第25話 加古川大歩

 加古川大歩だいほ。42歳。小説家。彼は今朝、妻の有朱の出勤を見送ってから午前中、年末に頼まれていた原稿を仕上げ、午後からドタバタと料理の支度をしていた。なんといっても今日は12月24日、クリスマスイブなのだ。本来なら明日がクリスマス当日だが、加古川家ではクリスマス当日をゆったりと過ごす為に、24日にクリスマスのお祝いをする事にしていた。諸々の買い出しや準備の観点からも、23日までに済ませておける方が混まなくて楽だし、理に適っている。


 21:00。準備は全て整った。あとは有朱の帰りに合わせて七面鳥とスープを温め直せば良い。いつも通りなら21時半には帰って来るはず……


――ピロン♪

ケータイにメッセージアプリの通知が出る。有朱からだ。


『ごめんなさい、残業で今夜は帰りが遅くなります。』

『了解!大丈夫、お仕事頑張って下さい。』


 即返信を打ち終える。残業となると帰りは23:00頃になるだろうか……あ!危ない、プレゼントの包装を忘れていた。

 僕はいそいそと自分の部屋に戻ると、本棚の下に隠しておいたプレゼントを取り出す。お盆に有朱の実家に行った時、義母さんから受け取ったクマのぬいぐるみ。埃などが付いていないか確認して、プレゼント用の箱の中に丁寧に仕舞う。まさかこのぬいぐるみがプレゼントされるなど、彼女は思っても居ないだろう……驚く顔を目に浮かべ、彼はウキウキとパーティーの準備を続けた。


 夕食の後、ぬいぐるみを見た時の彼女の顔は、確かに驚きに満ちていた。然し、その表情は期待していた喜びを伴うものではなく、まるで親の仇にでも会ったかのような怯えと悲しみに満ちた反応であった。

 説明が足りなかったかと、慌てて喋り続けるが彼女は聞いていない。終いには「やめて!」と突き放された。彼女はそのままぬいぐるみを持って立ち上がると、リビングを出る。

 困惑したまま、彼女を追い掛けるべきか、そっと一人にしておくべきか迷っていると、玄関のドアが開く音が聞こえる。マズイ、これは追い掛けるべきだ!

 突然の事態に慌てて、靴も履かずに玄関のドアを開けると……門の前で彼女は地面に突っ伏していた。


「有朱さん!有朱さん!?」


 何が起きた?車に轢かれたのか?駆け寄ると、ぬいぐるみを胸に抱く様にして仰向けに横たわっているのが分かった。気を失っただろうか?口元へ手をやると呼吸はしているが、極めて弱々しい。慌てて懐からケータイを取り出し、救急へと連絡する。


「すみません!妻がいきなり倒れて……はい。はい。住所は……」


 数分後。救急車が到着し、彼女は病院へと運ばれる。僕も車で追い掛ける。


「救急です!通して下さい!」


――ゴオオオオオオオオ!ガシャン!


 到着した病院で、妻を乗せた担架が救急車から運び出される。そんなに荒くて大丈夫だろうかと心配になる車輪の音を聞きながら、妻の為に急いでくれている医師や看護師達をただただ信じるしかなかった。救急隊員からの説明によれば、この真冬に家から出た直後に気絶した状況から、ヒートショックによる脳溢血の可能性が疑われるので、迅速にMRIでの検査を行う必要があるらしい。


――ブウウゥゥン……ブォンブォンブォンブォン……


 MRIの駆動音は、聞いている者を不安にさせるような重低音を響かせる。装置の真ん中で直接この音を聴く有朱さんは心細くはならないだろうか。この緊急事態にそんな空想に近い心配をしながら、僕は彼女の無事を祈り続けていた。


 数時間後。無事に処置が終わり、彼女は入院患者用のベッドに移された。まだ意識は戻らない。医者の見立て通り、疲労と慢性的なストレスに弱っていた所にヒートショックが決定打となって脳内出血が起きていたらしい。呼吸器系統が麻痺しなかったお陰で幸い命に別状はなく、後は目を覚ましさえすれば、特に後遺症も残らないだろうという話だった。

 朝日の中でベッドに横たわる彼女を見ながら、僕はようやくひと息を吐く。長い夜だった。彼女の無事が、一番のクリスマスプレゼントになるな……そんな事を考えながら、見舞い用の椅子に座ったまま眠りについた。


――ピピピピッ!ピピピピッ!ピピピピッ!


 朝6時。自分のケータイのアラーム音で目が覚め、慌ててアラームを切る。昨日妻が倒れてから動きっぱなしでそのまま寝てしまったので、アラーム設定を直すのを忘れていたのだ。普段通りならここから二度寝して、20分後と10分後に追加で鳴る目覚ましを止めて6:30にやおら起き出すという感じだ。残り2回のアラーム設定を解除しながら、彼はまだ目を覚さない有朱の寝顔を覗き込んだ。

 頭は包帯でぐるぐる巻き。倒れた時にアスファルトで打撲した顔の右半分も大きなガーゼで覆われているので、表情は左側しか見えないが安らな表情だ。こんな近くでまじまじと彼女の顔を眺めたのはいつぶりだろう……ずっと出会った頃のまま美しいと思っていたが、やはり寄る年波には勝てない、目元の小皺が目に入る。彼女は口には出さないが、常に老いを恐れている節があったと気付く。


「お互い、歳を取ったよなぁ」


 思わず話し掛けるが、返答は無い。シワが増えても相変わらず美人だな、という心の声は気恥ずかしくて声に出なかった。


 12月25日。この日結局、彼女は目覚めなかった。彼女の勤めている会社など必要な場所に緊急の連絡を済ませて、夕方頃に帰宅する。医者に言われて、彼女が目を覚ますキッカケになりそうな物を持って来る事になっていた。匂いや音で感覚を刺激して、覚醒を促そうというのだ。家の中で彼女が好きな物を見繕う。お気に入りの化粧品や香水、石鹸や歯磨き粉……嫌がるだろうが、仕事のメール通知音が出るパソコンや目覚まし時計も。着替えの服等も詰める事にした。大丈夫だ。きっとすぐに目を覚ます。

 そう前向きに考えながら、自分も長期滞在の荷造りを進めた。病院から許可を貰い、泊まり掛けで見舞いをして良い事になっている。ちょうど昨日の分で仕事納めだったので、来年に向けて草案を練ること以外にやる事は無かった。普段は年末ギリギリまで仕事を頑張っている妻とゆっくり過ごせる年末を、楽しみに思う自分が居た。きっと彼女は不本意だろうが……


 12月26日。今日はお昼に、床擦れや筋力低下の対策となるマッサージを教えて貰った。基本は看護師さんがやってくれるが、自分でも出来るようになっておいた方が良いだろうと思ってやり方を尋ねたのだ。

 夜まで匂いで目を覚さないか試すも、反応無し。


12月27日。今日は色々な音を聴かせてみた。よく聴いている音楽や目覚まし時計、昔行った海の波の音まで聴かせるが、反応無し。医者が言うには何故彼女が目を覚さないのか見当がつかないという。最悪の場合、このまま植物人間状態になるかも知れないと脅された。自宅介護は大変だろうが、彼女が傍で生きてくれるならそれでも良い。自己満足に過ぎないかも知れないが……


12月28日。打撲による顔の腫れが引き、ガーゼが取れた。まだ痛々しい内出血の色は残っているが、顔の覆いが減っただけで彼女の表情は心無しか晴れたように見えた。


12月29日。有朱さんの母親がお見舞いに来る。何度も何度も呼び掛け、涙を流す姿に掛ける言葉が無かった。お義母さん持ってきた古いハンディカムのデータをパソコンに出力して一緒に観る。幼い日の彼女が、両親と旅行に行った日のホームビデオだ。観終わると彼女の目から涙が流れている!よかった。やはり意識はあるのだ。医者から「良い兆候です」と言葉を貰い、お義母さんもひと安心した様子で帰って行った。


12月30日。隣のベッドに新しい患者が入った。心臓が関係している種類の病気らしく、すぐ横に心電図のモニターが設置される。ピッ……ピッ……ピッ……一定の間隔で響く音は室内の雰囲気をガラリと変えた。ここが病院の中で、妻は原因不明の意識混濁に陥っている。ピッ……ピッ……ピッ……音が一つ重ねられる毎にその事実を再認識させられるようで、不安な気持ちになる。早く、早く彼女の目を覚さなければ。焦りが大きくなる。


12月31日。世間は年明けムードで賑わっている。病室にテレビは無いが、買い出しに出ると待合室では年末の特番でタレントが下品な笑いを撒き散らす。気が滅入る。彼女はどうすれば目覚めるんだ。分からない……


1月1日。とうとう、年が明けた。

 僕は全く草案を練る事が出来ないまま、彼女への万策も尽きて頭を抱えていた。どうすれば彼女は目覚めるのだろう?悩んだ末、自分の小説を読み聞かせる事にした。彼女の応援の中書き上げたこの小説は、僕が初めて賞を取った思い出の作品だった。

 朝から読み始め、読み聞かせが終わったのは夕方。喉をカラカラにさせて、休まず読み続けた。しかし……結果は、反応無し。まぁそうだろう。予感はしていた。脱力し、落胆しながら、喉を潤そうと飲み物を買いに椅子から腰を上げる。

 その時だ。ガンッ、とサイドテーブルに身体をぶつけた衝撃で、上に置いていた手鏡が床に落ちた。


カチャーン!


 甲高い大きな音が響く。やってしまった。この鏡はお義母さんから、目を覚ました時のお色直しにと渡された大事な物だったのに。鞄の中に仕舞っておくべきだったと反省しながら、這いつくばって割れた破片をかき集めていると……聞き間違えるはずもない、懐かしい妻の声が頭の上から聞こえた。


「ここは……何処?」





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