第3話 ピアノと指輪


 左手だけなのだ。

 恋人が亡くなってから見えるようになった、彼女の左手。

 俺は、プロポーズ用の指輪を買っていた。

 宝石の出っ張った指輪は苦手と聞いていたので、シンプルなシルバーの指輪を用意していた。


 しかし、山城やましろに会って以来、仁美ひとみの手は姿を見せなくなってしまった。

 部屋の中で、

「仁美、渡したいものがあるんだ」

 と、呟いてみた。

 部屋は静まり返っている。

 俺は、ふと、ほこりをかぶった電子ピアノが目に付いた。

「……いてみるか」

 電子ピアノのスイッチを入れ、思い出しながら鍵盤を押した。

 意外にも、俺の指は弾き方を覚えていた。

 仁美は余程、いい教え方をしたのではないだろうか。

 たった四小節の短い曲を、ゆっくりと繰り返してみる。


 つっかえずに四小節が弾けると、ふいにピアノの低音が重なった。

 俺の隣で、白い左手が鍵盤に乗っていた。

「――仁美。渡したいものがあるんだ」

 仁美は何も答えない。

 手が答えないと言うのもおかしいが、言葉には反応せずにピアノを弾き続ける。

 俺も仁美の手を見ながら、一緒に指を動かし続けた。



 少しヒンヤリとした夕方の風が、どこからか入り込んでくる。

 いつの間にか、室内は薄暗くなっていた。

 仁美の手は、30分近くピアノを弾き続けていた。

 俺の言葉に反応もないまま、四小節の曲の伴奏を繰り返している。

 指が疲れて、俺は曲の終わりで手を止めてみた。

 仁美は、もう一度伴奏を繰り返したが、鍵盤の上で動きを止めた。

「仁美」

 ポケットから小さな箱を出し、シルバーの指輪を指先で持った。

「手を出してくれ」

 俺は、仁美の手をすくい上げてみた。触れる事ができたのだ。

 ひんやりとした指先から緊張が伝わってくる。

 生前の仁美が、そこに居るように感じた。

「もっと早く、渡せれば良かった」

 不器用ながら、俺はそっと仁美の薬指に指輪をはめた。

「仁美、大好きだった」

 しばらく固まっていた手は、きゅっと俺の手を握った。どこからか、

『ありがとう』

 と、仁美の声が聞こえた気がする。

 指輪をはめた仁美の手は、空気に溶けるように見えなくなっていった。

「……渡せたんだな」

 無音の部屋の中、ひとり残された俺は指輪が入っていたケースを見下ろした。

 確かに、指輪は無くなっている。

 仁美の手が指輪をはめていったのだ。

「よかった。渡せたんだなぁ」

 少し寂しい気持ちを膨らませながら、俺は独り言を呟いていた。



「……うん。乗り換えて、すぐ着くよ」

 あれから数日が経った。

 帰宅途中の駅で、山城と電話をしている。

 明日はお互いに仕事が休みだった。

 今夜は慰めてやるなどと言われ、これから飲みに行く約束になっている。

 駅のホームの端っこに、電車を待つ人は少ない。

 俺は小声で、山城に報告をしていた。

「それで、仁美ちゃんの手は?」

「全く見えなくなったよ」

「なんだよ、寂しそうだな。ちゃんと成仏して欲しいって気持ちで渡したか?」

「そりゃ、まあな。でも、ずっと一緒に居たいとも思ってた」

「仁美ちゃんは、ずっとここには居られないんだぞ」

「ああ、わかって――ザザッ」

 突然、ノイズのような音が聞こえた。

「ザザッ……おい、どうした……ザザッ……雑音が……」

 電話はプツッと切れてしまった。

「ん? 電波はあるけどな。まぁ、飲み屋で話せばいいか。もう電車くるし」

 などと、呑気な事を言っている。

 俺は、なぜか気付かなかった。

 その時から俺の肩には、仁美の手が乗っていたのだ。



 俺と山城の自宅の、中間にある駅で降りた。

 小さな駅だが、改札を出るとコンビニや飲み屋の並ぶ商店街が見える。

亜樹あきっ」

 改札の外から、山城が駆け寄って来た。

「どうした、なつ?」

 と、声を掛けると、山城は微妙な表情を向けてくる。

 スーツ姿が意外に似合っていた。

 ポケットに突っ込んでいた両手を出し、ネクタイを緩めながら山城は、

「お前、やっぱり……」

 と、呟いた。

「え?」

「肩の上、見てみろ。見えるだろ」

 山城にそう言われると、急に左肩が重くなった。

 見ると、青白い左手が俺の左肩に乗っていた。

 薬指にシルバーの指輪をはめている。

 俺はギョッとして、その手を払い落としてしまった。

「あっ、仁美、ごめん――」

 仁美の手は音もなく、アスファルト道路に着地した。

「……成仏できなかったのか」

「してないな」

 まるで立ち上がるように指先を立てる。

 仁美の手は向きを変え、地面をするすると進み始めた。

 小動物が駆けて行くような速さだ。

「駄目だっ、追いかけるぞ亜樹っ」

「えっ……ああ!」

 走り出した山城に急かされて、俺は訳もわからずに走り出した。

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