―――あとがき――


むなしさ」とはなんだろうか。


幼少期の頃から、私は、それに対し言いようのない恐怖を感じてきた。


目に見えない、しかし、確実にそこに存在する


普段、何気ない日常の中に、それは現れる。

、かつ、


例えば――


日曜夕方のテレビ番組を見ている時。


打ち上げであれだけ親しみを示しておきながら、翌日には、仕事で別人のごとく、よそよそしく振るまわれた時。


楽しみにしていた旅行の最中さなか、前の席の女子学生に挙動不審者と間違われた時。


競馬で負けた後、など――


上げると枚挙まいきょいとまがない。


しかし、これらの出来事全てに一貫して共通するがある。


いずれも、みんな、期待や喜びというの後に起こっているという事だ。


「土曜の夜」という明日にかける期待。


普段、仕事ではドライにふるまっている相手と打ち解けたという喜び。


旅行という最高のいやしへの期待。


ギャンブルで一攫千金いっかくせんきんという期待。


しかし、それらを一瞬して、という幻に変えてしまう魔物。


まさに、物語に出てくる、そのもののごとく。


それが、「むなしさ」だ。


虚無きょむ」という言葉がある。


しかし、私は、「」と、「虚無きょむ」とは全くの別物だと考える。


前者は、「最初から何もない」状態だ。


一面砂漠の景色を想像しよう。


そこには、砂しかない。

何もない。

「無」に限りなく近い。

しかし、その景色を前にして、私は「虚しさ」というものを感じるとは思えない。

むしろ、美しいとさえ思うかもしれない。


一方、後者は、「ゆう」と「」が必ず対になっている。

「有る」と思っていたものが、実は「無かった」。

だったという事実に打ちひしがれる。


物語のに、まるでたましいを吸い取られるがごとく。


という


果たして、それは人間のごとく、独自に「意志いし」を持つものなのか。


それとも、無機質なデジタルAIのごとく、意志とは関係なく、ただただ「むさぼる」ことをプログラミングされた「技術ぎじゅつ」なのか。


頭の中の想像は、尽きることがない――                          

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音秘目 須木田衆 @uraban2020

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