普段しっかり者で可愛い上司(♀)が風邪を引いて弱ると、やっぱり可愛かった話

みずがめ

本編

「本当に来てしまった……」


 アパートの二階、ドアの前。

 この部屋に住んでいるのは俺の上司。もっと言えば好意を寄せている女性である。

 そんな女性の部屋の前で、俺はずっしりとした重みのある買い物袋を持ったまま立ち尽くしていた。



  ※ ※ ※



 本日、上司の鈴村すずむらさんが風邪を引いて会社を休んだ。

 いつも凛としていて不健康とは無縁そうな彼女が体調を崩すなんて珍しい。俺はすぐにメッセージを送った。


『風邪を引いたと聞きました。大丈夫ですか?』


 会社を休んでいるんだから大丈夫なわけがない。メッセージを送ってから気づくとは俺も冷静じゃない。

 むしろメッセージなんか送ったせいで、せっかく眠っていたのに邪魔をしてしまっただろうか。そんな不安が押し寄せてきた頃に返信があった。


『へいきじゃない。しんどい。おなかすいた』


 どうやら相当まいっているらしい。全部平仮名なのは漢字変換すらできないほど体調が悪いというサインだろうか。

 鈴村さんは一言で言えば格好いい女性だ。仕事は真面目にこなすし、面倒見だっていい。スーツ姿がとても似合っており、男女問わず社員から憧れの的になっているのを知っている。

 そんな彼女が弱音を吐くところなんて見たことがなかった。

 でもどうだ。メッセージでの言葉が鈴村さんの声となって俺の脳内で再生される。


「俺、早退します!」


 勢いよく宣言したが、受け入れてもらえなかった。代わりに気合を入れて仕事を終わらせ、きっちり定時に職場を後にした。

 以前、飲み会で潰れた鈴村さんを家まで送ったことがあった。だから住んでいる場所は知っている。

 途中スーパーで買い物をする。お腹が空いたと言っていたし、すぐに食べられそうなレトルトのおかゆやヨーグルト、プリンやゼリー、それから果物と片っ端から籠へと放り込む。水分もいるよなと思ってスポーツドリンクやお茶も入れておく。それからそれから……冷却シートもいるかな?

 それなりの重みとなったビニール袋を手にし、真っすぐ鈴村さんの家へと向かった。


「午後六時か。女性の部屋に行く時間としてはセーフ……だよな?」


 俺に彼氏という肩書があれば躊躇しないのだが、関係性で言えば上司と部下。あまり遅い時間に訪れるのは失礼になるだろう。


「いや待て。そもそもただの部下が上司の家にまでお見舞いに来るのってどうなんだ?」


 鈴村さんの住むアパートの階段を駆け上がり、ドアの前に辿り着いてから、今さらな疑問を抱いた。

 いくら部下だからって、家に押しかけるのってストーカーみたいなものではないのか?

 勢いのまま行動してしまった。ここまで来ておいてとは思うが、苦悩せずにはいられない。

 チャイムを押す前に手が止まる。いやでも心配だ。ここまで来て帰りたくない。

 ここは冷静に、だ。俺は鈴村さんにメッセージを送った。


『よければお見舞いに行ってもいいですか?』


 返信がくるまで、彼女の部屋の前で立ち尽くす覚悟はできた。

 けれどそんな心配は早くも消える。すぐにスマホが震えたのだ。


『きて』


 スマホ画面の言葉でしかないってのに、俺の心臓が早鐘を打つ。

 今度こそインターホンを鳴らした。すると中からバタバタと物音が聞こえてくる。


「あ、あれ? 木田きだくん来るの早くない?」


 ドアが開かれた先にいたのは、俺が見間違えようがないほどの胸の高鳴りを覚える女性。スーツ姿ではないのは納得するが、パジャマ姿で出てきたのはさすがに油断しすぎじゃないだろうか。ちょっと寝癖がついているのも可愛い。


「ははっ。来てからアポ取ってないのに気づきまして……。すぐ帰りますんで」


 油断していた……。いきなり好きな女性のパジャマ姿を目にして、理性がぐらりと揺らいだのを自覚する。


「これを渡しに来ただけなんで。お大事にしてください」


 買い物袋を渡そうと差し出したが、なぜか受け取ってもらえなかった。


「木田くん。私のお見舞いに来てくれたんだよね?」

「ええ、そうですけど」

「じゃあ、ちょっとだけ時間いいかな?」


 反射的に首を縦に振っていた。


「なら入って入って」


 言われるがままお邪魔させてもらうことになった。

 リビングへと通される。くつろいでと言われたが、せっかく買い物してきたからと入れられそうなものは冷蔵庫に入れさせてもらった。


「あっ、マスクしなきゃ。ごめんね私風邪引いてるのに」

「いや、まだ熱はあるんですか?」

「寝てたら下がったよ。さっき測ったら三十七度八分だったかな」

「まだあるじゃないですか!?」


 買ってきた冷却シートを取り出す。よく見たら汗をかいているようだった。スポドリもいるか。


「それより木田くん。お腹空いてない?」

「鈴村さんの方がお腹空かしてるんじゃないですか? メッセージでも言ってましたし」

「え、そうだっけ?」


 朝のメッセージのことは忘れているらしい。熱で朦朧としていたのかもしれない。

 よく見てみれば顔は赤いし、目もぼーっとしている感じだ。会社でのキリッとした印象とは違って、なんだかふわふわしている。


「薬は飲んでますか?」

「うん……。夜の分飲まなきゃだから何かお腹に入れなきゃ……」


 よく聞けば声も弱々しい。

 いくら部下とはいえ、男の俺をあっさり家に上げた。いつもの彼女ならそんなことはしないだろう。……いや、酔い潰れて送り届けた時はベッドまで運んでとお願いされたっけか。


「とにかく何か食べられる物を用意しますんで。鈴村さんは寝ていてください」

「木田くんカレーだよ。カレー。カレーがあるの」

「カレー?」


 脈絡のないカレーという単語の連発。さすがに意味を図りかねた。


「作り置きのカレーがあるんだけど、そろそろ食べ切らなきゃ腐っちゃいそうで。でも私カレー食べられるほど食欲がなくて。だから代わりに木田くんが食べて。腐ったらもったいないよ……」


 どうやら俺を部屋に引き入れたのはカレーを食べてほしかったかららしい。もったいない精神を持つ人だ。

 それにしても、ちょっと鼻声だからか泣きそうになっているように聞こえる。この人、もったいないからって必死すぎるだろ。

 ……そういうところも、きっと好きになったところなんだろうな。


「わかりました。俺が全部食べます。だから泣かないでくださいよ。ね?」

「うん……」


 なんて可愛い人なんだろう。衝動的に抱きしめたくなる。抑えろ、相手は病人だぞ。

 本能を理性で抑え込みながら、鈴村さんのためにおかゆを用意した。

 とはいえレトルトを温めただけだ。もしもの時のために料理を覚えようかな。彼女には美味しいものを食べさせたいし。

 同時にカレーを温めた。食卓におかゆとカレーライスが並ぶ。


「いただきます」


 鈴村さんと同じ食卓で食事をする。ちょっと感動してしまった。

 カレーは少し辛さが足りなかったが、好きな人と食事していると思うと美味しくてたまらなかった。


「カレー……美味しそうだね……」

「はい?」


 対面の鈴村さんから視線が突き刺さる。

 見ればもうおかゆは食べ終わっていた。食欲が戻ってきているのだろう。カレーを見つめる瞳が物欲しそうだと訴えていた。


「……一口、食べますか?」

「いいの?」

「鈴村さんが作ったカレーなんで」


 鈴村さんが顔を綻ばせる。

 そして、あーんと口を開いた。


「えっと」


 何を求めているかはわかる。なぜそれを求めているのかはわからなかっただけで、俺はスプーンを持ったまま固まっていた。

 あーんといえば、あーんである。つまり、彼女にあーんをしろと?

 脳内で「あーん」が何度も再生される。鈴村さんは口を開けたまま待っている。


「あ、あーん……」


 カレーとライスの比率を考えてスプーンですくう。それを鈴村さんの口元へと持っていった。

 パクリと食べられた。遅れて「俺が使ってるスプーンだった」と思い至る。


「美味しい」

「それは、よかったですね」


 よかったよかったと自分に言い聞かせる。鈴村さんが喜んでいるのだから、これでいいのだ。

 こんなことくらいで顔が熱くなる。初心ではないつもりだったけど、彼女の前では別らしい。


 食事を終えて、鈴村さんは薬を飲んだ。熱を測れば三十七度五分。少し下がっていた。


「寝るまでいっしょにいて」


 弱った時こそ人恋しくなる。鈴村さんもそういうタイプなのだろう。会社での凛とした彼女を知っているだけにギャップを感じる。

 そういえば、酔い潰れた時もやけに甘えてきてたか。甘えられるのは嬉しいが、理性を働かせるのも大変なのだとわかってほしい。

 鈴村さんをベッドへと寝かせる。まだ熱っぽいのか、目が潤んでいて色っぽかった。


「じゃあ、俺は帰りますんで」

「もうちょっといっしょにいてよ」

「でも、俺がいたら休まらないでしょう?」

「大丈夫。私はマスクしたままでも眠れるよ」


 そういう問題ではないでしょう。熱で頭が働いていないのか、鈴村さんの言っていることは無茶苦茶だった。


「……寝るまでですよ」

「うん」


 可愛い上司に逆らえる部下なんかいない。それは俺自身が証明していた。

 俺がいると安心したのだろう。思いのほか早く穏やかな寝息が聞こえてきた。

 しばらく彼女の寝顔を見つめていた。とはいってもマスクで顔の下半分が隠れている。


「寝苦しいからね……」


 誰に言い訳しているのか。そう言いながら彼女のマスクを外した。

 微かにすぅすぅと寝息が聞こえる。熟睡しているようで、起きる気配はまったくなかった。


「……」


 彼女の前髪に触れる。サラサラと心地の良い感覚が返ってきた。いつまでも触れていたいと思えるほど、手触りが良すぎた。

 彼女の額に触れる。冷却シート越しに、鈴村さんの存在を感じる。


「俺が彼氏だったら一日中看病するのにな」


 布団をかけ直して部屋を出た。

 帰ることをメモに残し、テーブルの上にあった鍵で玄関を閉めた。鍵はドアポストに入れた。

 合鍵を預かれるような関係になりたいと、強く思った。



  ※ ※ ※



 後日、すっかり元気になった鈴村さんが出勤した。


「木田くんっ。あれは風邪のせいというか、わ、私の本来の姿じゃなかったのよ!」


 そして、早々に俺に向かってよくわからない言い訳をしてきた。

 いつもキリッとしている憧れの鈴村さん。尊敬する年上の上司で、俺の好きな女性である。

 スーツ姿ではあるけれど、お見舞いに行った時のようなほんわかな雰囲気を感じる。きっとこれが本来の姿なのだろう。


「ええ、わかってますよ」

「その顔絶対わかってないでしょ!」


 鈴村さんは顔を両手で覆う。これも仕事中では見られなかった仕草だ。


「あの時の私……まったく化粧してなかった……」

「大丈夫です。鈴村さんはすっぴんでも美人ですから」

「!?!?!?!?」


 狼狽する年上の女性がとても可愛らしく、俺はそのまま言葉を続けていた。


「俺、鈴村さんのこと好きですよ。これから一番に頼ってもらえるようにがんばりますんで、覚悟してくださいね」


 頼りがいのある女性から頼られるように。鈴村さんに好きになってもらえるように、それが一番の目標だ。

 まずは料理でも学ぼうか。わたわたと顔を真っ赤にする彼女を眺めていると、好きな人を喜ばせるために何でもやりたいと思った。

 桜の花びらが窓の外で舞い散っている。彼女の頭にもピンクの花弁を見つけて、春から始まる恋の予感を抱いた。


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普段しっかり者で可愛い上司(♀)が風邪を引いて弱ると、やっぱり可愛かった話 みずがめ @mizugame218

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