第2話 相談


 小奇麗に片付いた玄関。

 入ってすぐの和室は生活感もなく、造花が飾られていた。

「あ、そこは客間。学校の偉い人とか、たまに来るからさぁ」

 と、なにやら恥ずかしそうに客間の戸を閉めている。

 山城やましろのマンションは、俺のアパートと大違いだ。

 高層マンションの最上階。

 当然、広々している。

 その中で通されたのは、生活感の塊のような寝室だった。

 脱ぎ捨てられた服や、漫画本などが散らばっている。

 ベッドに机、タンスなどが置かれた、山城が主に使っている部屋のようだ。

 客間でも居間でも、他に片付いた部屋があるだろうに。

 昔から、そんな内的部分をさらけ出してくれる奴だった。


 山城は、カーテンとガラス窓を開けながら、

「適当に座れよ。茶ぁ入れるから」

 と、言った。

 床に転がった私物たちを跨ぎながら、寝室を出て行く。

 すぐに冷蔵庫を閉める音が聞こえ、コップに入れた麦茶を二つ持って来た。

 俺はコップをひとつ受け取って、小さなガラステーブルに置いた。

 山城は風の入って来る窓際に、片膝を立てて座る。

「それで、なんだよ相談て。保険なら間に合ってるぞ」

「保険?」

 と、聞き返してから、俺は自分が保険会社の営業をしている事を思い出した。

「うちのクラスに青山っていたじゃん。あいつも営業やってるらしくてさ。この前、うちまで来たぞ」

「ああ、違う違う。青山、俺にも電話してきたよ。俺も保険会社だって言ったら、ノルマが厳しいって愚痴ってたな」

「じゃあ、なんだ? 幽霊でも見たのか」

 山城は、にやりと笑った。

 初めから、わかっていたような顔に見える。

「……わかるのか」

 俺は、そわそわと辺りを見回した。

「わかんねぇよ。でも、当たりだったか」

 と、山城は頷いて言う。

 俺は、死んだ彼女の手が見える話をした。

 山城は真剣な表情で聞いてくれている。

「その手が彼女の幽霊だったら、意味も無く出てきたりはしないぞ。死者は、やり残した事とか、悔いが残ってこの世に留まるんだ。そのままの本人じゃなくて、何かしたい意識とか、念として残るんだよ」

 と、山城は話した。

 高校時代にも、同じように言っていたのを思い出す。

「もしかして、ピアノが弾きたいのかな」

 と、聞いてみる。

 山城は両手をひらつかせて見せた。

「どっちの手だよ」

「どっちって?」

「右か、左か。出て来る時は片手なんだろ?」

「左手だよ。いつも」

「その子、左利きだったのか?」

「いや、右利きだけど」

「だったら、ピアノじゃないだろう。たいていは右が旋律で左は伴奏だろ? 伴奏の方が好きだったにしても、ピアノは両手で弾くもんだ」

「そっか。じゃあ、なんだろ……」

 左手を動かしてみながら、俺は首を傾げるしかなかった。

 白い左手は、俺が誰かと一緒に居るときに見えた事はない。

 しかし、アパートの中だけとも限らなかった。

 公園のベンチでコンビニ弁当を食べている時に、急に擦り寄ってきた事もあった。その時は驚いた拍子に弁当を放り投げてしまった。

「左手は、なにする手だ?」

 山城は、俺の左腕を持ち上げて聞いた。

「……お茶碗、持つ手」

「その子は死してなお、この世に留まるほど茶碗が持ちたいのか?」

「違うよな……」

 だが他に、思いつかない。

「じゃあ、お前は彼女の左手に何をしてあげたかった?」

「俺?」

 彼女の気持ちを考えていた俺は、急に自分のことを聞かれ困惑した。

 左手で出来ること……?

 左手にしてあげたかったこと……?

 俺はもう一度、首を傾げた。



 彼女の名前は、仁美ひとみという。

 仁美の『美』の字は、己の醸し出すものの美しさの事だと誇らしげに言っていた。

 絵や字も上手く、料理や園芸まで得意分野だった。

 そして、いつか子だくさんな音楽一家をつくるのだと楽しげに話していた。

 俺とも連弾れんだんを試そうとして、ピアノを仕込まれた事がある。

 ふたりで一曲を弾くものだ。

 本来はふたりの4本の手で弾くものらしいが、初心者は片手からと言われた。

 上達はしなかったが、簡単な曲の右手を教え込まれ、数小節だけ仁美の左手と合わせた事があった。

 あの時は、本当に嬉しそうにしていた。

 楽器の苦手な俺自身も、楽しい気持ちになっていた。

 ――これかな、と思った。

「前に、仁美の左手と俺の右手で、ピアノを弾いたことがある」

 俺は、核心に迫ったつもりで言った。

 しかし、山城は、

「お前なぁ。左手だぞ。俺はすぐわかったぜ?」

 と、言って、思いきり困ったような顔をした。

「えっ! 何だよ、それ。ピアノじゃないのかよ」

「ピアノじゃないだろう。鈍いなぁ」

「なんだよぉ……」

 教えてくれという視線を、山城に向けてみる。しかし、

「駄目だよ、自分で気づかなきゃ」

 と、言われてしまった。

「自分でって……わからないから、お前の所に来たんだぞ」

 と、俺はもう一度助けを求めたが、山城はリズミカルに頷きながら立ち上がった。

「わかるまで考えさせてやるよ」

 左腕を伸ばして山城は俺の髪をかき混ぜると、コーヒーを淹れに行ってしまった。



 しばらく、俺は左手を睨みつけていた。

 自分の左手と、山城の左手を見比べてみる。

 俺の方が色黒だ。なんて、今は関係ない。

「男の手じゃ駄目かな」

 と、山城は苦笑いしながら言った。

「女だと違うのか?」

「若い女の子じゃ駄目かもな。まあ、最近の高校生なんてのもチャラチャラしてるけど……」

 ブツブツ言いながら、山城は近くの棚から双眼鏡を持ち出してきた。

「窓から、道を歩いてる女の左手見てみろ」

「なんだよ。覗きみたいじゃないか」

 と、文句を言いながらも、俺は言われた通りに双眼鏡を覗いて道行く女性を捜した。

 数人を見つけ、左手を見比べる。

 年配女性の指にキラリと光るものを見つけ、俺はハッとした。

「指輪……左手、薬指か」

 山城は、俺の肩をぐっと抱き寄せて、

「正解!」

 と、言った。



 外が暗くなっても、山城は何も言えなくなった俺を部屋においてくれていた。

 姿が見えなくなったと思っていたら、スパゲティーの盛られた皿をふたつ運んで来た。

 具沢山のミートソースだ。

「食えよ」

「――うん」

 フォークを動かしながら山城は、

「別れるつもりでもあったのか?」

 と、聞いた。

 俺は首を振って否定した。

「別れるつもりなかったなら、なんなんだ?」

「いつか結婚、出来たらいいと思ってた」

 俺は25にもなる大人とは思えないような答え方をしていた。

「指輪、買ってあったんじゃないのか?」

「買ってあったよ。いつか、渡そうと思って」

「仁美ちゃん、生前からそれを知っていて、待ってたのかもな」

棺桶かんおけに、一緒に入れてやればよかった……」

「そうじゃない。仁美ちゃんはお前に、はめて欲しかったんだ」

 山城の口調が、強くなった。

 高校の時、山城は怪談話を馬鹿にした友人を殴った事があった。

 昔から、霊の気持ちや心情を熱く語る男だった。

「早いところ、思いを叶えてやれ。彼女が、変なもんに変わる前に」

 山城は昔のように真剣な眼差しで、口調を強めて言った。

「……変なもん?」

「生きてる時は、抑制心ってものがある。やりたくても、やるべきでなければ踏み留まれる力だ。だけど、霊なんかの残留思念は抑制心をもち合わせていない事が多いよ。仁美ちゃんが望んでいない行動に出ちまう事もあるんだぞ」

 俺は真正面から山城の視線を受け止め、頷いた。

「仁美の手に、俺の気持ちを伝えて、指輪を渡すよ」

 俺自身、指輪を渡すことを望んでいたのかも知れない。


 なかなか美味いスパゲティーを平らげると、俺は山城の部屋を後にした。

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