白い扉

香久山 ゆみ

白い扉

 どこの家でもあるだろう。鍵の掛かった引き出し、手の届かない天袋、読んではいけない本。うちにもあった。

「けっして冷蔵庫を開けてはいけません」

 幼い頃、お袋にしつこく言い聞かせられ、じっさい冷蔵庫に手を伸ばすと叱られた。うん、覚えてないだけで、冷蔵庫を開け放しにしたとか、中の物を食べあさったとか、言いつけの原因は確かにそんなとこかもしれない。

 けれど、小さい僕にとって、冷蔵庫はなんだか不気味な存在だった。

  母子家庭だったから、一人で留守番の時なんて怖かった。ぶぉん、ぶぉんと唸りを上げる冷蔵庫は、狭いアパートの一室で大きな存在感を発していた。

 え? 今の父さんとは、僕が小学校の時に再婚したんだよ。それで引越して、冷蔵庫も買い替えて。実父のことはよく覚えていない。お袋いわく、ある日ふらりと出てったきりだって。女でも作ったんだろうって。幼心に忖度してそれ以上は聞かなかった。

 だから、あの家に住んでいたのは、ほんの幼い頃で。あの冷蔵庫はただただ不思議な思い出なんだ。まず、「開けてはいけない」というのもそうなんだけど、お袋がそっと扉を開けて中からハムや卵やプリンを取り出すたびに、まるで魔法みたいだと思っていた。扉の向こうには別の世界が広がっているんだって。かわいいだろ。まあ、お袋は料理が苦手だし、夜職もしていたから、出来合いの惣菜や弁当やカップ麺が多かったんだけども。だから尚更、たまに開く扉の向こうが不思議だった。

 それは、小学校へ上がる直前くらいだったと思うんだけど。

「ぼく、おつかい行く」

 小さな僕が言った。その頃お袋は昼夜働いて家に帰ってこられないことも度々あったし、帰ってきてもぐったりしていて。少しでも力になりたいと思ったんだ。健気だろ。ちょうどテレビ番組で自分より幼い子がはじめてのおつかいをするのを見たってのもあった。

 お袋はまっしろな顔でじっと考えてから、優しく微笑んだ。

「そうね、それがいいかもしれない。頃合いかもしれないわね」

 ゆるり立ち上がり、僕の肩を優しく撫でた。

「なに買ってきてほしい?」

「そうね、卵とお肉と、それからアイスクリームも頼もうかな」

「まかせて!」

 そうしていざなわれたのは、玄関ではなく冷蔵庫の前。やっぱり! 僕は興奮した。お袋が白い大きな扉を開け、小さな背中を押した。

 扉の向こうには、見たことのない広い世界が広がっていた。足元の草原を一歩進むと、いつの間にか周囲は木々に囲まれていた。

 コッコッ。鳴き声を頼りに森を進むと、鶏舎がある。卵も。柵の隙間から細い腕をうんと伸ばした。侵入者に気付いた鶏達が攻撃する。鋭い嘴で突かれて、腕にいくつも傷を負うも、諦めなかった。たった一つだけ手に入れた卵は、お袋に食べてもらおうと思った。

 さらに行くと、荒れた大地に出た。ぶぉん、ぶぉんと唸り声がしたかと思うと、草むらから虎が飛び出してきた。とっさに身を丸めるも、どおんと横腹に体当たりされて吹っ飛ぶ。上手い具合に木陰に入り込んで距離を置いた。が、虎もすぐにこちらへ向かってくる。と、

「こっちだ!」

 長い腕が小さな体を樹上に引っ張り上げた。ぼろぼろのマントを羽織った猟師だ。

「いくぞ」

 猟師は僕の手に弓を持たせ、自らの手を添えて大きく引いた。

「射てっ」

 猟師が号令を掛けるも、僕の手はぶるぶる震え照準も定まらない。ぐんぐん虎が迫る。仕方ないな、と呟いて猟師が代りに矢を放った。

「お前はやさしい子だ」

 ごめんなさいと詫びると、大きな手が頭を撫でた。その手も顔もなぜか懐しい気がした。

 あとはアイスクリームが必要だと言うと、彼が案内してくれた。ちゃぷちゃぷ水の流れる音とともに、キシキシ聞こえる。アイスクリームは色んな流氷がぶつかって溶けて混じるのを待たねばならないという。僕らは雪原に腰を下ろした。真っ白な世界は凍てつく寒さ。震える僕を猟師が大きなマントで包んでくれた。ほっとしてうとうと眠りについてしまって。……それで、ちゃんとアイスを手に入れたかどうか、全然覚えていないんだ。

 はは。冷蔵庫やおつかい、当時聞いた童話とか、幼い記憶の中でごっちゃになっているのだろうね。でも、夢があっていいだろ。

 こないだ実家に帰ったら、大きな冷蔵庫に買い替えてあったから思い出したんだ。先日の初対面は失敗したけどさ、お袋も嫁と並んで料理するのを楽しみにしてるんだよ。僕らの子どものことも。

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