば知るほどに思う。パーツの全てに無駄が無く、それどころかネジやテンプルを装飾に使うこともできる。しかしその魅力を活かせるかどうかは、身に着ける人間にかかっているのだ。

 だからこそ、私は「似合わない眼鏡をかけている人間」を見ると、怒りや悲しみで暗黒面に沈んでしまうのであった。


 ここで強く主張しておきたいのは、「眼鏡の似合わない人間などいない」ということである。

 どんなに優れた眼鏡であろうと、全ての人間に似合う眼鏡というのは存在しない。だが、一人一人の顔に似合う、個人の魅力を引き立たせる眼鏡というのは、この世に必ず在る。眼鏡が似合わないと思い込んでいるのは勿体ない。それはまだ似合う眼鏡がわかっていないか、出会っていないだけなのだ。

 どうか信じてほしい、眼鏡の力を。


 そう、眼鏡の力。似合わない眼鏡をかけている人間は、それを台無しにしているのだ。

 だからあの時の私は、悲しみのあまり思ったままを口に出してしまっていた。

「ねぇ、その眼鏡どうしたの?」と。


 エス君の眼鏡姿を見たのは、その日が初めてであった。

 いつもはコンタクトレンズを装着していて、誠に遺憾ながら、彼は眼鏡をかけない主義だと思っていたのだ。その顔に今、驚くほど似合わない眼鏡が乗っている。

 それはアメリカンカジュアルで大変に有名なブランドのもので、艷やかな黒のセルフレーム、四角くレンズを縁取るスクエア型であり、かなり太めのテンプルが特徴である。

 誤解しないでいただきたいのだが、この眼鏡が悪いわけではない。ただ、エス君の顔からは浮いて見えてしまうのだ。

 彼は面長の傾向があるのだが、スクエア型はそれを強調してしまいがちであるし、黒は眼鏡の存在感を最も高める色である。顔に合っていればいっそう魅力的になるのだが、今回はその逆で、しかも全体にフレームが太い。目の印象が強い人ならばバランスが取れるのだが、エス君の目許は柔らかいのだ。率直に言ってしまえば、眼鏡に負けている。

 とても、とても不幸な組み合わせに見えた。眼鏡もエス君も、互いの魅力を打ち消しあってしまっている。それが何よりも辛い。

 その全てを込めた一言が、「ねぇ、その眼鏡どうしたの?」であった。


「えっ、駄目っスか?」


 エス君は焦ったようにそう言った。

 彼は大学のサークルが縁で付き合いの始まった私の後輩であり、この日もそのOB団体での活動で集まったのだった。仲間内では私の“眼鏡狂い”っぷりはとうに広まっており、勿論彼も知っていた。


「駄目っていうか、その……じゃないと思う」


 私は言葉だけでなく表情も取り繕うことができなかった。眉を下げ、あらゆる角度から彼の顔を眺め、それから改めて首を捻った。

 私とて、さして関わりのない相手ならばここまでの衝撃は無かったし、ここまでのことを言いはしなかっただろう。だがエス君とはしょっちゅう軽口を交わす程度には親しく、しかもその眼鏡が安くはないものだと私は知っていたので、これを放っては置けなかった。


「私にチャンスをくれないか」

「えっと、それはどういう……」

「君に似合う眼鏡を見つけてみせるから、私と眼鏡屋に行こう」


 私は懇願した。

 口説き文句のようにも聞こえるだろうが、その手の下心は無い。眼鏡屋を巡る口実ができることや、自分の為には手に取らない眼鏡をじっくりと見ることができること、一人の眼鏡男子を相手にすることに対して胸を踊らせていたのは認めよう。しかしそれ以上にこれは、“眼鏡狂い”としての矜持であり、使命である。私はそう信じていた。

 その時のエス君がどんな顔をしていたのだか覚えていないのだが、どうにか私は、エス君と眼鏡屋に行く約束を取り付けたのであった。


 東京で眼鏡を買うならば、行くべき街は二つある。

 一つは、青山。広い範囲を歩き回ることにはなるが、国内外のブランド直営店がここまで揃う街は他に無い。センスの良いセレクトショップも複数ある他、鯖江産眼鏡を集めたギャラリーまであり、ビジネスからカジュアル、スポーツまで様々なニーズに応えることができる。

 もう一つは、銀座。この街のイメージの通り、洗練された眼鏡が集まっている。セレクトショップがほとんどだが、「銀座」というフィルターを一枚通した上で、店ごとの個性を出した取り扱いを楽しむことができるのが特徴だと思っている。高めの年齢層やビジネス向けに特に強い。

 聴き取りしたところ、エス君は仕事にもプライベートにも使える一本を求めているようだった。今後コンタクトレンズは使用を控える予定だと言う。そして彼は、なかなか良い会社にお勤めの営業職である。それならば、と私は銀座を提案した。

 その用途でよくあの眼鏡を選んだものだ、と改めて眉を顰めてしまったのは仕方のないことと思う。


 日暮れ前の銀座は小雨の通り過ぎた後で、濡れた石畳がつやつやと光っていた。

 待ち合わせ場所にやってきたエス君は、いわゆるジャケパンスタイルである。眼鏡を選ぶ時には、眼鏡をかけるシーンでの装いをしている方が、鏡を見たときにもイメージを掴みやすい。エス君の場合は一週間のうち五日はスーツを着るのだから、当日はジャケットを着てきてほしいと、私から頼んでおいたのだ。

 挨拶を交わし、「眼鏡を前にしてテンションおかしくなっちゃったらごめんね」と断っておいてから、私たちは一軒目の眼鏡屋に入った。


 そこは鯖江の或る眼鏡メーカーの旗艦店で、越前和紙など福井産のインテリアに彩られた、モダンで美しい眼鏡店である。

 壁面のガラス棚に、中央の展示台に、整然と並ぶ眼鏡たち。一つ一つ違った輝きを放つさまはジュエリーのよう。その色や質感がくっきりと浮かび上がる照明は、白く柔らかい。壮観である。

 私は目移りしそうになるのをどうにか我慢しながら、目的のエリアに足を向けた。ビジネス用眼鏡であれば、ここの男性向けブランドが私のお薦めの一つなのである。


 何をもってビジネス用の眼鏡とするか、様々な要素はあるが、最も影響するのは素材感である。衣服にドレスコードがあるように、眼鏡にもフォーマルからカジュアルのグラデーションがあるのだ。

 最もフォーマル感が強まるのは縁無し、もしくはシルバー系のメタル。ゴールドほど色味が出ず、上品な輝きがドレッシーさを演出する。また、メタルフレームは全体に細身で、繊細な加工が可能なことも大きい。

 逆にカジュアルなのは、がっしりと太めのセルフレームである。樹脂素材ならではのボリューム感や色味が魅力で、顔の中で強い存在感があるもの。エス君が先日かけていたものがこれに当たる。

 同じセルフレームでも細めになるほどフォーマル寄りになるので、メタルで無ければビジネスに使えないということは勿論無く、このグラデーションの中から仕事とプライベートの割合などを考えて選ぶと失敗しにくい。


 私がまず手に取ったのは、シンプルなメタルフレーム。といっても、シルバーで滑らかな曲線を描くフロント、直線的なテンプルとメリハリのある質感で、見るほどに味わいがある。鯖江が誇るチタン加工で見た目よりもずっと軽く、長時間かけても負担が少ないだろう。

 テンプルを広げて、「どうぞ」とエス君に差し出す。エス君はそれを大人しくかけて「どうッスかね」と私の方を向いた。


「んー、悪くないけど、もうちょい上」


 私はエス君の眼鏡を両側からつまんで、そっと押し上げた。それから彼を鏡の前に連れて行く。

 きちんと全身の見える鏡。そこに映るエス君を後ろから眺めた。

 悪くない。悪くはないが、ベストではない。そんな感想を持った。


「眉毛のラインには馴染んでるよね。でも瞳の位置がレンズの中心から割と内側にズレてるから、サイズが大きいかな。あともうちょっと暗い色の方が良いかも」 


 私は他の眼鏡に視線を移した。続いて気になったのは、コンビネーションフレームの一本であった。レンズの玉型はウェリントン。縦幅がしっかりとあり、面長の顔にもよく馴染む。コンビネーションフレームというのは、メタル素材とセル素材を組み合わせた眼鏡である。その眼鏡はレンズ周りにはガンメタリックのチタン、テンプルには黒のアセテートを使い、知的ながら柔らかい印象も併せ持っていた。

 はい、とエス君に手渡す。エス君が素直にそれをかけた瞬間、


「あ、良い。きれい」


と、私は思ったままを口にした。

 彼をまた鏡の前に立たせながら、その顔を前から、横から、斜めから眺める。良い眼鏡というのはどこから見ても様になるものであるし、他人から見られるのは正面以外の顔であることが多い。それをちゃんと見定めるのも、同行者の務めである。エス君は少し戸惑っているようだが、ただ鏡を見ていてくれれば良い。


「うん、サイズもちょうどだね。スーツと合わせるとすごく綺麗だと思うし、横もアクセントになって可愛い。ジーンズとかでもシュッとすると思う」


 私がそう言うと、エス君は鏡をのぞきながら「確かに、さっきより良い感じですね」とまんざらでもなさそうである。

 よし、と私はうなずいて、そばにひっそりと控えていた店員の男性に声をかける。


「すみません、かけたところ写真に撮っても良いですか?」


「大丈夫ですよ」と落ち着いた声が返ってきたので、私はまたエス君に向き直った。


「君のスマホで撮ろう。あとで比較検討する材料になるから。他の人にも意見聞きやすいでしょう」

「なるほど」


 納得したエス君のiPhoneで、眼鏡をかけた彼の正面と、横顔の写真をしっかりと撮った。

 眼鏡だけの写真を撮っても、なかなか顔の印象まで思い出しにくいものである。また、強い近視である場合は鏡にかなり近づくことになり、顔全体が見づらくなってしまう。こういった理由から、気に入った眼鏡があれば正面と横の二枚を写真に撮ることを、私はお勧めしている。スマートフォンのおかげで本当に便利になったものである。


 その後もいくつかの眼鏡をかけては外し、時には写真に収め、特に良かった二本の型番を男性店員にメモしてもらってから、私たちは店を出た。


「ああいう眼鏡も僕、アリなんですね。あんまりかけたこと無かったんですけど」

「結局かけてみないとわからないことが多いからね。とにかく色々試してみてほしい。あんまり先入観を持たずに」

「ハイ、了解です。次ってどの辺ですか?」

「えっと、和光の裏辺り」

「ちなみにあと何店あるんでしたっけ」

「んー、六、かな」

「おおぉ……」


 私たちは残りの六店舗でも、同様に眼鏡を吟味した。やがて夜が来て、街灯の明かりでいっそうきらびやかな銀座をぐるりと歩いた。途中、小雨に降られもした。方向音痴な私は地図アプリを開きながらも迷いかけ、エス君にナビゲーションを託すなどという情けないこともあった。

 今回のエス君との眼鏡屋巡りは、この日に購入を決めるのが目的では無かった。彼にどんな眼鏡が似合うのかを探ると同時に、奥深い眼鏡の世界を知ってほしかったのだ。ドイツのネジを使わない機構や、フランスの鮮やかな色使い、アメリカのボリューム感、日本の職人の手仕事、ヴィンテージの手触り。それぞれの魅力を、まずは味わってほしかった。

 エス君は様々な眼鏡をかけながら、それを楽しんでくれていた、と思う。思いたい。実のところ、私は眼鏡を前にすると我を忘れがちなので、エス君の気持ちを冷静に汲み取れていたとは言いがたい。だが、銀座の眼鏡屋を七店舗まわり終えて、検討会も兼ねて夕食を共にしたときの笑顔は、本物だったと思うのだ。


「お疲れ様でした」と乾杯をし、互いに一息つく。


「どうでしたか、今日は」


 そう私が尋ねると、


「いやー、迷いますね」


と、眉を下げて彼は笑った。


「それぞれ良さが違ったし、ちょっと整理したいです」


 テーブルでiPhoneの写真を開きながら、感嘆するようにエス君は言う。

 似合う眼鏡の要素というのは様々である。それらが絶妙に組み合わさった「運命の一本」が見つかることもあれば、ほどよく顔に馴染む眼鏡が複数みつかることもある。

 画像に残ったエス君の眼鏡姿は実にバリエーション豊かで、それを二人で覗き込みながら、「あ、これ良かったっス」「私はこれ好き」「比べるとこっちですかね」「これは値段がなー」などと言い合った。

 不思議な気分だった。

 衝動的に誘ったのは私なのだが、こんな風に二人きりで出かけるようなことはこれまで無かった。実のところ、会話が続かず気まずい空気になったらどうしようかと思っていたが、杞憂だった。エス君はよく気の回る男である。すぐ調子に乗るのが玉に瑕だが、銀座での時間はとても心地よいものだった。

 知っているようで知らない、エス君の顔。眼鏡選びという理由が無ければ、こんなにじっくりと見ることも無いだろう。その目は思っていたよりもずっと優しい。あんまり優しく垂れているものだから、丸みの強い眼鏡は似合いにくい。黒は少し強過ぎて、ブラウンやネイビー、鼈甲デミ柄の方が彼の柔らかい雰囲気によく合った。ふざけている時は本当に苛つかせる顔をしているのだが。

 私はエス君に似合う眼鏡を探しながら、エス君という人となりを探していたのかもしれない。

 そう思えるくらいには、この短い時間でたくさんのエス君を知ることができたし、それは間違いなく、眼鏡というものを介さなければ得られないものだった。


「私の趣味に付き合わせちゃった感じだったとは思うけど、今日で少しでも眼鏡の魅力をわかってくれたらと、眼鏡フェチは思います」


 酒も入って、少し緩んだ口でそう言うと、向かいで赤い顔をしているエス君は破顔した。


「ほんと、こんなに色々あると思わなくて。面白いスね、眼鏡」

「良かった。新しい眼鏡、楽しみにしてる」


 私は頭の中で、この日見たいくつもの眼鏡をエス君の顔に重ねながら、グラスを掲げた。





 後日会ったエス君は、新しい眼鏡をかけてやってきた。

 ウェリントンとボストンの間のような、やや丸みがあるコンビフレームで、フロントはブラウンデミのセルフレーム。細身のチタン製テンプルは艶消しのゴールド。私と見た内の一本である。その眼鏡はエス君の顔に馴染みつつも、しっかりとその個性を引き立てていた。


「その眼鏡、やっぱり良いね。素敵。似合ってる」


 私は自分の顔がとろけているのを自覚しながら、彼に声をかけた。

「いやぁ先輩のおかげです」と、はにかむエス君の顔が眩しかった。


 それからしばらくは彼の眼鏡姿を見かける度に頬が緩んでしまったのだが、どうか許してほしい。私は全ての人が、その人に合った眼鏡をかけることを願う、“眼鏡狂い”なものだから。

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