グランドマザー

香久山 ゆみ

グランドマザー

「しっかりウェルダンにしてもらえよ」

 誰かがつまらない冗談を言う。いつにも増して笑えない。慌てて買った黒いワンピースは少し窮屈だ。

 グランマが死んだ。

 あたしはグランマに育てられた。まだ物心がつかない頃に父は早逝し、母はあたしをネグレクトした。母に男ができてからは暴力も加わった。そんなあたしを救ってくれたのがグランマだった。

 グランマはスナックを営み、女手ひとつであたしを養ってくれた。進学などできるはずもなく、どこかいかがわしいところに売られて、それでも生きているだけましだというようなぼろぼろの人生を歩むのだろう、と諦めていた。そんなあたしが大学まで出て、正社員で就職し、今まっとうな生活を送れているのは、ひとえにグランマのおかげだ。

 独りきりの夜に不安なあたしが古びたスナックの扉を開けると、グランマは渋い顔をしながらも、カウンターの奥にあたしの席とホットミルクを用意して、閉店までそこにいさせてくれた。言葉の多い人ではなかったけれど、手を伸ばしたあたしをけっして独りにはしなかった。日付が変わる頃に二人並んで小さなアパートに帰ると、もう中学生だというのにあたしはグランマの布団に潜りこみまるで猫みたいに、彼女の細くて温かな体に身を寄せてくうくう眠った。

 店のお客さんは皆、彼女のことを「ママ」ではなく「グランマ」と呼ぶ。昔一度グランマは引退して、この店を知り合いに任せた。しかし、その雇われママが店の金を全部持って逃げてしまった。それで、仕方なくまた店に立つようになったのだが、その時から「グランマ」と呼ばれているのだという。結局盗まれたお金は返ってこず、グランマの借金がようやくゼロになったのはほんの数年前のことだ。苦労の多い人生を送ったのだと、店のお客から聞いた。彼女から直接そんな身の上話を聞かされることはついぞなかったけれど。若くして天涯孤独になり、婚約者には騙され捨てられ、危ない仕事も経験し、四十代でこのスナックを開いたところでやっとなんとなく生活も落ち着いたのだという。

 そんな中、降って沸いたのがあたしだ。

「ここで働かせてほしい」とグランマの店の扉を開いた。どれだけ背伸びして十八だと言い張っても、中学一年生の嘘はすぐにばれてしまった。追い返そうと腕を掴んだグランマは、少女の骨と皮ばかりの腕に青黒く残る無数の痣に気づくと、引き留めて話を聞いてくれた。急に黙りこくったり興奮して泣きじゃくったりするあたしの話を、煙草のにおいの染み付いた店でグランマは辛抱強く静かに聞いてくれた。その間お客は誰も入ってこなかった。店の扉にはいつの間にか「CLOSED」の札が掛けられていた。

 それからしばらくのち、あたしはグランマの家で暮らすことになった。「話はつけてきたから」と、ある日、グランマは実家からあたしの僅かばかりの荷物を持ってきて言った。「あんた本当に何にも持ってないんだから、これから色々用意してやらなきゃいけないねえ」グランマは面白そうに笑った。いつでも実母に会いにいけばいいと言われたが、今に至るまで一度も会いにいかないし、向こうから会いたいと言われることもない。

 そうして彼女は血の繋がりのない他人の面倒を見ることになった。持ち逃げされた店も落ち着いて、やっと自分自身のために生きていこうという折に、あたしが転がり込んだのだ。苦労の上に苦労を重ねて。新しい恋をするはずだったかもしれない時間は、あたしを育てるために消費されてしまった。彼女は生涯独り身だった。あたしが彼女の人生をだめにしてしまった。

 骨壷に入れられた白い骨があまりにも軽くて、あたしは唇を噛み締める。

 スナックの扉を開けると、すでに常連たちが飲んでいる。葬儀場から黒いスーツ姿のままの見慣れぬ格好も、酒を飲めばいつもの顔ぶれで妙に安心する。骨壷をカウンターのいつもの場所に置くと、献杯だ献杯だと誰からともなく賑やかになる。本当にたくさんの人が参列してくれ有難い。彼らの助けで、不安だった喪主も無事に遂げることができた。

 カウンターの隅で懐かしい光景を眺めながらホットミルクを飲む。店にはアルコールの匂いが満ちている。初めて店を訪ねた時に感じた煙草臭さもいつの間にか感じなくなった。グランマの家に転がり込んだ時、部屋には煙草の箱が無造作に置かれていたが、彼女が喫っている姿は一度も見なかった。灰皿もいつの間にか姿を消していた。

「今夜は深夜二時の閉店時間まで飲み明かすぞ!」誰かが音頭を取った。――あれ、閉店は日付が変わるまでじゃないの? ふと疑問を漏らしたところ、昔馴染みが教えてくれた。グランマは、あたしを引き取ってから高校を卒業するまで、店の閉店時間を繰り上げていたのだと。知らなかった……、ああやはりあたしは彼女に厄介ばかり掛けていたのだ。落ち込むあたしに、彼は大らかに笑って言った。

「彼女はよく言っていたよ。家族を持つことも人並みの人生も諦めていたけれど、人生後半に神様が粋な贈り物をしてくれた。きみのお蔭で家族ができたのだと。グランマはそう言っていたよ」

 きみが一番よく知っているだろう? そう言われて、あたしはようやく思い出した。体育祭の時に驚くような大きな声で応援してくれたグランマ。受験勉強中にはいつもココアを作ってくれた。結婚式では誰よりも泣いていて、娘が生まれる時には母親のあたし以上に取り乱して喜んでいた。人間の細胞は数年ですべて置き換わるという。あたしの体はすべてグランマが与えてくれたものでできている。肉も骨も、心も。

 奥のボックス席では、あたしたちの小さな家族が、ミルクがほしいと元気な泣き声を上げた。

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