三角形の内角の和は?

篠岡遼佳

三角形の内角の和は?

 この世界には天使がいる。

 比喩表現ではなく、彼女の目の前に現れたのは本当の天使だった。





 ピンポーン


 学生街にありがちな、さして新しくないアパート。

 そこの呼び鈴を押しているのは、割と美人なロングヘアの女性だった。

 うれしくてたまらない。そういう表情で、ちょっとマフラーを直して、ちょっとスカートも直して。


「はーい、あけるよー」


 中から返ってきたのは、ちょっとハスキーな声だった。

 その声にすら、女性は、ぽ、と頬を赤らめ、そしてなぜか、両手を前に突き出した。ドアが開く。


「いらっしゃいー」


 微笑んで迎えたのは、軽いくせっ毛の金髪をした、なんとも性別のつかない中性的な人だった。

 勢い込んで、女性は元気にあいさつする。


「ハル! おはよう!」

「もう午後だけどね、おはよ。今日は、合言葉はある?」

「もちろん! 私は、ハルのこと『愛してる』!」

「OK、OK」


 軽く答えると、ハルは突っかけを履いて二歩ほど前へ出た。

 そして、女性のことをぎゅっと抱きしめる。女性は用意していた腕でそれを受け止めた。

 見れば、一発でどのくらいの親密さかわかるような、強い抱擁だ。

 そして、もうひとつ。


「ふわあ……ハルの翼があったかいよ~」

紘海ひろみはトクベツだから」

「うれしい~、ありがと~」


 その青年の背には、背丈に見合ったがついていた。




 二人の出会いは、一年ほど前に遡る。


 簡潔に言うと、「天使が落ちてきた」のである。


 紘海とハルの通う大学は、良く言えば閑静な、ふつうに言ってしまえば、だだっ広くて新しくもない、人気の少ない学校だ。(この場合、にんきもひとけもない)


 ある日、紘海が教室棟の側を歩いていると、上から突如声が降ってきた。


「そこの人、ごめん危ない――!」

「?」


 見上げると、人が落下してきていた。

 慌てて、しかし逃げることなく、紘海は両手を差し出した。

 なぜなら、落ちてくる速度がそこまで速くなかったからだ。


 そうして、紘海は天使をその腕の中に抱きとめた。

 思った通り、体重などほとんどないような抱き心地。空より深い青の瞳、まつげまで金色のくせっ毛、男性なのか女性なのかわからないほどに整った顔立ち。

 それが紘海の眼前に現れた。

 ――――一目惚れというのは、あるものなのである。




「よし、じゃあ今日はこのくらいね」

「ふぁーい」


 抱擁で完全にふぬけになった紘海に、しかし、部屋の奥から聞きたくない男の声が聞こえた。


「寒いから、ドアは閉めてやってくれ」

しゅん……いたの……」


 一気に声のトーンを下げ、眉間にしわまで寄せて声の方を見る。


 長身で、スポーツでもやっていたのか少し体格がいい。それでいて男臭さはなく、 まあまあ見栄えはいいかもしれない。

 そこがなんだか人に好かれる雰囲気を醸しているが、そういうところが紘海は気に入らない。とても。なぜなら。


 おじゃまします、とロフトのあるワンルームに、ハルより先に紘海は入り、こたつに入っている俊の目の前で仁王立ちだ。


「なんでいるのよ」

「バスが一緒だったんだよ」

「ハルと一緒に下校したの!?」

「そりゃー、時間合わせるだろ、好きな人と一緒にいなくてどうする」


 あとから入ってきた天使に俊は爽やかに微笑み、


「俺だって、ハルのこと『愛してる』よ」

「それはそれは……」


 ハルは今度はハグではなく、とても優しく俊の髪を撫で、その狭めの額に唇を落とした。


「あーっ! ずるい! ずるい! ちゅーしたっ!!」

「ぼくとしてはこれはちゅーには入らないんだよね」

「ふっふっふ、天使様の判定の甘さをまだ見切っていないのか、久保原くぼはら紘海!」

「うるさいフルネームで呼ぶな、藤森ふじもり俊!」


 なぜなら女と男は、ふたりとも天使のことを愛しているからだ。


 天使はちなみに、どちらの性もあり、そのため男性なのか女性なのかはとても曖昧だ。


 その曖昧さにきちんとした教育は成されたはずだが、ハルと呼ばれている天原晴あまはらはるは、額へのキスなどなんぼでもやるような、ちょっとタガの外れた性になってしまった。

 そのあたりについては、目下俊と紘海に課された難問である。



「まあまあ、今日はね、おでんにするから、二人とも食べていってね」

「よっしゃ」

「ありがと! でもその前に、心理学の課題やんなきゃ。レポート用の本、先に借りておいて良かった」

「すまん、俺にも見せてくれ」

「似た内容にならないようにしてよね」

「わかっております」


 男と女は、天使を間に挟んで協力関係でもある。同じ学科なのだ。

 天使はというと、噂では六年生らしい。ギリギリである。




 ――おでんのだしの香りがしてきた。


 紘海は、狭いキッチンの方を一瞬見て、エプロン姿も最高だな、などと思った。

 終わったらご褒美に、ハルがキスしてくれることを願って。












 


 

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三角形の内角の和は? 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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