第4話 だった気持ち


 仁美ひとみの手は、人気ひとけのない方へと進んで行く。

 住宅もまばらになり、雑木林や竹藪が増えていた。

 止まらない手を、大の男ふたりが必死に走って追い駆けている。

「お前、なんて言って渡したんだ」

 と、走りながら山城やましろが聞いた。

「もっと早く渡せれば良かったって言ったんだ。大好きだったって」

 俺は、息を切らせながら答えた。

 山城は、いつの間にやら脱いでいるスーツと鞄を背負うように肩に掛けながら、

「好きだった?」

 と、聞き返してきた。「だった、なのか?」

「今でも好きだよっ」

 仁美の手は、パッと跳ね上がって横に飛んだ。

 そこは、鬱蒼うっそうとした木々に囲まれた空き地になっていた。

 ふたりが空き地へ駆け込むと、仁美の手は目線の高さに浮き上がった。

 宙に浮いて、おいでおいでをしている。

「呼んでる……」

 俺は、足を止めて呟いた。

 山城は肩で息をしながら、

「行くなよ。もう、指輪への気持ちだけで残っている存在じゃなくなってる」

 と、言う。

「じゃあ、なんなんだよ。どうすりゃいい――」

 仁美の、指の動きが早くなっていく。

「行ったら、連れて逝かれちまうぞ。お前が話して、なんとかするんだ」

 仁美の手が止まった。だらりと指を垂らす。

 薬指にはシルバーの指輪が光っていた。

「行くなよ」

 俺がジリジリと進んで行こうとするので、山城は行くなと繰り返した。

 だが、行かなくていいのか?

 山城が言う連れて逝くってのは、俺を殺すって事だ。

 なにか他に、俺を呼ぶ理由があるんじゃないのか。

 仁美は本当に俺を連れて逝く事を望んでいるのか……?

「……仁美」

 俺は、一歩足を踏み出した。

亜樹あき! もう以前の仁美じゃないんだ」

 ふっと、仁美の手が消えた。

 俺が眼を見張ったとたん、仁美の手は、山城の目の前に現れていた。

 ドンッと、勢いよく突き飛ばす。

 山城は、鞄を飛ばして派手に尻餅をついた。

なつっ」

「……いてぇ」

 山城は小さく息を吐いて、肩を落として見せた。

 仁美の手は、また元の場所に浮いていた。

「仁美……教えてくれ。どうしたいんだ」

 俺は、必死に考えながら聞いた。

 仁美にかける言葉が思い浮かばない。

 幽霊への言葉が簡単に思い付く奴なんて、夏くらいのもんだ!

 手は、またおいでおいでをした。

「俺を、連れて逝きたいのか」

「よっぽど、お前と結婚したかったんだろう。お前もそれを望んでたのが死んでからわかって、余計に悔いが残ったんだ」

「仁美……」

 業を煮やしたように白い手は宙を叩くと、ビュッと空を切って俺に近付いた。

 仁美の手が、俺の腕を掴んだ。

「駄目だ!」

 山城が声を上げる。

 腕を掴まれた途端、ぞわりと、冷たいものの中へ引き込まれる感覚に襲われた。

 体から何か剥がれ落ちたような感触に振り向くと、信じられないものが見えた。

 ――後ろに俺が居る!

 着ているものが脱げるように、俺は体から引き抜かれてしまったのだ。

 何が起きたのかわからない。

 魂とやらが抜け出てしまったのか?

 仁美の手に引っ張られて俺が数歩進むと、後ろの体は仰向けに倒れた。

 慌てて山城が受け止めてくれた。

「……うわっ」

 俺は自分が透けているのを見て、やっと声を上げた。

 仁美の手は、透けている俺の手をしっかりと握っている。

 そのまま、どこかへ引っ張って行こうとする。俺の足は、逆らう事もできずに動いてしまう。

「待てよ」

 山城が声を掛けると、仁美の手は進みを止めた。

「そいつをそのまま連れて行くな。亜樹弘の、君への思いを連れていけばいい」

 と、山城は俺の体を抱えたまま言った。

「……そんなことしたら、俺は仁美を忘れてしまう」

 情けない声で俺が言うと、山城は首を振って、

「忘れやしない。今、亜樹が彼女に対して持っている気持ちと、生前の彼女に対して持っていた気持ちとは別物だよ。つながってはいるけどな」

 と、優しく話した。

「そいつの中から、君を好きだった気持ちだけを抜き取ればいい。できるだろう?」

 仁美は俺の手を握ったまま、しばらく動かなかった。

「仁美と居た頃の、仁美を好きだった気持ちでよければ、連れていってくれ」

 俺は、空いている方の手で仁美の手を撫でた。

「あ……」

 仁美は俺の魂の中から、もうひとつ何かを抜き出した。

 今度は、俺の形をしていなかった。俺の意識も元のままだ。

 引き抜かれたのは、小さく光る白い玉だ。

 玉の中から、あの四小節の連弾が聞こえてきた。

 白い玉を優しく撫でながら、仁美の手はふんわりとした風に包まれた。

 白かった手が、徐々に薄れていく。

 見えなくなる直前、仁美は俺に手を振った。

 白い玉を大切そうに抱える仁美の全身が、一瞬だけ、確かに見えた。

 俺も手を振り返した。

「……今度こそ、成仏するんだぞ」

 いつの間にやら流れ出していた涙を、ぼたぼた落としながら呟いた。

 仁美は、夕暮れの光に溶けるように消えていった。



 どこかでカラスが鳴いている。

 ボーっと俺が突っ立っていると、後ろから大きな咳払いが響いた。

 俺は慌てて涙を擦った。

「亜樹、早く戻れ」

 振り返ると、山城が地面に座り込んだまま、俺の体を抱えていた。

 そうだ、俺はまだ体の外に居たのだった。

「……どうやって?」

 恐る恐る、自分の体を見下ろした。

 白目を剥いている……。

「被さればいい。重い体と、俺に抱っこされてる状態を感じろ」

「う、うん」

 俺は、体の上に仰向けで寝そべった。

 山城が俺の額を押さえて体の中に沈めた。

 素肌に冷たいものが触れたようで、ぶるっと震える。

「ん……」

「戻ったか?」

 山城の笑顔が、俺を見下ろしていた。

 俺は山城の膝枕で目を覚ました。

「あいてて……」

 体の節々がギシギシいっている。

「生身は重いだろう。すごい体験したな。幽体離脱だぞ」

 と、山城は笑っている。

 俺は、ゆっくり起き上がると、仁美が消えていった辺りを眺めた。

「今度こそ、逝けたんだよな」

「あぁ。逝くべき所へ逝ったよ」

「仁美を、好きだった気持ちで良かったのか」

「だった気持ちで良いんだよ。仁美ちゃんは過去の人間だ。仁美ちゃんにとっては、自分が死ぬまでのお前の気持ちがまだ現在進行形なんだ。それで十分だったのさ」

「だけど俺、仁美を好きだった気持ちを忘れてない」

「仁美ちゃんは確かに、好きだった気持ちを連れて逝ったよ。ただ、お前は今も仁美ちゃんを好きな気持ちがあるだろう。だから、忘れたりはしないんだ」

 夕暮れの空き地で、俺たちは土の上に座り込んでいる。

 俺は肩を落として、山城の顔を覗き込むと、

「お前、すごいな」

 と、言った。

「ん?」

「俺だけじゃ、仁美に俺を殺させちまってた」

 山城は、俺の髪をくしゃくしゃと撫でて、

「お前だから仁美ちゃんも連れて逝けなかったんだよ。お前だから連れて逝きたかったんだろうしなぁ」

「……」

「俺も恋人を追っかけて、幽体離脱した事があるんだ」

「そ、そうなのか」

「冗談だよ」

 山城はハハハッと笑った。

「行こうぜ。手伝わせたんだから、お前のおごりな」

 片手でクイッと、酒を飲む仕草をして見せる。

 俺も立ち上がると、服の汚れを払い、

「そうだな。で、明日の午後にでも、仁美の墓参りに行って来るよ」

「あぁ、行って来い。俺はパスだ。墓場は友達がいっぱいできちまうんでな」

「そっ、そうなのか」

「冗談だってば。明日の午後は部活で、休日出勤なんだ」

 俺は頬を膨らませて、山城を小突いてやった。



 その後、仁美の手が現れる事は無くなった。

 ただ時々、どこからかピアノの音が聞こえてくるような気がする。

 俺は今、ひとりで両手を使った四小節を練習しているところだ。



                              了

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彼女の左手に 天西 照実 @amanishi

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