彼女の左手に

天西 照実

第1話 白い手


 もう彼女はいないのだと、事実を飲み込んだ頃だった。


 突然、白い手が見えた。

 茶色いソファの上に、ポンと置かれていた。

 すぐに消えてしまったが、見間違いではない。

 それは見慣れた手だった。


 パーツモデルのような細長い指。

 付き合っていた女の子の手だ。

 俺は、彼女の手が一番好きだった。

 顔や性格も好きになったが、一番は手だ。

 しなやかで器用に動く指は、魔法のような動きでピアノを操った。

 自分では弾けもしない電子ピアノを買うほどに、俺は彼女のきれいに動く手が好きだった。

 しかし二度と彼女本人の手が、俺の前に現れるはずはない。

 彼女は、その白い手だけが初めて見えた日のふた月ほど前に、事故で死んでいるのだ。



 彼女の幽霊が、自分の前に現れたのかと思った。

 手だけなのだが。

 見え初めたころは、ビクついたものだった。

 いつの間にか手があり、気付くと消える。

 見るたびにギョッとした。

 しかし、その白い手が何かしてくる訳でもなかった。

 俺が見付けると、すぐに見えなくなってしまう。

 何日も続くと自然に見慣れていた。

 精神的な理由で幻覚が見えることもあると、テレビで見た記憶がある。

 彼女の死がショックで、幻覚を見ていると解釈するべきなのか。


 困るのは部屋でも風呂でも、その手がリアルに見えるということだ。

 特に風呂やトイレ、着替え中など。

 最近はベッドの中でも見えるようになった。

 精神的にくる幻覚だとしたら、これはそういう欲求なのかと思い悩んでいるのだ。



 高校時代の友人で、相談に乗ってくれそうな男がいる。

 精神医学関係ではない。

 心霊現象や怪奇事件に、やたらと詳しかったのだ。

 そんな趣味でも根暗やオタクとは思われていなかった。

 人を引き付ける性格だったのだろう。

 休み時間には生徒のかたまりを作り、怪談奇談を披露していた。

 ただ『幽霊を見た』と言うのではなく、きっかけから経緯を通して結果まで、見守ってきたかのように語っていたのを覚えている。


 その男は、山城夏弘やましろ なつひろという。

 高校卒業以来、年始の挨拶に簡単なメッセージを交換するだけの仲になっていた。

 勉強の出来た山城は有名大学に合格し、今は出身高校で生物の教師をしている。

 さほど高校時代から変わってしまった印象は無かったが、社会人になっても、こんな相談を笑わずに聞いてくれるだろうか。

 すがる気持ちで電話をした。だが留守電ばかりだ。

 メッセージを送っても既読が付かないので、メールで『相談したい事がある』と、送った。

 メッセージアプリは反応しなかったが、メールを送ると数分もせずに『日曜日に自宅へでも遊びに来い』と、返信がきた。

 こちらの都合もよかったので『近くの駅まで迎えに来てほしい』と、返信した。



 カラッと晴れて風のある日だった。

 夏が近付き気温は高くなっているが、風があるので爽やかに感じる。

 このくらいの暑さは嫌いじゃない。

 駅前のロータリーにある銅像に、山城夏弘は寄り掛かっていた。

 黒いランニングの上に肩が出るほど襟首の広いTシャツを重ね、下はひらひらとした薄手のジャージを履いている。

 昔と変わらず、ラフすぎる格好をしていた。

 山城は俺に気付くと、

「よぉ、亜樹ぃ。久し振りだなぁ」

 と、手を振ってきた。

 俺の名前は、山崎やまざき亜樹弘あきひろだ。

 高校時代、一番下が同じ『弘』なので、なつ亜樹あきと呼び合っていた。

 昔のように呼んでくれたので、俺も、

「夏。お前、変わんないなぁ」

 と、答えた。「まだそんな格好してるのか」

「あはは、自分だけ大人になった気か? 俺だって学校に通勤する時はスーツだよ。普段着の趣味は変わんねぇけどな」

 と、昔と同じ、軽い笑顔を見せる。

 変わったと言えば、背が少し高くなったように思った。

 大学で伸びたのだろう。俺を見上げていた視線が、今は正面に視線の出発地があった。

 とにかく懐かしい気分だ。

「行こうぜ。立ち話じゃ疲れる」

「ああ。お前の部屋、駅から近いのか?」

 駅前ロータリーから出ない内に、山城が、

「ほら。あれだよ、俺が住んでる所」

 と、言って指差したのは、真新しい高層マンションだった。

「マジで……? お前、上の方か」

「一番上。高い所に住みたかったんだ」

 と、軽い笑い声を上げる。

「昔、そんなこと言ってたな」

「昔かよ。じじいになったな、亜樹」

 笑いながら山城は、俺の目尻のしわに触ろうとする。

 俺は山城の手を押し返した。

「高校卒業して、もう7年経つぞ。昔だろ」

「そんな経つか。あの頃の教師、もう誰も居ないぜ、あの高校」

「県立じゃ、移動があるもんな」

 高校時代の話などしながら、俺たちは山城のマンションへ向かった。

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