第26話 麗しの国

「ここは……何処?」

「有朱さん!目が覚めたんだね!」


 気がつくと、私は白いベッドに寝かされていた。左側はカーテンで仕切られていて、右手の窓から見慣れた街の景色が見えたので、どうやら近所の病院に居るらしいと察しがついた。

 夫の声が聞こえたが、姿は見えない……と思えば、ゴソゴソとベッドの下から音がして夫がひょこりと顔を出した。少しやつれて見える彼は、満面の笑みで私を見つめる。


「あぁ、良かった!おはよう有朱さん!」

「おはよう……私、入院してるの?」

「そうだよ。クリスマスイブの夜に倒れて、もう一週間も……あっ!あけましておめでとう」

「あけましておめでとう……そう。私そんなに眠っていたのね」

「あんまり驚かないんだね、もっと慌てるかと思ってたよ」

「帰ってくるまで、とても長い夢を見ていたの。不思議な旅をしていて……だから思いの外、短い気分よ」

「そうか……また聞かせてよ。取り敢えず僕は、君が目を覚ました事をお医者さんに知らせてこなきゃ」


 小走りで出て行く夫を見送って、深呼吸をする。やっと、帰って来れた――


 それから幾つかの検査を受けて、特に異常が見られなかったのでトントン拍子に退院となった。荷物を片付けながら、夫が弁解する。


「あの……ごめんね。詳しく知らないまま、あのぬいぐるみを見せてしまって。あれからお義母様に詳しく聞いたよ」

「ぬいぐるみの事は、謝らなくていいわ。私こそ謝らなくちゃ。せっかくの素敵な夜を台無しにしてごめんなさい。ぬいぐるみ、大切にするわ。何処にあるの?」

「あぁ、家に置いたままだよ。目を覚ました時にパニックになったら心配だったから……」

「優しいのね。ありがとう。もう大丈夫だから、家に帰りましょ」

「あぁ。そうしよう」


 帰り道の車の中。夫の顔を覗き見る。少し頬が痩けて顔周りがシュッとした印象だ。


「貴方、少し痩せた?」

「あぁ……無理もないか。心配でご飯が喉を通らなくてね」

「まぁ大変!帰ったら久しぶりに私が料理するわ。貴方がゲッソリしていると、なんだか不幸に見えるもの」

「えぇ?痩せてる方がカッコいいだろ。このままダイエット始めようかと思ってるよ」

「確かに痩せてた方が若い頃に近くてカッコ良いけど……私にとっては、貴方はいつでも素敵よ」

「本当かい?嬉しいな……実は近頃ずっと、嫌われたかと心配してたんだ」

「あら、どうしてよ?」

「有朱さん、前に鏡で自分の顔を睨んでる時があったろ?何回か、その時と同じ目で僕の事を見てたんだよ」

「あぁ、それね……悪かったわ。私、自分が老けていく事が怖かったの。貴方に嫌われると思うと焦っちゃって」

「僕が有朱さんを?あり得ない!じゃあ僕からも言わせてくれ。病院でずっとすっぴんの寝顔を見てたが、いつまでもキミは僕の麗しいお姫様だ。愛してるよ」

「ふふっ、何そのセリフ!気持ち悪いわよ」

「あっはは!流石にか!」

「でも、今なら信じられるわ。私きっと、過去に囚われ過ぎてたのよ。過去に良かったものと現在を比べて、その差に落胆して……他の人も同じ感覚だと思い込んでた」

「あー、なんだろうね。思い出補正ってやつかな」

「ちょっと違うけど、似てるかもね。で、私ね?夢の中で気付いたの。時間と共に凡ゆる事が変わっていっても、変わらない物があるんだって」

「それは?」

「ときめいたり、感動した瞬間の気持ちよ。過ぎ去る時間の中でそういう輝きは一瞬かも知れないけど、それを感じた本人の中に永遠に残り続けるのだわ。例えそれ自体が変わっても、存在の中にずっとある、核みたいな……」

「へぇ。凄いこと考えるんだな。けど、そうかも知れないね、過去と未来はずっと繋がってるものだから、過去の時点で見て感じたものの中に、未来も全部含まれてる可能性はあるかも知れない」

「私は貴方にそれを見た。貴方もきっと、私の中にそれを見てくれてたのよね」

「僕もそう信じてるよ。それにしても……夢の中でどんな体験をしたんだ?詳しく聞かせてくれないか」

「ええ勿論よ!私も話したくてたまらないの」

「よし、じゃ家に着いたらコーヒーを淹れて、メモを取ろう」


 帰宅後。夫から改めてプレゼントされたぬいぐるみを見ても、嫌な感情は一切湧かなかった。リビングのソファに座り、両手でしっかりと抱き締める。


“ジジ……姫……おめでとう……”

「え?」

「有朱さん?どうしたの?」

「今の……聞こえた?マクガフィンが喋ったのよ」


 コーヒーを淹れて戻って来た夫は、キョトンとした顔だ。もう一度抱き締めるが、声は聞こえない。


「あぁ。中の機械、やっぱりダメだったか。一応直したつもりだったんだけど、寿命だろうね」

「うぅん、さっき確かに……」

「それにしても、君がそんな言葉を知ってるなんて驚いたな」

「何?どういう意味?」

「"MacGuffin"……小説とか映画で、物語を進める為に使われる概念を表した言葉でしょ?最初は重要なアイテムとして出てくるけど、最後は大して重要じゃなくなるっていう」

「……詳しく教えてくれる?」

「あれ、知らずに名付けたの?うーん。説明か、難しいなぁ。例えば、宝探しの映画があるとするだろ?その話の中で一番最初に出てくる重要なアイテムは、隠された財宝だよね。それが無いとストーリーが始まらない」

「そうね」

「けど、本当に映画全体を通して魅せたいのは、その財宝に辿り着くまでの過程……主人公の成長だったり、敵との戦いとか、友情、裏切りだろ?本編が人間ドラマでたっぷり満たされる頃には、もう財宝なんてどうでも良くなる。財宝は見つかっても見つからなくても、主人公達が冒険したって事がストーリーを成立させるからだ」

「うん」

「で、今の例えで言えば財宝がマクガフィンに当たるんだ。物語の中で最初は重要なポジションにあって、終盤でその価値を失う物を総じてマクガフィンって呼ぶのさ。ストーリーを成立させるなら何でもいいから、それ自体には価値が無い。機械的な要素がマクガフィンなんだよ」

「ふぅん……」


 マクガフィン……彼は自分をそう名乗った。果たして彼は、その言葉の意味を知っていたのだろうか?


「ところで、何で有朱さんはそのぬいぐるみにマクガフィンなんて名前を付けたの?」

「あぁ、そうね……じゃあ初めから聞かせるわね。若い頃の貴方が騎士になって、私に斬り掛かってきたところから」

「はぁっ!?夢の中の僕はそんな酷い事したのかよ……いきなり破茶滅茶だなぁ」


 私は夜が明けるまで、夫に夢の話を語って聞かせた。夫は終始興味深そうに頷き、時折質問を挟みながらメモを進めて……分かったのは、フーダニットやクワーティ、彼らの名前にもちゃんと意味があった事。

 夫曰く、私が無意識に聞き齧った用語や理論が、総て統合される形で体系化されたんだろうという事だ。


「きっと数字にも意味があるんだろう。調べてみよう、6と11は……数秘術、タロットで恋人と正義だ!」

「タロットね……本当に昔、少し勉強したけど。そこまで来るともうこじつけみたいに思えてくるわ」

「いや。潜在意識は宇宙みたいなものだけど、全て一つの脳に収まってる情報だ。有朱さんがあっちの世界で見たモノは全てが繋がってる、無意味なモチーフなんてない筈だよ」

「その冒険を先導した彼は、自らをマクガフィンって自称したけどね」

「有朱さん、この話を元にして小説を書いてみないか?臨死体験を記した自伝的な作品って結構多くて……」

「嫌よ。自分の頭の中を曝け出すなんて」

「んー、そうかぁ……凄く面白いと思うんだけどなぁ……」

「なら、貴方が脚色して仕上げれば良いじゃない。私は書かないけど、それなら良いわ」

「本当かい?じゃあ是非、そうさせて貰うよ」


 嬉しそうにメモを読み返す夫を見て、私は物思いに耽る。私の体験した事は、他の人達からどんな物語として受け取られるのだろう?

 私にとってはとても不条理で、ヒステリックで、脈絡の無い展開に振り回される……疲れるけど、発見に溢れた楽しい冒険だった――


 あれから数ヶ月。私は相変わらずバリバリ仕事をしていたが、部下に頼む仕事の量を増やしたので、仕事の全体量は減っていた。というのも、年末に倒れた私の分の仕事納めを部下達が分担して片付けてくれており、「もっと頼って下さい!」と皆に言われたからである。年明けの出社で色々言葉を掛けて貰って中で、部下のその台詞に嬉し泣きしてしまった事は、今でも時々笑い話としてイジられる。

 あれ以降、なんだか人とのコミュニケーションが楽になった。他人に対して抱く疑念の様な気持ちが薄らいで、気疲れが減った。お陰で仕事も気楽に出来て、私生活は切り詰めずにゆったりと好きな事が出来ている。好循環だった。

 家では、夫の書斎を使って調べ物や読書をする様になった。たった数文字の知らない言葉を知るだけで、今まで存在も知らなかった新しい分野への興味や関心が止め処なく湧いてくる。そうして得た知識は更に別の分野へ繋がり、世界の視野がどんどん広がっていくのだ。

 そうして勉強している時にふと、あの冒険のことを思い出す。現実の世界では、あんな突拍子も無い出来事はなかなか起こらないと思っていた。けれど少しだけ自分から物の見方を、感じ方を変えて踏み込んでみれば、世界はいつも新たな発見に満ちており、常に冒険を用意してくれている。だって、この世には知らない事がまだまだたくさん溢れているのだ。

 そして未知の世界達はきっと、私達にその存在を知って貰える事を、今か今かと待ち望んでいる……そう考えると煩い世界が一転して、愛しく見えて来るから不思議だ。


「有朱さん、小説のタイトルどうしようか?」

「そうね。オマージュで『麗しの国のアリス』なんてどうかしら?」

「いいね、最高だ!」




“うるわしい【麗しい・美しい・愛しい】

〔中略〕④理想的にいっている。仲が良い。〔中略〕⑥(気分や表情が)はれやかである。⑦愛すべきである。かわいい。いとしい。⑧正真正銘である。まちがいない。”

(新村 出 編、『広辞苑』第七版、岩波書店より「うるわしい」の項目から一部抜粋。)



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麗しの国のアリス 秋梨夜風 @yokaze-a

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